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「風呂入ろうか」
 それはそれは豪勢な食事を摂ってから部屋に入ってまず、そう口を開いたのは言うまでもない。
 いわゆる、テレビなんかでも見かける“一見さんお断り”よろしくな、割烹料亭さながらの和食どころは、俺たちふたりがぶらりと立ち入って許されるような場所でもなかった。
 ――……が、そのあたりはさすが一流旅館。
 露骨な態度を見せるスタッフは誰もおらず、きちんと席へ案内してくれた。
 もともとがそういう造りなのかはわからないが、俺たちが通されたのは、少し背の高い仕切りのあるボックス席。
 店内には目立った照明がなく、かわりにあちこちへ照明代わりの行灯がぽつりぽつりと明かりを揺らめかせていた。
 まさに雰囲気は絶品。
 だが、それ以上に絶品だったのは季節の会席料理。
 山菜の前菜から始まって、新鮮な海の幸に、山と海それぞれの季節の天ぷら……などなど。
 ……久しぶりにウマいと思った。本当に。
 味付けはどれも上品で、薄味かと思いきや、しっかりとだしの風味が生きていて。
 おかげで、当然だがまったく物足りなさを感じなかった。
 それは彼女も同じだったようで、皿が変えられるごとに『おなかいっぱいになりそうですね』なんて言ってはいたが、少量ずつということもあってか、きっちりデザートのスイカと桃のシャーベットまできれいに平らげていた。
 ――……で、だ。
 いそいそと部屋へ戻ってきた俺とは違い、食休みとばかりにしっかりと座椅子へ腰を下ろした彼女は、少し困ったような顔を見せた。
 にこにこと笑ったままの俺。
 今にも『もぅ』とか言い出しそうな顔してる彼女。
 ……さ、どっちが先に折れるか。
 それはまぁ、考えるまでもなく――……。
「でも、今日って……確か花火大会があるんじゃなかったですか?」
「あ」
 すっかり忘れてたことを告げられ、口がぽかんと開いた。
 ……そこまで笑うことないだろ。
 少しだけ『困った人』とか言い出しそうな苦笑でくすくす笑われ、思わず咳払いをひとつ。
「……まぁ、でも別に行かなくてもいいんじゃない?」
「えぇっ!? で、でもっ! せっかくじゃないですか!」
 そっぽを向いたまま呟いた途端、彼女が珍しく声をあげた。
「…………」
 ちらりと見ると、少しだけバツが悪そうな顔。
 だが、俺を見つめる眼差しは、『どうしても見たいの』と言っているようにも見えたりして。
「……見たい?」
「見たい、です」
「…………ふーん」
「……うぅ。祐恭さぁん……」
 ものすごく嬉しそうに笑った彼女へ素の反応で返すと、恐らく『それじゃあ行こうか』とでも俺が言うと思っていたのか、あっさり視線をよそに向けて、なんともかわいらしい悲痛な声で名前を呼んだ。
 ……弱いんだよな、このテのおねだりってヤツ。
 これは作られてるのかどうかってのは、男女問わずわかるだろう。
 だが、彼女の場合は別で。
 『なんでですかぁ』と、少しだけ落胆して出た声だからこそ、強いモノは強い。
「…………まぁ……」
「え?」
「見に行きたいなら、行ってあげてもいいけど」
「ホントですか!?」
 そっぽを向いたまま小さく呟くと、まるで弾かれたかのようにテーブルへ両手を付いてから膝をついた。
 なんだか、反応が『散歩に連れてってあげると言われた犬』みたいで、ちょっと笑える。
 でもま、こんなかわいくて従順なペットならば、それこそ喜んでなんでもしてあげるのは目に見えているが。
「それじゃ、行こうか」
「わぁい」
 どうせ、根負けするのは俺のほうだし。
 苦笑を浮かべてから立ち上がると、先に立ち上がった彼女がを引っ張るように手を取った。
「祐恭さん、早くっ!」
「はいはい」
 ……やっぱり俺、彼女に甘いのかもしれないな。
 だが、ものすごく嬉しそうに笑っている彼女を見るのは、当然好きだし嬉しいワケで。
 …………。
 ……なんか、コツさえ掴んでしまったら、彼女が俺をうまく操る日も近いんじゃ……。
 ドアノブに手をかけた彼女の背中を見ながら、ふとそんなことが浮かんでまた苦笑が浮かんだ。

