メガネの日
2020.10.01
じうがつ。
今年ももう、あと少し……。
今年度は、まだ半分折り返し地点ですねー。
一時は、9月入学話も出たけど、立ち消えたなぁ。
個人的には、ほっとしてます。
てことで、羽織と祐恭〜。
「……あれ?」
久しぶりに気持ちいいくらい、からりと晴れた。
リビングの奥の大きな窓からは、青い空に高い位置の雲が広がっている。
空気が乾燥しているから曇りでも洗濯物は十分乾くだろうけれど、もともとこのマンションは外干しできない構造のため、万年洗濯乾燥機でまかなわれている。
実家のときなら、きっと掛け布団を干したんだろうなぁなんて、乾いた洗濯物を畳むべくカゴごとリビングへ戻ってくると、ついさっきまでソファに座っていた祐恭さんの姿はなかった。
今日は平日だけど、彼はお昼過ぎからお仕事らしく、昨日のうちに大学の講義が休講になった私ともども過ごしていたからか、まるで週末のお休みの日にも錯覚する。
テーブルの上には、さっきまで彼がずっと読んでいた分厚めの本が置かれていて、日本語のタイトルなのに漢字ばかりなせいか一瞬読み違えそうにもなった。
「…………」
その、本の隣。
見覚えがあるどころか、ある意味彼の一部でもあるメガネが置かれていて、すぐそこのラックのものすべてが、レンズ越しに縮小されたかのように映っていた。
「……うっ」
それこそ、まるで親の目を盗んで悪戯しようとしている小さい子と同義の振る舞いだろう。
そっと両手でメガネのツルを持ち、レンズを覗い——た瞬間、くらりと目眩よりも強い浮遊感のようなものを感じ、慌てて目が閉じた。
……まるで酔っぱらったみたい。
一瞬しか覗けなかったけれど、レンズ越しの景色はかなり歪んでおり、はっきりどころかだいぶぼやけた像にしかならなかった。
そういえば、だいぶ前にもこんなことをした気がするんだけど。
というか——そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もないころ。
こうして自宅にお邪魔させてもらうようになって、何度目かのときだった。
「…………」
懐かしいなぁ。
まだ何年も経っていないのに、勝手に懐かしさから頬が緩む。
私よりも年上の彼は、いつだって大人で、かっこよくて、まっすぐで、揺るがなくて。
メガネ越しの眼差しはいつだって芯が強そうで、誰かと議論しているときはよりその雰囲気が強くなっているように感じた。
けれど、私と目が合った瞬間、わずかに目尻が緩む。
あれはまさに、瞬間で。
同時に笑みで迎えられるたび、胸がきゅうっと締めつけられるほど嬉しい気持ちがあふれた。
「……っわ!? え、え! 祐恭さん、いつからそこに!」
「だいぶ前かな。というか、羽織のすぐあとこっちから戻ってきたんだけど、気づかなかった?」
「っ……全然気づきませんでした」
頬に手を当ててにんまりした瞬間の顔を、キッチンカウンターのすぐ隣に立っていた彼に、どうやら真正面から見られたらしい。
書斎方向の廊下を指差され、バツの悪さからわずかに唇を噛む。
にっこりではなく、どちらかというと、にやにや。
そう表現できるような表情に、かぁと頬が熱くなる。
「別に、メガネなんて珍しくないでしょ?」
「それはそうですけど……でも、ウチは誰もかけてなかったから、つい目がいくというか」
「あー、そうか」
家系なのか、両親もお兄ちゃんも……そして私も、視力に困ってはいない。
『だから老眼になるのよ』とお母さんが言い始めたのは、つい最近。
そういえばずっとメガネをしていなかったお父さんも、新聞を読むときに時々かけているのを見かける。
「別に外さなくてもいいんだけど、こう、長時間本読んでると疲れるっていうか」
「……ぅ」
「こうして近づかれたら、機嫌悪いようにも見えるでしょ」
「ちょっとだけ」
ソファへ腰掛けた彼が、普段と違っていわゆる“素“のまま私の顔を覗き込む。
理由がわかれば納得できる、表情。
目を細めることで、焦点を合わせるんだよね。
目が悪くないから知らなかったけれど、でも確かに、理由がわからなかったら睨まれていると感じる人もいるかもしれない。
「っ……」
目の前。本当の、ここ。
まるでキスされる直前かのような近づき方に、どきどきする。
吐息が重なっている気がする、なんて感じてしまえばより一層。
まるで私がそう感じているのを十分わかっているかのように、小さく笑った彼が指先で頬に触れた。
「男物のメガネも、なかなか違う意味で似合うよ?」
「え?」
「今、流行ってるんでしょ? 彼氏の私物身につけるの」
「そうなんですか?」
「あれ。そういうの、ちょうどど真ん中な世代じゃないの?」
「……う」
流行には、実はそこまで敏感じゃない。
どちらかというと疎いほうかもしれないし、友達の間で十分流行ったころに気づくタイプだろうか。
特に困っていないのは、きっとメディアからの情報を素早くキャッチする友達が数人いるからかな。
かわいい、やりたい、と思うことは私も手を伸ばすけれど、それ以外はあまり試すこともない。
でも、絵里曰く『それがアンタらしい』だそうだし、彼も彼で『十分でしょ』と言ってくれるから、どうやらこちら方面では変わらずとも済みそうだ。
「いくらでもお貸しするから、どうぞ?」
「や、あの……くらくらして、歩けません」
「だろうね」
机に置かれていたメガネに手を伸ばすも、私が苦笑したからか祐恭さんは手にしなかった。
小さく笑いながら改めて私に向き直り、頬に向かって改めて手を伸ばす。
「っ……」
「まだ平気か」
「え、とっ……」
「俺が平気なんだから、羽織も平気だよね?」
抱きすくめるように腕がまわり、彼が目の前で笑った。
ううん、もっと近く。
鼻先がつくほどの距離で、いつものようにキスをされる直前の雰囲気を勝手に感じ、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。
「キスだけじゃないつもりだから、メガネはまだいいかな」
「っ……」
囁かれてすぐ、唇が触れた。
柔らかな感覚に、どうしたって声は漏れて。
彼の言葉の意味を知るのは、さほど遅くもない、ほんの少しあとのことだった。
今年ももう、あと少し……。
今年度は、まだ半分折り返し地点ですねー。
一時は、9月入学話も出たけど、立ち消えたなぁ。
個人的には、ほっとしてます。
てことで、羽織と祐恭〜。
「……あれ?」
久しぶりに気持ちいいくらい、からりと晴れた。
リビングの奥の大きな窓からは、青い空に高い位置の雲が広がっている。
空気が乾燥しているから曇りでも洗濯物は十分乾くだろうけれど、もともとこのマンションは外干しできない構造のため、万年洗濯乾燥機でまかなわれている。
実家のときなら、きっと掛け布団を干したんだろうなぁなんて、乾いた洗濯物を畳むべくカゴごとリビングへ戻ってくると、ついさっきまでソファに座っていた祐恭さんの姿はなかった。
今日は平日だけど、彼はお昼過ぎからお仕事らしく、昨日のうちに大学の講義が休講になった私ともども過ごしていたからか、まるで週末のお休みの日にも錯覚する。
テーブルの上には、さっきまで彼がずっと読んでいた分厚めの本が置かれていて、日本語のタイトルなのに漢字ばかりなせいか一瞬読み違えそうにもなった。
「…………」
その、本の隣。
見覚えがあるどころか、ある意味彼の一部でもあるメガネが置かれていて、すぐそこのラックのものすべてが、レンズ越しに縮小されたかのように映っていた。
「……うっ」
それこそ、まるで親の目を盗んで悪戯しようとしている小さい子と同義の振る舞いだろう。
そっと両手でメガネのツルを持ち、レンズを覗い——た瞬間、くらりと目眩よりも強い浮遊感のようなものを感じ、慌てて目が閉じた。
……まるで酔っぱらったみたい。
一瞬しか覗けなかったけれど、レンズ越しの景色はかなり歪んでおり、はっきりどころかだいぶぼやけた像にしかならなかった。
そういえば、だいぶ前にもこんなことをした気がするんだけど。
というか——そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もないころ。
こうして自宅にお邪魔させてもらうようになって、何度目かのときだった。
「…………」
懐かしいなぁ。
まだ何年も経っていないのに、勝手に懐かしさから頬が緩む。
私よりも年上の彼は、いつだって大人で、かっこよくて、まっすぐで、揺るがなくて。
メガネ越しの眼差しはいつだって芯が強そうで、誰かと議論しているときはよりその雰囲気が強くなっているように感じた。
けれど、私と目が合った瞬間、わずかに目尻が緩む。
あれはまさに、瞬間で。
同時に笑みで迎えられるたび、胸がきゅうっと締めつけられるほど嬉しい気持ちがあふれた。
「……っわ!? え、え! 祐恭さん、いつからそこに!」
「だいぶ前かな。というか、羽織のすぐあとこっちから戻ってきたんだけど、気づかなかった?」
「っ……全然気づきませんでした」
頬に手を当ててにんまりした瞬間の顔を、キッチンカウンターのすぐ隣に立っていた彼に、どうやら真正面から見られたらしい。
書斎方向の廊下を指差され、バツの悪さからわずかに唇を噛む。
にっこりではなく、どちらかというと、にやにや。
そう表現できるような表情に、かぁと頬が熱くなる。
「別に、メガネなんて珍しくないでしょ?」
「それはそうですけど……でも、ウチは誰もかけてなかったから、つい目がいくというか」
「あー、そうか」
家系なのか、両親もお兄ちゃんも……そして私も、視力に困ってはいない。
