我慢の夜
2020.08.07
8月7日。気付いたら、8月ももう7日も過ぎてる……恐ろしい……。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。
「…………」
ちょっと眠い。でも、あと少し。
ここまでがんばったんだもん、あと15分はなんとかなる時間だ。
「羽織?」
「っ……」
「珍しいね、まだ起きてるなんて。見たいテレビでもあるの?」
「あ、えっと……ちょっとだけ」
スマフォで時間を確かめたら、ちょうど書斎から祐恭さんが姿を現した。
『先に寝ていいから』と言われたのは、今から1時間以上前。
リビングのソファへもたれたまま、小さくあくびをしたのを見られたのかもしれない。
アイスティーのグラスを手にこちらへ来た彼は、CMの流れているテレビを見てどこか不思議そうな顔をする。
「……え?」
「眠そうな顔してる。そんなに、おもしろい番組?」
「あ、えっと……」
そういうわけじゃないんですとも言えないまま、CM明けに流れたのはニュース番組。
普段、彼といるときなら見るだろうけれど、私がひとりでニュースを見ていたのが意外だったらしい。
しかも、今の情勢ではなく、株式関連のもの。
ああ、そうです。ええと……見てません、ごめんなさい。
ソファの隣へ座った彼がちらりと私を見たのはわかったからこそ、そちらを見ることはできなかった。
「……もしかして、俺がここにいたら見れない番組でも見てた?」
「え!? な、なんですかそれっ」
「いや、ほら。ひとりで見たい何かがあるのかなって」
「ないですよ、そんなっ」
力一杯否定したせいでか、祐恭さんはむしろおかしそうに笑うと『冗談』と首を振った。
うぅ、今の否定の仕方ってむしろ怪しかった?
エアコンは効いてるはずなのに、急に暑く感じる。
「祐恭さんは、まだお仕事ですか?」
「うん、キリがいいところまでやっておきたいかな」
彼は夕食の前にも、大きなクリップで留められた分厚い紙の束をぺらぺらとめくっていた。
日本語で書かれていたように見えたけれど、専門用語なのと数字が混じっているからか、私にはちらっとも頭に入らないレベルのもの。
あれを理解して自分なりに解釈してって……なんかこう、そこはかとなくしんどい気がするんだけれど、きっと彼にはそんなことないんだろうなぁ。
ペラペラとめくる横顔は、まるで楽しい何かでも読んでいるかのように穏やかだった。
「……あ、えっと、私のことは気にしないでくださいね」
「うん、俺もちょっと休憩」
グラスを手にしたままの彼を見ると、柔らかく笑ってうなずく。
左隣に座った彼と腕が触れ、感触にどきりとはするものの心地よく感じた。
「…………」
「ああ、もしかして誘ってくれてる?」
「え?」
「ひとりじゃ寂しくて眠れないってことかな、と」
「っ……」
グラスをテーブルへ置いたあと、彼が私の顔を覗き込んだ。
目の前でにこりと笑われ、少しだけ胸が騒がしくなる。
……そんな顔されたら、困りますよ?
そうとも違うとも言えないまま、顎に触れた指先の感触にまたどきりとすると、ゆっくり唇が重なった。
まるで、味わうかのように口付けられ、舌の感触がくすぐったくもあり……胸が少し苦しい。
わずかに吐息が漏れて、テレビの音が消えた。
けれど…………時報に似た独特のあの音は耳に届き、おかげで眠くならずに15分経ったことはわかった。
「……ん……」
ちゅ、と小さな音とともに唇が離れる。
うっすらと瞳を開けた彼と目が合い、当然どきりとはする……けれど、そっと胸元に手を置くと、笑みが浮かんだ。
「お誕生日、おめでとうございます」
「え……」
「どうしても今日、一番にお祝いしたくて。……ごめんなさい、お仕事の邪魔して」
8月8日は、彼の誕生日。
このことを知っている人はたくさんいるだろうし、もしかしたら今ごろ、スマフォへメッセージも届いているかもしれない。
だから、今ここに彼がいてくれることは嬉しかった。
私じゃない誰かに先を越されてしまうことなく、直接伝えられたんだから。
「っ……祐恭、さん……?」
一瞬目を丸くした彼が、私を引き寄せた。
抱きしめられたことはすごく嬉しくて、でも、ちょっとだけ苦しくて。
思いの強さが反映されているかのようで、どうしたって笑みは浮かぶ。
「……かわいすぎ」
「えぇ!? そ、んなことないですってばっ」
だけど、耳元で囁かれた言葉はくすぐったくて、思わず首を振っていた。
「いや、どう考えたってかわいいでしょ。俺のために一所懸命なんだよ?」
「……そう言ってもらえたら嬉しいです」
今年の誕生日は、連休という私にとってスペシャルなカレンダーだった。
もちろん、平日だったらそれはそれでアリだと思うけれど、こんなふうに誕生日の最初からずっと一緒にいられるんだよ?
今日がお休みだとわかってからずっと、一番におめでとうと言いたかった。
“彼女“だからこそ、という妙な意地もあって。
「それで、思いつめてる顔してたんだ」
「え……そんな顔してました?」
「うん。まるで、レポート提出期限前日みたいだった」
「う」
それはまだ記憶の端に追いやれていない、つい先日のこと。
心理学概論のレポートが間に合わず、泣きそうになりながらプリントアウトしたものを読み直していたときのことじゃないだろうか。
うぅ。だって、本当にどうしようかと思ったんだもん。
最初の年から単位が取れませんでしたなんて、誰にも言えないんだから。
「ありがとう。祝ってもらえて、嬉しい。……ていうか、今ここにいるのが嬉しいかな」
髪を撫でた彼が、柔らかく笑うと改めて肩を引き寄せた。
腕の中にいられることは、特別な時間で。
さっきまではあんなに眠たかったのに、今はまったくない。
キスのおかげか、それともやり遂げたからかはわからないけれど、どちらにしても笑顔は残ったまま。
えへへ。嬉しい。
改めて彼を見上げてからそっと肩へもたれると、大きな手のひらの感触がより伝わってくる気がした。
「今日がお誕生日って、まさにぴったりですね」
「え?」
「パチパチの日じゃないですか。8月8日って」
両手の先だけで拍手すると、小さな音が響いた。
最初に彼の誕生日を知ったとき、ふいに浮かんだ語呂合わせ。
おめでたいなぁって、なんだかピンと来すぎてちょっとだけ嬉しくなった。
「そんなふうに言われたことないな。第二の母の日とは言われたけどね」
「母の日……ああ、確かに」
「きょうだいでも、言ってくれる言葉は全然違うな」
「えっ、お兄ちゃんに言われたんですか?」
「うん。母の日じゃんすげーな、って。何がすごいのかさっぱりわからなかったし、まぁぶっちゃけ、誕生日を知ったところで祝われることもなかったから、その会話だけで終わったけど」
そっか。誕生日だからって、お祝いしあいっこはしない……のかな。
私は、絵里や葉月の誕生日にはお菓子だったり、そのとき自分が買ってよかった雑貨なんかをあげたりしているけれど、周りの子たちもプレゼント交換みたいにしていることが多いから、当たり前なんだと思っていた。
