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「……硫黄」
「そのままの感想だね」
 車を降りようとドアを開けた瞬間の、彼女の第一声がそれだった。
 ……まぁ、間違ってないし、俺だってそう思ったから何も言えないけど。
「ほら。行くよ?」
「あっ! ま、待ってください!」
 大涌谷の駐車場。
 相変わらずココは、混雑を見せていた。
 確かに今は夏休みという長期休暇でもあるし、わからないでもない。
 だが、お盆休みでもなければ、普通の平日になるわけで。
 どうやら、世の中はサービス精神旺盛な大人が多いらしい。
 ……俺みたいに。
 彼女を促すように手を引きながら歩いていくと、苦笑が浮かんだ。
「……なんか……全体的に、山が黄色いですね」
「どうして黄色く見えるのかな?」
「え?」
 ぽつりと漏らした、素直な感想。
 だが、命取りになるとは――……思ってないみたいだな。
 顔だけで振り返ってからニヤっと瞳を細めると、困ったように眉を寄せた。
「わかりません、っていう答えはなしね」
「……か、化合物だから」
「化合物?」
 まるで、授業中に目や耳にした単語を口にしたみたいな、そんな感じ。
 宙へ視線を向けながら、ひたすら俺の反応を伺う。
 ……んー。
 それは、受験生としてどうなんだろうか、とは若干思うが……まぁ口にはしない。
 別に、彼女がバリバリの理系を目指してるってワケじゃないし。
 それに、受験科目に化学を入れるなんてことも、今は聞いてないから。
「あ、えと……あっ、ほら、硫黄自体が黄色い結晶だから、とかじゃ……ないんですか?」
「そうだけど?」
「……えぇ?」
 化合物やら、結晶やら。
 ほいほいと答えを導き出してくれるワリに、これほど自信なさげなのはどうしたモノか。
 こちらの表情と反応を伺ってくる顔はかわいいが、なんだか反則な気もする。
 ……かわいいじゃないか。
 まぁ、日本で唯一俺という教師くらいが甘くしてやっても、問題はないと思うが。
 って、ンなこと言ったら周りの連中にさんざん文句言われそうだけど。
「自信持って、お答えどうぞ」
「……黄色い結晶だから」
「ほぅ。じゃあ何か? 岩についてるアレは、硫黄だとでも?」
「……え? 違うんですか?」
「どうかな」
「……もぅ。どっちかわからないじゃないですかっ」
「わかってよ」
 くすくす笑って手を引きながら、緩やかに続いている坂道を登る。
 ここは、この道の先にある小屋に通じる唯一と言ってもいい道。
 まぁ、正確にはもう1本くらいあった気がしないでもないが、多くの人間はここを通るだろう。
 現に、俺たち以外にも、沢山の家族連れやカップルが道を登っていた。
「温泉……?」
 人々のあとに続いて歩いていると、細い道の端っこで、ボコボコと音を立てながら水が湧いている箇所が目に入った。
「……湧いてるのは、お湯じゃなくて硫黄なんだけど」
「あ、そうなんですか?」
「大涌谷は、そういう温泉なんだよ?」
「へぇ……そうなんですか」
 へぇとかふぅんとか言いながらも、どっちかっていうと俺の言葉より目の前にある『湯』のほうがよっぽど気になるようで。
 同じような格好で、面白そうにそこを見ていた幼い男の子に笑みを見せながら、彼とまったく同じように手を入れようとした。
「危ない!」
「っ!?」
「……なんて」
「もぉ! 先生!!」
 耳元で声をあげてやると、驚いて手を引っ込めた。
 びくっとした反応も怒った声も、すべてが思った通りで、つい笑える。
 ……だが、気になる点が1箇所あるワケで。
「先生、はなしね」
「え?」
「この旅行中は、禁止」
「っ……」
 首を振り、きっぱりと拒否してやる。
 これだけは、いくらかわいい顔を見せてくれようと、かわいい声でねだられようと、曲げるつもりはない。
 せっかくの機会ってこともあるし、頑として()いさせてもらおう。
「第一、そんな俗称を聞いた人間はどう思う? 『教師と生徒』って、思いっきり想像するだろ?」
「……でも、現にそうだし……」
「だけど、世間一般としてはね」
 困ったように俺を見上げた彼女に、苦笑を返す。
 すると、何か言いかけた唇をしっかり結んでから、再び俺を見つめた。
「……ほら。名前は?」
「う……」
 口ごもるというよりも、どちらかというと『言いかけたところで先に言われた』みたいなそんな感じか。
 少しだけ恥ずかしそうに視線を泳がせている様は、やっぱりかわいいと思えた。