『だから老眼になるのよ』とお母さんが言い始めたのは、つい最近。
そういえばずっとメガネをしていなかったお父さんも、新聞を読むときに時々かけているのを見かける。
「別に外さなくてもいいんだけど、こう、長時間本読んでると疲れるっていうか」
「……ぅ」
「こうして近づかれたら、機嫌悪いようにも見えるでしょ」
「ちょっとだけ」
ソファへ腰掛けた彼が、普段と違っていわゆる“素“のまま私の顔を覗き込む。
理由がわかれば納得できる、表情。
目を細めることで、焦点を合わせるんだよね。
目が悪くないから知らなかったけれど、でも確かに、理由がわからなかったら睨まれていると感じる人もいるかもしれない。
「っ……」
目の前。本当の、ここ。
まるでキスされる直前かのような近づき方に、どきどきする。
吐息が重なっている気がする、なんて感じてしまえばより一層。
まるで私がそう感じているのを十分わかっているかのように、小さく笑った彼が指先で頬に触れた。
「男物のメガネも、なかなか違う意味で似合うよ?」
「え?」
「今、流行ってるんでしょ? 彼氏の私物身につけるの」
「そうなんですか?」
「あれ。そういうの、ちょうどど真ん中な世代じゃないの?」
「……う」
流行には、実はそこまで敏感じゃない。
どちらかというと疎いほうかもしれないし、友達の間で十分流行ったころに気づくタイプだろうか。
特に困っていないのは、きっとメディアからの情報を素早くキャッチする友達が数人いるからかな。
かわいい、やりたい、と思うことは私も手を伸ばすけれど、それ以外はあまり試すこともない。
でも、絵里曰く『それがアンタらしい』だそうだし、彼も彼で『十分でしょ』と言ってくれるから、どうやらこちら方面では変わらずとも済みそうだ。
「いくらでもお貸しするから、どうぞ?」
「や、あの……くらくらして、歩けません」
「だろうね」
机に置かれていたメガネに手を伸ばすも、私が苦笑したからか祐恭さんは手にしなかった。
小さく笑いながら改めて私に向き直り、頬に向かって改めて手を伸ばす。
「っ……」
「まだ平気か」
「え、とっ……」
「俺が平気なんだから、羽織も平気だよね?」
抱きすくめるように腕がまわり、彼が目の前で笑った。
ううん、もっと近く。
鼻先がつくほどの距離で、いつものようにキスをされる直前の雰囲気を勝手に感じ、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。
「キスだけじゃないつもりだから、メガネはまだいいかな」
「っ……」
囁かれてすぐ、唇が触れた。
柔らかな感覚に、どうしたって声は漏れて。
彼の言葉の意味を知るのは、さほど遅くもない、ほんの少しあとのことだった。
9月14日
2020.09.14
今日はなんの日? シリーズにもはやなりつつある。
「なんかあるのか?」
「ううん、違うの。夕方、雨が降りそうだったのに……いつの間にか、晴れたんだなって」
三日月が、低い位置に出ていた。
同じように空を見上げた彼は、どこか感心するように『よく気づいたな』と笑う。
月を見るのが、小さいころから好きだった。
幼かったのは覚えているけれど、思い出せるあのころの自分は何歳なんだろう。保育園から帰ると服に着替えて、夕食の手伝いというか……お箸とお茶碗を並べるのが、そういえばあのころの自分の仕事だった。
小さいころに住んでいたのはここではなく、少し離れた街にある平屋のお家。
長い廊下は中庭に面していて、そこからよくぽっかりと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
太陽とは違い、直接見ても眩しくない光。昔は月の光がとても明るいと感じたのに、住宅街だからか今では少しだけ穏やかさを感じる。
「明日もきっとお天気だね」
「どうだかな。台風のシーズンでもあるし、ここンところしょっちゅう夜中に雨降るじゃん。まぁ、日中は平気だろうけど」
「そんなによく、雨降ってるの?」
「ああ。……ま、気づかず寝れるのもある意味才能かもな」
肩をすくめた彼は、ふわりと頭に触れるとすぐそこのソファへ腰かける。
テレビは日曜の夜特有のバラエティが流れていて、数人の芸能人がおかしそうに笑っていた。
「明日、午後から暇だつってたよな」
「うん。3時限目が休校になったって、連絡があったよ」
いつもはその時間、国文学の講義が入っているけれど、教授の急な都合によると先ほどスマフォへ連絡が入った。
そのことを夕食のときに話したんだけれど、こんなふうに聞いてくるということは、何かしらの意図があるように思う……というより、どうしたって期待するよね。
だって、明日は私の誕生日なんだから。
「もし上がれそうなら、午後から半休取る」
「え……本当?」
「もともと早上がりの予定だったから、多分平気だと思うけどな。ちょっと付き合えよ。どうせなら、メシ食いがてら出ようぜ」
彼の仕事は、まさに私の普段のテリトリー内であり、過ごす校舎とは目と鼻の先。
講義中でも、つい図書館を眺めてしまっていて、我ながらこんなに注意力が散漫なんだと笑うしかない。
「それって……誕生日だから?」
「まぁな。期待しとけ。美味いって評判のイングリッシュガーデンランチ、って触れ込みらしいし」
よくわかんねぇけど。
両手を頭の後ろで組んだ彼が、ぽつりと付け足した言葉がまさに“らしく“て。
彼も花を見てきっといろいろ思ってはいる人だろうけれど、わざわざ感想を口にすることはよほどでないとしない。
今朝も、うちの庭に咲いている黄色いバラと白いコスモスを玄関へ飾ったら、ちらりと視線こそ向けたものの、聞こえたのは花を愛でる言葉ではなかった。
『お前、ほんとマメだな』
ネクタイを結びながら笑ってくれたのは嬉しくて、ああもしかして私がここに花を飾るのは、彼のこの顔を見たくてなのかなと気づいてしまった。
「……ふふ。嬉しい」
ソファへ腰を下ろし、ほんの少しだけ彼へ肩を寄せる。
エアコンではなく、今は窓からの風。
だけど、9月を過ぎたころから明らかに風は変わって、ときおり吹き込んでくるのは十分に涼しいと感じるものだった。
「ほら、ずっと工事してたモールの改修が終わっただろ? ちょうど見たいモンあったんだよ」
「買い物だったら、今日でもよかったのに」
「いや、今日行ったらすげぇ混むじゃん。人でパンパンとかヤじゃね?」
欲しいものがあるならとは思ったものの、彼の言い分ももっともで。
ましてや明日、時間が取れるとわかっていたなら、確かに動くはずはないもんね。
「どうせならゆっくり見たい」
「何を見るの?」
「そりゃ、買うモンなんて決まって——」
本屋さんか服屋さんかと逡巡したものの、ふいに聞こえたテレビの音声に意識が引っ張られた。
でも、それは私だけじゃなくて。
さっきまで聞こえていた笑い声ではなく、どこか感嘆にも似たようなもので余計そちらが気になったのかもしれない。
「…………」
「……いや、ちょ……違う。あのな、俺がそういうタイプじゃねぇのは知ってンだろ」
「それはそう、なんだけど……えっと……」
「いや、だから! つかンな反応すんな!」
まじまじと彼を見たまま、自分でも頬が熱くなったのはわかったから、きっと十分顔に出ていたんだろう。
でも、だって……だってね?
こんなふうに聞いたのは初めてだったけれど、あまりにもタイミングがばっちりというか。
つい、余計にインプットされてしまったようで、なんともいえない気恥ずかしさからか、思わず唇を噛むと視線が落ちた。
「っ……」
「期待したなら買ってやってもいいけど?」
「ち、がっ……もう。そんな顔しないで」
さっきとは違い、私の顎をとらえた彼はすぐここで悪戯っぽく笑った。
もう。本当に、瞬間的に態度が変わる人なんだから。
そういうところ、さすがだなと思いながらもほんの少しだけずるいようにさえ感じる。
「しょうがねぇじゃん。そういう日なんだろ? 明日は」
「でも私、そんなの初めて聞いて……」
「俺も今知った。でもま、ちょうどいいじゃん。誕生日だし、なんなら毎年買ってやるよ」
「っ……もう」
意図的に笑われ、頬がより熱くなる。
9月14日は、『メンズ・バレンタインデー』。
そんなふうに言われているのも今日知ったけれど、それがどういう日なのかが問題で。
テレビに映っている芸能人がおもむろに紹介を始めたけれど、次の瞬間目に入ったのはビビッドな色合いの女性用下着だった。
「ま、どうせなら俺が勝手に見繕うより、一緒に選んだほうがいいか。だろ?」
「……だから、もう……どこまで本気なのかわからないでしょう?」
「がっつり本気に受け取っていいぞ。つか、俺が普段から否定しねぇのお前が一番よくわかってんじゃん」
だから困るのに。
きっと、彼のことだから明日出かけたら間違いなくお店に足を向けるだろう。
普段、自分がどんなふうに下着を選んでいたか思い出せない。
というか、あの手のお店に彼と一緒に行くのは正直私は抵抗があって。
だって、その……意識するじゃない。どうしたって。
水着じゃないからこそ、服を脱がなければ目に入らない種類のものなんだから。
「ま、期待しとけ」
「っ……」
一緒にご飯を食べに行けることも、出かけられることも嬉しいけれど、なんだか少しだけどきどきして苦しい。
だけど、さらりと髪を撫でた彼に今朝よりもよほど近い距離で笑われ、もうそれ以上は何も言えずただただ誤魔化すように笑うしかなかった。
てことで、9月14日はメンズバレンタインだそうですよ!