もちろん、女子校だったからっていうのもあるのかな。
まあ……男子同士では言葉でのお祝いこそあっても、プレゼントの受け渡しまではしないかもしれない。
だいぶ前、お兄ちゃんが優くんの誕生日にタバコを買ってあげたっていうのは聞いたけれど、もしかしたらその程度なのかも。
「それじゃ、今度は俺の番だね」
「え?」
「明日は俺の番。……いや、正確には“今日の夜“が正しいかな」
「っ……」
柔らかく笑った祐恭さんが、こめかみへ口づけた。
今日の夜ということは……きっと、このタイミングと同じ23時後半のことを言っているんだろう。
8月9日は、私の誕生日。
前々から彼はずっと、『おいしいって聞いたイタリアンを食べに行こう』と公言してくれていた。
私にとっては、どこかへお出かけするのももちろん嬉しいけれど、こうしてふたりきりで過ごせている時間も大好きだから、どんな形でも特別な気持ちにはなる。
一緒に過ごせることが、私には……嬉しいことだもん。
こうして触れてくれている今は、なおさらに幸せな時間だ。
「8月9日は約束の日、だからね」
「っ……」
「羽織とは、たくさん約束したいし……どれもちゃんと守るから」
今日だけじゃなくて、明日も。そして、できることならもっと先まで。
柔らかく笑った彼が、続けてささやく。
「嬉しいです。……そんなふうに言ってもらったのも、初めて」
「それはよかった。孝之よりはセンスあるでしょ?」
「あはは。そうですね」
ほんの少しだけいたずらっぽく笑った彼が、改めて私に手を伸ばす。
まるで大切なものを扱うかのように、両手の指先が恭しく顎から頬へ触れた。
……約束。
小さくても、大きくても、私にとっては特別で大切なことばかり。
むしろ、こうしてやりとりできること自体が特別なんだろうな。
「……ん」
改めて口づけられ、嬉しさとほんの少しのどきどきとでわずかに声が漏れる。
すると、どこか困ったように笑いながら、祐恭さんが『俺も一緒に寝ようかな』と小さくつぶやいたのが印象的だった。
父の日②
2020.06.21
そんなわけで、恭介と孝之バージョン。
あー、私このふたり書いてんの好きなんだなーと改めて思った。
どうでもいい、よもや話。
「孝之。お前、父の日に何か渡したか?」
仕事で横浜に帰国した恭介さんと会ったのは、7月の頭。
たまたま、出張で横浜に行くことになっていたから、連絡を取って夕飯を一緒に食べる約束をした。
今年の父の日はとうに過ぎ、記憶の片隅に追いやっていたころ。
今日は、茅ヶ崎のじーちゃんちへ泊まりらしく、久しぶりに恭介さんと酒を飲めたことが少し嬉しくもあった。
「あー、今年は羽織と一緒に足袋と雪駄渡したけど」
「ほう。それは喜んだだろう」
「まぁね。親父がお袋へ話してたのを、羽織が聞いてたらしくて。小遣いだとちょっと足りないっつーから、カンパした」
当時の俺と違って、アイツはバイトをしてない。
とはいえ、月々の小遣いはきっちり貯金分と使う分でわけてもいるらしく、十分買える額を持っちゃいたが、持ちかけてきたのはなんらかの意図もあるだろうから、素直に乗っておいた。
ちょうど、どうしようか悩んでもいたしな。
お袋はなんでも素直に受け取るが、親父はそこまで単純でもない面がある。
つか、趣味が見えねぇんだよ。
俺と違ってギャンブルもスポーツもピンとこねぇし、釣りをやるわけでもない。
休日は大抵お袋と出かけている……というよりは、足代わりに使われている印象があって、何をあげたらどう反応してくれるのかいまいちわからないってのも素直な感想。
だが、先日渡したプレゼントは嬉しそうに笑ってくれ、ああこの路線で行くのが外れねぇかもなとわかった気はする。
「羽織ももう高校3年か。すっかり年頃だろうが、そうやって気にかけてもらえたら兄貴も嬉しいだろうよ」
「そういう恭介さんは? 葉月になんかもらったの?」
ここ数年会っちゃいないが、アイツは羽織と同い年。
それこそ、恭介さんが今言ったまさに年頃の娘だろうから、昔とは全然違うだろう。
俺が最後に会ったのは、葉月が12歳のとき。
夏休みで一時帰国した葉月と、じーちゃんちで花火した記憶はある。
とはいえ、もう6年前。
羽織でさえ女子高生に見えるんだから、外国育ちのアイツはもっと大人びてる印象を勝手に抱く。
「向こうでは、父の日が9月なんだよ。だから、今年はこれからだな」
「へえ」
「去年もらったのは、このネクタイピンとカフスだ」
そう言うと、恭介さんはどこか誇らしげに親指で示した。
シルバーの一般的なものだが、目は惹かれる。
ものもそうだろうけど、恭介さんの雰囲気がってのもあるんじゃねぇの。
彼ならたとえ、100均の何かを使っていても値段相応には見えない。
「あの子はセンスがあるんだよ。おかげで、商談でも話すきっかけになるし、そこから別の繋がりにも広がるし、ありがたいことだな」
スマフォを取り出した彼が、操作しながら何かを見つけたらしく俺へ差し出した。
そこには、キャンプへ行ったとおぼしき写真が映っている。
日本とは明らかに違う土の色や、くっきりと見える地平線だけでなく、湖の色も違って見える。
……が。
「顔わかんねぇじゃん」
肝心の顔が映ってない。
サングラスをかけていたり、バックショットだったり、髪の長さは十分わかるものの、彼が見せてくれたのはどんだけ育ったのかはっきり把握できない写真ばかりだった。
ま、身体つきは十分わかるけど。
羽織よりもいろいろ育ってるらしいのは、見てわかる。
「まぁ、今年どこかで会うかもな」
「そうなの?」
「かもしれない、程度だ」
ウィスキーのグラスを傾けた彼が、肩をすくめた。
予定は未定と同義じゃね? それって。
まぁいいんだけど。別に。
従妹とはいえすっかり会ってないんだから、直接会ってもわかんねぇかもしれねーし。
それに、葉月がひとりで日本へ来るとはまず考えられない。
恭介さんとセットで帰国するんだろうから、顔がわからなくてもなんら問題ねぇだろ。
「葉月、彼氏とかいんの?」
「…………」
「……え、俺なんか悪いこと言った?」
イカのフリッターをつまんだところで突然舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
恭介さんが、小さいころから葉月を溺愛してるのは知ってるが、まさかそのレベルとは思わなかった。
つか、それこそ日本よりあっちのほうがよほどオープンな印象があるから、単なる好奇心で聞いただけ。
……うわ。
さっきまでの大変人柄のよさそうかつ、MAXで対人スキル高そうな人の真逆を行く顔をされ、ごくりと喉が鳴る。
「……周りの連中にも聞かれるが、気分はよくない」
「でも、葉月だってもう18じゃん。好きなやつとかいねぇの?」
「今のところ面と向かって言われたことはないな」
まぁ、それもそうか。
羽織がお袋とそういう話はしてそうだけど、親父にするかつったらなさそうだしな。
「葉月が、どうしても俺に紹介したいヤツができたなら、もちろん会うし話もする。選考するわけじゃないが、せめて納得できる男でなければ手離したくはない」
