限界
2020.04.16
飽きた(^^)/
もーーーー飽きました。さすがに。
在宅ワークと称して資料まとめてたけど、全部終わったぜ。
やりきったぜ……だがしかし、終わらないのは日々のごはんづくり。
ここんところ、朝食昼食夕食すべてをマックス食材で作っているため、
食費がはんぱねぇ。
そして現在MUSHOKUなわけで、諭吉がえらい勢いで飛んでいく……。
そういや、ここにきてひとり10人諭吉が配られるとかなんとか。
くればいいな……諭吉かもーん。
そんなこんなで、今回は長文。
お時間のあるときにでもー
「さすがに飽きた」
自宅謹慎になって、4日目。
お昼を食べ終えたところで、お兄ちゃんがおもむろに口を開いた。
ここ数日、家にいるのは葉月とお兄ちゃんと私の3人きり。
昼食を当番制にしたおかげで、分担は同じくらい……なんだけど、当然、メニューに大きな偏りはある。
ちなみに、今日のお昼はお兄ちゃんが作った海鮮塩焼きそば。
ご丁寧にチンゲンサイやきくらげと一緒に、冷凍とはいえシーフードミックスが入っていて、実はすごくおいしかったんだよね。
お兄ちゃん、ちゃんと作れるんだなぁとある意味感心。
でも、葉月がすごくすっごく褒めたんだけど、当の本人は『今どき、ネットでいくらでもレシピあんだろ』と冷めた反応でそれも意外だった。
明日の当番は私だから、何にしようかなーって思ったんだけど……まさかのセリフでリビングにいた私と葉月は思わず顔を見合わせていた。
「買い物行ってくれば?」
「スーパーとドラッグストアへ何しに行くんだよ。マスクパトロールか?」
「あ、あったら買ってきてってお母さん言ってたよ」
「そりゃそーだろーけど、そうじゃねぇんだよ。お前ら、よく飽きねーな。身体なまんねぇ?」
「んー……葉月とふたりでヨガやってるから、別に」
「ヨガ?」
「お母さんが昔買ったDVDがあったから、一緒にやってるよ」
そう。
あまりにも暇暇言ってたら、お母さんが思い出したようにDVDの存在を教えてくれた。
以来、14時からは毎日ヨガタイムを過ごしている。
なんかこう、呼吸を意識してやるからなのか、身体が軽いんだよね。
眠くならないし、ちょうどいいからしばらくは続けられそう……なんだけど、まあ、お兄ちゃんはやらないだろうなとも思う。
だって、ヨガって静かな動きだし。
お兄ちゃんが求めるのは、もっとこう激しいスポーツ的なものだろうから。
「明日出かけてくる」
「どこへ?」
「山」
「……山? 上るの?」
「車でな」
ソファへ座ったまま腕を組んだお兄ちゃんが、唐突に宣言した。
え、いいの? 外に出て?
自宅軟禁が必須だと思っていたから、思わず葉月と二度目の顔をあわせていた。
「お前らも行くか?」
「お出かけしていいの?」
「いや、山のてっぺんならいーだろーよ。ごみごみしてるほど人がいたら、降りなきゃいいだろ」
「……なるほど」
何がなんでもというか、是が非でも外へ出たいらしい。
私も葉月も、家にいることは嫌いじゃないし、多分ずっといられる。
葉月にいたっては、本を読んだり宿題したりだけじゃなくて、外でガーデニングしてたり、新しいレシピを試してみたりと割と充実しているようで、すっごく楽しそうなんだけど。
私は、こうしてリビングでだらーっと過ごすのもそんなに嫌いじゃない。
本を読んでいて、うとうとして……ってしあわせじゃない?
なんて言ったら、お兄ちゃんはすごく嫌そうな顔しそうだけど。
「明日はお天気もいいって」
「じゃあ行こうかな」
「ね。たまには、お庭じゃない外へ行くのもいいかもね」
スマフォで天気予報を見ていたらしく、葉月が笑った。
外かぁ……久しぶりだなぁ。
庭で楽しむことはしたし、窓を開けて部屋で過ごしてはきたけど、外出は久しぶり。
そっか。密集、密接、密閉じゃなければいいのかな。
もうすでに桜は散っていて、お花見のベストは過ぎちゃってるし、山の上とあれば密集は考えられない。
「んじゃ、明日。午前中なら空いてんじゃねーか?」
「え。お兄ちゃん、午前中に起きられるの?」
「起きる」
ああ、どうやらよっぽど外へ出たいらしい。
普段起きない時間帯を自ら指定って、やっぱり、『やりたい』気持ちは原動力なんだなぁ。
ついこの間、心理学の授業で聞いたことを思い浮かべながら、葉月と思わず顔を見合わせて笑っていた。
「わあぁああ!!?」
身体が、横へ、大きく揺さぶられる。
かと思いきや今度は反対。
ぐっ、と瞬間的に息が詰まって苦しい。
え、あの、これって後部座席だから、なの?
「っひゃあ!」
「言ったろ、しっかりつかまってろって」
「そういう問題じゃ……っちょ、まっ……! うー!!」
バックミラーごしに一瞬お兄ちゃんと目が合ったけど、次の瞬間、カーブへ差しかかってまた身体が反対方向へ揺さぶられた。
「羽織、大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ないっ。ていうか、なんで? 葉月こそ平気なの?」
「んー……お父さんに慣らされたのは少しあるかな」
「えぇええ」
助手席の彼女を見ると、シートへ深く腰かけたままアシストグリップをしっかり握りしめていた。
知ってた? 窓の上にある、つり革みたいなところの名前。
私は今日初めて知った。
この体験のおかげで、多分二度と忘れないと思う。
うぅう、そこを握れば少しは違うのかなぁ。
というか、身体が揺さぶられる以上に、正直ちょっと痛い。
まさか、山道になった途端加速されるとか思わないでしょ。
とはいえ、当の本人は私と違ってまったく声はあげないけれど、とても楽しそうに運転していた。
いやだってあのね。
ギアさばきもそうなら、ブレーキングも何もかもいつもと違いすぎて。
うぅ……酔うでしょ、これ。
こんなことになるなら、家にいればよかったと素直に思う。
「つか、お前が言ったんだろ? 道にあるタイヤ痕見て」
「それは……でも、だからってこんな飛ばすと思わないでしょ!」
確かに言った。『なんでこんなにタイヤの跡がついてるの?』って。
でもそれは素朴な疑問であって、何も再現してほしいなんてひとことも言ってない。
うぅ、気持ち悪くなりそうでやだなぁ。
っていうか、運転してる人って気持ち悪くならないのかな。
まだ未経験な部分だけに、ちょっとよくわからないところだ。
「飛ばしてねーじゃん。きっちり法廷速度内だ」
「うぅ……でも、こう、キュッて曲がられると重力すごいんだけど」
「下りはこの倍だな。もっとおもしろい」
「えぇ!? 絶対無理だからやめて!」
さらりととんでもない発言をされ、慌てて首を振る。
法廷速度内とはいえ、こう、キュキュっと曲がられるとそのたび身体が振られて大変なことになるんだってば。本当にもう。
「う!」
グッとアクセルを踏み込んだかと思いきや、次の瞬間ギアチェンジと同時にスピードががくんと落ちた。
危うくシートへ鼻がぶつかりそうになって、思わず両手で身体を支える。
「……え? 着いたの?」
「先行車」
言われて前を覗くと、白い車が10メートル先くらいを走っていた。
ああ、多分普通に走ってる。
スピードもそうなら、カーブへの入り方も一般的。
……はああ、やっと普通に戻った。
どこの誰かは知らないけれど、おかげで助かった。
さすがに距離を開けてさっきよりだいぶゆっくり走っているから、身体に感じる重力はほとんどなかった。
「……へえ」
ようやく、飲みたかったレモンティーの蓋を開けられる……と思ったのに、なぜかお兄ちゃんは小さく笑った。
「わあ!?」
途端、ぐっ、とまた身体がシートへ押し付けられる。
え、ちょ、ちょっと待って。なんで? なんで!?
「お兄ちゃ……前に車いるんでしょ!?」
「いや、あっちが先に走り出したじゃん」
「えぇ!?」
見ると、前を走っていた白い車が加速したらしくさっきよりも距離が開いていた。
……加速、じゃない。
走り方が変わったんだ。
ブレーキの踏み方も短ければ、ハンドリングも急。
それこそ、最短ルートを通るような走り方に変わっていた。
「あのシルビアも、上りに来たな」
「そうなの?」
「だろ? じゃなきゃ走り方変える必要ねぇじゃん。俺はだいぶ距離取ってたんだから」
どうして嬉しそうなのかわからないけれど、さっきと同じようにお兄ちゃんは走り方を変えた。
おかげで、レモンティーが……飲めないじゃないもぅ!