下着プレゼントするんだって。
どうやってサイズ測るの……?それとも、聞き出して買うの?
対面で下着買うってなかなかなハードルの高さだよね。
その様をこっそり見てたいわw
「なんかあるのか?」
「ううん、違うの。夕方、雨が降りそうだったのに……いつの間にか、晴れたんだなって」
三日月が、低い位置に出ていた。
同じように空を見上げた彼は、どこか感心するように『よく気づいたな』と笑う。
月を見るのが、小さいころから好きだった。
幼かったのは覚えているけれど、思い出せるあのころの自分は何歳なんだろう。保育園から帰ると服に着替えて、夕食の手伝いというか……お箸とお茶碗を並べるのが、そういえばあのころの自分の仕事だった。
小さいころに住んでいたのはここではなく、少し離れた街にある平屋のお家。
長い廊下は中庭に面していて、そこからよくぽっかりと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
太陽とは違い、直接見ても眩しくない光。昔は月の光がとても明るいと感じたのに、住宅街だからか今では少しだけ穏やかさを感じる。
「明日もきっとお天気だね」
「どうだかな。台風のシーズンでもあるし、ここンところしょっちゅう夜中に雨降るじゃん。まぁ、日中は平気だろうけど」
「そんなによく、雨降ってるの?」
「ああ。……ま、気づかず寝れるのもある意味才能かもな」
肩をすくめた彼は、ふわりと頭に触れるとすぐそこのソファへ腰かける。
テレビは日曜の夜特有のバラエティが流れていて、数人の芸能人がおかしそうに笑っていた。
「明日、午後から暇だつってたよな」
「うん。3時限目が休校になったって、連絡があったよ」
いつもはその時間、国文学の講義が入っているけれど、教授の急な都合によると先ほどスマフォへ連絡が入った。
そのことを夕食のときに話したんだけれど、こんなふうに聞いてくるということは、何かしらの意図があるように思う……というより、どうしたって期待するよね。
だって、明日は私の誕生日なんだから。
「もし上がれそうなら、午後から半休取る」
「え……本当?」
「もともと早上がりの予定だったから、多分平気だと思うけどな。ちょっと付き合えよ。どうせなら、メシ食いがてら出ようぜ」
彼の仕事は、まさに私の普段のテリトリー内であり、過ごす校舎とは目と鼻の先。
講義中でも、つい図書館を眺めてしまっていて、我ながらこんなに注意力が散漫なんだと笑うしかない。
「それって……誕生日だから?」
「まぁな。期待しとけ。美味いって評判のイングリッシュガーデンランチ、って触れ込みらしいし」
よくわかんねぇけど。
両手を頭の後ろで組んだ彼が、ぽつりと付け足した言葉がまさに“らしく“て。
彼も花を見てきっといろいろ思ってはいる人だろうけれど、わざわざ感想を口にすることはよほどでないとしない。
今朝も、うちの庭に咲いている黄色いバラと白いコスモスを玄関へ飾ったら、ちらりと視線こそ向けたものの、聞こえたのは花を愛でる言葉ではなかった。
『お前、ほんとマメだな』
ネクタイを結びながら笑ってくれたのは嬉しくて、ああもしかして私がここに花を飾るのは、彼のこの顔を見たくてなのかなと気づいてしまった。
「……ふふ。嬉しい」
ソファへ腰を下ろし、ほんの少しだけ彼へ肩を寄せる。
エアコンではなく、今は窓からの風。
だけど、9月を過ぎたころから明らかに風は変わって、ときおり吹き込んでくるのは十分に涼しいと感じるものだった。
「ほら、ずっと工事してたモールの改修が終わっただろ? ちょうど見たいモンあったんだよ」
「買い物だったら、今日でもよかったのに」
「いや、今日行ったらすげぇ混むじゃん。人でパンパンとかヤじゃね?」
欲しいものがあるならとは思ったものの、彼の言い分ももっともで。
ましてや明日、時間が取れるとわかっていたなら、確かに動くはずはないもんね。
「どうせならゆっくり見たい」
「何を見るの?」
「そりゃ、買うモンなんて決まって——」
本屋さんか服屋さんかと逡巡したものの、ふいに聞こえたテレビの音声に意識が引っ張られた。
でも、それは私だけじゃなくて。
さっきまで聞こえていた笑い声ではなく、どこか感嘆にも似たようなもので余計そちらが気になったのかもしれない。
「…………」
「……いや、ちょ……違う。あのな、俺がそういうタイプじゃねぇのは知ってンだろ」
「それはそう、なんだけど……えっと……」
「いや、だから! つかンな反応すんな!」
まじまじと彼を見たまま、自分でも頬が熱くなったのはわかったから、きっと十分顔に出ていたんだろう。
でも、だって……だってね?
こんなふうに聞いたのは初めてだったけれど、あまりにもタイミングがばっちりというか。
つい、余計にインプットされてしまったようで、なんともいえない気恥ずかしさからか、思わず唇を噛むと視線が落ちた。
「っ……」
「期待したなら買ってやってもいいけど?」
「ち、がっ……もう。そんな顔しないで」
さっきとは違い、私の顎をとらえた彼はすぐここで悪戯っぽく笑った。
もう。本当に、瞬間的に態度が変わる人なんだから。
そういうところ、さすがだなと思いながらもほんの少しだけずるいようにさえ感じる。
「しょうがねぇじゃん。そういう日なんだろ? 明日は」
「でも私、そんなの初めて聞いて……」
「俺も今知った。でもま、ちょうどいいじゃん。誕生日だし、なんなら毎年買ってやるよ」
「っ……もう」
意図的に笑われ、頬がより熱くなる。
9月14日は、『メンズ・バレンタインデー』。
そんなふうに言われているのも今日知ったけれど、それがどういう日なのかが問題で。
テレビに映っている芸能人がおもむろに紹介を始めたけれど、次の瞬間目に入ったのはビビッドな色合いの女性用下着だった。
「ま、どうせなら俺が勝手に見繕うより、一緒に選んだほうがいいか。だろ?」
「……だから、もう……どこまで本気なのかわからないでしょう?」
「がっつり本気に受け取っていいぞ。つか、俺が普段から否定しねぇのお前が一番よくわかってんじゃん」
だから困るのに。
きっと、彼のことだから明日出かけたら間違いなくお店に足を向けるだろう。
普段、自分がどんなふうに下着を選んでいたか思い出せない。
というか、あの手のお店に彼と一緒に行くのは正直私は抵抗があって。
だって、その……意識するじゃない。どうしたって。
水着じゃないからこそ、服を脱がなければ目に入らない種類のものなんだから。
「ま、期待しとけ」
「っ……」
一緒にご飯を食べに行けることも、出かけられることも嬉しいけれど、なんだか少しだけどきどきして苦しい。
だけど、さらりと髪を撫でた彼に今朝よりもよほど近い距離で笑われ、もうそれ以上は何も言えずただただ誤魔化すように笑うしかなかった。
てことで、9月14日はメンズバレンタインだそうですよ!
下着プレゼントするんだって。
どうやってサイズ測るの……?それとも、聞き出して買うの?
対面で下着買うってなかなかなハードルの高さだよね。
その様をこっそり見てたいわw
8月30日の話
2020.09.02
9月になっとる……!!!
