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 渋滞はなかった。
 確かになかった。
 ……だが。
「なんなんだよ……」
 思わず、バックミラーを見ながら舌打ち。
「祐恭さん……」
「大丈夫。競うつもりはないし」
 少しだけ不安げにこちらを見た彼女で、表情が元に戻る。
 ……相変わらず、俺にとってのブレーキだな。
 独りでいたら、恐らくこんなんじゃ済まなかったはずだ。

 ――……ことの発端は、つい先ほど。
 塔ノ沢をすぎたあたりで、本線ではない、どこからかの抜け道らしきところからひょっこり出てきた、青いビートル。
 すぐ後ろについたかと思いきや――……ひたすら煽ってくるワケで。
「…………」
 いい加減、腹が立つ。
 下り坂で、ンなスピード上げれるかっつーの。
 しかも、このあたりはカーブが多いせいで、少し走ればすぐ曲がる……と、そんな繰り返しだ。
 なのに、さらに行けと言うのか?
 どういうドライバーだか知らないが、だったら先を走ればいい。
「……そういえば……」
「え?」
「ほら。昼メシ前に、1台ビートルが抜かしていったでしょ」
 覚えてる? と続けてやると、しばらく考え込んでから、小さく『あ』と声をあげた。
「アレ、多分後ろのビートルだ」
「……そうなんですか?」
「うん。間違いない」
 短時間に、そう何台も同じ車種で同じ色になんて、そう会わないだろう。
 まぁ……言いきれるわけじゃないが。
 それでも、こんな運転をするドライバーならば、話は別。
 そう何人もいられては、たまったもんじゃない。
「……あっ」
「どーぞお先に、ってね」
 ようやくカーブが続かなくなったところで、ハザードを出すと同時に左へ寄る。
 すると、ものすごいスピードで反対車線にはみ出しながら追い抜いていった。
 ……しかも、またタイヤを鳴らせるオマケつき。
 そんなに走りたかったら、もっと人がいない場所でかつ、こういう温泉街を避ければいいのに。
 もう、今夜の宿である湯元の温泉街は目の前なので、どうしたってため息が漏れた。
「危ないですね……」
「まったくだ」
 湯元駅前ともなれば、道幅だってそんなに広くないし、しかも観光客が溢れている。
 あんなスピードで突っ込んだら、それこそ怪我人だけじゃすまないはずだ。
「…………うわ」
「っわ!」
 しばらくしてまた、キキーっというものすごいブレーキ音が響いた。
 ……怖すぎる。
 俺は、心底安全運転を心がけたいね。
「……ねぇ、祐恭さん……」
 ようやく静かになった後ろをミラーで確認してから走り出すと、彼女がぽつりと口を開いた。
「もしかして、あの車……」
「……ん?」
「ひょっとしたら、あの車……坂道に慣れてないだけなんじゃないですか?」
 意外な言葉に、思わず目が丸くなりかける……が。
 …………。
 そういえば……確かにまぁ、思い返してみるとあの車の運転は荒っぽかった……が、それだけじゃない。
 どちらかというと、荒いというよりも、ヘタクソというか……。
 それに、さっきの走り。
 …………確かに……もしかしたら、単に『煽ってた』んじゃなくて、『スピードが調整できない』ドライバーだったのかもしれない。
 だから、いつだってオーバースピードで、煽るように駆け抜けていった。
 ブレーキが急すぎるのも――……山道をというか、下り坂を走りなれてないから……か?
「……どっちにしろ、危ないことに変わりないな」
「ですね……」
 未だに、遠く遠くのほうからブレーキ音がこだましているような気がして、割と深めのため息が漏れた。

「……なんか……緊張しちゃうんですけれど」
「普通にしてればいいじゃない」
「……ぅ。そうなんですけれど、なんだか……その……」
 まるで、若干気後れしているかのように、大きな建物を見上げている彼女。
 両手でしっかりと小さめのバッグを持っているが、なんだかこれからここに泊まろうとしている人間には、あまり見えないな。
 結局、道は混んでいなかったとはいえ、割と時間がかかった道中。
 空を見上げると、先ほどまで確かにあった太陽はもうほとんど山すそへと姿を消してしまっていた。
「ほら。行くよ?」
「っ、ま、待ってくださいっ!」
 今夜の宿は、箱根湯本の駅から見える大きな老舗旅館。
 部屋は、和室だけでなく洋室まで揃っており、レストランの数も多い。
 恐らく、規模だけでいえば箱根でもトップクラスだ。
 本来ならば、それこそ『貸切』気分が味わえる、離れなどの小さなひっそりした部屋に泊まりたかったのだが、さすがに前日で予約が取れるはずもなく。
 結局、部屋数が多いこの宿にしたのだ。
 ……だがま、いいとしておこう。
 せっかく、露天風呂つきの部屋が取れたんだし。
「いらっしゃいませ」
 自動ドアをくぐって高級感の漂う広いロビーに入ると、途端に声をかけられた。
「どうぞ、こちらへ」
「どうも」
 促されるままフロントに向かい、男性に声をかける。
 こちらも、しっかりとスーツを着込んでかつ、愛想もよかった。
「予約した、瀬尋ですが」
「瀬尋様ですね。少々お待ちください」
 最近は、旅館といってもホテルに近いな。
 規模が大きくなればなるほど、そんなことを思う。
 まるでホテルのフロントのように、スーツを着こんでしっかりとした対応。
 てっきり、宿の名前が入った羽織なんかを着て迎えられるもんだとばかり思っていたので、正直驚いた。
 ちなみに、今回申し込んだプランは――……実はあまり大きな声では言えない。

