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「メシ、どうする?」
 車に戻ってから時計を見ると、すでに12時近かった。
「祐恭さん、どこかいい所知ってます?」
「いや……そこまで箱根フリークじゃないから、『ここ』って店はないんだけど」
 生憎、『箱根マップ』とか『箱根なんとか』という類の雑誌には、目を通したこともない。
 旅行に出かけるといっても、大抵は行き当たりばったり。
 そのせいで痛い目に遭ったこともあったが、あれはあれで結構楽しいワケで。
「知ってる場所はあるんだけど……でも、ここからだと結構かかるんだよね」
「いいですよ? 別に。行ってみたいです」
「そう?」
「はいっ」
 ぽつりと呟いた言葉に、彼女は予想外なまでの反応をくれた。
 ……イイ子だ、ホントに。
 そう言ってくれるんじゃないかという期待はあったものの、実際に満面の笑みでうなずいてもらえると、心底嬉しくなる。
 ほんの少し照れたように期待を込めて見つめられると、何がなんでも連れて行きたくなるしな。
「じゃあ、行こうか」
「わぁい」
 ぽん、とハンドルを叩き、信号を左へ曲がる。
 行き先は、熱海方面。
 うまい食事と、テーブル席から眼下と目の前に広がる景色を見せてあげるために。
「……なんか、道が広いですね」
「だね。走りやすい」
 カーブが多く点在する箱根山。
 だが、割と整備されている道が多く、がたがたと車を揺らすこともない。
 ……こういう道は、結構飛ばしたくなるんだよな。
 今のところ、あちこちの道で見られるようになった『スピードバンプ』と呼ばれるでこぼこも、この道には見られないし。
 まぁ、だからこそ孝之みたいなヤツらが好んでここまで来るんだろうけど。
 かくいう俺自身もそうだが――……でも、マシなほうだ。
 なんせ、この峠に差しかかってからまだ数分と経ってないにもかかわらず、よっぽど待ちきれないのか、幾台ものそれなりに手を加えた車が、ウィンカーを出して抜いていったし。
「……飛ばしちゃダメですよ?」
「もちろん。愛しい彼女を乗せて、突っ込むほど馬鹿じゃないよ」
 少しだけ心配そうな彼女に笑ってから、ハンドルを切るとともにギアを落とす。
 ここからは、しばらくの間くねくねとした長い下り坂が続く。
 こういうとき、やっぱりオートマよりもマニュアルのほうが安心感があるんだよな。
 自分でギアを変えられるというのもあるが、オートマよりずっとエンジンブレーキがかかる。
「っ……!」
「わ!?」
 ――……なんてことを考えていたら、いきなり、バックミラーに現れた1台の車があっさりと追い抜いて行った。
「っぶねー……」
 目の前に現れたのは、ビートル。
 キュルキュルとタイヤを鳴らせながら、えらいスピードのままカーブを曲がって視界から消えた。
 …………。
 ……び……。
「ビートル?」
 消えてしまった以上、確かめる術はない。
 だが、今のは確かにビートルだった。
 ……ビートル。
 あれ? 別に、ヘンな改造とかされてなかったよな?
 一瞬どころか、我が目を疑ったまま眉が寄る。
「……危ないなぁ……」
 横目で彼女を見ると、眉を寄せて心配そう……というよりは、ちょっとだけ不安そうだった。
 気持ちはわからないでもない。
 自分とて、それなりのスピードを出しているワケで。
 下り坂で、あのスピードで……デカいカーブ曲がりきれるのか。
 そう――……思った途端。
「ッ……!」
「わっ……!?」
 けたたましいスキール音が響いた。
 …………そして、訪れる静寂。
「……うわ……」
「ぶつかりました……?」
「いや、そんな音はしなかったけど」
 身体を半分こちらに向けた彼女に、しっかりと首を振る。
 ……やめてくれよな。
 このカーブを曲がりきった先に、両車線塞いでるとかってのは。
 一応スピードを落として臨むものの、場合によっては避けられない。
「…………」
 だが、エンジンブレーキをさらに利かせて道を下りていくものの、これといったタイヤ痕も車も、そこにはなかった。
 といっても、箱根の山道じゃどれが今のタイヤ痕かなんてわからないほど、えらい数のモノがついてるけどな。
 ……まぁいい。
 所詮、俺には関係ないんだ。
 今後、あの恐ろしいビートルに会うこともないだろうし、とっとと記憶から消してしまおう。

「着いたよ」
「えっ? あ。あそこですか?」
「そ」
 ゆっくりとしたカーブを曲がる途中で、右手に見えた平べったい建物。