涼しくなった気はするけど、じめじめはおさまりませんねー。
過ぎましたが、8月30日のための話。
「…………」
なんで、ってなんで。できてないことも、わかってないことも、わかってる。
ううん、本当はきっと、何がわからないかもわかってない。
どうすればいいのかも、見いだせてない。
中途半端で、何もできなくて。なのに、仕事は続いていて。明日も、明後日も、ずっとずっと。
やめればいいのに、なんて簡単に言われたくないし、逃げるような気がしてそれは選びたくない。
でも、できないことばかりで。できない、やれない、わからない。
そんな、『ない』自分を受け入れることが、こんなにもしんどくて苦しいなんて知らなかった。
学生のころは、勉強なんてしなくてもテストの点は取れて。授業で困ったことも、できなかったことも少なかった。
でも、社会人になって社会へ放り込まれた今、毎日できない自分と向き合わなければならなくて、苦しくてしんどい。
ご飯を食べられなくなることがあるなんて、夢にも思わなかった。食べるよりも仕事に向き合っているほうが楽で。飲み物だけで人間はきっと生きられると信じるしかない。
何ができてないかわからないから、調べようがない。
もっとああしなよ、こうしなよと具体的なことを言われるけれど、それは私が自分で発見したものじゃないから、まだ『もの』になってない。
先輩からの言葉は、指示で。その通りに動けば仕事はこなせるけれど、同じことを同じように自分の目線で気づいて動けるようにはならない気がして、ただただ怖かった。
「はー……」
「ため息つくと、幸せ逃げるって。よく言わない?」
「っ……」
お昼休みが終わるまで、あと20分。仕事に取り掛かっている人のほうが少なくて、だからきっと目立つんだろう。
テーブルにちょこんと置かれたのは、さっき出張から戻ってきた課長が配っていたチョコレートで、まだ食べてないのに口の中に甘い味が広がった。
「……言いますね。確かに」
ため息をつくと幸せが逃げるよ。学生のころは、私も友達へそう言って笑う側だった。
なのに最近はずっとしかめつらばかりで、この間鏡を見たら眉間にシワを発見し愕然とした。
と同時に、悲しくもなった。いつの間に私は、こんな顔するようになったんだろう、って。
同じタスクグループの彼は、私を指導してくれている先輩の先輩。
この仕事をもう8年以上こなしている、超ベテラン。
会議での発言もそつないし、みんなの発言をまとめるホワイトボードの字はきれいで、見やすくて、図も書き込みながらまとめられていて、本当にこの人の頭の中はどうなっているんだろうと不思議でならない。
「がんばってるなー」
「っ……すみません、汚くて」
自分の手書きのメモが散乱するデスクは、どう見たって整理されてない。ごちゃごちゃしてるだけでなく、開きっぱなしの書類ファイルの上には付箋が散らばっていて、ペン先を出したままのボールペンも数本転がっている。
ああ、そういえば前も先輩は言ってたっけ。机の汚さは、その人の仕事のできを表す、って。
きれいにメモを取れない私を見て、『整理されてない頭の中がよくわかる』と。
苦しい。できない自分が悔しくて、だけどできないから情けなくて。この仕事について2年目。
今年は私も『先輩』と呼ばれる立場になったのに、私の目には新人の子のほうがよほど効率よく仕事をこなしていて、褒められているようにしか思えない。
ネットで、『2年目 仕事 辞めたい』とついこの間検索したら、思った以上にたくさんの記事が引っかかってきて、ああ私だけじゃなかったんだと少し安心した。
でも……社内では仕事が抜群にできると評判の先輩にマンツーマンで指導を受けて、1年と少し。
にもかかわらず伸びない私は、きっと彼女に見放されるだろう。呆れられるだろう。
そして……ガッカリされるんだ。直接指導したのに、あの子毎回なんにも学ばない、って。
「どこに何があるか、自分でわかってるんでしょ?」
「それは……はい。でも、机こんな……」
「いいじゃん別に。隣へはみ出してるわけじゃないし」
机へ置かれたチョコレートから視線が上がらない。すぐここに手をついたままの彼の腕時計は、いかにもセンスの良さを感じる。
スーツも、靴も、何もかもきちんとしている人で。ほのかに香るコロンが、いかにも仕事ができてセンスがあって賢くて私とは違う世界を生きているように思える。
……あーあ。残念な子。慌てて選んだパンプスはかかとが傷ついていて、しかもいつの間にかストッキングは伝線。時計も去年買ったものだけど、彼のものと並ぶと一層チープさが目立つ。
やだな。なんで今ここにいるんですか。きっと顔を上げれば、いつものように人のよさそうな笑顔があるだろうとわかるからこそ、余計そちらを見れなかった。
「ため息ってさ、たくさんついていいらしいよ」
「……え?」
「迷信だって。ついちゃダメじゃなくて、飲み込むのがダメだってさ。嫌なことがあったら吐き出して、スッキリしないとむしろアウトって。だから、いいんだよ。いくらでもついて」
意外なセリフで、思わず彼を見上げてしまった。案の定柔らかく笑われ、反射的に唇を噛む。
……なんで面と向かってそんなこと言うんですか。『大丈夫?』と聞いてくれたらかわせるのに、『それでいいんだよ』って言われたら蓋が外れてしまいそうだ。
「っ……ご、めんなさい」
不意に込み上げたものがあって、慌てて席を立つ。きっと嫌な顔されるだろうし、傷つけただろうな。
だって、あんないいこと言ってくれたんだもんね。どう考えたって、私がテンパってるのに気付いて慰めてくれに来ただろうに、逃げるようにいなくなるとか人としてアウトでしょ。
振り返りもせずフロアを抜け、休憩スペース……ではなく普段ほとんど人がこない、資料室への廊下を曲がる。
「…………」
泣くもんか、といつも思っていた。なんでわからないの、できないの、しなきゃダメだとよ言われながら、謝罪ばかりを口にして、だけどわかんないんだからしょうがないじゃんとどこかで反抗もしていて。
自分がダメなのはわかってるけれど、否定され続けると人って本当におかしくなるんだなと感じるほど、心は麻痺していたのにも気づいていた。
だけど、友達に愚痴ったら『鬱になる人は、自分で鬱って言わないらしいよ』と笑われ、どうしたらいいかわからなくなった。
そう。全部わからなかったの。
ご飯を食べられないことも、人の顔が見れないことも、仕事ができないことも、歯を食いしばってがんばろうとしたことも。
……全部、ただただ本当は見たくなかっただけだったんだ。今泣いたら、自分の負けを認めることになるから、悔しくて。
「……はあ」
壁にもたれたまま、あふれた涙にも悔しくなる。なんで勝手に泣いてるの。やめてくれる? 今は職場で、家じゃないんだから。
こんなところを誰かに見られたら、心配されて慰められるんだから。そんなことを求めてるわけじゃない。そんな言葉が欲しいわけじゃない。私が欲しいのは、自分だけで答えを出せる根拠。
「…………」
不思議なことに、涙は続かなかった。滲んだ程度で終わり、思った以上に気持ちもスッキリしていたのに気づく。
……なんだ。だったら家でもっと泣けばよかった。ああ、そういえば涙って感情の排出なんだっけ。じゃあ少しは苦しいものが外に出たのかな。
「っ……すみません、急に……いなくなって」
「え? ああ、全然」
大きく深呼吸してから席へ戻ると、隣の先輩の椅子を引き寄せた彼が座っていた。弄っていたスマフォをポケットへ戻し、人のよさそうな笑みを浮かべる。
……でも、よかった。何がって、単純に『大丈夫?』と聞かれなかったことが、だ。
「…………これ……」
「うまいでしょ? 俺、絵描くの得意なんだよね」
机に貼られた大きな付箋に、何やら絵が描かれていた。ええとこれは……なんだろう。オリジナルキャラクターとか何かですかね?
魚のようにも見えるし、でも耳がついてるようにも……え、これってヒゲか何かですか? だとしたらペットの類……いやでも、じゃあこの魚類のエラみたいなのは?
「実家の猫」
「ねっ……!」
「え、ひどくない? 今、絶対違うって思ったでしょ」
「いや、そんなことは!」
「顔に出るからすぐわかるんだよなー。あーひどい。傷ついた」
「えー、ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
くるりとペンを回しながら、まるで小学生の男の子みたいに口を尖らせたのを見て、普段とのギャップにも思わず吹き出すように笑っていた。
この人、こんな顔するんだ。いや、そもそもとしてそんな言い方……いやむしろ、この絵かな。なんでもソツなくこなすと思っていたのに、ある意味意外な発見。
「明後日、なんの日か知ってる?」
「え?」
デスクに頬杖をつきながら、彼はすぐそこの卓上カレンダーを指した。職場に持ってくるなと叱られそうだけど、好きなアーティストの写真がふんだんに使われているまさに私物。
通常のものより小さいから許してくれるだろうと勝手にふんでるけど、誰かに叱られたら持って帰ろうとは思っている。
明後日は8月30日。いよいよ週明けは9月が始まるけれど、暑さはまだまだ長く続くだろう。
いろいろあった今年もあと4ヶ月だなんて、意識したら楽になるのか苦しむのか今の私じゃよくわからない。
「ハッピーサンシャインデーって言うんだって」
「へえ……おしゃれな日ですね」
「でしょ? 俺の誕生日」
「そうなんですか?」
「うん。太陽みたいにキラキラ輝く笑顔の人の日だって。すごくない? ぴったりでしょ」
「あはは。さすがですね」
「いや、それ絶対思ってないやつだよね」
「なんでですかー。思ってますよ!」
いたずらっぽく笑われ、椅子にもたれて手を振る。姿勢が変わったからか、ここに来て少しだけお腹が空いたようにも思えた。一応お弁当は持ってきたけれど、半分も食べられなくて蓋をしたんだよね。
でも、さすがに今から食べるわけにもいかず、だったらチョコレートで少しだけ満たしておいたほうがいいかもしれない。
今日は、夕方から会議が入っている。今回、取りまとめの板書は私。今までにもハウツーを学んで2回ほどやったけれど、当然納得のいくデキまでは遠いけれど。
「まあ、そういうわけだからさ。よかったら今日、一足先に俺の誕生日お祝いしてくれてもいいんだけど」
「え?」
「日曜日じゃ誰も祝ってくれないし、かわいそうでしょ? 俺。うちでひとりでケーキ食べるところ想像してみ? かわいそうだから」
「そんな何回もかわいそうって言わないでくださいよ」
普段まず言わないセリフだし、口調だしで、また頬が緩む。きっと、彼はあえてこう言ってくれてるんだろう。
さっきまで私がしかめつらして仕事してたことも、泣きそうになったことも、全部知ってるから。
優しいだけじゃなくて、大人で。『やっと笑ったな』なんてあえて指摘しないでくれるところは、スマートでさすがだとしか思えない。
「お祝いになるかはわかりませんけど、一般的なものでよければご馳走しますよ」
「え、俺そんな人間に見える? 一緒に行ってくれればいいよ。奢ってもらおうって、これくらいしか思ってない」
「思ってるんじゃないですか」
昼休みが終わるまで、あと3分。だけど、今日は本当に久しぶりに笑ったと自分でもわかるから、ほんの少しだけ胸のつかえが消えている。
ああ、そうだった。笑わないと眉間のシワが取れないんだよね。あとでちゃんと揉みほぐしておかないと。
「それじゃ、店は俺が選んでおくから期待してて」
「え、本当に行くんですか?」
「え、行かないの?」
椅子から立ち上がった彼を驚いて見つめると、意外そうに返された。いや、もちろん行くのは構わないけれど、でも、本当に? しかも誕生日前の食事なんて、普通そういうのは気がある相手を——。
「…………」
「ん?」
「え……いや、あの……」
我ながらなんてことを想像するんだと一瞬恥ずかしくなる。そうじゃない。そんなはずない。ありえない。単なる社交辞令だと思っていたのに、まさかの展開で頭がついていかないだけ。
ああきっと違うの。単に、みんなで行こうってことだよね? じゃなきゃありえないでしょう。 なんのメリットもない私と食事に行って何が楽しいのか、検討もつかない。
「行くって言ったでしょ? 俺、約束には敏感だから。絶対守って」
「っ……」
「今日はノー残業デーだし、17時15分きっちりに仕事終えてね」
隣の先輩が戻ってきたのを見計らって、彼が椅子を戻した。相変わらず人のよさそうな笑顔で『ごめん、借りたー』と手をあげる。
彼のデスクは同じ島にあるけれど、離れている分直接見えることは少ない。でも……少ないだけで、見えはする。
……え、ちょっと待って。何がどうしてこうなった? これって何? 直接誘われたの? それとも、仕事ができない私の悩み相談に乗ってくれるつもりで?