今蓋を開けたら、絶対こぼれる。私が大変なことになる。
うぅう、落ち着いて飲みたいのに。
「頂上まであと3分ってとこだな。我慢しろ」
「えぇえっ……ぅ!!」
まったく知らない人だろうに、どうしてこうもリンクするのか。
みんな、欲求不満なの?
まるで知り合いの車を追うかのように距離を詰めて走るのを見ながら、ため息とは違う大きな息が漏れそうになって……また詰まった。
「はぁあああ……やっと下りられた……」
ずっとずっと続いていた坂道をのぼりきったところで見えた、広い駐車場。
そこでようやく車を降りることができ、ある意味ふらふらになりながら地面の感触を両足で確かめるように立つと、それだけでしあわせを感じる。
ちなみに、先行していた白い車は、そのままさらに上を目指していった。
……あの先に何があるのかは知らないし、もともとお兄ちゃんの目的地はここだったみたいだから、ほっとはしたけどね。
でも、なぜか駐車場を曲がる寸前に、お兄ちゃんはハザードを焚いて減速した。
なんの意味があるのかは、わからない。
でも、前の車も同じように反応してたから、ひょっとしなくても暗黙の何かなんだろうとは思う。
知り合いじゃないのに、ある意味すごい。
車が好きっていう共通点だけで十分なのかな。もしかしたら。
「大丈夫?」
「うぅ……葉月よく平気だね……」
「つか、お前乗り慣れすぎだろ。シートの角度も位置も当たり前のように直してたな」
そう。それは見てた。
私がタイヤ痕を見て『なんであんな痕がつくの?』って聞いたあと、お兄ちゃんが『やってやろうか?』って言ったとき、葉月はシートを少しだけ起こしてベルトの位置を調整していた。
なんでだろうって思ったんだけど……ていうか、お兄ちゃんもそれ見てたから、あんなふうに走り出したんでしょ。
絶対、葉月の調整を待ってた。
だったらひとこと、私にも教えてくれればいいのに!
「お父さんも車好きだから」
「つっても、恭介さんあんなふうに走らねぇだろ?」
「一般道ではね。でも、イベントで走れるときがあるの」
「へぇ」
「車が好きな人は、世界中にいるのね」
ふらふらな私とは違い、葉月は特に普段と変わらない様子で立っていた。
私だけなのね……。
うぅ、無事に辿り着いてよかった。帰りは絶対やめてほしい。
「帰りは前へ座ったら?」
「前に乗っても、あの勢いじゃ酔うと思う」
「帰りはしねぇって。さすがに」
「……じゃあ平気」
鍵を閉めたお兄ちゃんは、先にあっちへ向かって歩き始めた。
ここは、広い湖のある公園というよりは芝生の広場的な場所。
徒歩でさらに奥へ行くと小さな滝もあるらしく、矢印と距離が書かれた案内板も立っている。
広々と作られている駐車場には、お兄ちゃん以外に1台しか車がなかった。
そういう意味で言えば、穴場になるのかもしれない。
ていうかまあ、自粛中だもんね。
きっと、家で過ごすのがストレスじゃない人は、こんなところへこないはずだから。
「あー……やっぱ外いいな」
「わぁ、見て。桜がまだ咲いてる!」
「ほんと。地上と比べて、少し涼しいのね」
大きく伸びをしたお兄ちゃんのはるか向こうに、満開の桜が見えた。
湖畔ぞいに何本も植えられている淡いピンクが目に入った瞬間、気持ちがすっきりする。
家でのんびりするのも嫌いじゃない。
でも……風の音やうぐいすの鳴き声、湖のさざ波や揺れる木々といった、まさに自然をすぐここで感じられるのは、気持ちいいと思う。
……早く、みんなが当たり前に外へ出て過ごせるようになればいいな。
ここだけじゃない、日本全国そして世界中すべてが我慢を強いられている今だからこそ、ひとりひとりのチカラが実は大きいんじゃないかなとも思った。
「羽織、紅茶とお茶どっちがいい?」
「え? でも……自動販売機あっちじゃない?」
「ふふ。外だから、できることあるでしょう?」
「……わ! 持って来たの?」
「せっかくのお天気だし、ピクニック日和だよね」
大きなバスケットを持っていたのは知ってるけど、まさかセット持参とは思わなかった。
つい先日、庭キャンプをしたときにお兄ちゃんが持ち出してきたシングルバーナーのガス缶を取り出したのを見て、ちょっぴりテンションが上がる。
ピクニック、まさに!
「このへんでいいよね?」
「ほかに人もいないし、何より……桜! お花見できるね」
レジャーシートよりも少し厚手のシートを取り出したのを見て、葉月へ駆け寄る。
やるやる、もちろん一緒に手伝う!
いそいそと支度するべくシートの端を持ったら、お兄ちゃんが少しだけ呆れたように『お前切り替えはえーな』と笑った。
「たーくんは、コーヒーとお茶どっちがいい?」
「コーヒー」
「沸かしてくれるの?」
「暇だからな」
お兄ちゃんがバスケットの中から取り出したのは、ロールテーブル。
折りたたみ式よりもさらにコンパクトになるってこの間言ってたけど、ほんとにちっちゃくなるんだなぁと感心した。
手際よくガス缶にバーナーをセットして、着火。
さらに、お水を入れたコッヘルをその上へ。
……キャンプ。
ううん、キャンプっていうよりデイキャンプ? バーベキューとは少し違うけど、ああやっぱり外っていいなぁ。
庭でやったのももちろん楽しかったけれど、違う場所の今はもっと楽しい。
うきうきするっていうのかな。
とにかく、気持ちが全然違って笑みが浮かぶ。
「なんか、家のコンロより沸くの早いね」
「火力が違うからな」
「へえ。山の高さかなって思ったんだけど」
「富士山じゃねーし、ンなデカイ差はないだろ」
見ると、コッヘルの底からぽこぽこ泡が立っていた。
火力か。なるほど。
普段、キャンプどころかこういうキャンプ用品を触ることもないんだけど、ちょっと興味を引かれる。
だって、自分でできたら楽しそうだよね。
といっても……さすがに、お兄ちゃんみたいにひとりで山へ行くことはまずないだろうけれど。
運転できるようになったら、違うのかなぁ。
うーん。
……でもやっぱり、私の場合は行くなら誰かと一緒かな。
森の中、ひとりでまったり過ごしている姿は、ちょっと想像できなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
きっと、家で飲むのと同じ茶葉のはず。
香りが同じで、甘酸っぱい匂いが一緒だからっていうのが根拠なんだけど……でも、気持ちが違うせいか味も違う気がした。
おいしい。
えへへ、外で食べるごはんっておいしいもんね。
「……え、寝るの?」
「天気いいしな」
「来たばっかりなのに、もったいなくない?」
「そーか? 俺は山走れたし、満足した」
シートへごろりと横になったお兄ちゃんを見て、眉が寄る。
なんかこう、景色を楽しむとか、散歩してみるとか、そういう気はないのかな。
人工的な音のまったくない環境。
目の前には大きな湖があって、桜が咲いている遊歩道がぐるりと敷かれていて、ウグイスが鳴いていて……ってなったら、歩きたくない?
まさか、ここにきて寝ようとするとは思わなかった。
だって、そもそもお兄ちゃんが外へ出たいって言い出したのに。
「お散歩してみる?」
「付き合ってくれるの?」
「せっかく来たんだもん、歩いてみたいなと思って」
「だよねー。さすが葉月。安心した」
すっかり横になったままのお兄ちゃんは、葉月が準備してきたブランケットを枕にスマフォを弄り始めた。
うわー、不健全な気がする。
ぽかぽか天気のいい下で過ごすっていうのは健康的だけど、まさか寝ころんだままスマフォとか……もぅ。
「ちょっとだけ行こう?」
「せっかくだもんね」
動きそうにないお兄ちゃんは放置し、葉月と立ち上がる。
ここにいるなら、バッグは置いて行ってもいいよね。
あ、せめて写真は撮りたいから、スマフォだけ持っていこう。
「荷物見ててね」
答える代わりにお兄ちゃんがひらひら手を振ったのを見て、葉月が笑った。
いやいやいや、そこは怒ってもいいところじゃない?