 箱根に来るときは、大抵ここでメシを食ってた覚えがあるレストランだ。
 山にあるとはいえ、結構雰囲気もいいし、味もいい。
 それに、何よりもここから見える景色がよかった。
「……わぁ」
 車から降りた彼女が、早速声をあげた。
 それも、そのはず。
 天気のいい今日ならば見えると思っていた、富士山が広がっていたからだ。
 ちょうど真正面に当たるそのパノラマは、まさに絶景。
 まだ初冠雪にはほど遠いが、夏は夏で、山の青い美しさが際立つ。
「すごいですね」
「だろ?」
 嬉しそうに俺を振り返る彼女に笑みを見せると、うんうんと何度もうなずいた。
 まず、冬瀬からは見えないからな。
 彼女にしてみたら、久しぶりだと言ってもいいだろう。
「さ、メシにしようか」
「はぁい」
 ぽんぽんと肩を叩いて彼女をレストランに促すと、少し名残惜しそうにしながらも素直に従ってくれた。
 ……まぁ、お楽しみはこれからもあるからな。
 未だ何も知らない彼女には何も言わず、自分だけでそんなことを考えながら、レストランへ向かう。
 ウェイターに案内されるまま階段を下り、窓際の眺めのいい席へ。
 すると、壁側が一面の大きなガラスになっているということもあるのだが、彼女が早速食いついた。
「きれい……!」
「それはよかった」
 ここからは、また違った富士の山が見えた。
 もちろん、見えているもの自体は先ほどと変わらない。
 だが、山から降りてきた雲が斜面を滑っていく様子もここからだとはっきり見え、先ほどまでとは周りを囲む風景が違うので、1度で2度おいしい感じだ。
「……なんか、贅沢ですね」
「だね」
 そう言ってくれるんじゃないかとは思っていたが、想像通りにここまで喜んでもらると、足を伸ばした甲斐があるというもの。
 彼女には、俺のほうが本当に楽しませてもらってるな。
 メニューを広げたままで、つい見入ってしまう景色。
 自分のいる場所よりも下に雲があるというのは、少し不思議だ。
「何食べる?」
「え? あ、うーん……」
 しばらく見入ってからメニューへと視線を戻し、ぱらぱらめくりながら呟く。
「……シチューにしようかなぁ」
 珍しく彼女が早々にメニューを口にした。
「珍しいね。こんな、短時間で決めるなんて」
「もぅ。いつもいつも迷ってるわけじゃないんですよ?」
「そうなの? でも、パスタもうまそうだけど」
「……え?」
「へぇ。この時期にグラタンもあるのか。クーラー効いてる中で食ったら、また格別だろうな」
「えっ……え……っ」
 わざとメニューを広げながら見せてやると、案の定覗き込んで来た。
 ……わかりやすい子だ。
 いや、そう言ったら失礼かもしれないけど。
 でも、こうも楽しいくらい食いついてくれると、いろいろとやり甲斐があるというもの。
「シチューにするんだろ?」
「……そうですよ?」
「じゃあ、これ以上メニュー見なくてもいいじゃない」
「…………いじわる」
「失敬だな」
 眉を寄せ、若干唇を尖らせながらの彼女の反応に、つい笑みが漏れる。
 予想通りの反応は、やっぱり楽しい。
 結局、彼女はあれからしばらく迷ったものの、最初に決めたビーフシチューに。
 そして、自分は山海のパスタというものにした。
 なんでも、ここ近海の海の幸をふんだんに使ったパスタだとか。
 見下ろせば広がる、熱海から駿河湾にかけての街並み。
 遠くにキラキラと光を受けて輝いているのは、間違いなく海。
 だが、普段見慣れている海とはあまりにも違う気がして、つい見入りそうになった。
 『箱根』と聞くと神奈川県のように思えるが、俺達が今いるこの十国峠は、正確には静岡県に区分されている。
 実際、降りる道を選んでいけば、御殿場にも降りれるワケで。
 ……まぁもちろん県境である熱海とか湯河原方面へ降りることもできるけど。
 改めて眺めると、やはり森林が多いことに気付く。
 冬瀬は、埋立地というのもあってか、山という場所がない。
 隣の市に行けばもちろんあるのだが、わざわざ平日に足を伸ばしてまで行くというほどの労力は俺にはないわけで。
 ……久しぶりに、いかにもってくらいの自然に入ったな。
 そう思うと、なんだか気分が普段と違った。
「……あ」
「こちら、当店オリジナルのブレンドティーになります」
「ありがとうございます」
 ほどなくして、ガラスポットで運ばれてきた紅茶。
 ご丁寧にカップをふたつ付けてくれたそれを、彼女が笑みを浮かべながら受け取る。
「はい。どうぞ」