「へえ。そんな?」
「お前は最近会ってないからわからないんだろうが、会えば確実に納得するぞ。うちの娘は世界一だと思っている」
「あー……なるほど」
ガチの顔すね。
普段、彼はそこまで固執するタチじゃないと思っていた。
つってもま、こうして年に数回会ったりメッセージのやり取りをする程度の相手。
俺だって、恭介さんの何を知ってると聞かれても明確には言えないが、ひとり娘とはいえ葉月にある種の執着にも似た感情を抱いていることは、やっぱり意外なんだよな。
「じゃあ、突然彼氏連れてくるかもしんねぇんだ」
「…………」
「恭介さん、グラス。割れるから勘弁して」
ピシリと音がしたようなしないような。
枝豆をつまんだところで不穏な音がし、慌てて彼に向き直るも、表情は変わらなかった。
世の父親って、みんなこんな……じゃねぇよな。
少なくとも、うちの親父は羽織にそこまで執着を見せてない。
それどころか、最近では副担任になった祐恭のことをむしろ彼氏候補に願っているような発言さえ出ている。
……まぁ、親ひとり子ひとりだもんな。
小さいころから、ずっとふたり水入らず状態だったし、しょうがねぇんだろ。このふたりにとっては。
「てか、恭介さんは付き合ったりしねぇの?」
「今のところ予定はないな」
「それは、葉月がいるから?」
「いや。どちらかというと、置いてきたからだ」
「……置いてきた?」
葉月の話から遠ざかったほうが確実にいいとふんでシフトすると、案の定彼はまず表情を変えた。
柔和そうな顔つきで箸を手に、白身魚のマリネをつまむ。
だが、それこそさっきまでよりもざっくりした言い方で、まさに疑問になった。
「いろいろある」
「……うわ、すげぇ怪しい」
「大人だからな」
ニヤリと笑った様は、いかにもイケナイ匂いが漂っていて、それこそ葉月には見せないだろう顔に思えた。
それどころか、いろんなものを彷彿とさせ、より具体的に聞きたくなる。
若いころの遍歴は聞きかじった程度で、すべてを教わったわけじゃない。
が、すげぇ意味ありげじゃん。
これまでもボカさず教えてくれたことばかりだったから、きっとうやむやな答えってことは言うつもりねぇんだろうな。
すっげぇ気になるけど、まぁそこは追々ってことにしとくか。
今後、小出しにだったら引き出せる気がした。
「今は……いや、今年はそれこそ葉月のための年だ。あの子も進学を考えているし、それにあわせてねばならない準備もある」
「あー、大学ね。もう考えて……るよな。そりゃそうか」
18歳、高校最後の年。
羽織でさえここにきて進路を意識しだしたんだから、より精神年齢高そうな葉月ならなおさらだろう。
会わなくなって、もう6年。
大学進学となれば、さらに4年は確実に会わない。
今でさえ会ってもわかんねぇだろうし、10年経ったらさっぱりだろうな。
「まあ、そのときが来たら伝えるさ」
「よろしく」
ざっくりしたやりとりながらも、結局この夜はその程度まで。
だから……何もかも知らなかった。
冗談めかしてツッコミ入れるのも、愛娘の彼氏像に言及するのも、最初で最後になったんだから。
「…………」
「…………」
「孝之。お前、俺に対する誠意が足りないんじゃないか?」
「いや、恭介さんイイモン持ってるじゃん? だから、ヘタなヤツは渡せないっつーか。消え物で勘弁してよ」
3月に完全帰国を果たした恭介さんは6月の第三日曜の本日、1年前には影も形もなかったまさに新妻を伴って茅ヶ崎のじーちゃんちを訪れていた。
それを聞きつけ、当然俺も葉月と一緒に足を向けたものの、テーブルを挟んで正座させられ、まるで説教モード。
つか、俺も恭介さんも客のはずなのに、なんかおかしくね?
主でもあるじーちゃんとばーちゃんは、ふすま1枚隔てた居間でテレビを見ているらしく、ここにはまったくそぐわない笑い声が小さく聞こえてきた。
「それにほら、俺より葉月はきっちり渡してたじゃん。その手帳、ずっと欲しかったヤツなんだって?」
「ああ。前まで使っていたタイプの後継だと話したのを覚えていてくれてな、我が娘ながらさすがだと思うよ」
葉月のことを話題にすると、腕を組んだまま俺を見つめてはいるが、表情が若干和らいだ。
選びに行くとき付き添ったが、葉月はきっちりオプションで恭介さんのイニシャルを刻印までしてもらっていた。
もらった相手がどんなことをしたら喜んでくれるか、常日頃からアンテナ張ってンだろうよ。
マメだなと褒めたが、アイツは笑って『たーくんのほうがマメだよね』つってたけど、それを今口にしたら亡き者にされそうだからやめとく。
「……まさか1年経って、父の日に娘の彼氏からウィスキーをもらうとは思わなかった」
「いや……それは俺も同感」
差し出した箱を開けて中身を取り出し、ラベルを見ながらしみじみ口にする。
まさか恭介さんとの食事の5ヶ月後に単身で葉月が帰国してくるとは思いもしなかったし、次の年の父の日に『父対応』することになるとも想像さえしなかった。
人生って、全然予測つかねぇもんだな。
「まぁいい。それじゃひと口飲むか」
「え。いや俺、車だし」
「なんだと。俺の酒が飲めないのか? 貴様」
「いやいやいや、恭介さんだって車じゃん!」
たちまち視線を鋭くした彼は、さらに舌打ちまでした。
どうやら慌てた声が聞こえたらしく、隣から葉月たちが姿を見せる。
はー……勘弁してくれよ。
先月の母の日に対面したときとは、まるで違う態度で迎え撃たれ、さすがに少しばかり寿命が縮んだ気がした。
あー、私このふたり書いてんの好きなんだなーと改めて思った。
どうでもいい、よもや話。
「孝之。お前、父の日に何か渡したか?」
仕事で横浜に帰国した恭介さんと会ったのは、7月の頭。
たまたま、出張で横浜に行くことになっていたから、連絡を取って夕飯を一緒に食べる約束をした。
今年の父の日はとうに過ぎ、記憶の片隅に追いやっていたころ。
今日は、茅ヶ崎のじーちゃんちへ泊まりらしく、久しぶりに恭介さんと酒を飲めたことが少し嬉しくもあった。
「あー、今年は羽織と一緒に足袋と雪駄渡したけど」
「ほう。それは喜んだだろう」
「まぁね。親父がお袋へ話してたのを、羽織が聞いてたらしくて。小遣いだとちょっと足りないっつーから、カンパした」
当時の俺と違って、アイツはバイトをしてない。
とはいえ、月々の小遣いはきっちり貯金分と使う分でわけてもいるらしく、十分買える額を持っちゃいたが、持ちかけてきたのはなんらかの意図もあるだろうから、素直に乗っておいた。
ちょうど、どうしようか悩んでもいたしな。
お袋はなんでも素直に受け取るが、親父はそこまで単純でもない面がある。
つか、趣味が見えねぇんだよ。
俺と違ってギャンブルもスポーツもピンとこねぇし、釣りをやるわけでもない。
休日は大抵お袋と出かけている……というよりは、足代わりに使われている印象があって、何をあげたらどう反応してくれるのかいまいちわからないってのも素直な感想。
だが、先日渡したプレゼントは嬉しそうに笑ってくれ、ああこの路線で行くのが外れねぇかもなとわかった気はする。