……もぅ。お兄ちゃんって、よくわからない。
でも、山をぐいぐい上ってるときは相当楽しそうだったから、満足したってセリフはホントなんだろうけど。
「んーなんか、春の匂いがするね」
舗装されているというほどではないものの、整備されている遊歩道は歩きやすかった。
湖畔の水が日差しを受けて、キラキラ輝く。
どこからか、花の甘い香りが漂ってくるけれど……さすがに何の花かはわからない。
桜は6部咲きで、つぼみが残っている枝も多かった。
「今年は、お花見らしいお花見はできなかったね」
「きっとみんなできてないんでしょうね。でも、今日こうして一緒にこれてよかった」
「ほんと! お兄ちゃんが出かけようって言わなかったら、こんな機会なかったかも」
そういう意味では感謝してる。もちろん。
でも……できることなら、やっぱり祐恭さんと一緒にお花見をしたかった。
おいしいものを食べたりしなくてもいい。
ただ、並んで歩きながら一緒に見て、感想を交わせたらそれで十分だった。
……来年は絶対お花見する。
そして、自粛が終わったら近場でいいからどこかへ遊びに行きたい。
きっと、同じように思っている人たちは多いだろうなぁ。
人影のない湖を見ながら、ボートに乗ってみても楽しそうだなぁとは思った――ものの、残念ながら今回は自粛営業中らしい。
道中にあった看板には、ご丁寧に『休止中』の文字と今回の対応についての張り紙がされていた。
あと少し。きっと、あと少しだよね。
みんなでがまんしたら、早く収束するよね。
症状が出ない人も多い以上、もしかしたら私だって……という不安はある。
だから、家族とだけ過ごすのがベストだもん。
あとちょっと…………でも長いなぁ。
先が見えないって、こんなに不安になるんだね。
世間とは違って、対岸まではっきり見通せる湖を見ながら小さくため息が漏れた。
「あ」
「あー!」
15分ほどかけてゆっくり一周回って戻ってきたら、お兄ちゃんの手にはサンドイッチがあった。
ていうか、自由すぎじゃない?
寝てたと思ってたら、勝手にひとりでお昼とか!
もぅ。子どもよりタチが悪いように思う。
「ずるい。先に食べちゃうなんて」
「タイミングいいなお前ら。たまたま1個食おうとしただけなのに」
「そういう問題じゃないでしょ! もぅ」
サンドイッチだけじゃなく、もう片手にはからあげの刺さったピックまである。
はーー。もぅ、自由人すぎて呆れるとはこのこと。
でも、葉月は苦笑こそしたものの『手だけ拭いてね』とまるで小さな子へ注意するようなセリフを口にした。
「さて。食ったし動くか」
「え。私たち動いてきたのに」
「なんだよ。散歩だろ? 大したカロリー消費にはなんねーぞ」
「っ……痛いところを」
ふたくちほどで平らげたあと、立ち上がったお兄ちゃんがまさに余計なひとことを口にする。
散歩だってね、有酸素運動には該当するんだよ?
そりゃあ……息は切れてないけど。
でも、動かないよりはずっとマシだと思う。
だって、お兄ちゃんってばコーヒー飲んでごろごろして食べてっていう、家と変わらないことしかしてないじゃない。
私たちのほうがよほど有意義だと思うんだけど、どうだろうか。
「え?」
「俺が勝ったら、あそこで饅頭買ってこいよ」
「えぇ? やだよそんな。動いてないんだから、お兄ちゃんが行けばいいでしょ?」
「大した距離じゃねーだろ。走りゃ1分だ」
「だから。それならお兄ちゃんが行けばいいじゃない」
どこから取り出したのかバドミントンのラケットを渡され、つい受け取ってしまったものの眉が寄る。
ていうか、今日やってるの? あそこのお店。
ちょうど駐車場の端っこにある小さなお土産屋さんのようで、『おまんじゅう』と書かれた旗が立っているのはわかるけれど、営業中かどうかはちょっとわからない。
あそこまで行ってお休みでしたってなったら、すごく切ないんだけど。
でも、お兄ちゃんはこっちの意見をすべて無視して、シャトルを手にした。
「わわっ!?」
「お前反応鈍くねーか?」
「もぅ! やるならやるって言ってよ!」
突然シャトルが目の前へ飛んできて、慌ててラケットを立てる。
さっきまではそこそこ風が吹いていたけれど、今は静かになっていた。
ていうか、バドミントンなんて久しぶりだなぁ。
高校生のころ、体育の授業でやったのを思い出して、ほんの少しだけ懐かしさから笑みが浮かぶ。
――けど。
「っわぁ!?」
「甘いな」
「ちょ、はわぁ!?」
「まだまだ」
くっくと笑いながらバックハンドになる位置へ打ち込まれ、悲鳴にも似た声があがる。
うぅ、なんでこんなところにきてまで、特訓みたいなことを受けなきゃいけないの。
でも、気持ち程度は身体が重い気がして、ここ数週間の運動不足で確実に筋肉が落ちたんだなとは感じた。
「あ。お前、誰がシャトル掴んでいいっつった」
「はー……はー……ちょ、ちょっと待って。1回休憩」
意図的に左右へ揺さぶられ、ラケットで身体を支えながら大きく息を吸う。
うぅ、体育の授業以来。
しかも芝生ゆえに足場が滑りやすいから、普段絶対使わない筋肉を使ってる気しかしない。
「え?」
「バトンタッチ」
「ずるくね? こっちは変わらねぇのに」
「だって、たーくんはお散歩しなかったでしょう? 羽織と私は半分ずつね」
思わずしゃがんでいたら、葉月がラケットへ手を伸ばした。
もちろん大歓迎。
こくこくうなずいてから立ち上がり、シート……ではなくすぐそこにあった木のベンチへ腰かける。
はー……今は、このちょっとだけ吹いてる冷たい風が心地いい。
さっきのお散歩のときは肌寒いなと思ったけど、身体動かすとやっぱり春はあったかいんだなぁ。
「っ……!」
パシン、といい音が響いたかと思いきや、地面を蹴る音が響いた。
芝生だから、そんなに大きくない。
のに、明らかに……って、動いてる。お兄ちゃんが。
さっきと全然違って、むしろ葉月が動いてない。
『うわ』とか『あー』とか言いながら、さっきの私みたいにお兄ちゃんが動いていて、これはこれで見てるのは楽しいなぁとちょっと思う。
「おまっ……えげつねぇな!」
「え?」
「明らかに狙ってんだろ!」
「んー……でも、たーくんもさっき羽織へ狙って打ってたでしょう?」
「そりゃっ……く! ちょっと待て。たんま!」
少しだけ肩で息をしながら、お兄ちゃんは葉月へ向かって手のひらを向けた。
ジャケットを脱ぎ……うわ!