「…………」
どうしよう。もっとよくわからなくなった。
思わず口元へ手を当てたまま仮説をいくつか立ててみたものの、どれもこれも根拠に乏しくてかこれまでと違う意味で眉間にシワは寄った。
涼しくなった気はするけど、じめじめはおさまりませんねー。
過ぎましたが、8月30日のための話。
「…………」
なんで、ってなんで。できてないことも、わかってないことも、わかってる。
ううん、本当はきっと、何がわからないかもわかってない。
どうすればいいのかも、見いだせてない。
中途半端で、何もできなくて。なのに、仕事は続いていて。明日も、明後日も、ずっとずっと。
やめればいいのに、なんて簡単に言われたくないし、逃げるような気がしてそれは選びたくない。
でも、できないことばかりで。できない、やれない、わからない。
そんな、『ない』自分を受け入れることが、こんなにもしんどくて苦しいなんて知らなかった。
学生のころは、勉強なんてしなくてもテストの点は取れて。授業で困ったことも、できなかったことも少なかった。
でも、社会人になって社会へ放り込まれた今、毎日できない自分と向き合わなければならなくて、苦しくてしんどい。
ご飯を食べられなくなることがあるなんて、夢にも思わなかった。食べるよりも仕事に向き合っているほうが楽で。飲み物だけで人間はきっと生きられると信じるしかない。
何ができてないかわからないから、調べようがない。
もっとああしなよ、こうしなよと具体的なことを言われるけれど、それは私が自分で発見したものじゃないから、まだ『もの』になってない。
先輩からの言葉は、指示で。その通りに動けば仕事はこなせるけれど、同じことを同じように自分の目線で気づいて動けるようにはならない気がして、ただただ怖かった。
「はー……」
「ため息つくと、幸せ逃げるって。よく言わない?」
「っ……」
お昼休みが終わるまで、あと20分。仕事に取り掛かっている人のほうが少なくて、だからきっと目立つんだろう。
テーブルにちょこんと置かれたのは、さっき出張から戻ってきた課長が配っていたチョコレートで、まだ食べてないのに口の中に甘い味が広がった。
「……言いますね。確かに」
ため息をつくと幸せが逃げるよ。学生のころは、私も友達へそう言って笑う側だった。
なのに最近はずっとしかめつらばかりで、この間鏡を見たら眉間にシワを発見し愕然とした。
と同時に、悲しくもなった。いつの間に私は、こんな顔するようになったんだろう、って。
同じタスクグループの彼は、私を指導してくれている先輩の先輩。
この仕事をもう8年以上こなしている、超ベテラン。
会議での発言もそつないし、みんなの発言をまとめるホワイトボードの字はきれいで、見やすくて、図も書き込みながらまとめられていて、本当にこの人の頭の中はどうなっているんだろうと不思議でならない。
「がんばってるなー」
「っ……すみません、汚くて」
自分の手書きのメモが散乱するデスクは、どう見たって整理されてない。ごちゃごちゃしてるだけでなく、開きっぱなしの書類ファイルの上には付箋が散らばっていて、ペン先を出したままのボールペンも数本転がっている。
ああ、そういえば前も先輩は言ってたっけ。机の汚さは、その人の仕事のできを表す、って。
きれいにメモを取れない私を見て、『整理されてない頭の中がよくわかる』と。
苦しい。できない自分が悔しくて、だけどできないから情けなくて。この仕事について2年目。
今年は私も『先輩』と呼ばれる立場になったのに、私の目には新人の子のほうがよほど効率よく仕事をこなしていて、褒められているようにしか思えない。
ネットで、『2年目 仕事 辞めたい』とついこの間検索したら、思った以上にたくさんの記事が引っかかってきて、ああ私だけじゃなかったんだと少し安心した。
でも……社内では仕事が抜群にできると評判の先輩にマンツーマンで指導を受けて、1年と少し。
にもかかわらず伸びない私は、きっと彼女に見放されるだろう。呆れられるだろう。
そして……ガッカリされるんだ。直接指導したのに、あの子毎回なんにも学ばない、って。
「どこに何があるか、自分でわかってるんでしょ?」
「それは……はい。でも、机こんな……」
「いいじゃん別に。隣へはみ出してるわけじゃないし」
机へ置かれたチョコレートから視線が上がらない。すぐここに手をついたままの彼の腕時計は、いかにもセンスの良さを感じる。
スーツも、靴も、何もかもきちんとしている人で。ほのかに香るコロンが、いかにも仕事ができてセンスがあって賢くて私とは違う世界を生きているように思える。
……あーあ。残念な子。慌てて選んだパンプスはかかとが傷ついていて、しかもいつの間にかストッキングは伝線。時計も去年買ったものだけど、彼のものと並ぶと一層チープさが目立つ。
やだな。なんで今ここにいるんですか。きっと顔を上げれば、いつものように人のよさそうな笑顔があるだろうとわかるからこそ、余計そちらを見れなかった。
「ため息ってさ、たくさんついていいらしいよ」
「……え?」
「迷信だって。ついちゃダメじゃなくて、飲み込むのがダメだってさ。嫌なことがあったら吐き出して、スッキリしないとむしろアウトって。だから、いいんだよ。いくらでもついて」
意外なセリフで、思わず彼を見上げてしまった。案の定柔らかく笑われ、反射的に唇を噛む。
……なんで面と向かってそんなこと言うんですか。『大丈夫?』と聞いてくれたらかわせるのに、『それでいいんだよ』って言われたら蓋が外れてしまいそうだ。
「っ……ご、めんなさい」
不意に込み上げたものがあって、慌てて席を立つ。きっと嫌な顔されるだろうし、傷つけただろうな。
だって、あんないいこと言ってくれたんだもんね。どう考えたって、私がテンパってるのに気付いて慰めてくれに来ただろうに、逃げるようにいなくなるとか人としてアウトでしょ。
振り返りもせずフロアを抜け、休憩スペース……ではなく普段ほとんど人がこない、資料室への廊下を曲がる。
「…………」
泣くもんか、といつも思っていた。なんでわからないの、できないの、しなきゃダメだとよ言われながら、謝罪ばかりを口にして、だけどわかんないんだからしょうがないじゃんとどこかで反抗もしていて。
自分がダメなのはわかってるけれど、否定され続けると人って本当におかしくなるんだなと感じるほど、心は麻痺していたのにも気づいていた。
だけど、友達に愚痴ったら『鬱になる人は、自分で鬱って言わないらしいよ』と笑われ、どうしたらいいかわからなくなった。
そう。全部わからなかったの。
ご飯を食べられないことも、人の顔が見れないことも、仕事ができないことも、歯を食いしばってがんばろうとしたことも。
……全部、ただただ本当は見たくなかっただけだったんだ。今泣いたら、自分の負けを認めることになるから、悔しくて。
「……はあ」
壁にもたれたまま、あふれた涙にも悔しくなる。なんで勝手に泣いてるの。やめてくれる? 今は職場で、家じゃないんだから。
こんなところを誰かに見られたら、心配されて慰められるんだから。そんなことを求めてるわけじゃない。そんな言葉が欲しいわけじゃない。私が欲しいのは、自分だけで答えを出せる根拠。
「…………」
不思議なことに、涙は続かなかった。滲んだ程度で終わり、思った以上に気持ちもスッキリしていたのに気づく。
……なんだ。だったら家でもっと泣けばよかった。ああ、そういえば涙って感情の排出なんだっけ。じゃあ少しは苦しいものが外に出たのかな。
「っ……すみません、急に……いなくなって」
「え? ああ、全然」
大きく深呼吸してから席へ戻ると、隣の先輩の椅子を引き寄せた彼が座っていた。弄っていたスマフォをポケットへ戻し、人のよさそうな笑みを浮かべる。
……でも、よかった。何がって、単純に『大丈夫?』と聞かれなかったことが、だ。
「…………これ……」
「うまいでしょ? 俺、絵描くの得意なんだよね」
机に貼られた大きな付箋に、何やら絵が描かれていた。ええとこれは……なんだろう。オリジナルキャラクターとか何かですかね?