「羽織ももう高校3年か。すっかり年頃だろうが、そうやって気にかけてもらえたら兄貴も嬉しいだろうよ」
「そういう恭介さんは? 葉月になんかもらったの?」
ここ数年会っちゃいないが、アイツは羽織と同い年。
それこそ、恭介さんが今言ったまさに年頃の娘だろうから、昔とは全然違うだろう。
俺が最後に会ったのは、葉月が12歳のとき。
夏休みで一時帰国した葉月と、じーちゃんちで花火した記憶はある。
とはいえ、もう6年前。
羽織でさえ女子高生に見えるんだから、外国育ちのアイツはもっと大人びてる印象を勝手に抱く。
「向こうでは、父の日が9月なんだよ。だから、今年はこれからだな」
「へえ」
「去年もらったのは、このネクタイピンとカフスだ」
そう言うと、恭介さんはどこか誇らしげに親指で示した。
シルバーの一般的なものだが、目は惹かれる。
ものもそうだろうけど、恭介さんの雰囲気がってのもあるんじゃねぇの。
彼ならたとえ、100均の何かを使っていても値段相応には見えない。
「あの子はセンスがあるんだよ。おかげで、商談でも話すきっかけになるし、そこから別の繋がりにも広がるし、ありがたいことだな」
スマフォを取り出した彼が、操作しながら何かを見つけたらしく俺へ差し出した。
そこには、キャンプへ行ったとおぼしき写真が映っている。
日本とは明らかに違う土の色や、くっきりと見える地平線だけでなく、湖の色も違って見える。
……が。
「顔わかんねぇじゃん」
肝心の顔が映ってない。
サングラスをかけていたり、バックショットだったり、髪の長さは十分わかるものの、彼が見せてくれたのはどんだけ育ったのかはっきり把握できない写真ばかりだった。
ま、身体つきは十分わかるけど。
羽織よりもいろいろ育ってるらしいのは、見てわかる。
「まぁ、今年どこかで会うかもな」
「そうなの?」
「かもしれない、程度だ」
ウィスキーのグラスを傾けた彼が、肩をすくめた。
予定は未定と同義じゃね? それって。
まぁいいんだけど。別に。
従妹とはいえすっかり会ってないんだから、直接会ってもわかんねぇかもしれねーし。
それに、葉月がひとりで日本へ来るとはまず考えられない。
恭介さんとセットで帰国するんだろうから、顔がわからなくてもなんら問題ねぇだろ。
「葉月、彼氏とかいんの?」
「…………」
「……え、俺なんか悪いこと言った?」
イカのフリッターをつまんだところで突然舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
恭介さんが、小さいころから葉月を溺愛してるのは知ってるが、まさかそのレベルとは思わなかった。
つか、それこそ日本よりあっちのほうがよほどオープンな印象があるから、単なる好奇心で聞いただけ。
……うわ。
さっきまでの大変人柄のよさそうかつ、MAXで対人スキル高そうな人の真逆を行く顔をされ、ごくりと喉が鳴る。
「……周りの連中にも聞かれるが、気分はよくない」
「でも、葉月だってもう18じゃん。好きなやつとかいねぇの?」
「今のところ面と向かって言われたことはないな」
まぁ、それもそうか。
羽織がお袋とそういう話はしてそうだけど、親父にするかつったらなさそうだしな。
「葉月が、どうしても俺に紹介したいヤツができたなら、もちろん会うし話もする。選考するわけじゃないが、せめて納得できる男でなければ手離したくはない」
「へえ。そんな?」
「お前は最近会ってないからわからないんだろうが、会えば確実に納得するぞ。うちの娘は世界一だと思っている」
「あー……なるほど」
ガチの顔すね。
普段、彼はそこまで固執するタチじゃないと思っていた。
つってもま、こうして年に数回会ったりメッセージのやり取りをする程度の相手。
俺だって、恭介さんの何を知ってると聞かれても明確には言えないが、ひとり娘とはいえ葉月にある種の執着にも似た感情を抱いていることは、やっぱり意外なんだよな。
「じゃあ、突然彼氏連れてくるかもしんねぇんだ」
「…………」
「恭介さん、グラス。割れるから勘弁して」
ピシリと音がしたようなしないような。
枝豆をつまんだところで不穏な音がし、慌てて彼に向き直るも、表情は変わらなかった。
世の父親って、みんなこんな……じゃねぇよな。
少なくとも、うちの親父は羽織にそこまで執着を見せてない。
それどころか、最近では副担任になった祐恭のことをむしろ彼氏候補に願っているような発言さえ出ている。
……まぁ、親ひとり子ひとりだもんな。
小さいころから、ずっとふたり水入らず状態だったし、しょうがねぇんだろ。このふたりにとっては。
「てか、恭介さんは付き合ったりしねぇの?」
「今のところ予定はないな」
「それは、葉月がいるから?」
「いや。どちらかというと、置いてきたからだ」
「……置いてきた?」
葉月の話から遠ざかったほうが確実にいいとふんでシフトすると、案の定彼はまず表情を変えた。
柔和そうな顔つきで箸を手に、白身魚のマリネをつまむ。
だが、それこそさっきまでよりもざっくりした言い方で、まさに疑問になった。
「いろいろある」
「……うわ、すげぇ怪しい」
「大人だからな」
ニヤリと笑った様は、いかにもイケナイ匂いが漂っていて、それこそ葉月には見せないだろう顔に思えた。
それどころか、いろんなものを彷彿とさせ、より具体的に聞きたくなる。
若いころの遍歴は聞きかじった程度で、すべてを教わったわけじゃない。
が、すげぇ意味ありげじゃん。
これまでもボカさず教えてくれたことばかりだったから、きっとうやむやな答えってことは言うつもりねぇんだろうな。
すっげぇ気になるけど、まぁそこは追々ってことにしとくか。
今後、小出しにだったら引き出せる気がした。
「今は……いや、今年はそれこそ葉月のための年だ。あの子も進学を考えているし、それにあわせてねばならない準備もある」
「あー、大学ね。もう考えて……るよな。そりゃそうか」
18歳、高校最後の年。
羽織でさえここにきて進路を意識しだしたんだから、より精神年齢高そうな葉月ならなおさらだろう。
会わなくなって、もう6年。
大学進学となれば、さらに4年は確実に会わない。
今でさえ会ってもわかんねぇだろうし、10年経ったらさっぱりだろうな。
「まあ、そのときが来たら伝えるさ」
「よろしく」
ざっくりしたやりとりながらも、結局この夜はその程度まで。
だから……何もかも知らなかった。
冗談めかしてツッコミ入れるのも、愛娘の彼氏像に言及するのも、最初で最後になったんだから。
「…………」
「…………」
「孝之。お前、俺に対する誠意が足りないんじゃないか?」
「いや、恭介さんイイモン持ってるじゃん? だから、ヘタなヤツは渡せないっつーか。消え物で勘弁してよ」
3月に完全帰国を果たした恭介さんは6月の第三日曜の本日、1年前には影も形もなかったまさに新妻を伴って茅ヶ崎のじーちゃんちを訪れていた。
それを聞きつけ、当然俺も葉月と一緒に足を向けたものの、テーブルを挟んで正座させられ、まるで説教モード。
つか、俺も恭介さんも客のはずなのに、なんかおかしくね?