「ありがとう」
 茶葉をゆらめかせながら、彼女が早速注いでくれた。
 ホットティーなんて、家以外では久しぶりだ。
「……あ。うまいな」
「ですね。すごく、なんだろ……なんだか、フルーツみたいな味」
 呟いた言葉に、彼女も同意してくれた。
 俺は、普段フレーバードティーは飲むことがない。
 だが、あんまり匂いもキツくないし、ストレートにほど近いこの紅茶は、素直にうまいと思った。
「…………」
 俺は普段、紅茶は無糖派で。
 知人らが渋いとかよく口にするが、ミルクも砂糖もなしで十分な俺としては、その言葉はわからない。
 ……そして。
「…………おいしい」
 目の前で、俺とまったく同じように、砂糖もミルクも入れずに飲む彼女。
 その姿を見ていたら、少し笑えた。
 なぜならば、付き合い始めたころの彼女は、必ず紅茶に砂糖を入れていたから。
 ……それが、今では自分と同じく無糖派に。
 一緒にいる時間が長くなればなるほど人間似てくるというが、アレは本当だな。
「なんですか?」
「ん?」
 頬杖をついて彼女を見ていると、不思議そうに顔を覗き込んできた。
 ……そりゃそうだ。
 じーっと見られてたら、誰だって気になる。
「いや、似てきたなーと思って」
「何にですか?」
「俺」
「……祐恭さんに?」
 にっこりと。
 あくまでも俺は、にっこりと笑みを浮かべて彼女に言ったんだ。
 ……だが。
「………なんだよ」
 何度かまばたきを見せた彼女は、しばらくしてから眉を寄せて怪訝そうな顔をした。
 正直、あんまりいい気はしないぞ。
 てっきり、『そうですか?』と笑ってくれると思ったのに。
「……私、そんなに意地悪くないですよ?」
「そんなにってなんだ、そんなにって。……つーか、俺のことをそういうふうに見てるワケ?」
「う。……だ、だってぇ……」
「そういうこと言うと、ここに置いてくよ?」
「えぇ!? や、困りますっ!」
 頬杖をついたまま瞳を細め、ぷいっと顔を逸らしてやる。
 ……まぁ、もちろんそんなつもりはハナからないが。
「俺も困るけど」
「……もぅ」
 ぶんぶんと首を振って否定する彼女に苦笑してから、視線を合わせて小さく続ける。
 それを見て、安心したかのようにくすっとおかしそうに笑う彼女を見ていると、やはり自分が随分安らいでいるんだと実感した。
 ほわんとした雰囲気ながらも、ときおり鋭いことを言ってのける彼女。
 だが、それでも自分の前にいるときの彼女は、飾ることなく、素の自分を出してくれている。
 それでこれだけ自分が落ち着いていられるってのは、やっぱり相性があってるんだろうな。
 などと口に出せないようなことを考えていると、ようやく料理が運ばれてきた。
「……おいしそう」
 確かに、うまそうだ――……が、ただひとつ気に入らない点をあげるならば、サラダにカットされたトマトが乗っていることだろうか。
「いただきます」
「これもいただいて」
「……えー?」
「なんだよ。不服なワケ?」
「……だってぇ……トマトって身体にすごくいいんですよ?」
「ほかで栄養取るから、結構です」
 同じようにサラダを食べるべくフォークを取った彼女に言ってから、トマトを追加。
 いーんだよ、俺は。
 オトナなんだから。
 知らんフリをして早速ツナを崩すと、しょうがないなぁと言いながらも、彼女はちゃんと食べてくれた。
 そうやって素直に聞いてくれるところは、やっぱりいいかも。
 いや、別に自分に逆らわないから居心地いい、とかいう馬鹿な考えはこれっぽっちもないが。
「そういえば。ビーフシチューも有名なパン屋、知ってる?」
「……え? 知らないです」
「富士屋ホテルの近くにさ、あるんだよ」
「へぇ」
 嬉しそうにシチューを食べていた彼女を見て、思い出した。
 そんなに好きなら、今度来たときにでも行くか。
「こういう丸いフランスパンに、ビーフシチューが入ってるやつ。けっこー、ウマかったな」
 両手で丸く形を見せてやると、興味ありげに笑顔でうなずきながら聞いてくれた。
 まさか、ビーフシチューを食べるとは思わなかったので、このレストランにしたのだが……ちょっと選択を誤ったな。
「じゃあ、今度は連れてってくださいね」
「了解」
 とはいえ、気にしていない様子でうまそうに食べている彼女。
 ……まぁいいか。
 彼女の言う通り次の楽しみってことで。
 また箱根に彼女を連れてくる口実ができただけでも、よしとしよう。

「このあと、行きたいところある?」