魚のようにも見えるし、でも耳がついてるようにも……え、これってヒゲか何かですか? だとしたらペットの類……いやでも、じゃあこの魚類のエラみたいなのは?
「実家の猫」
「ねっ……!」
「え、ひどくない? 今、絶対違うって思ったでしょ」
「いや、そんなことは!」
「顔に出るからすぐわかるんだよなー。あーひどい。傷ついた」
「えー、ごめんなさい。そういうつもりじゃ」
くるりとペンを回しながら、まるで小学生の男の子みたいに口を尖らせたのを見て、普段とのギャップにも思わず吹き出すように笑っていた。
この人、こんな顔するんだ。いや、そもそもとしてそんな言い方……いやむしろ、この絵かな。なんでもソツなくこなすと思っていたのに、ある意味意外な発見。
「明後日、なんの日か知ってる?」
「え?」
デスクに頬杖をつきながら、彼はすぐそこの卓上カレンダーを指した。職場に持ってくるなと叱られそうだけど、好きなアーティストの写真がふんだんに使われているまさに私物。
通常のものより小さいから許してくれるだろうと勝手にふんでるけど、誰かに叱られたら持って帰ろうとは思っている。
明後日は8月30日。いよいよ週明けは9月が始まるけれど、暑さはまだまだ長く続くだろう。
いろいろあった今年もあと4ヶ月だなんて、意識したら楽になるのか苦しむのか今の私じゃよくわからない。
「ハッピーサンシャインデーって言うんだって」
「へえ……おしゃれな日ですね」
「でしょ? 俺の誕生日」
「そうなんですか?」
「うん。太陽みたいにキラキラ輝く笑顔の人の日だって。すごくない? ぴったりでしょ」
「あはは。さすがですね」
「いや、それ絶対思ってないやつだよね」
「なんでですかー。思ってますよ!」
いたずらっぽく笑われ、椅子にもたれて手を振る。姿勢が変わったからか、ここに来て少しだけお腹が空いたようにも思えた。一応お弁当は持ってきたけれど、半分も食べられなくて蓋をしたんだよね。
でも、さすがに今から食べるわけにもいかず、だったらチョコレートで少しだけ満たしておいたほうがいいかもしれない。
今日は、夕方から会議が入っている。今回、取りまとめの板書は私。今までにもハウツーを学んで2回ほどやったけれど、当然納得のいくデキまでは遠いけれど。
「まあ、そういうわけだからさ。よかったら今日、一足先に俺の誕生日お祝いしてくれてもいいんだけど」
「え?」
「日曜日じゃ誰も祝ってくれないし、かわいそうでしょ? 俺。うちでひとりでケーキ食べるところ想像してみ? かわいそうだから」
「そんな何回もかわいそうって言わないでくださいよ」
普段まず言わないセリフだし、口調だしで、また頬が緩む。きっと、彼はあえてこう言ってくれてるんだろう。
さっきまで私がしかめつらして仕事してたことも、泣きそうになったことも、全部知ってるから。
優しいだけじゃなくて、大人で。『やっと笑ったな』なんてあえて指摘しないでくれるところは、スマートでさすがだとしか思えない。
「お祝いになるかはわかりませんけど、一般的なものでよければご馳走しますよ」
「え、俺そんな人間に見える? 一緒に行ってくれればいいよ。奢ってもらおうって、これくらいしか思ってない」
「思ってるんじゃないですか」
昼休みが終わるまで、あと3分。だけど、今日は本当に久しぶりに笑ったと自分でもわかるから、ほんの少しだけ胸のつかえが消えている。
ああ、そうだった。笑わないと眉間のシワが取れないんだよね。あとでちゃんと揉みほぐしておかないと。
「それじゃ、店は俺が選んでおくから期待してて」
「え、本当に行くんですか?」
「え、行かないの?」
椅子から立ち上がった彼を驚いて見つめると、意外そうに返された。いや、もちろん行くのは構わないけれど、でも、本当に? しかも誕生日前の食事なんて、普通そういうのは気がある相手を——。
「…………」
「ん?」
「え……いや、あの……」
我ながらなんてことを想像するんだと一瞬恥ずかしくなる。そうじゃない。そんなはずない。ありえない。単なる社交辞令だと思っていたのに、まさかの展開で頭がついていかないだけ。
ああきっと違うの。単に、みんなで行こうってことだよね? じゃなきゃありえないでしょう。 なんのメリットもない私と食事に行って何が楽しいのか、検討もつかない。
「行くって言ったでしょ? 俺、約束には敏感だから。絶対守って」
「っ……」
「今日はノー残業デーだし、17時15分きっちりに仕事終えてね」
隣の先輩が戻ってきたのを見計らって、彼が椅子を戻した。相変わらず人のよさそうな笑顔で『ごめん、借りたー』と手をあげる。
彼のデスクは同じ島にあるけれど、離れている分直接見えることは少ない。でも……少ないだけで、見えはする。
……え、ちょっと待って。何がどうしてこうなった? これって何? 直接誘われたの? それとも、仕事ができない私の悩み相談に乗ってくれるつもりで?
「…………」
どうしよう。もっとよくわからなくなった。
思わず口元へ手を当てたまま仮説をいくつか立ててみたものの、どれもこれも根拠に乏しくてかこれまでと違う意味で眉間にシワは寄った。
我慢の夜
2020.08.07
8月7日。気付いたら、8月ももう7日も過ぎてる……恐ろしい……。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。
父の日②
2020.06.21
そんなわけで、恭介と孝之バージョン。
あー、私このふたり書いてんの好きなんだなーと改めて思った。
どうでもいい、よもや話。
「孝之。お前、父の日に何か渡したか?」
仕事で横浜に帰国した恭介さんと会ったのは、7月の頭。
たまたま、出張で横浜に行くことになっていたから、連絡を取って夕飯を一緒に食べる約束をした。
今年の父の日はとうに過ぎ、記憶の片隅に追いやっていたころ。
今日は、茅ヶ崎のじーちゃんちへ泊まりらしく、久しぶりに恭介さんと酒を飲めたことが少し嬉しくもあった。
「あー、今年は羽織と一緒に足袋と雪駄渡したけど」
「ほう。それは喜んだだろう」
「まぁね。親父がお袋へ話してたのを、羽織が聞いてたらしくて。小遣いだとちょっと足りないっつーから、カンパした」
当時の俺と違って、アイツはバイトをしてない。
とはいえ、月々の小遣いはきっちり貯金分と使う分でわけてもいるらしく、十分買える額を持っちゃいたが、持ちかけてきたのはなんらかの意図もあるだろうから、素直に乗っておいた。
ちょうど、どうしようか悩んでもいたしな。
お袋はなんでも素直に受け取るが、親父はそこまで単純でもない面がある。
つか、趣味が見えねぇんだよ。
俺と違ってギャンブルもスポーツもピンとこねぇし、釣りをやるわけでもない。
休日は大抵お袋と出かけている……というよりは、足代わりに使われている印象があって、何をあげたらどう反応してくれるのかいまいちわからないってのも素直な感想。
だが、先日渡したプレゼントは嬉しそうに笑ってくれ、ああこの路線で行くのが外れねぇかもなとわかった気はする。
「羽織ももう高校3年か。すっかり年頃だろうが、そうやって気にかけてもらえたら兄貴も嬉しいだろうよ」
「そういう恭介さんは? 葉月になんかもらったの?」
ここ数年会っちゃいないが、アイツは羽織と同い年。
それこそ、恭介さんが今言ったまさに年頃の娘だろうから、昔とは全然違うだろう。
俺が最後に会ったのは、葉月が12歳のとき。
夏休みで一時帰国した葉月と、じーちゃんちで花火した記憶はある。
とはいえ、もう6年前。
羽織でさえ女子高生に見えるんだから、外国育ちのアイツはもっと大人びてる印象を勝手に抱く。
「向こうでは、父の日が9月なんだよ。だから、今年はこれからだな」
「へえ」
「去年もらったのは、このネクタイピンとカフスだ」
そう言うと、恭介さんはどこか誇らしげに親指で示した。
シルバーの一般的なものだが、目は惹かれる。
ものもそうだろうけど、恭介さんの雰囲気がってのもあるんじゃねぇの。
彼ならたとえ、100均の何かを使っていても値段相応には見えない。
「あの子はセンスがあるんだよ。おかげで、商談でも話すきっかけになるし、そこから別の繋がりにも広がるし、ありがたいことだな」
スマフォを取り出した彼が、操作しながら何かを見つけたらしく俺へ差し出した。
そこには、キャンプへ行ったとおぼしき写真が映っている。
日本とは明らかに違う土の色や、くっきりと見える地平線だけでなく、湖の色も違って見える。
……が。
「顔わかんねぇじゃん」
肝心の顔が映ってない。
サングラスをかけていたり、バックショットだったり、髪の長さは十分わかるものの、彼が見せてくれたのはどんだけ育ったのかはっきり把握できない写真ばかりだった。
ま、身体つきは十分わかるけど。
