我慢の夜
2020.08.07
8月7日。気付いたら、8月ももう7日も過ぎてる……恐ろしい……。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。