こっちへ放られ、反射的につかむ。
もぅ。ちゃんと置きに来ればいいのに、横着だなぁ。
さすがに私でもそれはしない。
「葉月ナイスー」
手のひらでくるくるとラケットを回転させているのを見ながら、ばっちり応援。
にっこり笑って手を振り返したのを見て、ああ間違いなく余裕あるんだなと思う。
「あっ」
「あー、お兄ちゃんずるい!」
「ずるかねーだろ。よそ見してンからだ」
は、と短く笑ったその顔は明らかに悪い人の顔。
あーもぅ、ずるいなぁ。
同じ血が流れていると思うと、なんだか切ない。
「っ!」
「あ、ごめん」
「くっそ……謝ンな!」
葉月が地面すれすれへ打ち込んだところを、踏みとどまってお兄ちゃんが打ち上げた。
あれは……意地になってるよね、絶対。
私とのバトルとは違い、明らかに葉月が優勢。
ほら、やっぱり言いだしっぺが動くことになるんだよ。
こういうのって、ある意味ジンクスあるように思うけどどうだろうか。
「…………」
「……たーくん、大丈夫?」
「うるせぇ」
ぜーぜー肩で息をするお兄ちゃんへ、葉月が近づいた。
勝負は明らか。
最後は風が強く吹いたこともあって、シャトルはお兄ちゃんのはるか後ろへ落ちている。
「ち。行きゃいいんだろ、行きゃ!」
「私行こうか?」
「そこで待ってろ!」
葉月へ放るようにラケットを渡してすぐ、お兄ちゃんはぶつぶつ言いながら売店へ歩いていった。
……あ、走った。
その後ろ姿を見ながら、葉月が少しだけ心配そうな顔をしている。
「え?」
「言いだしっぺだもん、平気だよ」
「でも……ちょっとやりすぎちゃったかな」
「それ言ったら、多分お兄ちゃんもっと怒りそうだから、そっとしとこ?」
ちょっぴり申し訳なさそうな顔の葉月へ首を振る。
……と、敷いてあったシートのほうから電話の着信音が響いた。
あれは、私のじゃない。
てことは……。
「もしもし?」
すぐに反応した葉月が小走りで戻り、スマフォを耳へ当てた。
でも、見ている方向はお兄ちゃんのほう。
……そんなに離れてないんだから、戻って来たらいいのになぁと少し思ったものの、ああそんな体力実は残ってないのかもとも思った。
「え?」
「お財布、ここに置いてきちゃったんだって。ちょっとだけ行って来るね」
「もぅ」
苦笑を浮かべた葉月に眉を寄せるものの、お兄ちゃんのものではなく、葉月は自分のバッグを手に歩いていった。
結局、葉月に買いに行かせたようなものだなぁ。
ほどなくして葉月が到着し、そのままふたり揃って中へ消えていった。
「…………」
風が気持ちいい。
でも、休憩してたせいかちょっとだけ肌寒くも感じる。
気分転換で楽しいのは、楽しい。
だけど……って、ちょっとだけどうしても思っちゃうんだよね。
家にいなきゃいけないのもわかるし、今が大切だってこともわかる。
でも。でもね?
もう何日も会えてないんだもん。
私だって……一緒に過ごしたいな、って思うのは仕方ないよね。
「……あ」
ふたり揃ってお店から出てきたのが見えたところで、ちょうどよくウグイスが鳴いた。
すぐここの木。
春はもうすでに訪れていて、新しい年が巡って数カ月経っている。
鮮やかなほど、様々な色をまとって。
「……え」
山を上ってくるエンジン音があるなとは思ったの。
車通りは少なくて、私たちが着いてからそう何台も通ってない。
山の間を抜けるように作られている道だから、音が反響しているのはある。
でも。
だけどまさか、すぐそこに咲いている椿よりも目を惹く、赤い車が上がってくるなんて想像もしてなかった。
「ッ……」
ううん、想像はしてたの。
会えたらいいのに、って。
葉月とお兄ちゃんが揃って歩いているのを見て、私もあんなふうに歩きたいなって一瞬でも強く願ったから。
ふたりが足を止めたのを見たのは、駆け出してからだった。
変なの。
さっきは、ちょっと動いただけで疲れちゃって、今日は十分運動したなって思ったのに。
なのに、まだ走れる。全然、もっと先まで。
こちらへフロントを向けたままの車が、助手席の窓を開けた。
ドア越しにお兄ちゃんが近づき、葉月が頭下げる。
あんなふうにする相手は、ひとりだけ。
あの形の赤い車に乗っている人を、ひとりしか知らない。
「わ、っとと……!」
葉月が私を見て笑った瞬間、ちょっとだけほっとしてつまずきそうになった。
驚いたのは、私も一緒。
飛び込むように葉月へ手を伸ばし、抱きとめてくれたところで方向を変える。
ずっと、ずっと会いたかった。
ああ、こういうのって奇跡って言えるよね。
整わない息のままドア越しに運転席へ目を向けると、こうなってしまう前と同じ、祐恭さんが笑ってギアに手を置いた。
「こんなところで会えると思わなかった」
「っ……私こそ……!」
会いたかった。ずっと、ずっとどうしても会いたかった。
でも、会っちゃいけないって思っていたし、我慢もした。
……でも。
心の底ではやっぱり納得できない部分もあって。
変わらない彼の笑顔を見たら、ほんの少し涙が滲む。
「お前も持て余したか。つーか、謹慎になったのか?」
「学生は休みだし、ゴールデンウィーク明けまでは基本休んでほしいって通達が県から昨日出たよ」
「へぇ。授業どーすんの?」
「聞いてないのか? 今年はほとんどの大学が、前期はオンライン授業を取り入れたじゃないか」
「……う。そうなんですか?」
「…………見てないの?」
「み……てませんでした……」
そうなるかもしれない、という手紙は見た。読んだ。ちゃんと。
でも、まさか実施されることになっていたなんて……え、いつ出されたんだろう。
とはいえどうやら確認してなかったのは私だけみたいで、葉月は苦笑していた。
「週明けからは間引き勤務になるかな。準備もあるし」
「大変だな」
「いや、お前も忙しいだろ?」
「つっても、別に授業ねーし。予約本の受け渡しをどうするかもっかい考えるってとこだろうな」
お兄ちゃんが肩をすくめたのを見て、祐恭さんが『よろしく』と笑った。
例に漏れず、彼も読みたい本があるらしい。
「で? 今日は3人でお花見?」
「です」
「天気もいいし、楽しめそうだね」
「瀬尋先生も一緒にいかがですか?」
「いや……でも俺は……」
「いーんじゃね? 外だし。密閉でもねーしな。2m離れりゃいいんだろ? お互い」
接触するのは難しいけれど、距離を保って外で話すなら許されると思いたい。
本当はそばにいたいし、触れたいとも思う。
でも……自覚症状のない人が多いと言われていることもあって、叶わないよね。さすがに。
お互いのため。
そう。今は、どっちのためにも我慢しなきゃいけない大切な時期。
「そんだけ離れたって、直接喋れンだろ」
渋る祐恭さんへ、お兄ちゃんが肩をすくめた。
直接話せることは、すごく大きい。
だけど……躊躇する気持ちもわかるから、判断は委ねたい気持ちのほうが強い。
「それじゃ、少しだけ」
「っ……!」
ハンドルへ手を置いていた彼が、小さく笑ってうなずいたのを見て、瞬間的に声が出そうになった。
でも、しなかっただけで、素振りは十分出ていたらしい。
目が合った葉月は、にっこり笑って『よかったね』と小さくささやいた。
「あ。バドミントンあるぜ。距離を保つにはちょうどよく」
「……バドミントン? お前元気だな」
「いや、手ぶらで山上ってもつまんねーじゃん。手軽な暇つぶしだろ」
「だからって……ラケットすら久しぶりに見た」
お兄ちゃんの車の隣へ停めた祐恭さんが、シートへ置いたままだったラケットを見て意外そうな顔をした。
でも、気持ちはとってもよくわかります。
私も、まさかお兄ちゃんがそんな選択するなんて思わなかったもん。
「え、あ、私?」
「お前、十分休んだろ。祐恭とやれよ」
「えぇ……?」
シャトルを放られ、キャッチしてすぐラケットを差し出された。
あ。食べる気まんまん。
どうやら温かいお饅頭らしく、パックから取り出したひとつを頬張って『あっち』と悲鳴にも似た声が聞こえた。
「手加減なしでいいの?」
「っ……なんでそんな全力モードなんですか」
「いや、やるからには運動量上がるほうがいいでしょ?」
「うぅ」
さわさわと風で木が揺れる音がする。
少しだけ冷たい、春先の風。
いつもとはまるで違う場所とシチュエーションだけど、目の前に彼がいることがとても嬉しい。
……会いたかったんだもん。ずっと。
勝手に頬が緩んで、ああもう顔が戻りません。
「わ!」
「ごめん、今のはなし」
「うぅ……」
「久しぶりすぎて感覚つかみにくいな」
ジャンプしないと届かないほど前へ落ちたシャトルを、がんばって拾おうとはした。
でも、当然届かない。
祐恭さんが苦笑して拾い上げたのを見て……笑みが浮かぶ。
だって嬉しいんだもん。
距離があっても話せることが。彼を見ることができるのが。
「俺が勝ったら、何かご褒美ある?」
「えぇ!? もぅ……どうしてみんな賭け事にしたがるんですか」