主でもあるじーちゃんとばーちゃんは、ふすま1枚隔てた居間でテレビを見ているらしく、ここにはまったくそぐわない笑い声が小さく聞こえてきた。
「それにほら、俺より葉月はきっちり渡してたじゃん。その手帳、ずっと欲しかったヤツなんだって?」
「ああ。前まで使っていたタイプの後継だと話したのを覚えていてくれてな、我が娘ながらさすがだと思うよ」
葉月のことを話題にすると、腕を組んだまま俺を見つめてはいるが、表情が若干和らいだ。
選びに行くとき付き添ったが、葉月はきっちりオプションで恭介さんのイニシャルを刻印までしてもらっていた。
もらった相手がどんなことをしたら喜んでくれるか、常日頃からアンテナ張ってンだろうよ。
マメだなと褒めたが、アイツは笑って『たーくんのほうがマメだよね』つってたけど、それを今口にしたら亡き者にされそうだからやめとく。
「……まさか1年経って、父の日に娘の彼氏からウィスキーをもらうとは思わなかった」
「いや……それは俺も同感」
差し出した箱を開けて中身を取り出し、ラベルを見ながらしみじみ口にする。
まさか恭介さんとの食事の5ヶ月後に単身で葉月が帰国してくるとは思いもしなかったし、次の年の父の日に『父対応』することになるとも想像さえしなかった。
人生って、全然予測つかねぇもんだな。
「まぁいい。それじゃひと口飲むか」
「え。いや俺、車だし」
「なんだと。俺の酒が飲めないのか? 貴様」
「いやいやいや、恭介さんだって車じゃん!」
たちまち視線を鋭くした彼は、さらに舌打ちまでした。
どうやら慌てた声が聞こえたらしく、隣から葉月たちが姿を見せる。
はー……勘弁してくれよ。
先月の母の日に対面したときとは、まるで違う態度で迎え撃たれ、さすがに少しばかり寿命が縮んだ気がした。
父の日その1
2020.06.21
父の日その1。
時間があったら、その2あげますー。
「瀬那先生、ペンありがとうございました」
「ああ、そうだったな。忘れていたよ」
3時限目が終わり、職員室手前の廊下を曲がったところで、ちょうど彼と出くわした。
今朝、職員会議でお借りしたボールペンは、金の矢羽がついているしっかりした重さのあるもので。
普段俺が使っている、プラスチックのものとはまるで違い、かなり書き心地はよかった。
「それ、使いやすいですね」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ」
重さがあるぶん、書くときに安定するのかもしれない。
角度もつけやすかったし、ペンによって字がうける影響は少なからずあるんだとわかった。
「この間の父の日、娘にもらったんだよ」
「へえ。それは嬉しいですね」
「反抗期があってもよさそうなんだが、孝之を見ていたのかなくてね。いいのか悪いのか、少し心配もある」
「お嬢さんって……今、おいくつでしたっけ?」
「今年、高校2年になったよ」
にっこり笑った彼は、受け取ったボールペンをしげしげ見つめるとどこか嬉しそうに笑った。
父の日にもらったということは、まさについ先日か。
……へえ。
高校2年生のお嬢さんがくれたとあれば、当然嬉しいだろう。
うちの父親も妹からのプレゼントは思い入れが違うらしく、そういえば先日形ばかりの父の日を渡しに行ったら、もらったというウィスキーをそれはそれは大切そうに飲んでいた。
「祐恭君は会ったことがなかったか?」
「普段、孝之としか会わないんで。高校時代にお邪魔したときは、何度かすれ違った気がするんですけれど」
孝之の家であり瀬那先生のご自宅へ伺ったのは、それこそ高校時代まで。
大学に入ってからは俺がひとり暮らしを始めたこともあり、逆にアイツが来ることが増えた。
泊める予定じゃなかったのに、酔い潰れて布団じゃないところで寝ることもザラ。
俺の家なのにアイツの私物がたまにあって、意味がわからないことも割と多かった気はする。
「かわいいお嬢さんなんでしょうね」
「はは、少し幼い気はするがね。この間も、食事に誘ったら嬉しそうについてくるもんだから、逆にいいのかと迷いもしたよ」
「いいじゃないですか。仲がいい証拠だと思いますよ」
「そうかね? 年頃だし、付き合いのある子がいるのかどうかはわからないが、いつまでも男親と当たり前のように歩くのもどうかと心配にはなるもんだよ」
苦笑を浮かべてはいるが、エピソードを話してくれる彼はとても嬉しそうだった。
かわいいんだろうな、きっと。
見た目がどうこうではなく、存在そのものが。
父親と距離を取りたがる娘の話はよく聞くが、逆は逆で微笑ましい気はするけどね。
俺にはわからないけど、でも、アリだとは思う。
娘といい関係性なのは、彼とお袋さんとの関係も影響しているだろうから。
「まぁ、今度家に来ることがあったら紹介するよ」
「そのときは、手土産用意しますね」
「はは。あの子も孝之と一緒で甘いものが好きだから、それは喜ぶな」
からから笑った彼に頭を下げ、次の担当クラスへ向かう。
今日は、先日のテスト返却と解答の説明。
椅子に座ったままではないが、気持ちとしては普段よりも穏やかな時間にはなりそうだ。
……にしても、瀬那先生のお嬢さんってことは、あの孝之の妹ってことだろ?