 すっかり日の落ちた、夜の始まりの時間。
 先ほど土産を買いに出たときよりもずっと暗くなっていて、外灯の白さが際立って見える。
「……わぁ……これじゃあ迷子になりそう」
 旅館を出てすぐ。
 彼女は、きゅっと俺のシャツを掴んだ。
「あ……」
「そっちじゃなくて、こっち。……だよね?」
「……はい」
 手首を取って、手のひらを重ねるように合わせる。
 さっきまで普通にやっていたのに、どうして遠慮するんだか。
 とはいえ、それはそれは嬉しそうに微笑まれたので、何も文句は言えない。
 旅館を出てまず目に入ったのは、それこそ『人垣』と呼んでも過言じゃない群衆で。
 ……なんといっても、先ほど買い物に出たときは普通に見えていたあじさい橋が、今じゃ影も形もないくらいなんだから、驚きだ。
 別に、比喩じゃないぞ?
 それほど多くの人間が立っているから、通り抜けもこれじゃあかなりの困難を要す。
 一応、誘導灯を持った警備員が数人出ているようではあったが、これだけの人間を誘導するのはひと苦労だろう。
「……すごいな」
 彼女の手を掴んだまま人をかきわけ、なんとか空いている場所がないかと進んでみる。
 途中で、彼女が潰されないようにもちろん気遣いながら。
「……っは……」
 ようやくたどり着いた先は、ほかよりは多少スペースがあるか……ないか、程度の場所。
 それでも、人特有の息苦しさが消え、ようやく息をつくこともできる。
 後ろには、鬱葱(うっそう)とした林。
 ……こわ。
 夏の生ぬるい夜風が頬に当たって、一瞬ぞくっと嫌な感じがした。
「……きれい……」
「え?」
 そんな感情とは、それこそ真逆の声。
 まるで、うっとりと何かを見つめているような雰囲気で彼女を見ると、俺よりもずっとずっと高い位置を見つめていた。
「…………へぇ」
 星空。
 そこには、彼女ならば間違いなく感嘆を漏らすであろう、美しい星空が広がっていた。
 冬瀬では、まず見られない景色。
 いくら外灯があるとはいえ、やはり、黒々とした山をバックにしている星たちは、輝きが違って見えるらしい。
 まぁ実際、見え方が随分と下界とは違うと思うんだが。
 ……しかし、広い空に見る星はきれいだと素直に思うから不思議だ。
 思わず目を細めながら空を仰ぐと、幾つもの星が瞬いていた。
「……よかった」
「え?」
「約束、守れたからね」
 空を見上げたままで呟くと、今度は彼女が俺を見た。
 そちらへ視線を落とし、にっと笑う。
 だが、彼女は思い当たることがないらしく、きょとんとした顔を見せた。
「言ったろ? 『星を見に行こう』って」
「……あ……」
 我ながら、クサい約束をしたなとは思う。
 それは、わかってるんだ。
 だが、口から出てしまったんだから……仕方がない。
 それに、彼女があまりにも寂しそうに言ったから。

