Thanks mother’s day
2020.05.10
もともとは、去年の母の日用に書いていたものです。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。