『織姫・彦星プラン』

 そんな、口にするのがものすごく抵抗のある名前を冠ったプランを、まさか自分から申し込むなど思いもしなかった。
 ……まぁ、今はネットという便利なもののお陰で、恥ずかしい思いをすることなく申し込みはできたんだけど。
 昔じゃ、電話口でわざわざ言わなきゃいけなかったんだぞ?
 そんなんじゃ、きっと俺はまず申し込んだりしない。
 FAXならばまだ考えてもいいが。
 ……しかし、七夕もとうにすぎたこの時期までこのプランをやっているとは、正直思わなかった。
 確かに、旧暦で言えばまだ日はある。
 ……ま、特するんだから、わざわざ別のプランにするまでもないんだけど。
 気になる点は、『織姫・彦星プラン』という、そのネーミングだけだし。
 などと考えていると、パソコンで確認を取っていた男性が宿帳と万年筆を差し出した。

「『織姫・彦星プラン』の、瀬尋様ですね?」

「う。…………はい」
「本日から1泊のご予定でお受け賜っております。それでは、こちらにご記入願えますか?」
「わかりました」
 ……まさか、こんなところでカウンターを食らうとは。
 我ながらまったく心の準備をしていなかったので、衝撃がものすごい。
 ペンを握りながらちらりと彼女を見てみると、聞こえたのかいないのか、判断が微妙な笑みを浮かべていた。
「…………はあ」
 ひと呼吸整えてから、ペンを走らせる。
 しかし、久しぶりに万年筆を持ったな。
 就職祝いで貰ったが、結局使わずじまいだし。
「ありがとうございます」
 さらさらと書きなれた住所と名前を書き込んで返すと、キーとパンフレットを渡された。
 ……って、ここもカードキーか。
 和室を予約したせいか、カードキーを貰うとどうもしっくりこない。
「ご用意させていただきましたお部屋は、8階になっております。ごゆっくりどうぞ」
「どうも」
 笑みを見せてキーを受け取ってから、そのまま8階へ。
 ……さすがに、社員同士で笑いものにされるとは思わないが、やっぱり、なんだか気恥ずかしさは残る。
 こんなことなら、普通のプランにしておけばよかった。
 ……まぁ、そんなことを言ってももう遅いんだが。
「かわいい名前ですね」
「……ほっといてくれ」
「もぅ。馬鹿になんかしてませんよ? むしろ、かわいくて……嬉しいです」
「…………それはそれは」
 やっぱり、しっかりと聞かれていたらしい。
 彼女のバッグを持った途端に笑われ、ため息が漏れた。
 ……まぁいいけど。
 どうせ、なんで俺がこのプランにしたのかって理由がすぐにわかるだろうから。
「夕飯はまだいいよね?」
「うん。さすがにまだお腹空かないです」
 エレベーターへ乗り込んで階数ボタンを押してくれた彼女に訊ねると、苦笑を浮かべて首を振った。
 ……ま、それもそうだろう。
 昼メシだって決して早かったわけじゃないし、何より、そんなに動いてないしな。
「わ……」
 小さく音が鳴ってドアが開いた途端、彼女が小さく息を呑んだ。
 間接照明が浮かだす廊下の雰囲気は、とてもよかった。
 落ち着いていて、喧騒などどこからも聞こえてこない。
 重厚さをかもしだしている赤絨毯か、はたまたところどころに置かれている花器のせいかはわからないが、しっかりと和を思わせる雰囲気だった。
 造花ではない、生の花。
 小さなひまわりも混じって生けられていて、それを見た彼女が表情をほころばせる。
「……いいね」
「ステキですね」
 部屋の番号を確かめながら廊下を進むと、いかにも和室という雰囲気の入り口があった。
 ……へぇ。
 廊下から直接ではなく、1歩入り込んだ形のドア。
 まるで奥座敷めいた雰囲気に、思わず口角が上がる。
 値段の割りに、高級感溢れまくっていて……これはこれは、まるでイケナイ大人が泊まる部屋みたいだな。
 渡し石の周りに細かい黒石が敷き詰められており、ここに小さなししおどしでもあったら完璧な和スタイル完成、ってところか。
「なんか……高級割烹みたいですね」
「……イケナイ政治家みたいなこと言うね」
 彼女のセリフに思わず笑いつつも、自分とまったく同じことを考えた彼女に、うなずきはする。
「……うわ」
 が、鍵を開けた途端高級感はさらに一段上乗せされた。
 広い。
 それが、第一印象。
 そして、木のいい香りの広がる入り口からふすまを開けて中に入ると、そこには新しい畳の香りがいっぱいだった。
「……す……ごい」
 部屋に入った途端、ぐるりと見回してから立ち尽くした彼女。
 その隣で、同じように喉を鳴らしたのが――……俺。
 ……いや、ホント。
 まさか、こんなイイ部屋を貰えるとは、思ってなかった。
 確かに『誰にも邪魔されない、おふたりだけの空間』だとはプランに書いてあってが、まさかこれほどとは。
 床の間には、どっしりとした花器に飾られた花と松。
 テーブルは光をよく反射するきれいな黒檀で、部屋自体の作りもかなり落ち着いていて上品。
 ……そう、上品。
 この言葉がよく似合う部屋だった。
「すごい……!」
「だね」
 ある種の呪縛めいたものから解き放たれたように、嬉しそうな彼女はさらに部屋の奥へと進んで行った。
 そして、ぴっちりと閉められていたふすまを、おもむろに開ける。
「……ふわ……」
 そこに待っていたのは、小さいテーブルと上品な木の椅子が置かれた、縁側。
 ……だが、大事なのはその先。
 外灯に照らされて浮かぶ中庭の景色と、そして――……(とばり)の降り始めた空に見えている、幾つもの星たち。
 このコントラストは、どこか厳かな雰囲気を漂わせていた。


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