穂澄の場合
2022.04.02
「私さぁ、里逸のこと好きじゃないんだよね」
がたがったん。
夕食のグラタン皿が、思わず手から滑り落ちる。
ここがシンクで事なきを得たが、待て。なんだその言葉は。どういう意味だ。
『今日は寒いからグラタンにしたんだー』と穂澄が笑っていたのが、ものの2分前。
今は、まるで昔に戻ったかのように、こたつの定位置へ入ったまま、午前中に仕上げたらしいジェルネイルが施された指先を眺めている。
「な……穂澄。それはどういうつもりだ」
「何よ、つもりって。そこはどういう意味って聞くところでしょ?」
この動悸は、言葉のせいじゃない。あくまでも、皿を割りそうになったほう。
俺が座っていた場所から動こうとしない穂澄を避け、仕方なく角を挟んで座ると、なぜかたちまちいやそうな顔をした。
「ちょっと。なんでそっちに座るのよ」
「こうしなければ顔が見えないだろう」
「別に見えなくてもいいでしょ」
「話をするのにそうはいかない」
不満げな穂澄はますます眉を寄せたが、『まあいいか』と何がいいのかわからないセリフを口にする。
「てわけだから、よろしくね」
「何がだ」
「しょうがないじゃん。わたしー里逸のことー好きじゃないのー」
「……何度も言わなくていい」
まるで歌をうたうかのようにくちずさまれ、精神力が削られていく。
好きじゃない。
そんなセリフをはかれたことは、あっただろうか。
穂澄に限って……いや、穂澄から言われたことが? 一度あったか。それとも二度か。
俺が意識する前からよほど俺を想ってくれていたらしい奇特な人間だけに、心当たりがなさすぎて困る。
いや、うぬぼれてるわけではなく、すべては本人の言葉によるもの。
すべてのことの発端は俺を嫌っていたからだと思っていたが、行動のすべてが気を引きたいがためと知り、内心驚いたというのに。
だがしかし、ならばなぜ俺といるのか。
一緒にいることでどんなメリットがある。
光熱費が浮く。
家賃がない。
……この2点しか浮かばないが、どうだ。
食費はすべて穂澄が負担し、家事という名の労働も彼女が担っている。
一緒にいることでメリットがあるとすれば、そのふたつじゃないのか。
いずれも金で解決できることならば、一緒でないほうが楽なはずだが、ならばなぜともにいるのか。
考えられる理由は当然ひとつ。
俺といることで、別のメリットがあるから……じゃないのか?
「はー。やだやだ。相変わらずまじめな顔しちゃって。これだから賢い人は嫌いなのよ」
「っ……どういうことだ」
「ちょっとー。まじめに取らないでくれる? 単なるおしゃべりじゃない」
「単なる、ではないだろう。これが他愛ないで済んだら困る」
「困る? えーなんでー?」
「なぜって……穂澄。何かからかってるのか?」
「べつにー?」
くすくす笑いながら、穂澄は改めて爪を撫でた。
そのクセ。
相手をからかっているか、本音でないことを言っているか、試しているかのいずれか。
今回はどれだ。
いや、むしろすべてが当てはまるのかもしれないが。
「まあしょうがないよねー。里逸じゃどうせ、なんにもわかんな――」
けらけらと笑いかけた彼女を引き寄せ、そのまま唇をふさぐ。
寸前で驚いた顔が一瞬だけ見えたが、見えなかったことにしておきたい。
「ん……、んっ」
普段、夜はほとんどテレビをつけない。
おかげで音はなく、わずかに漏れる穂澄の声だけが響く。
濡れた音。
小さな囁き。
まさに、漏れる音が愛しくて、口づけが深くなる。
「……は。――っ」
「やめちゃやだ」
「な……」
「もぉ……したくなっちゃうでしょ」
唇が離れたところで、シャツの胸元を強く引かれる。
今の行為で濡れた唇が光をまとい、まるでねだるかのように囁かれた言葉が、より色を濃くする。
「おま――」
「好きじゃないわけないじゃん。ばか」
大好きなんだから。
小さく聞こえた言葉は、現実だったかどうか定かではない。