「冗談だよ」
お兄ちゃんと違って苦笑した祐恭さんは、確実に私が返せるようなところへ毎回シャトルを打ってくれた。
なんでもそうだけど、人によっていろんなものの端々に性格が出るんだなぁというのは改めて感じた。
2メートル。
縮まらない……ううん、できるだけ離れなきゃいけないのはわかってるけど、これまででもっとも近い距離。
機械越しじゃない声を聞きながら、リアルタイムのレスポンスがただただ嬉しくてたまらなかった。
もーーーー飽きました。さすがに。
在宅ワークと称して資料まとめてたけど、全部終わったぜ。
やりきったぜ……だがしかし、終わらないのは日々のごはんづくり。
ここんところ、朝食昼食夕食すべてをマックス食材で作っているため、
食費がはんぱねぇ。
そして現在MUSHOKUなわけで、諭吉がえらい勢いで飛んでいく……。
そういや、ここにきてひとり10人諭吉が配られるとかなんとか。
くればいいな……諭吉かもーん。
そんなこんなで、今回は長文。
お時間のあるときにでもー
「さすがに飽きた」
自宅謹慎になって、4日目。
お昼を食べ終えたところで、お兄ちゃんがおもむろに口を開いた。
ここ数日、家にいるのは葉月とお兄ちゃんと私の3人きり。
昼食を当番制にしたおかげで、分担は同じくらい……なんだけど、当然、メニューに大きな偏りはある。
ちなみに、今日のお昼はお兄ちゃんが作った海鮮塩焼きそば。
ご丁寧にチンゲンサイやきくらげと一緒に、冷凍とはいえシーフードミックスが入っていて、実はすごくおいしかったんだよね。
お兄ちゃん、ちゃんと作れるんだなぁとある意味感心。
でも、葉月がすごくすっごく褒めたんだけど、当の本人は『今どき、ネットでいくらでもレシピあんだろ』と冷めた反応でそれも意外だった。
明日の当番は私だから、何にしようかなーって思ったんだけど……まさかのセリフでリビングにいた私と葉月は思わず顔を見合わせていた。
「買い物行ってくれば?」
「スーパーとドラッグストアへ何しに行くんだよ。マスクパトロールか?」
「あ、あったら買ってきてってお母さん言ってたよ」
「そりゃそーだろーけど、そうじゃねぇんだよ。お前ら、よく飽きねーな。身体なまんねぇ?」
「んー……葉月とふたりでヨガやってるから、別に」
「ヨガ?」
「お母さんが昔買ったDVDがあったから、一緒にやってるよ」
そう。
あまりにも暇暇言ってたら、お母さんが思い出したようにDVDの存在を教えてくれた。
以来、14時からは毎日ヨガタイムを過ごしている。
なんかこう、呼吸を意識してやるからなのか、身体が軽いんだよね。
眠くならないし、ちょうどいいからしばらくは続けられそう……なんだけど、まあ、お兄ちゃんはやらないだろうなとも思う。
だって、ヨガって静かな動きだし。
お兄ちゃんが求めるのは、もっとこう激しいスポーツ的なものだろうから。
「明日出かけてくる」
「どこへ?」
「山」
「……山? 上るの?」
「車でな」
ソファへ座ったまま腕を組んだお兄ちゃんが、唐突に宣言した。
え、いいの? 外に出て?
自宅軟禁が必須だと思っていたから、思わず葉月と二度目の顔をあわせていた。
「お前らも行くか?」
「お出かけしていいの?」
「いや、山のてっぺんならいーだろーよ。ごみごみしてるほど人がいたら、降りなきゃいいだろ」
「……なるほど」
何がなんでもというか、是が非でも外へ出たいらしい。
私も葉月も、家にいることは嫌いじゃないし、多分ずっといられる。
葉月にいたっては、本を読んだり宿題したりだけじゃなくて、外でガーデニングしてたり、新しいレシピを試してみたりと割と充実しているようで、すっごく楽しそうなんだけど。
私は、こうしてリビングでだらーっと過ごすのもそんなに嫌いじゃない。
本を読んでいて、うとうとして……ってしあわせじゃない?
なんて言ったら、お兄ちゃんはすごく嫌そうな顔しそうだけど。
「明日はお天気もいいって」
「じゃあ行こうかな」
「ね。たまには、お庭じゃない外へ行くのもいいかもね」
スマフォで天気予報を見ていたらしく、葉月が笑った。
外かぁ……久しぶりだなぁ。
庭で楽しむことはしたし、窓を開けて部屋で過ごしてはきたけど、外出は久しぶり。
そっか。密集、密接、密閉じゃなければいいのかな。
もうすでに桜は散っていて、お花見のベストは過ぎちゃってるし、山の上とあれば密集は考えられない。
「んじゃ、明日。午前中なら空いてんじゃねーか?」
「え。お兄ちゃん、午前中に起きられるの?」
「起きる」
ああ、どうやらよっぽど外へ出たいらしい。
普段起きない時間帯を自ら指定って、やっぱり、『やりたい』気持ちは原動力なんだなぁ。
ついこの間、心理学の授業で聞いたことを思い浮かべながら、葉月と思わず顔を見合わせて笑っていた。
「わあぁああ!!?」
身体が、横へ、大きく揺さぶられる。
かと思いきや今度は反対。
ぐっ、と瞬間的に息が詰まって苦しい。
え、あの、これって後部座席だから、なの?
「っひゃあ!」
「言ったろ、しっかりつかまってろって」
「そういう問題じゃ……っちょ、まっ……! うー!!」
バックミラーごしに一瞬お兄ちゃんと目が合ったけど、次の瞬間、カーブへ差しかかってまた身体が反対方向へ揺さぶられた。
「羽織、大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ないっ。ていうか、なんで? 葉月こそ平気なの?」
「んー……お父さんに慣らされたのは少しあるかな」
「えぇええ」
助手席の彼女を見ると、シートへ深く腰かけたままアシストグリップをしっかり握りしめていた。
知ってた? 窓の上にある、つり革みたいなところの名前。
私は今日初めて知った。
この体験のおかげで、多分二度と忘れないと思う。
うぅう、そこを握れば少しは違うのかなぁ。
というか、身体が揺さぶられる以上に、正直ちょっと痛い。
まさか、山道になった途端加速されるとか思わないでしょ。
とはいえ、当の本人は私と違ってまったく声はあげないけれど、とても楽しそうに運転していた。
いやだってあのね。
ギアさばきもそうなら、ブレーキングも何もかもいつもと違いすぎて。
うぅ……酔うでしょ、これ。
こんなことになるなら、家にいればよかったと素直に思う。
「つか、お前が言ったんだろ? 道にあるタイヤ痕見て」
「それは……でも、だからってこんな飛ばすと思わないでしょ!」
確かに言った。『なんでこんなにタイヤの跡がついてるの?』って。
でもそれは素朴な疑問であって、何も再現してほしいなんてひとことも言ってない。
うぅ、気持ち悪くなりそうでやだなぁ。
っていうか、運転してる人って気持ち悪くならないのかな。
まだ未経験な部分だけに、ちょっとよくわからないところだ。
「飛ばしてねーじゃん。きっちり法廷速度内だ」
「うぅ……でも、こう、キュッて曲がられると重力すごいんだけど」
「下りはこの倍だな。もっとおもしろい」
「えぇ!? 絶対無理だからやめて!」
さらりととんでもない発言をされ、慌てて首を振る。
法廷速度内とはいえ、こう、キュキュっと曲がられるとそのたび身体が振られて大変なことになるんだってば。本当にもう。
「う!」
グッとアクセルを踏み込んだかと思いきや、次の瞬間ギアチェンジと同時にスピードががくんと落ちた。
危うくシートへ鼻がぶつかりそうになって、思わず両手で身体を支える。
「……え? 着いたの?」
「先行車」
言われて前を覗くと、白い車が10メートル先くらいを走っていた。
ああ、多分普通に走ってる。
スピードもそうなら、カーブへの入り方も一般的。
……はああ、やっと普通に戻った。
どこの誰かは知らないけれど、おかげで助かった。
さすがに距離を開けてさっきよりだいぶゆっくり走っているから、身体に感じる重力はほとんどなかった。
「……へえ」
ようやく、飲みたかったレモンティーの蓋を開けられる……と思ったのに、なぜかお兄ちゃんは小さく笑った。
「わあ!?」
途端、ぐっ、とまた身体がシートへ押し付けられる。
え、ちょ、ちょっと待って。なんで? なんで!?
「お兄ちゃ……前に車いるんでしょ!?」
「いや、あっちが先に走り出したじゃん」
「えぇ!?」
見ると、前を走っていた白い車が加速したらしくさっきよりも距離が開いていた。
……加速、じゃない。
走り方が変わったんだ。
ブレーキの踏み方も短ければ、ハンドリングも急。
それこそ、最短ルートを通るような走り方に変わっていた。
「あのシルビアも、上りに来たな」
「そうなの?」
「だろ? じゃなきゃ走り方変える必要ねぇじゃん。俺はだいぶ距離取ってたんだから」
どうして嬉しそうなのかわからないけれど、さっきと同じようにお兄ちゃんは走り方を変えた。
おかげで、レモンティーが……飲めないじゃないもぅ!