見た目はわからないが、なかなか現実的な子なんじゃないのか。
いやしかし、反抗期がなくて幼いとも言ってたしな……ちょっと見てみたい気はする。
「……まぁ、なかなか機会はないだろうけど」
勝手に思い描いた想像図を払うように首を振ると、改めて『ないな』とひとりごちていた。
「……えっと……なんですか?」
「いや、おいしそうに食べるなと思って」
6月の第3日曜の昼過ぎ。
手土産として一緒に選んだデザートながらも、羽織は幸せそうにスフレへスプーンを伸ばした。
今日は父の日。
瀬那先生にはこの時間からお邪魔することを伝えていたからか、お袋さんと一緒にきっちり待ってくれていた。
孝之は出かけているらしく、姿はない。
ってことは……まぁ、“父の日“だもんな。
アイツはアイツできっちり義務を果たしてるんだろう。
「そういえば、去年の父の日って何あげたの?」
「去年は、お兄ちゃんにも協力してもらって足袋と雪駄のセットにしたんです」
「へぇ。いいところに目をつけるね」
「お父さん、いろいろ持ってるからどうしようかなぁって思ったんですけれど、そういえばほつれが……ってお母さんに話してるのを聞いて。すっごく喜んでもらえたんですよ」
だろうね。
かなり嬉しそうに笑うのを見て、こっちまで笑みがうつる。
彼の使っている弓具は、かなり物がいい。
が、足袋と雪駄はそれこそ消耗品でもあるし、いくつあっても困りはしないんじゃないか。
足元って、結構見られるしね。
……俺も気をつけよう。
「一昨年は、ボールペンあげたでしょ」
「え?」
「金の矢羽がついてる、シルバーのやつ」
今、リビングには瀬那先生とお袋さんの姿はない。
お袋さんは来客対応をしていて、瀬那先生はスマフォにかかってきた電話対応のため先ほど別の部屋へ向かった。
だから、くしくもふたりきり。
少しだけ羽織へ顔を寄せると、それはそれは不思議そうにまばたいた。
「祐恭さん、どうして知ってるんですか?」
「そのボールペン、借りたことがあるんだよ。で、そのとき初めて、瀬那先生のお嬢さんが高校2年生だって知った」
「そうなんですか!?」
今からちょうど2年前。
俺たちがこうして出会う以前ながらも、間接的には触れていたんだとわかり、素直に嬉しかった。
あのときとは違い、彼女はもう大学生になっている。
月日の経つのは……というよりも、俺と個人的な繋がりができたことは、改めてすごいなと思うよ。
「想像してたより、ずっとかわいかった」
「かわいいって……何がですか?」
「父の日にボールペンをプレゼントしたり、一緒にご飯食べに行ったりしてくれる、瀬那先生のお嬢さん」
「…………」
「…………」
「っえ、私!?」
「君以外にいないだろ」
にっこり笑って褒めたつもりだったのに、羽織は目を丸くした。
あのとき想像したお嬢さんは、目の前の彼女とはまるで違う。
孝之を元にイメージしたから、目元も口元も全然。
むしろ、キツい印象を勝手に抱いたが、180度違うから本当に驚いたよ。
……こんなに素直でいい子とはね。
そりゃ、いろんな意味で心配になるわけだ。
「瀬那先生が父になるなんて、あのときは想像もしなかった」
「……祐恭さん……」
「しかもこんなにかわいい子で、想像した以上にハマるなんてね」
まだ、ふたりが戻らないのをいいことに、そっと頬へ手を伸ばす。
困ったような顔なのに、確実に喜んでくれている気はして。
結ばれた唇に、つい視線は移る。
ふとしたタイミングで、うっかりキスしそうな程度には“欲しい“相手そのもの。
2年前とはまるで違う想いを抱くことになるなんて、人生はどこでどうなるか本当にわからないものだな。
「っ……」
「続きはまたあとでね」
「もぅ……顔赤くなっちゃうじゃないですか」
「大丈夫。かわいいから」
そっと引き寄せ、触れるだけのキスをすると、すぐここで困ったように……でもやっぱり嬉しそうに笑う。
そういう顔してくれるから、もっと手を出したくなるってわかってないんだろうな。きっと。
素直で純粋なイメージは、今のほうが当時よりももっと強い。
そういう意味では、変わらないものもあるんだな。
頬へ手を当てた彼女を笑ったら、ちょうどご両親が揃ってリビングへ戻ってくるところだった。
時間があったら、その2あげますー。
「瀬那先生、ペンありがとうございました」
「ああ、そうだったな。忘れていたよ」
3時限目が終わり、職員室手前の廊下を曲がったところで、ちょうど彼と出くわした。
今朝、職員会議でお借りしたボールペンは、金の矢羽がついているしっかりした重さのあるもので。
普段俺が使っている、プラスチックのものとはまるで違い、かなり書き心地はよかった。
「それ、使いやすいですね」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ」
重さがあるぶん、書くときに安定するのかもしれない。
角度もつけやすかったし、ペンによって字がうける影響は少なからずあるんだとわかった。
「この間の父の日、娘にもらったんだよ」
「へえ。それは嬉しいですね」
「反抗期があってもよさそうなんだが、孝之を見ていたのかなくてね。いいのか悪いのか、少し心配もある」
「お嬢さんって……今、おいくつでしたっけ?」
「今年、高校2年になったよ」
にっこり笑った彼は、受け取ったボールペンをしげしげ見つめるとどこか嬉しそうに笑った。
父の日にもらったということは、まさについ先日か。
……へえ。
高校2年生のお嬢さんがくれたとあれば、当然嬉しいだろう。
うちの父親も妹からのプレゼントは思い入れが違うらしく、そういえば先日形ばかりの父の日を渡しに行ったら、もらったというウィスキーをそれはそれは大切そうに飲んでいた。
「祐恭君は会ったことがなかったか?」
「普段、孝之としか会わないんで。高校時代にお邪魔したときは、何度かすれ違った気がするんですけれど」
孝之の家であり瀬那先生のご自宅へ伺ったのは、それこそ高校時代まで。
大学に入ってからは俺がひとり暮らしを始めたこともあり、逆にアイツが来ることが増えた。
泊める予定じゃなかったのに、酔い潰れて布団じゃないところで寝ることもザラ。
俺の家なのにアイツの私物がたまにあって、意味がわからないことも割と多かった気はする。
「かわいいお嬢さんなんでしょうね」
「はは、少し幼い気はするがね。この間も、食事に誘ったら嬉しそうについてくるもんだから、逆にいいのかと迷いもしたよ」
「いいじゃないですか。仲がいい証拠だと思いますよ」
「そうかね? 年頃だし、付き合いのある子がいるのかどうかはわからないが、いつまでも男親と当たり前のように歩くのもどうかと心配にはなるもんだよ」
苦笑を浮かべてはいるが、エピソードを話してくれる彼はとても嬉しそうだった。
かわいいんだろうな、きっと。
見た目がどうこうではなく、存在そのものが。
父親と距離を取りたがる娘の話はよく聞くが、逆は逆で微笑ましい気はするけどね。
俺にはわからないけど、でも、アリだとは思う。
娘といい関係性なのは、彼とお袋さんとの関係も影響しているだろうから。
「まぁ、今度家に来ることがあったら紹介するよ」
「そのときは、手土産用意しますね」
「はは。あの子も孝之と一緒で甘いものが好きだから、それは喜ぶな」
からから笑った彼に頭を下げ、次の担当クラスへ向かう。
今日は、先日のテスト返却と解答の説明。
椅子に座ったままではないが、気持ちとしては普段よりも穏やかな時間にはなりそうだ。
……にしても、瀬那先生のお嬢さんってことは、あの孝之の妹ってことだろ?