『最近、星……見てないんです』

 あんな顔を見たからには、彼氏としてはできることをしてやりたくなるじゃないか。
 到底できそうにないことなんかじゃない、当時すぐにだって実行できるようなことなんだから。
「……ありがとうございます」
「ん?」
「祐恭さんのお陰で……星だけじゃなくて、すごく沢山のもの見れちゃいました」
 屈託のない、まさに『笑み』だった。
 きっと、見た者すべてを捕えるほどの力があるに違いない。
 ……俺には、そう思えた。
「え……あっ! ……だ、ダメですよ……っ!」
「大丈夫だって。……みんな、見てないから」
「そ、そういう問題じゃっ……!」
 ぼそぼそと小声で反論する彼女の肩へ手を回し、くるっとこちらに身体ごと向けるようにして顎に手を添える。
 ……あんなかわいことを、まさに純真と呼ぶにふさわしいような笑顔で言われたら……それこそ、手を出さずにいられるワケがない。
「んっ……!」
 半ば無理矢理。
 ねじふせる如く説き落とし、有無も言わさず唇を塞ぐ。
 身体を硬くして当然だ。
 ……だが。
「ん……は……」
 短くついばむように唇を重ねてから深いキスを落とすと、ほどなくしてすぐに、ふにゃんと身体の力を抜いた。
 ……堕ちたな。
 思わず口角が上がりそうになるが、お陰さまで口づけという行為の最中だからこそ防げたが。
「……もぉ……」
 ちゅ、と濡れた音で唇を離すと、頬を赤く染めてかつ俺を軽く非難するように彼女が眉を寄せた。
 そういう顔も、俺は好きだよ?
 そんな意味をこめてにっこり笑ってやると、俯いてからそっぽを向く。
 ……かわいい子。
 とは思いながらも、ついつい苦笑が浮かぶ。
「ん? そろそろ始まったみたいだな」
 少し遠くで起きた音が、光よりずっとあとに響いた。
 ここからは、道なりに行くと割合距離もある場所。
 だが、山々に邪魔されることなく、暗闇の空にぱっと光の華が咲いた。
 恐らく、橋を渡って向こう側に行けば、もう少しよく見えるだろう。
 いや……それとも、アレか。
 橋上で見たほうがいいかもな。
 顎に手を当ててようやく始まった花火を見上げたまま、逡巡。
「どうせだから、もう少し向こうまで行こうか」
 人出があるとはいえ、別にそこまでものすごい人数ってワケじゃない。
 この界隈にいる人間なんて、まぁ、限られてるからな。
「……ね?」
 そう思い、すぐ隣にいる彼女へ手を伸ばす。
 ……手を。
 手…………。

「あれ?」

 すかっ、とまではいかなかったが、差し出した手は何も掴めなかった。
 代わりといってはなんだが、もう少しで見知らぬ男性の浴衣の端を掴むところだったりして。
「……ちょ……あれ? え? 羽織ちゃん?」
 小声で名前を呼びながら、自分の周りを見回してみる。
 だが、先ほどまで確かにここ――……そう。
 それこそ、もう、ホントにこの場所にいたんだぞ?
 なのに、なぜか彼女の声も香りも姿も影も見つけることができなかった。
 ……しかも、別に何十分も目を離したワケじゃない。
 たった数秒。
 キスを交わして、温もりの余韻を味わうようにしていた、たった数秒だ。
 …………おいおいおい。
 マジか。
 勘弁してくれよ。
 まさか、あの年で迷子の末大きな事故に……なんてことはないとは思うが、物騒な世の中。
 必ずしも『絶対』ではないワケで。
「……参ったな」
 久しぶりに、パニくるというよりももっと穏やかではあるが、挙動不審な人物に化してしまいそうになった。
 ……って、どっちも一緒か。
 とにかく。
 いや、とにもかくにも、このときの俺は彼女がひょっこり出てきてくれることだけをただひたすらに願っていた。
 いくら七夕が終わったとはいえ、これだけ幾数多(あまた)の星々が瞬いているんだ。
 ひとつくらい、願いを叶えてくれる星があってもいいだろう?
 などと儚い希望を抱いて星空を見上げたこの瞬間も――……もしかしたら、すぐ近くで彼女が同じようにしているんじゃないかということばかり考えていた。


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