今蓋を開けたら、絶対こぼれる。私が大変なことになる。
うぅう、落ち着いて飲みたいのに。
「頂上まであと3分ってとこだな。我慢しろ」
「えぇえっ……ぅ!!」
まったく知らない人だろうに、どうしてこうもリンクするのか。
みんな、欲求不満なの?
まるで知り合いの車を追うかのように距離を詰めて走るのを見ながら、ため息とは違う大きな息が漏れそうになって……また詰まった。
「はぁあああ……やっと下りられた……」
ずっとずっと続いていた坂道をのぼりきったところで見えた、広い駐車場。
そこでようやく車を降りることができ、ある意味ふらふらになりながら地面の感触を両足で確かめるように立つと、それだけでしあわせを感じる。
ちなみに、先行していた白い車は、そのままさらに上を目指していった。
……あの先に何があるのかは知らないし、もともとお兄ちゃんの目的地はここだったみたいだから、ほっとはしたけどね。
でも、なぜか駐車場を曲がる寸前に、お兄ちゃんはハザードを焚いて減速した。
なんの意味があるのかは、わからない。
でも、前の車も同じように反応してたから、ひょっとしなくても暗黙の何かなんだろうとは思う。
知り合いじゃないのに、ある意味すごい。
車が好きっていう共通点だけで十分なのかな。もしかしたら。
「大丈夫?」
「うぅ……葉月よく平気だね……」
「つか、お前乗り慣れすぎだろ。シートの角度も位置も当たり前のように直してたな」
そう。それは見てた。
私がタイヤ痕を見て『なんであんな痕がつくの?』って聞いたあと、お兄ちゃんが『やってやろうか?』って言ったとき、葉月はシートを少しだけ起こしてベルトの位置を調整していた。
なんでだろうって思ったんだけど……ていうか、お兄ちゃんもそれ見てたから、あんなふうに走り出したんでしょ。
絶対、葉月の調整を待ってた。
だったらひとこと、私にも教えてくれればいいのに!
「お父さんも車好きだから」
「つっても、恭介さんあんなふうに走らねぇだろ?」
「一般道ではね。でも、イベントで走れるときがあるの」
「へぇ」
「車が好きな人は、世界中にいるのね」
ふらふらな私とは違い、葉月は特に普段と変わらない様子で立っていた。
私だけなのね……。
うぅ、無事に辿り着いてよかった。帰りは絶対やめてほしい。
「帰りは前へ座ったら?」
「前に乗っても、あの勢いじゃ酔うと思う」
「帰りはしねぇって。さすがに」
「……じゃあ平気」
鍵を閉めたお兄ちゃんは、先にあっちへ向かって歩き始めた。
ここは、広い湖のある公園というよりは芝生の広場的な場所。
徒歩でさらに奥へ行くと小さな滝もあるらしく、矢印と距離が書かれた案内板も立っている。
広々と作られている駐車場には、お兄ちゃん以外に1台しか車がなかった。
そういう意味で言えば、穴場になるのかもしれない。
ていうかまあ、自粛中だもんね。
きっと、家で過ごすのがストレスじゃない人は、こんなところへこないはずだから。
「あー……やっぱ外いいな」
「わぁ、見て。桜がまだ咲いてる!」
「ほんと。地上と比べて、少し涼しいのね」
大きく伸びをしたお兄ちゃんのはるか向こうに、満開の桜が見えた。
湖畔ぞいに何本も植えられている淡いピンクが目に入った瞬間、気持ちがすっきりする。
家でのんびりするのも嫌いじゃない。
でも……風の音やうぐいすの鳴き声、湖のさざ波や揺れる木々といった、まさに自然をすぐここで感じられるのは、気持ちいいと思う。
……早く、みんなが当たり前に外へ出て過ごせるようになればいいな。
ここだけじゃない、日本全国そして世界中すべてが我慢を強いられている今だからこそ、ひとりひとりのチカラが実は大きいんじゃないかなとも思った。
「羽織、紅茶とお茶どっちがいい?」
「え? でも……自動販売機あっちじゃない?」
「ふふ。外だから、できることあるでしょう?」
「……わ! 持って来たの?」
「せっかくのお天気だし、ピクニック日和だよね」
大きなバスケットを持っていたのは知ってるけど、まさかセット持参とは思わなかった。
つい先日、庭キャンプをしたときにお兄ちゃんが持ち出してきたシングルバーナーのガス缶を取り出したのを見て、ちょっぴりテンションが上がる。
ピクニック、まさに!
「このへんでいいよね?」
「ほかに人もいないし、何より……桜! お花見できるね」
レジャーシートよりも少し厚手のシートを取り出したのを見て、葉月へ駆け寄る。
やるやる、もちろん一緒に手伝う!
いそいそと支度するべくシートの端を持ったら、お兄ちゃんが少しだけ呆れたように『お前切り替えはえーな』と笑った。
「たーくんは、コーヒーとお茶どっちがいい?」
「コーヒー」
「沸かしてくれるの?」
「暇だからな」
お兄ちゃんがバスケットの中から取り出したのは、ロールテーブル。
折りたたみ式よりもさらにコンパクトになるってこの間言ってたけど、ほんとにちっちゃくなるんだなぁと感心した。
手際よくガス缶にバーナーをセットして、着火。
さらに、お水を入れたコッヘルをその上へ。
……キャンプ。
ううん、キャンプっていうよりデイキャンプ? バーベキューとは少し違うけど、ああやっぱり外っていいなぁ。
庭でやったのももちろん楽しかったけれど、違う場所の今はもっと楽しい。
うきうきするっていうのかな。
とにかく、気持ちが全然違って笑みが浮かぶ。
「なんか、家のコンロより沸くの早いね」
「火力が違うからな」
「へえ。山の高さかなって思ったんだけど」
「富士山じゃねーし、ンなデカイ差はないだろ」
見ると、コッヘルの底からぽこぽこ泡が立っていた。
火力か。なるほど。
普段、キャンプどころかこういうキャンプ用品を触ることもないんだけど、ちょっと興味を引かれる。
だって、自分でできたら楽しそうだよね。
といっても……さすがに、お兄ちゃんみたいにひとりで山へ行くことはまずないだろうけれど。
運転できるようになったら、違うのかなぁ。
うーん。
……でもやっぱり、私の場合は行くなら誰かと一緒かな。
森の中、ひとりでまったり過ごしている姿は、ちょっと想像できなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
きっと、家で飲むのと同じ茶葉のはず。
香りが同じで、甘酸っぱい匂いが一緒だからっていうのが根拠なんだけど……でも、気持ちが違うせいか味も違う気がした。
おいしい。
えへへ、外で食べるごはんっておいしいもんね。
「……え、寝るの?」
「天気いいしな」
「来たばっかりなのに、もったいなくない?」
「そーか? 俺は山走れたし、満足した」
シートへごろりと横になったお兄ちゃんを見て、眉が寄る。
なんかこう、景色を楽しむとか、散歩してみるとか、そういう気はないのかな。
人工的な音のまったくない環境。
目の前には大きな湖があって、桜が咲いている遊歩道がぐるりと敷かれていて、ウグイスが鳴いていて……ってなったら、歩きたくない?
まさか、ここにきて寝ようとするとは思わなかった。
だって、そもそもお兄ちゃんが外へ出たいって言い出したのに。
「お散歩してみる?」
「付き合ってくれるの?」
「せっかく来たんだもん、歩いてみたいなと思って」
「だよねー。さすが葉月。安心した」
すっかり横になったままのお兄ちゃんは、葉月が準備してきたブランケットを枕にスマフォを弄り始めた。
うわー、不健全な気がする。
ぽかぽか天気のいい下で過ごすっていうのは健康的だけど、まさか寝ころんだままスマフォとか……もぅ。
「ちょっとだけ行こう?」
「せっかくだもんね」
動きそうにないお兄ちゃんは放置し、葉月と立ち上がる。
ここにいるなら、バッグは置いて行ってもいいよね。
あ、せめて写真は撮りたいから、スマフォだけ持っていこう。
「荷物見ててね」
答える代わりにお兄ちゃんがひらひら手を振ったのを見て、葉月が笑った。
いやいやいや、そこは怒ってもいいところじゃない?