「え? んー……これといっては……特に」
「そう? じゃあ、先に宿行こうか」
「あ、はいっ」
 お互いにゆっくりと食べ終えてから、しばらく話していたとき。
 壁にかかっていた時計を見ると、割合いい時間になっていた。
 恐らく湯本の駅へ着くまでも混んでいるだろうから、できることなら早めにここを出たいのが本音。
 2時間……もあれば、十分か。
 夏休みの平日ということもあって、恐らく馬鹿みたいに混んではいないと思う。
 ……そうであってほしい、という願望を兼ねていたのは言うまでもないが。
「それじゃ、先行ってて」
「あっ。え……いいんですか?」
「うん。乗ってていいよ」
 彼女にキーを渡して先に車に向かわせてから、清算を済ませる。
 未だにあれこれ気にするからこそ、こういう手を使うのがベストだ。
「ごちそうさまでした」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 レシートを受け取ってから、丸めて財布に入れる。
 さすがに、今回は何も言われないだろ。
 普段もそうだが……最近は、特にそうだと言える。
 彼女と買い物に行くとき、レシートを捨てると渋い顔をされるためか、つい取っておくクセがついたんだよな。
 俺は当然家計簿なんてつけたりしないから、結局は、財布の中に溜まるだけ溜まって……ゴミ箱にまとめて捨てちゃうんだけど。
 そんなこと言ったら怒られるだろうから、当然言ったりしないが。
「……あれ?」
 車に向かうと、運転席側のドアにもたれている彼女がいた。
 てっきり、鍵を開けて乗っているものだとばかり思ったので、少し面食らう。
「乗ってればよかったのに」
「あ。だって……せっかくの、いい天気なんですもん」
 そういって見上げた彼女は、少しだけ眩しそうに瞳を細めてから、顔をほころばせた。
 確かに、気持ちはわかる。
 空気が違うというか……。
 気持ちいいのは、確かだ。
「じゃあ、エンジンかけてみる?」
「え!? いいんですか?」
「うん。差し込んで回せば、かかるから」
 ドアを開け、キーを彼女に返してから促す。
 すると、おずおず俺と車とを見比べながら、ゆっくりキーを差し込んだ。
「……わ」
 カチ、と小さな音がし、それと同時にETCの音声が流れる。
「あはは。大丈夫だよ、そのまま回せば」
「……でも……」
「平気だって。ホントに」
 少しだけ不安な顔を見せた彼女に、しっかりと首を振って頭を撫でてやる。
 すると、どうしようか迷ってるようだったが、ようやくキーを回した。
「っ……すごい……!」
「そう?」
「うんっ! だって、なんか……えへへ。嬉しい」
「それは何より」
 結構な音を立ててかかったエンジンで、彼女がにんまりとした笑みを浮かべた。
 ……こんなに嬉しそうにしてくれるとはね。
 毎回やらせたくなるじゃないか。
 別に、減るモンでもないし。
 本当は、この車を買うときキーではなくてF1などで見かけるエンジンスタートスイッチにしようか迷った。
 最近の車にはよく見かけるようになったんだが……それでも、やっぱりこのエンジンがかかる瞬間がいいんだよ。
 だから結局キーにしたんだが……やはり、正解だったな。
 彼女に喜ばれること以上に、俺の喜びはない。
「なんか……車が好きになる気持ち、わかるかも……」
「今でも好きなんでしょ?」
「もちろんっ!」
 ドアに腕をかけたまま彼女を見ると、それはそれは嬉しそうにうなずいてから、助手席へ回った。
 それを見てから、俺も運転席へと座り込む。
「……それじゃ、またサポートしてもらおうかな」
「え?」
「手はココね」
「……あ……。はいっ」
 こんこん、とシフトノブを叩くと、一瞬瞳を丸くしてからにっこり笑った。
 ……素直な子だな、ホントに。
 屈託なく笑われると、いかんせん、いけないことを――……いや、大丈夫か。今は。
「それじゃ、行くか」
「お願いします」
 手を重ねてからバックギアにシフトし、お決まりである『助手席のシートに手をかけながら車をバック』させる。
 ……いいだろ、別に。
 せっかく隣に彼女が乗ってるんだから、こういうときくらいコレをやっても。
 今度は、先ほどとは逆に、来た道を登っていく。
 さすがに上り坂での渋滞はキツいな……なんて思っていたんだが、時期のお陰もあったのか、今回は珍しく渋滞にハマることもなかった。


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