「……祐恭さん」

 恥ずかしそうに呟いた彼女を見て、つい満足げに笑みが漏れる。
 素直が1番って言葉があるが、人間まさにソレで違いないな。
「さて、受験生。どうしてこのお湯はこの色だと思う?」
「……もぅ。せん――……じゃなくて、祐恭さんが教師と生徒はやめるって言ったじゃないですか……」
「それとこれとは、別。ほら、どうして?」
 湧き続けている乳白色のヌルい湯に、指先だけを入れてから指で弾く。
 すると、同じようにおずおずながらも、彼女が手を入れた。
「あ。ぬるいですね」
「まぁ、源泉じゃないし」
「……んー……。そうだなぁ……」
 軽く手を振って雫を払ってから、ハンカチで拭う。
 しばらく見つめていた、宙の1点。
 だが、まるでピンときたかのように瞳を輝かせると俺を見つめた。
「二酸化硫黄」
「ほう。……で?」
「で? え、っと……だから……あの、二酸化炭素と結びついて、水に溶けるようになって……で、こうして、白く濁らせる……ですよね?」
「……なんでそんなに自信ないの?」
「え、あの……なんとなく」
「こら」
「……だってぇ」
 腕を組んで眉を寄せると、上目遣いに唇を尖らせた。
 ……まぁ、いいか。
 彼女にしては、上出来。
 これも、もしかしたら俺とともにすごした時間の賜物かもな。
 自惚れ?
 大いに結構。
 なんとでも言ってくれ。
「自信を持って言えば、誤答も正解になるかもよ?」
「……祐恭さんには、通用しないと思います……」
「当り前だろ? 俺を誰だと思ってるんだよ。化学の先生だよ?」
「それは……よく知ってますよ?」
「よろしい」
 少しだけいたずらっぽい顔をした彼女に笑ってから、手を繋いだまま道を上がる。
 ……こういうやり取りができるからこそ、やめられないんだよ。
 彼女の顔を改めて伺ってみると、俺に気付いた途端、くすっと笑ってくれた。
 しばらく坂道を登ると、ほどなくして、柵で仕切られた少し広めの場所が見えてきた。
 そこには、案の定自分たちと同じ目的を持った人間が多く集まっている。
 小屋の横に、もうもうと白煙が上がっている独特の場所。
 さすがにここへ来ると、硫黄の匂いがキツい。
「それじゃ、せっかく来たんだし食べて帰るか」
 わざわざ、自分から好んで硫黄に当たりたいとは思わない。
 物珍しそうに見つめていた彼女の手を引いて同じようにその場から離し、小屋で売られている名物の『黒タマゴ』を手にするべく列へ並ぶ。
「お塩まで付いてるんですね」
「つける?」
「んー……じゃあ、少しだけ」
 名前の通り、真っ黒い殻の黒タマゴ。
 紙袋から取り出したひとつを手渡しながら訊ねると、こくんとうなずいた。
 塩、ね。
 俺は普段付けることがないんだが、まぁ、彼女が付けるなら付き合ってもいい。
 小袋の封を切ってから渡してやると、早速殻をむいたタマゴを差し出してきた。
「どうぞ」
「あー、ありがと」
「いいえ」
「じゃあ、塩振って」
「はぁい」
 てっきり、『付けてください』とでも言われると思ったのに。
 彼女は、タマゴを差し出すと代わりに俺が持っていた塩の袋を手にした。
 ……気が利くというか、よくできたお嬢さんだというか……。
 相変わらず、人を喜ばせるのが上手な子だ。
「はい、どうぞ」
「ありがと」
 適量。まさに、ソレ。
 さらさらとタマゴに振りかけられた塩を見つめていたら、彼女が改めて俺を促した。
 遠慮なく、一応彼女に断ってから、先にひとくち。
「……ん。普通」
「もぅ。そう言わないんですよ」
「でもな……」
 言われると思ったが、言ってみたかった。
 くすくすと苦笑を浮かべた彼女に、肩をすくめてからもうひとくち。
 空になった手を軽く叩いて払うと、彼女がハンカチを貸してくれた。
 ……こういう気遣いは、孝之にはまったく行かなかったんだな。
 同じ兄妹とはいえまったく違う育ち方だ。
「……ん。おいし」
 見ると、それはそれは幸せそうな顔で、タマゴをぱくついてる彼女が見えた。
 ……あー。
 なんか、この子は本当に『ささやかな幸せ』でも『大きな幸せ』に変える力があるんだろうな。
 あむあむと食べている姿を見ていたら、いつしかだらしなく口が開いていた。
 見た目こそ黒いが、殻をむいてしまえば、それこそ普通のゆで卵。
 ……お茶が欲しいな。
 口に残る黄身の味に眉を寄せると、ちょうど彼女も食べ終えたらしく指先をハンカチで拭った。
「さて」
 手元に残るは、あと3つ。
 一応、消費期限は明日まであるらしいが……今の季節は、夏真っ盛り。
 これからだってまだ行く場所はあるし、さすがに車内放置というのもいかがなものか。
「ひとつで、7年。ふたつで14年か。……うん、がんばって3つ食べて、21年長生きするか」
「み……3つもですか?」
「ほら、俺のほうが年食ってるし」
「そんな! 変わらないですよ!」
 しれっと呟きながらも、紙袋を閉じる。
 ……うーん。
 恐らく、実行するまでもなく、食べる前に彼女が止めそうだな。
 『身体に毒』とか『気持ち悪くなりますよ』とか言いたげな視線が刺さってきて、実際、再びその袋を開けることもできなかった。
 ……まぁいいか。
 帰ったら、彼女を送りついでに孝之にでもやれば。
 冥土の土産くらいにはなるだろう。
 彼女に『食べないよ』と首を振ってから苦笑を浮かべると、ようやく、なんとなくだが納得してくれたように見えた。


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