「……あれ?」
久しぶりに気持ちいいくらい、からりと晴れた。
リビングの奥の大きな窓からは、青い空に高い位置の雲が広がっている。
空気が乾燥しているから曇りでも洗濯物は十分乾くだろうけれど、もともとこのマンションは外干しできない構造のため、万年洗濯乾燥機でまかなわれている。
実家のときなら、きっと掛け布団を干したんだろうなぁなんて、乾いた洗濯物を畳むべくカゴごとリビングへ戻ってくると、ついさっきまでソファに座っていた祐恭さんの姿はなかった。
今日は平日だけど、彼はお昼過ぎからお仕事らしく、昨日のうちに大学の講義が休講になった私ともども過ごしていたからか、まるで週末のお休みの日にも錯覚する。
テーブルの上には、さっきまで彼がずっと読んでいた分厚めの本が置かれていて、日本語のタイトルなのに漢字ばかりなせいか一瞬読み違えそうにもなった。
「…………」
その、本の隣。
見覚えがあるどころか、ある意味彼の一部でもあるメガネが置かれていて、すぐそこのラックのものすべてが、レンズ越しに縮小されたかのように映っていた。
「……うっ」
それこそ、まるで親の目を盗んで悪戯しようとしている小さい子と同義の振る舞いだろう。
そっと両手でメガネのツルを持ち、レンズを覗い——た瞬間、くらりと目眩よりも強い浮遊感のようなものを感じ、慌てて目が閉じた。
……まるで酔っぱらったみたい。
一瞬しか覗けなかったけれど、レンズ越しの景色はかなり歪んでおり、はっきりどころかだいぶぼやけた像にしかならなかった。
そういえば、だいぶ前にもこんなことをした気がするんだけど。
というか——そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もないころ。
こうして自宅にお邪魔させてもらうようになって、何度目かのときだった。
「…………」
懐かしいなぁ。
まだ何年も経っていないのに、勝手に懐かしさから頬が緩む。
私よりも年上の彼は、いつだって大人で、かっこよくて、まっすぐで、揺るがなくて。
メガネ越しの眼差しはいつだって芯が強そうで、誰かと議論しているときはよりその雰囲気が強くなっているように感じた。
けれど、私と目が合った瞬間、わずかに目尻が緩む。
あれはまさに、瞬間で。
同時に笑みで迎えられるたび、胸がきゅうっと締めつけられるほど嬉しい気持ちがあふれた。
「……っわ!? え、え! 祐恭さん、いつからそこに!」
「だいぶ前かな。というか、羽織のすぐあとこっちから戻ってきたんだけど、気づかなかった?」
「っ……全然気づきませんでした」
頬に手を当ててにんまりした瞬間の顔を、キッチンカウンターのすぐ隣に立っていた彼に、どうやら真正面から見られたらしい。
書斎方向の廊下を指差され、バツの悪さからわずかに唇を噛む。
にっこりではなく、どちらかというと、にやにや。
そう表現できるような表情に、かぁと頬が熱くなる。
「別に、メガネなんて珍しくないでしょ?」
「それはそうですけど……でも、ウチは誰もかけてなかったから、つい目がいくというか」
「あー、そうか」
家系なのか、両親もお兄ちゃんも……そして私も、視力に困ってはいない。
『だから老眼になるのよ』とお母さんが言い始めたのは、つい最近。
そういえばずっとメガネをしていなかったお父さんも、新聞を読むときに時々かけているのを見かける。
「別に外さなくてもいいんだけど、こう、長時間本読んでると疲れるっていうか」
「……ぅ」
「こうして近づかれたら、機嫌悪いようにも見えるでしょ」
「ちょっとだけ」
ソファへ腰掛けた彼が、普段と違っていわゆる“素“のまま私の顔を覗き込む。
理由がわかれば納得できる、表情。
目を細めることで、焦点を合わせるんだよね。
目が悪くないから知らなかったけれど、でも確かに、理由がわからなかったら睨まれていると感じる人もいるかもしれない。
「っ……」
目の前。本当の、ここ。
まるでキスされる直前かのような近づき方に、どきどきする。
吐息が重なっている気がする、なんて感じてしまえばより一層。
まるで私がそう感じているのを十分わかっているかのように、小さく笑った彼が指先で頬に触れた。
「男物のメガネも、なかなか違う意味で似合うよ?」
「え?」
「今、流行ってるんでしょ? 彼氏の私物身につけるの」
「そうなんですか?」
「あれ。そういうの、ちょうどど真ん中な世代じゃないの?」
「……う」
流行には、実はそこまで敏感じゃない。
どちらかというと疎いほうかもしれないし、友達の間で十分流行ったころに気づくタイプだろうか。
特に困っていないのは、きっとメディアからの情報を素早くキャッチする友達が数人いるからかな。
かわいい、やりたい、と思うことは私も手を伸ばすけれど、それ以外はあまり試すこともない。
でも、絵里曰く『それがアンタらしい』だそうだし、彼も彼で『十分でしょ』と言ってくれるから、どうやらこちら方面では変わらずとも済みそうだ。
「いくらでもお貸しするから、どうぞ?」
「や、あの……くらくらして、歩けません」
「だろうね」
机に置かれていたメガネに手を伸ばすも、私が苦笑したからか祐恭さんは手にしなかった。
小さく笑いながら改めて私に向き直り、頬に向かって改めて手を伸ばす。
「っ……」
「まだ平気か」
「え、とっ……」
「俺が平気なんだから、羽織も平気だよね?」
抱きすくめるように腕がまわり、彼が目の前で笑った。
ううん、もっと近く。
鼻先がつくほどの距離で、いつものようにキスをされる直前の雰囲気を勝手に感じ、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。
「キスだけじゃないつもりだから、メガネはまだいいかな」
「っ……」
囁かれてすぐ、唇が触れた。
柔らかな感覚に、どうしたって声は漏れて。
彼の言葉の意味を知るのは、さほど遅くもない、ほんの少しあとのことだった。