……もぅ。お兄ちゃんって、よくわからない。
でも、山をぐいぐい上ってるときは相当楽しそうだったから、満足したってセリフはホントなんだろうけど。
「んーなんか、春の匂いがするね」
舗装されているというほどではないものの、整備されている遊歩道は歩きやすかった。
湖畔の水が日差しを受けて、キラキラ輝く。
どこからか、花の甘い香りが漂ってくるけれど……さすがに何の花かはわからない。
桜は6部咲きで、つぼみが残っている枝も多かった。
「今年は、お花見らしいお花見はできなかったね」
「きっとみんなできてないんでしょうね。でも、今日こうして一緒にこれてよかった」
「ほんと! お兄ちゃんが出かけようって言わなかったら、こんな機会なかったかも」
そういう意味では感謝してる。もちろん。
でも……できることなら、やっぱり祐恭さんと一緒にお花見をしたかった。
おいしいものを食べたりしなくてもいい。
ただ、並んで歩きながら一緒に見て、感想を交わせたらそれで十分だった。
……来年は絶対お花見する。
そして、自粛が終わったら近場でいいからどこかへ遊びに行きたい。
きっと、同じように思っている人たちは多いだろうなぁ。
人影のない湖を見ながら、ボートに乗ってみても楽しそうだなぁとは思った――ものの、残念ながら今回は自粛営業中らしい。
道中にあった看板には、ご丁寧に『休止中』の文字と今回の対応についての張り紙がされていた。
あと少し。きっと、あと少しだよね。
みんなでがまんしたら、早く収束するよね。
症状が出ない人も多い以上、もしかしたら私だって……という不安はある。
だから、家族とだけ過ごすのがベストだもん。
あとちょっと…………でも長いなぁ。
先が見えないって、こんなに不安になるんだね。
世間とは違って、対岸まではっきり見通せる湖を見ながら小さくため息が漏れた。
「あ」
「あー!」
15分ほどかけてゆっくり一周回って戻ってきたら、お兄ちゃんの手にはサンドイッチがあった。
ていうか、自由すぎじゃない?
寝てたと思ってたら、勝手にひとりでお昼とか!
もぅ。子どもよりタチが悪いように思う。
「ずるい。先に食べちゃうなんて」
「タイミングいいなお前ら。たまたま1個食おうとしただけなのに」
「そういう問題じゃないでしょ! もぅ」
サンドイッチだけじゃなく、もう片手にはからあげの刺さったピックまである。
はーー。もぅ、自由人すぎて呆れるとはこのこと。
でも、葉月は苦笑こそしたものの『手だけ拭いてね』とまるで小さな子へ注意するようなセリフを口にした。
「さて。食ったし動くか」
「え。私たち動いてきたのに」
「なんだよ。散歩だろ? 大したカロリー消費にはなんねーぞ」
「っ……痛いところを」
ふたくちほどで平らげたあと、立ち上がったお兄ちゃんがまさに余計なひとことを口にする。
散歩だってね、有酸素運動には該当するんだよ?
そりゃあ……息は切れてないけど。
でも、動かないよりはずっとマシだと思う。
だって、お兄ちゃんってばコーヒー飲んでごろごろして食べてっていう、家と変わらないことしかしてないじゃない。
私たちのほうがよほど有意義だと思うんだけど、どうだろうか。
「え?」
「俺が勝ったら、あそこで饅頭買ってこいよ」
「えぇ? やだよそんな。動いてないんだから、お兄ちゃんが行けばいいでしょ?」
「大した距離じゃねーだろ。走りゃ1分だ」
「だから。それならお兄ちゃんが行けばいいじゃない」
どこから取り出したのかバドミントンのラケットを渡され、つい受け取ってしまったものの眉が寄る。
ていうか、今日やってるの? あそこのお店。
ちょうど駐車場の端っこにある小さなお土産屋さんのようで、『おまんじゅう』と書かれた旗が立っているのはわかるけれど、営業中かどうかはちょっとわからない。
あそこまで行ってお休みでしたってなったら、すごく切ないんだけど。
でも、お兄ちゃんはこっちの意見をすべて無視して、シャトルを手にした。
「わわっ!?」
「お前反応鈍くねーか?」
「もぅ! やるならやるって言ってよ!」
突然シャトルが目の前へ飛んできて、慌ててラケットを立てる。
さっきまではそこそこ風が吹いていたけれど、今は静かになっていた。
ていうか、バドミントンなんて久しぶりだなぁ。
高校生のころ、体育の授業でやったのを思い出して、ほんの少しだけ懐かしさから笑みが浮かぶ。
――けど。
「っわぁ!?」
「甘いな」
「ちょ、はわぁ!?」
「まだまだ」
くっくと笑いながらバックハンドになる位置へ打ち込まれ、悲鳴にも似た声があがる。
うぅ、なんでこんなところにきてまで、特訓みたいなことを受けなきゃいけないの。
でも、気持ち程度は身体が重い気がして、ここ数週間の運動不足で確実に筋肉が落ちたんだなとは感じた。
「あ。お前、誰がシャトル掴んでいいっつった」
「はー……はー……ちょ、ちょっと待って。1回休憩」
意図的に左右へ揺さぶられ、ラケットで身体を支えながら大きく息を吸う。
うぅ、体育の授業以来。
しかも芝生ゆえに足場が滑りやすいから、普段絶対使わない筋肉を使ってる気しかしない。
「え?」
「バトンタッチ」
「ずるくね? こっちは変わらねぇのに」
「だって、たーくんはお散歩しなかったでしょう? 羽織と私は半分ずつね」
思わずしゃがんでいたら、葉月がラケットへ手を伸ばした。
もちろん大歓迎。
こくこくうなずいてから立ち上がり、シート……ではなくすぐそこにあった木のベンチへ腰かける。
はー……今は、このちょっとだけ吹いてる冷たい風が心地いい。
さっきのお散歩のときは肌寒いなと思ったけど、身体動かすとやっぱり春はあったかいんだなぁ。
「っ……!」
パシン、といい音が響いたかと思いきや、地面を蹴る音が響いた。
芝生だから、そんなに大きくない。
のに、明らかに……って、動いてる。お兄ちゃんが。
さっきと全然違って、むしろ葉月が動いてない。
『うわ』とか『あー』とか言いながら、さっきの私みたいにお兄ちゃんが動いていて、これはこれで見てるのは楽しいなぁとちょっと思う。
「おまっ……えげつねぇな!」
「え?」
「明らかに狙ってんだろ!」
「んー……でも、たーくんもさっき羽織へ狙って打ってたでしょう?」
「そりゃっ……く! ちょっと待て。たんま!」
少しだけ肩で息をしながら、お兄ちゃんは葉月へ向かって手のひらを向けた。
ジャケットを脱ぎ……うわ!