見た目はわからないが、なかなか現実的な子なんじゃないのか。
いやしかし、反抗期がなくて幼いとも言ってたしな……ちょっと見てみたい気はする。
「……まぁ、なかなか機会はないだろうけど」
勝手に思い描いた想像図を払うように首を振ると、改めて『ないな』とひとりごちていた。
「……えっと……なんですか?」
「いや、おいしそうに食べるなと思って」
6月の第3日曜の昼過ぎ。
手土産として一緒に選んだデザートながらも、羽織は幸せそうにスフレへスプーンを伸ばした。
今日は父の日。
瀬那先生にはこの時間からお邪魔することを伝えていたからか、お袋さんと一緒にきっちり待ってくれていた。
孝之は出かけているらしく、姿はない。
ってことは……まぁ、“父の日“だもんな。
アイツはアイツできっちり義務を果たしてるんだろう。
「そういえば、去年の父の日って何あげたの?」
「去年は、お兄ちゃんにも協力してもらって足袋と雪駄のセットにしたんです」
「へぇ。いいところに目をつけるね」
「お父さん、いろいろ持ってるからどうしようかなぁって思ったんですけれど、そういえばほつれが……ってお母さんに話してるのを聞いて。すっごく喜んでもらえたんですよ」
だろうね。
かなり嬉しそうに笑うのを見て、こっちまで笑みがうつる。
彼の使っている弓具は、かなり物がいい。
が、足袋と雪駄はそれこそ消耗品でもあるし、いくつあっても困りはしないんじゃないか。
足元って、結構見られるしね。
……俺も気をつけよう。
「一昨年は、ボールペンあげたでしょ」
「え?」
「金の矢羽がついてる、シルバーのやつ」
今、リビングには瀬那先生とお袋さんの姿はない。
お袋さんは来客対応をしていて、瀬那先生はスマフォにかかってきた電話対応のため先ほど別の部屋へ向かった。
だから、くしくもふたりきり。
少しだけ羽織へ顔を寄せると、それはそれは不思議そうにまばたいた。
「祐恭さん、どうして知ってるんですか?」
「そのボールペン、借りたことがあるんだよ。で、そのとき初めて、瀬那先生のお嬢さんが高校2年生だって知った」
「そうなんですか!?」
今からちょうど2年前。
俺たちがこうして出会う以前ながらも、間接的には触れていたんだとわかり、素直に嬉しかった。
あのときとは違い、彼女はもう大学生になっている。
月日の経つのは……というよりも、俺と個人的な繋がりができたことは、改めてすごいなと思うよ。
「想像してたより、ずっとかわいかった」
「かわいいって……何がですか?」
「父の日にボールペンをプレゼントしたり、一緒にご飯食べに行ったりしてくれる、瀬那先生のお嬢さん」
「…………」
「…………」
「っえ、私!?」
「君以外にいないだろ」
にっこり笑って褒めたつもりだったのに、羽織は目を丸くした。
あのとき想像したお嬢さんは、目の前の彼女とはまるで違う。
孝之を元にイメージしたから、目元も口元も全然。
むしろ、キツい印象を勝手に抱いたが、180度違うから本当に驚いたよ。
……こんなに素直でいい子とはね。
そりゃ、いろんな意味で心配になるわけだ。
「瀬那先生が父になるなんて、あのときは想像もしなかった」
「……祐恭さん……」
「しかもこんなにかわいい子で、想像した以上にハマるなんてね」
まだ、ふたりが戻らないのをいいことに、そっと頬へ手を伸ばす。
困ったような顔なのに、確実に喜んでくれている気はして。
結ばれた唇に、つい視線は移る。
ふとしたタイミングで、うっかりキスしそうな程度には“欲しい“相手そのもの。
2年前とはまるで違う想いを抱くことになるなんて、人生はどこでどうなるか本当にわからないものだな。
「っ……」
「続きはまたあとでね」
「もぅ……顔赤くなっちゃうじゃないですか」
「大丈夫。かわいいから」
そっと引き寄せ、触れるだけのキスをすると、すぐここで困ったように……でもやっぱり嬉しそうに笑う。
そういう顔してくれるから、もっと手を出したくなるってわかってないんだろうな。きっと。
素直で純粋なイメージは、今のほうが当時よりももっと強い。
そういう意味では、変わらないものもあるんだな。
頬へ手を当てた彼女を笑ったら、ちょうどご両親が揃ってリビングへ戻ってくるところだった。
Strawberry Vanilla
2020.06.11
いつの間にでたんすか、スタバさんんん!!
今年もいちごの時期がきたのね。
すっごい嬉しいー!(*´∀`)
元気になるなるですね。まさに。
てなわけで、小話。
手にしている人が多いな、とは思ったの。
まさに、いちごそのものの色を纏う、ドリンク。
ホイップクリームと相まって、コントラストはさながらショートケーキのようだった。
おいしいだろうなぁ。
もしかしたら少し甘いかもしれないけれど……でも、あの量をひとりで飲み切るのはなかなか難しい。
ワンサイズ下のものがあればいいなと季節ごとに思うけれど、みんなにとってはちょうどいい量なのかな。
たーくんならきっと、POPにあるケーキも合わせて平らげるだろうけれど。
「…………」
買い物に来ると目に入ることが多い、ショッピングモールにあるコーヒーショップの看板。
この季節限定商品を宣伝していて、実際、歩いている人たちの何人かが手にしている。
前回の季節商品は、ホットも選べたからそちらは飲みきることができた。
あ……もしかして私、冷たい飲み物をたくさん飲むのが苦手なのかな。
今まで生きてきて感じなかったけれど、ひょっとしてと自分の苦手さの理由がひとつ見つかった気もした。
「っ……」
「待ったか?」
「ううん。私も、今戻ってきたの」
お店前のベンチへ腰かけたところで、頭の上にひんやりした何かを置かれた。
置かれた……というのは正確じゃないけれど。
見ると、たーくんはすぐそこのおすすめメニューと同じ、いちごたっぷりのドリンクを手にしていた。
私がここへ来る前に見ていたのは、隣にある靴屋さん。
暑くなってきたから、新しいサンダルを見てみたいなと思ったんだけれど、残念ながら今回はピンとくるものに出会えなかった。
その間、たーくんはコーヒー屋さんへ。
入って行ったときは人が並んでいたけれど、今は少し空いたように見える。
「……あっま」
「え? あ……いいの?」
「いや、飲むだろ? って毎回言ってねーか?」
「かもしれない」
ストローから唇を離すと、彼はそのまま私へ差し出した。
甘いものは好きだけど、飲み物はあまり甘さを好まない人。
季節物はチェックと称して飲むことが多いらしいけれど、普段は無糖のコーヒーを買う程度だとこの前言ってたっけ。
「……ん。いちごがたっぷり入ってるね」
「それはあるな」
ゼリーとは違う、ごろりとしたいちごそのものの感触に少しだけ驚いた。
それになんだか、しゅわしゅわする。
炭酸……じゃないだろうけれど、不思議な感じ。
今まで飲んだどの季節商品とも違っていて、素直においしいと思う。
「暑い時期にぴったりだね」
「だな。子どもとか好きそう」
かなり甘めのドリンクだけど、この食感も相まってそこまでではないように思う。
おいしい。
館内はエアコンが効いているけれど、よく歩いたせいか冷たさが心地よかった。
「果物好きにしたら、どうなんだ? こーゆーの。生とは違うだろ?」
「でも、おいしいよ? なんていうか……デザートみたいな感じだね」
「あー、なるほど」
ホイップクリームも乗っているし、十分豪華なドリンクに部類するだろう、これ。
ひとりでは飲めない量だけれど……というか、そういえば毎回たーくんにシェアしてもらってる気がするんだけど、いいのかな。
結果として、ねだる形になっているような気もする。
「たーくん、いつもありがとう」
「どうした急に」
「だって、このお店の季節メニュー、私毎回こんなふうにひとくちもらってる気がして」
立ち上がって隣に並ぶと、たーくんは私からエコバッグを取り上げた。
かと思えば、まじまじ見つめてから『真面目だなお前』と笑う。
真面目……じゃない気がするけれど、どうして?