羽織よりもいろいろ育ってるらしいのは、見てわかる。
「まぁ、今年どこかで会うかもな」
「そうなの?」
「かもしれない、程度だ」
ウィスキーのグラスを傾けた彼が、肩をすくめた。
予定は未定と同義じゃね? それって。
まぁいいんだけど。別に。
従妹とはいえすっかり会ってないんだから、直接会ってもわかんねぇかもしれねーし。
それに、葉月がひとりで日本へ来るとはまず考えられない。
恭介さんとセットで帰国するんだろうから、顔がわからなくてもなんら問題ねぇだろ。
「葉月、彼氏とかいんの?」
「…………」
「……え、俺なんか悪いこと言った?」
イカのフリッターをつまんだところで突然舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
恭介さんが、小さいころから葉月を溺愛してるのは知ってるが、まさかそのレベルとは思わなかった。
つか、それこそ日本よりあっちのほうがよほどオープンな印象があるから、単なる好奇心で聞いただけ。
……うわ。
さっきまでの大変人柄のよさそうかつ、MAXで対人スキル高そうな人の真逆を行く顔をされ、ごくりと喉が鳴る。
「……周りの連中にも聞かれるが、気分はよくない」
「でも、葉月だってもう18じゃん。好きなやつとかいねぇの?」
「今のところ面と向かって言われたことはないな」
まぁ、それもそうか。
羽織がお袋とそういう話はしてそうだけど、親父にするかつったらなさそうだしな。
「葉月が、どうしても俺に紹介したいヤツができたなら、もちろん会うし話もする。選考するわけじゃないが、せめて納得できる男でなければ手離したくはない」
「へえ。そんな?」
「お前は最近会ってないからわからないんだろうが、会えば確実に納得するぞ。うちの娘は世界一だと思っている」
「あー……なるほど」
ガチの顔すね。
普段、彼はそこまで固執するタチじゃないと思っていた。
つってもま、こうして年に数回会ったりメッセージのやり取りをする程度の相手。
俺だって、恭介さんの何を知ってると聞かれても明確には言えないが、ひとり娘とはいえ葉月にある種の執着にも似た感情を抱いていることは、やっぱり意外なんだよな。
「じゃあ、突然彼氏連れてくるかもしんねぇんだ」
「…………」
「恭介さん、グラス。割れるから勘弁して」
ピシリと音がしたようなしないような。
枝豆をつまんだところで不穏な音がし、慌てて彼に向き直るも、表情は変わらなかった。
世の父親って、みんなこんな……じゃねぇよな。
少なくとも、うちの親父は羽織にそこまで執着を見せてない。
それどころか、最近では副担任になった祐恭のことをむしろ彼氏候補に願っているような発言さえ出ている。
……まぁ、親ひとり子ひとりだもんな。
小さいころから、ずっとふたり水入らず状態だったし、しょうがねぇんだろ。このふたりにとっては。
「てか、恭介さんは付き合ったりしねぇの?」
「今のところ予定はないな」
「それは、葉月がいるから?」
「いや。どちらかというと、置いてきたからだ」
「……置いてきた?」
葉月の話から遠ざかったほうが確実にいいとふんでシフトすると、案の定彼はまず表情を変えた。
柔和そうな顔つきで箸を手に、白身魚のマリネをつまむ。
だが、それこそさっきまでよりもざっくりした言い方で、まさに疑問になった。
「いろいろある」
「……うわ、すげぇ怪しい」
「大人だからな」
ニヤリと笑った様は、いかにもイケナイ匂いが漂っていて、それこそ葉月には見せないだろう顔に思えた。
それどころか、いろんなものを彷彿とさせ、より具体的に聞きたくなる。
若いころの遍歴は聞きかじった程度で、すべてを教わったわけじゃない。
が、すげぇ意味ありげじゃん。
これまでもボカさず教えてくれたことばかりだったから、きっとうやむやな答えってことは言うつもりねぇんだろうな。
すっげぇ気になるけど、まぁそこは追々ってことにしとくか。
今後、小出しにだったら引き出せる気がした。
「今は……いや、今年はそれこそ葉月のための年だ。あの子も進学を考えているし、それにあわせてねばならない準備もある」
「あー、大学ね。もう考えて……るよな。そりゃそうか」
18歳、高校最後の年。
羽織でさえここにきて進路を意識しだしたんだから、より精神年齢高そうな葉月ならなおさらだろう。
会わなくなって、もう6年。
大学進学となれば、さらに4年は確実に会わない。
今でさえ会ってもわかんねぇだろうし、10年経ったらさっぱりだろうな。
「まあ、そのときが来たら伝えるさ」
「よろしく」
ざっくりしたやりとりながらも、結局この夜はその程度まで。
だから……何もかも知らなかった。
冗談めかしてツッコミ入れるのも、愛娘の彼氏像に言及するのも、最初で最後になったんだから。
「…………」
「…………」
「孝之。お前、俺に対する誠意が足りないんじゃないか?」
「いや、恭介さんイイモン持ってるじゃん? だから、ヘタなヤツは渡せないっつーか。消え物で勘弁してよ」
3月に完全帰国を果たした恭介さんは6月の第三日曜の本日、1年前には影も形もなかったまさに新妻を伴って茅ヶ崎のじーちゃんちを訪れていた。
それを聞きつけ、当然俺も葉月と一緒に足を向けたものの、テーブルを挟んで正座させられ、まるで説教モード。
つか、俺も恭介さんも客のはずなのに、なんかおかしくね?
主でもあるじーちゃんとばーちゃんは、ふすま1枚隔てた居間でテレビを見ているらしく、ここにはまったくそぐわない笑い声が小さく聞こえてきた。
「それにほら、俺より葉月はきっちり渡してたじゃん。その手帳、ずっと欲しかったヤツなんだって?」
「ああ。前まで使っていたタイプの後継だと話したのを覚えていてくれてな、我が娘ながらさすがだと思うよ」
葉月のことを話題にすると、腕を組んだまま俺を見つめてはいるが、表情が若干和らいだ。
選びに行くとき付き添ったが、葉月はきっちりオプションで恭介さんのイニシャルを刻印までしてもらっていた。
もらった相手がどんなことをしたら喜んでくれるか、常日頃からアンテナ張ってンだろうよ。
マメだなと褒めたが、アイツは笑って『たーくんのほうがマメだよね』つってたけど、それを今口にしたら亡き者にされそうだからやめとく。
「……まさか1年経って、父の日に娘の彼氏からウィスキーをもらうとは思わなかった」
「いや……それは俺も同感」
差し出した箱を開けて中身を取り出し、ラベルを見ながらしみじみ口にする。
まさか恭介さんとの食事の5ヶ月後に単身で葉月が帰国してくるとは思いもしなかったし、次の年の父の日に『父対応』することになるとも想像さえしなかった。
人生って、全然予測つかねぇもんだな。
「まぁいい。それじゃひと口飲むか」
「え。いや俺、車だし」
「なんだと。俺の酒が飲めないのか? 貴様」
「いやいやいや、恭介さんだって車じゃん!」
たちまち視線を鋭くした彼は、さらに舌打ちまでした。
どうやら慌てた声が聞こえたらしく、隣から葉月たちが姿を見せる。
はー……勘弁してくれよ。
先月の母の日に対面したときとは、まるで違う態度で迎え撃たれ、さすがに少しばかり寿命が縮んだ気がした。
あー、私このふたり書いてんの好きなんだなーと改めて思った。
どうでもいい、よもや話。
「孝之。お前、父の日に何か渡したか?」
仕事で横浜に帰国した恭介さんと会ったのは、7月の頭。
たまたま、出張で横浜に行くことになっていたから、連絡を取って夕飯を一緒に食べる約束をした。
今年の父の日はとうに過ぎ、記憶の片隅に追いやっていたころ。
今日は、茅ヶ崎のじーちゃんちへ泊まりらしく、久しぶりに恭介さんと酒を飲めたことが少し嬉しくもあった。
「あー、今年は羽織と一緒に足袋と雪駄渡したけど」
「ほう。それは喜んだだろう」
「まぁね。親父がお袋へ話してたのを、羽織が聞いてたらしくて。小遣いだとちょっと足りないっつーから、カンパした」
当時の俺と違って、アイツはバイトをしてない。
とはいえ、月々の小遣いはきっちり貯金分と使う分でわけてもいるらしく、十分買える額を持っちゃいたが、持ちかけてきたのはなんらかの意図もあるだろうから、素直に乗っておいた。
ちょうど、どうしようか悩んでもいたしな。
お袋はなんでも素直に受け取るが、親父はそこまで単純でもない面がある。
つか、趣味が見えねぇんだよ。
俺と違ってギャンブルもスポーツもピンとこねぇし、釣りをやるわけでもない。
休日は大抵お袋と出かけている……というよりは、足代わりに使われている印象があって、何をあげたらどう反応してくれるのかいまいちわからないってのも素直な感想。
だが、先日渡したプレゼントは嬉しそうに笑ってくれ、ああこの路線で行くのが外れねぇかもなとわかった気はする。
「羽織ももう高校3年か。すっかり年頃だろうが、そうやって気にかけてもらえたら兄貴も嬉しいだろうよ」