こっちへ放られ、反射的につかむ。
もぅ。ちゃんと置きに来ればいいのに、横着だなぁ。
さすがに私でもそれはしない。
「葉月ナイスー」
手のひらでくるくるとラケットを回転させているのを見ながら、ばっちり応援。
にっこり笑って手を振り返したのを見て、ああ間違いなく余裕あるんだなと思う。
「あっ」
「あー、お兄ちゃんずるい!」
「ずるかねーだろ。よそ見してンからだ」
は、と短く笑ったその顔は明らかに悪い人の顔。
あーもぅ、ずるいなぁ。
同じ血が流れていると思うと、なんだか切ない。
「っ!」
「あ、ごめん」
「くっそ……謝ンな!」
葉月が地面すれすれへ打ち込んだところを、踏みとどまってお兄ちゃんが打ち上げた。
あれは……意地になってるよね、絶対。
私とのバトルとは違い、明らかに葉月が優勢。
ほら、やっぱり言いだしっぺが動くことになるんだよ。
こういうのって、ある意味ジンクスあるように思うけどどうだろうか。
「…………」
「……たーくん、大丈夫?」
「うるせぇ」
ぜーぜー肩で息をするお兄ちゃんへ、葉月が近づいた。
勝負は明らか。
最後は風が強く吹いたこともあって、シャトルはお兄ちゃんのはるか後ろへ落ちている。
「ち。行きゃいいんだろ、行きゃ!」
「私行こうか?」
「そこで待ってろ!」
葉月へ放るようにラケットを渡してすぐ、お兄ちゃんはぶつぶつ言いながら売店へ歩いていった。
……あ、走った。
その後ろ姿を見ながら、葉月が少しだけ心配そうな顔をしている。
「え?」
「言いだしっぺだもん、平気だよ」
「でも……ちょっとやりすぎちゃったかな」
「それ言ったら、多分お兄ちゃんもっと怒りそうだから、そっとしとこ?」
ちょっぴり申し訳なさそうな顔の葉月へ首を振る。
……と、敷いてあったシートのほうから電話の着信音が響いた。
あれは、私のじゃない。
てことは……。
「もしもし?」
すぐに反応した葉月が小走りで戻り、スマフォを耳へ当てた。
でも、見ている方向はお兄ちゃんのほう。
……そんなに離れてないんだから、戻って来たらいいのになぁと少し思ったものの、ああそんな体力実は残ってないのかもとも思った。
「え?」
「お財布、ここに置いてきちゃったんだって。ちょっとだけ行って来るね」
「もぅ」
苦笑を浮かべた葉月に眉を寄せるものの、お兄ちゃんのものではなく、葉月は自分のバッグを手に歩いていった。
結局、葉月に買いに行かせたようなものだなぁ。
ほどなくして葉月が到着し、そのままふたり揃って中へ消えていった。
「…………」
風が気持ちいい。
でも、休憩してたせいかちょっとだけ肌寒くも感じる。
気分転換で楽しいのは、楽しい。
だけど……って、ちょっとだけどうしても思っちゃうんだよね。
家にいなきゃいけないのもわかるし、今が大切だってこともわかる。
でも。でもね?
もう何日も会えてないんだもん。
私だって……一緒に過ごしたいな、って思うのは仕方ないよね。
「……あ」
ふたり揃ってお店から出てきたのが見えたところで、ちょうどよくウグイスが鳴いた。
すぐここの木。
春はもうすでに訪れていて、新しい年が巡って数カ月経っている。
鮮やかなほど、様々な色をまとって。
「……え」
山を上ってくるエンジン音があるなとは思ったの。
車通りは少なくて、私たちが着いてからそう何台も通ってない。
山の間を抜けるように作られている道だから、音が反響しているのはある。
でも。
だけどまさか、すぐそこに咲いている椿よりも目を惹く、赤い車が上がってくるなんて想像もしてなかった。
「ッ……」
ううん、想像はしてたの。
会えたらいいのに、って。
葉月とお兄ちゃんが揃って歩いているのを見て、私もあんなふうに歩きたいなって一瞬でも強く願ったから。
ふたりが足を止めたのを見たのは、駆け出してからだった。
変なの。
さっきは、ちょっと動いただけで疲れちゃって、今日は十分運動したなって思ったのに。
なのに、まだ走れる。全然、もっと先まで。
こちらへフロントを向けたままの車が、助手席の窓を開けた。
ドア越しにお兄ちゃんが近づき、葉月が頭下げる。
あんなふうにする相手は、ひとりだけ。
あの形の赤い車に乗っている人を、ひとりしか知らない。
「わ、っとと……!」
葉月が私を見て笑った瞬間、ちょっとだけほっとしてつまずきそうになった。
驚いたのは、私も一緒。
飛び込むように葉月へ手を伸ばし、抱きとめてくれたところで方向を変える。
ずっと、ずっと会いたかった。
ああ、こういうのって奇跡って言えるよね。
整わない息のままドア越しに運転席へ目を向けると、こうなってしまう前と同じ、祐恭さんが笑ってギアに手を置いた。
「こんなところで会えると思わなかった」
「っ……私こそ……!」
会いたかった。ずっと、ずっとどうしても会いたかった。
でも、会っちゃいけないって思っていたし、我慢もした。
……でも。
心の底ではやっぱり納得できない部分もあって。
変わらない彼の笑顔を見たら、ほんの少し涙が滲む。
「お前も持て余したか。つーか、謹慎になったのか?」
「学生は休みだし、ゴールデンウィーク明けまでは基本休んでほしいって通達が県から昨日出たよ」
「へぇ。授業どーすんの?」
「聞いてないのか? 今年はほとんどの大学が、前期はオンライン授業を取り入れたじゃないか」
「……う。そうなんですか?」
「…………見てないの?」
「み……てませんでした……」
そうなるかもしれない、という手紙は見た。読んだ。ちゃんと。
でも、まさか実施されることになっていたなんて……え、いつ出されたんだろう。
とはいえどうやら確認してなかったのは私だけみたいで、葉月は苦笑していた。
「週明けからは間引き勤務になるかな。準備もあるし」
「大変だな」
「いや、お前も忙しいだろ?」
「つっても、別に授業ねーし。予約本の受け渡しをどうするかもっかい考えるってとこだろうな」
お兄ちゃんが肩をすくめたのを見て、祐恭さんが『よろしく』と笑った。
例に漏れず、彼も読みたい本があるらしい。
「で? 今日は3人でお花見?」
「です」
「天気もいいし、楽しめそうだね」
「瀬尋先生も一緒にいかがですか?」
「いや……でも俺は……」
「いーんじゃね? 外だし。密閉でもねーしな。2m離れりゃいいんだろ? お互い」
接触するのは難しいけれど、距離を保って外で話すなら許されると思いたい。
本当はそばにいたいし、触れたいとも思う。
でも……自覚症状のない人が多いと言われていることもあって、叶わないよね。さすがに。
お互いのため。
そう。今は、どっちのためにも我慢しなきゃいけない大切な時期。
「そんだけ離れたって、直接喋れンだろ」
渋る祐恭さんへ、お兄ちゃんが肩をすくめた。
直接話せることは、すごく大きい。
だけど……躊躇する気持ちもわかるから、判断は委ねたい気持ちのほうが強い。
「それじゃ、少しだけ」
「っ……!」
ハンドルへ手を置いていた彼が、小さく笑ってうなずいたのを見て、瞬間的に声が出そうになった。
でも、しなかっただけで、素振りは十分出ていたらしい。
目が合った葉月は、にっこり笑って『よかったね』と小さくささやいた。
「あ。バドミントンあるぜ。距離を保つにはちょうどよく」
「……バドミントン? お前元気だな」
「いや、手ぶらで山上ってもつまんねーじゃん。手軽な暇つぶしだろ」
「だからって……ラケットすら久しぶりに見た」
お兄ちゃんの車の隣へ停めた祐恭さんが、シートへ置いたままだったラケットを見て意外そうな顔をした。
でも、気持ちはとってもよくわかります。
私も、まさかお兄ちゃんがそんな選択するなんて思わなかったもん。
「え、あ、私?」
「お前、十分休んだろ。祐恭とやれよ」
「えぇ……?」
シャトルを放られ、キャッチしてすぐラケットを差し出された。
あ。食べる気まんまん。
どうやら温かいお饅頭らしく、パックから取り出したひとつを頬張って『あっち』と悲鳴にも似た声が聞こえた。
「手加減なしでいいの?」
「っ……なんでそんな全力モードなんですか」
「いや、やるからには運動量上がるほうがいいでしょ?」
「うぅ」
さわさわと風で木が揺れる音がする。
少しだけ冷たい、春先の風。
いつもとはまるで違う場所とシチュエーションだけど、目の前に彼がいることがとても嬉しい。
……会いたかったんだもん。ずっと。
勝手に頬が緩んで、ああもう顔が戻りません。
「わ!」
「ごめん、今のはなし」
「うぅ……」
「久しぶりすぎて感覚つかみにくいな」
ジャンプしないと届かないほど前へ落ちたシャトルを、がんばって拾おうとはした。
でも、当然届かない。
祐恭さんが苦笑して拾い上げたのを見て……笑みが浮かぶ。
だって嬉しいんだもん。
距離があっても話せることが。彼を見ることができるのが。
「俺が勝ったら、何かご褒美ある?」
「えぇ!? もぅ……どうしてみんな賭け事にしたがるんですか」
「冗談だよ」
お兄ちゃんと違って苦笑した祐恭さんは、確実に私が返せるようなところへ毎回シャトルを打ってくれた。
なんでもそうだけど、人によっていろんなものの端々に性格が出るんだなぁというのは改めて感じた。
2メートル。
縮まらない……ううん、できるだけ離れなきゃいけないのはわかってるけど、これまででもっとも近い距離。
機械越しじゃない声を聞きながら、リアルタイムのレスポンスがただただ嬉しくてたまらなかった。