急なセリフに、こちらこそどうしたんだろうと首をかしげると、肩をすくめた。
「いや、むしろ逆だろ。俺もこの量飲めねぇし」
「え? ……そうなの?」
意外なセリフとともに再度ストローを差し出され、唇を開く。
彼は普段、かなりの量のご飯でも平らげてくれるし、まず、食べ物を残すところを見たことがない。
だからてっきり、この量も問題ないんじゃないかと思っていたから、意外でしかなかった。
「どれも微妙に甘いっつーか……あれだな。お前が今言った、デザートそのものって表現がしっくりくる」
「そうかな?」
「だろ。これひとりで飲んだら、最後の最後でギブアップ」
甘すぎる。
普段、これ以上に甘いデザートを口にする人なのに、意外な言葉に目が丸くなる。
確かに、糖分だからお腹いっぱいになるだろうけれど、たーくんでさえそうなら……私が飲めないのは当たり前なのかな。
ストローを離すと、最後の最後をよく混ぜたあとで彼も口づけた。
「だから、俺もお前と一緒ンときしか飲まねーぞ」
「っ……」
「サンキュ」
目を合わせたまま笑われ、どきりとした。
私だけじゃなかったことも嬉しいけれど、そんなふうに“限定“の言葉をもらったら、特別な気持ちになるじゃない。
……もう。
本当に、ふとした瞬間に気持ちすべてを惹きつける人なんだから。
「ンだよ」
「ふふ。嬉しい」
「なんで」
「だって、同じこと思ったんだもん」
感謝してもらえるなんて思わなかった。
特別なやりとりそのものができて、改めて彼に許されている自分を大切に思うことができる。
これでまた『ありがとう』って言ったら、きっとたーくんは眉を寄せるだろうな。
すぐそこに停められている光沢のある黒い車だけでなく、運転席側へ向かった彼の後ろ姿を見ながら、改めて笑みが浮かんだ。
今年もいちごの時期がきたのね。
すっごい嬉しいー!(*´∀`)
元気になるなるですね。まさに。
てなわけで、小話。
手にしている人が多いな、とは思ったの。
まさに、いちごそのものの色を纏う、ドリンク。
ホイップクリームと相まって、コントラストはさながらショートケーキのようだった。
おいしいだろうなぁ。
もしかしたら少し甘いかもしれないけれど……でも、あの量をひとりで飲み切るのはなかなか難しい。
ワンサイズ下のものがあればいいなと季節ごとに思うけれど、みんなにとってはちょうどいい量なのかな。
たーくんならきっと、POPにあるケーキも合わせて平らげるだろうけれど。
「…………」
買い物に来ると目に入ることが多い、ショッピングモールにあるコーヒーショップの看板。
この季節限定商品を宣伝していて、実際、歩いている人たちの何人かが手にしている。
前回の季節商品は、ホットも選べたからそちらは飲みきることができた。
あ……もしかして私、冷たい飲み物をたくさん飲むのが苦手なのかな。
今まで生きてきて感じなかったけれど、ひょっとしてと自分の苦手さの理由がひとつ見つかった気もした。
「っ……」
「待ったか?」
「ううん。私も、今戻ってきたの」
お店前のベンチへ腰かけたところで、頭の上にひんやりした何かを置かれた。
置かれた……というのは正確じゃないけれど。
見ると、たーくんはすぐそこのおすすめメニューと同じ、いちごたっぷりのドリンクを手にしていた。
私がここへ来る前に見ていたのは、隣にある靴屋さん。
暑くなってきたから、新しいサンダルを見てみたいなと思ったんだけれど、残念ながら今回はピンとくるものに出会えなかった。
その間、たーくんはコーヒー屋さんへ。
入って行ったときは人が並んでいたけれど、今は少し空いたように見える。
「……あっま」
「え? あ……いいの?」
「いや、飲むだろ? って毎回言ってねーか?」
「かもしれない」
ストローから唇を離すと、彼はそのまま私へ差し出した。
甘いものは好きだけど、飲み物はあまり甘さを好まない人。
季節物はチェックと称して飲むことが多いらしいけれど、普段は無糖のコーヒーを買う程度だとこの前言ってたっけ。
「……ん。いちごがたっぷり入ってるね」
「それはあるな」
ゼリーとは違う、ごろりとしたいちごそのものの感触に少しだけ驚いた。
それになんだか、しゅわしゅわする。
炭酸……じゃないだろうけれど、不思議な感じ。
今まで飲んだどの季節商品とも違っていて、素直においしいと思う。
「暑い時期にぴったりだね」
「だな。子どもとか好きそう」
かなり甘めのドリンクだけど、この食感も相まってそこまでではないように思う。
おいしい。
館内はエアコンが効いているけれど、よく歩いたせいか冷たさが心地よかった。
「果物好きにしたら、どうなんだ? こーゆーの。生とは違うだろ?」
「でも、おいしいよ? なんていうか……デザートみたいな感じだね」
「あー、なるほど」
ホイップクリームも乗っているし、十分豪華なドリンクに部類するだろう、これ。
ひとりでは飲めない量だけれど……というか、そういえば毎回たーくんにシェアしてもらってる気がするんだけど、いいのかな。
結果として、ねだる形になっているような気もする。
「たーくん、いつもありがとう」
「どうした急に」
「だって、このお店の季節メニュー、私毎回こんなふうにひとくちもらってる気がして」
立ち上がって隣に並ぶと、たーくんは私からエコバッグを取り上げた。
かと思えば、まじまじ見つめてから『真面目だなお前』と笑う。
真面目……じゃない気がするけれど、どうして?
急なセリフに、こちらこそどうしたんだろうと首をかしげると、肩をすくめた。
「いや、むしろ逆だろ。俺もこの量飲めねぇし」
「え? ……そうなの?」
意外なセリフとともに再度ストローを差し出され、唇を開く。
彼は普段、かなりの量のご飯でも平らげてくれるし、まず、食べ物を残すところを見たことがない。
だからてっきり、この量も問題ないんじゃないかと思っていたから、意外でしかなかった。
「どれも微妙に甘いっつーか……あれだな。お前が今言った、デザートそのものって表現がしっくりくる」
「そうかな?」
「だろ。これひとりで飲んだら、最後の最後でギブアップ」
甘すぎる。
普段、これ以上に甘いデザートを口にする人なのに、意外な言葉に目が丸くなる。
確かに、糖分だからお腹いっぱいになるだろうけれど、たーくんでさえそうなら……私が飲めないのは当たり前なのかな。
ストローを離すと、最後の最後をよく混ぜたあとで彼も口づけた。
「だから、俺もお前と一緒ンときしか飲まねーぞ」
「っ……」
「サンキュ」
目を合わせたまま笑われ、どきりとした。
私だけじゃなかったことも嬉しいけれど、そんなふうに“限定“の言葉をもらったら、特別な気持ちになるじゃない。
……もう。
本当に、ふとした瞬間に気持ちすべてを惹きつける人なんだから。
「ンだよ」
「ふふ。嬉しい」
「なんで」
「だって、同じこと思ったんだもん」
感謝してもらえるなんて思わなかった。
特別なやりとりそのものができて、改めて彼に許されている自分を大切に思うことができる。
これでまた『ありがとう』って言ったら、きっとたーくんは眉を寄せるだろうな。
すぐそこに停められている光沢のある黒い車だけでなく、運転席側へ向かった彼の後ろ姿を見ながら、改めて笑みが浮かんだ。
はぴば!
2020.06.10
6月6日は雨ザーザー降ってきて。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。