「そういう恭介さんは? 葉月になんかもらったの?」
ここ数年会っちゃいないが、アイツは羽織と同い年。
それこそ、恭介さんが今言ったまさに年頃の娘だろうから、昔とは全然違うだろう。
俺が最後に会ったのは、葉月が12歳のとき。
夏休みで一時帰国した葉月と、じーちゃんちで花火した記憶はある。
とはいえ、もう6年前。
羽織でさえ女子高生に見えるんだから、外国育ちのアイツはもっと大人びてる印象を勝手に抱く。
「向こうでは、父の日が9月なんだよ。だから、今年はこれからだな」
「へえ」
「去年もらったのは、このネクタイピンとカフスだ」
そう言うと、恭介さんはどこか誇らしげに親指で示した。
シルバーの一般的なものだが、目は惹かれる。
ものもそうだろうけど、恭介さんの雰囲気がってのもあるんじゃねぇの。
彼ならたとえ、100均の何かを使っていても値段相応には見えない。
「あの子はセンスがあるんだよ。おかげで、商談でも話すきっかけになるし、そこから別の繋がりにも広がるし、ありがたいことだな」
スマフォを取り出した彼が、操作しながら何かを見つけたらしく俺へ差し出した。
そこには、キャンプへ行ったとおぼしき写真が映っている。
日本とは明らかに違う土の色や、くっきりと見える地平線だけでなく、湖の色も違って見える。
……が。
「顔わかんねぇじゃん」
肝心の顔が映ってない。
サングラスをかけていたり、バックショットだったり、髪の長さは十分わかるものの、彼が見せてくれたのはどんだけ育ったのかはっきり把握できない写真ばかりだった。
ま、身体つきは十分わかるけど。
羽織よりもいろいろ育ってるらしいのは、見てわかる。
「まぁ、今年どこかで会うかもな」
「そうなの?」
「かもしれない、程度だ」
ウィスキーのグラスを傾けた彼が、肩をすくめた。
予定は未定と同義じゃね? それって。
まぁいいんだけど。別に。
従妹とはいえすっかり会ってないんだから、直接会ってもわかんねぇかもしれねーし。
それに、葉月がひとりで日本へ来るとはまず考えられない。
恭介さんとセットで帰国するんだろうから、顔がわからなくてもなんら問題ねぇだろ。
「葉月、彼氏とかいんの?」
「…………」
「……え、俺なんか悪いこと言った?」
イカのフリッターをつまんだところで突然舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
恭介さんが、小さいころから葉月を溺愛してるのは知ってるが、まさかそのレベルとは思わなかった。
つか、それこそ日本よりあっちのほうがよほどオープンな印象があるから、単なる好奇心で聞いただけ。
……うわ。
さっきまでの大変人柄のよさそうかつ、MAXで対人スキル高そうな人の真逆を行く顔をされ、ごくりと喉が鳴る。
「……周りの連中にも聞かれるが、気分はよくない」
「でも、葉月だってもう18じゃん。好きなやつとかいねぇの?」
「今のところ面と向かって言われたことはないな」
まぁ、それもそうか。
羽織がお袋とそういう話はしてそうだけど、親父にするかつったらなさそうだしな。
「葉月が、どうしても俺に紹介したいヤツができたなら、もちろん会うし話もする。選考するわけじゃないが、せめて納得できる男でなければ手離したくはない」
「へえ。そんな?」
「お前は最近会ってないからわからないんだろうが、会えば確実に納得するぞ。うちの娘は世界一だと思っている」
「あー……なるほど」
ガチの顔すね。
普段、彼はそこまで固執するタチじゃないと思っていた。
つってもま、こうして年に数回会ったりメッセージのやり取りをする程度の相手。
俺だって、恭介さんの何を知ってると聞かれても明確には言えないが、ひとり娘とはいえ葉月にある種の執着にも似た感情を抱いていることは、やっぱり意外なんだよな。
「じゃあ、突然彼氏連れてくるかもしんねぇんだ」
「…………」
「恭介さん、グラス。割れるから勘弁して」
ピシリと音がしたようなしないような。
枝豆をつまんだところで不穏な音がし、慌てて彼に向き直るも、表情は変わらなかった。
世の父親って、みんなこんな……じゃねぇよな。
少なくとも、うちの親父は羽織にそこまで執着を見せてない。
それどころか、最近では副担任になった祐恭のことをむしろ彼氏候補に願っているような発言さえ出ている。
……まぁ、親ひとり子ひとりだもんな。
小さいころから、ずっとふたり水入らず状態だったし、しょうがねぇんだろ。このふたりにとっては。
「てか、恭介さんは付き合ったりしねぇの?」
「今のところ予定はないな」
「それは、葉月がいるから?」
「いや。どちらかというと、置いてきたからだ」
「……置いてきた?」
葉月の話から遠ざかったほうが確実にいいとふんでシフトすると、案の定彼はまず表情を変えた。
柔和そうな顔つきで箸を手に、白身魚のマリネをつまむ。
だが、それこそさっきまでよりもざっくりした言い方で、まさに疑問になった。
「いろいろある」
「……うわ、すげぇ怪しい」
「大人だからな」
ニヤリと笑った様は、いかにもイケナイ匂いが漂っていて、それこそ葉月には見せないだろう顔に思えた。
それどころか、いろんなものを彷彿とさせ、より具体的に聞きたくなる。
若いころの遍歴は聞きかじった程度で、すべてを教わったわけじゃない。
が、すげぇ意味ありげじゃん。
これまでもボカさず教えてくれたことばかりだったから、きっとうやむやな答えってことは言うつもりねぇんだろうな。
すっげぇ気になるけど、まぁそこは追々ってことにしとくか。
今後、小出しにだったら引き出せる気がした。
「今は……いや、今年はそれこそ葉月のための年だ。あの子も進学を考えているし、それにあわせてねばならない準備もある」
「あー、大学ね。もう考えて……るよな。そりゃそうか」
18歳、高校最後の年。
羽織でさえここにきて進路を意識しだしたんだから、より精神年齢高そうな葉月ならなおさらだろう。
会わなくなって、もう6年。
大学進学となれば、さらに4年は確実に会わない。
今でさえ会ってもわかんねぇだろうし、10年経ったらさっぱりだろうな。
「まあ、そのときが来たら伝えるさ」
「よろしく」
ざっくりしたやりとりながらも、結局この夜はその程度まで。
だから……何もかも知らなかった。
冗談めかしてツッコミ入れるのも、愛娘の彼氏像に言及するのも、最初で最後になったんだから。
「…………」
「…………」
「孝之。お前、俺に対する誠意が足りないんじゃないか?」
「いや、恭介さんイイモン持ってるじゃん? だから、ヘタなヤツは渡せないっつーか。消え物で勘弁してよ」
3月に完全帰国を果たした恭介さんは6月の第三日曜の本日、1年前には影も形もなかったまさに新妻を伴って茅ヶ崎のじーちゃんちを訪れていた。
それを聞きつけ、当然俺も葉月と一緒に足を向けたものの、テーブルを挟んで正座させられ、まるで説教モード。
つか、俺も恭介さんも客のはずなのに、なんかおかしくね?
主でもあるじーちゃんとばーちゃんは、ふすま1枚隔てた居間でテレビを見ているらしく、ここにはまったくそぐわない笑い声が小さく聞こえてきた。
「それにほら、俺より葉月はきっちり渡してたじゃん。その手帳、ずっと欲しかったヤツなんだって?」
「ああ。前まで使っていたタイプの後継だと話したのを覚えていてくれてな、我が娘ながらさすがだと思うよ」
葉月のことを話題にすると、腕を組んだまま俺を見つめてはいるが、表情が若干和らいだ。
選びに行くとき付き添ったが、葉月はきっちりオプションで恭介さんのイニシャルを刻印までしてもらっていた。
もらった相手がどんなことをしたら喜んでくれるか、常日頃からアンテナ張ってンだろうよ。
マメだなと褒めたが、アイツは笑って『たーくんのほうがマメだよね』つってたけど、それを今口にしたら亡き者にされそうだからやめとく。
「……まさか1年経って、父の日に娘の彼氏からウィスキーをもらうとは思わなかった」
「いや……それは俺も同感」
差し出した箱を開けて中身を取り出し、ラベルを見ながらしみじみ口にする。
まさか恭介さんとの食事の5ヶ月後に単身で葉月が帰国してくるとは思いもしなかったし、次の年の父の日に『父対応』することになるとも想像さえしなかった。
人生って、全然予測つかねぇもんだな。
「まぁいい。それじゃひと口飲むか」
「え。いや俺、車だし」
「なんだと。俺の酒が飲めないのか? 貴様」
「いやいやいや、恭介さんだって車じゃん!」
たちまち視線を鋭くした彼は、さらに舌打ちまでした。
どうやら慌てた声が聞こえたらしく、隣から葉月たちが姿を見せる。
はー……勘弁してくれよ。
先月の母の日に対面したときとは、まるで違う態度で迎え撃たれ、さすがに少しばかり寿命が縮んだ気がした。