がたがったん。
夕食のグラタン皿が、思わず手から滑り落ちる。
ここがシンクで事なきを得たが、待て。なんだその言葉は。どういう意味だ。
『今日は寒いからグラタンにしたんだー』と穂澄が笑っていたのが、ものの2分前。
今は、まるで昔に戻ったかのように、こたつの定位置へ入ったまま、午前中に仕上げたらしいジェルネイルが施された指先を眺めている。
「な……穂澄。それはどういうつもりだ」
「何よ、つもりって。そこはどういう意味って聞くところでしょ?」
この動悸は、言葉のせいじゃない。あくまでも、皿を割りそうになったほう。
俺が座っていた場所から動こうとしない穂澄を避け、仕方なく角を挟んで座ると、なぜかたちまちいやそうな顔をした。
「ちょっと。なんでそっちに座るのよ」
「こうしなければ顔が見えないだろう」
「別に見えなくてもいいでしょ」
「話をするのにそうはいかない」
不満げな穂澄はますます眉を寄せたが、『まあいいか』と何がいいのかわからないセリフを口にする。
「てわけだから、よろしくね」
「何がだ」
「しょうがないじゃん。わたしー里逸のことー好きじゃないのー」
「……何度も言わなくていい」
まるで歌をうたうかのようにくちずさまれ、精神力が削られていく。
好きじゃない。
そんなセリフをはかれたことは、あっただろうか。
穂澄に限って……いや、穂澄から言われたことが? 一度あったか。それとも二度か。
俺が意識する前からよほど俺を想ってくれていたらしい奇特な人間だけに、心当たりがなさすぎて困る。
いや、うぬぼれてるわけではなく、すべては本人の言葉によるもの。
すべてのことの発端は俺を嫌っていたからだと思っていたが、行動のすべてが気を引きたいがためと知り、内心驚いたというのに。
だがしかし、ならばなぜ俺といるのか。
一緒にいることでどんなメリットがある。
光熱費が浮く。
家賃がない。
……この2点しか浮かばないが、どうだ。
食費はすべて穂澄が負担し、家事という名の労働も彼女が担っている。
一緒にいることでメリットがあるとすれば、そのふたつじゃないのか。
いずれも金で解決できることならば、一緒でないほうが楽なはずだが、ならばなぜともにいるのか。
考えられる理由は当然ひとつ。
俺といることで、別のメリットがあるから……じゃないのか?
「はー。やだやだ。相変わらずまじめな顔しちゃって。これだから賢い人は嫌いなのよ」
「っ……どういうことだ」
「ちょっとー。まじめに取らないでくれる? 単なるおしゃべりじゃない」
「単なる、ではないだろう。これが他愛ないで済んだら困る」
「困る? えーなんでー?」
「なぜって……穂澄。何かからかってるのか?」
「べつにー?」
くすくす笑いながら、穂澄は改めて爪を撫でた。
そのクセ。
相手をからかっているか、本音でないことを言っているか、試しているかのいずれか。
今回はどれだ。
いや、むしろすべてが当てはまるのかもしれないが。
「まあしょうがないよねー。里逸じゃどうせ、なんにもわかんな――」
けらけらと笑いかけた彼女を引き寄せ、そのまま唇をふさぐ。
寸前で驚いた顔が一瞬だけ見えたが、見えなかったことにしておきたい。
「ん……、んっ」
普段、夜はほとんどテレビをつけない。
おかげで音はなく、わずかに漏れる穂澄の声だけが響く。
濡れた音。
小さな囁き。
まさに、漏れる音が愛しくて、口づけが深くなる。
「……は。――っ」
「やめちゃやだ」
「な……」
「もぉ……したくなっちゃうでしょ」
唇が離れたところで、シャツの胸元を強く引かれる。
今の行為で濡れた唇が光をまとい、まるでねだるかのように囁かれた言葉が、より色を濃くする。
「おま――」
「好きじゃないわけないじゃん。ばか」
大好きなんだから。
小さく聞こえた言葉は、現実だったかどうか定かではない。
記事検索
お知らせ
アーカイブ
リンク