羽織の場合
2022.04.01
「実はお話ししたいことがあります」
今朝から様子がおかしいなとは思っていたが、彼女があえてソファではなく床に正座したのはつい先ほど。
今日は朝から冷えると言っていたキャスターの言葉は正しく、温かい紅茶を手に戻ってきたら、それはそれは真剣な顔つきで俺の前に座った。
「話?」
「あの……あのですね」
ええととか、あの、とか。
言いあぐねる様子が見え、すでに1分は経っているかもしれない。
どうやらよほど言いにくい何かがあるらしいが、彼女は膝上に置いた指先を眺め――たものの、意を決したように俺をまっすぐに見つめた。
「私ほんとは……祐恭さんのこと、好きじゃないんです」
「…………」
「…………」
「ぅ……て言ったらどうしま」
「どうもしないけど?」
カップに口づけたまま見つめたのが、もしかしなくても多少の圧力にはなったんだろうか。
小さく息をのんだあと、取り繕ったかのように言葉を続けたのを見て、もう少しで吹き出すところだった。
「え、え? どうもしないって……ええ? なんでですか?」
「なんでって、俺が聞きたいけど。なんで急にそんなこと言い出すの?」
「ぅ、いやあの、だって……というかその、あのですね」
「うん」
「本当は私が、祐恭さんのこと好きじゃないって言ったら、あの、どうします……?」
「どうもしないけど」
堂々巡りとはまさにこれ。
心なしか紅茶が少しぬるくなった気がしないでもないが、目の前の彼女は「えぇ?」と言いながら困ったように眉を寄せたので、ひとまずカップをテーブルへ置く。
なんだこの子は。
相変わらず、どこで何を吹き込まれたのか知らないが、本当に興味を惹かれる反応をくるくると繰り返すものだな。
俺の彼女って、こんなにかわいいイキモノだってことは知ってたけど。当然。
「へえ。じゃあ何?俺のこと、好きじゃないんだ」
「ぅ」
「ちっとも?」
「……」
「これっぽっちも?」
「……」
どうやら、言葉で反応するのはやめたらしく、こくりとうなずきを繰り返す。
これ、ひたすら「うん」って言うを繰り返してたら、反射でどんなものでも「うん」ってするんじゃないか。
こくこくうなずく彼女を見たまま、改めて笑いそうになった。
「ふぅん。昨日、あんなに俺にキスされてたくせに?」
「っ……」
「あんな顔して、俺のこと散々好――」
「う、祐恭さんっ!!」
「何?」
「だ、だからあの、あのですねっ。それとこれは別」
「別じゃないでしょ? というか、好きでもない男にあんな顔するなんて、それこそ羽織のほうがよほどいけない子だと思うけど」
「うぅ……だからあの、それは」
昨日というか、正確には今日のこと。
それはそれはかわらしい顔で、かわいらしい声で、散々俺のことをねだったくせに、10時間も経ってない今になって『あれは嘘なんです』と言うこと自体が、無理じゃないかと思うけどもまあ……誰かっていうか、どっちに吹き込まれたのかなとは思う。
そもそも彼女は、俺がこうして見通してるってこと、わかってそうだけど。
でも、約束は反故にできない子なんだよね。それは知ってる。
だからほら、今だってこんなに一生懸命なんだから。
「まあいいや。とりあえずじゃあ、今日はそういうことにしとくよ」
「えぇ? あっ! 祐恭さんっ!」
「ほら。どうせ、午前中もあと2時間で終わるから」
「っ……」
肩をすくめてみせると、一瞬彼女が体を震わせた。
もちろん。わかってますよ? 当然。
目を合わせたままにっこり笑うと、みるみる眉尻を下げ、困ったように俺を見上げる。
うん、かわいいね。
でも、だからって許してあげるとは言ってない。
「言っておくけど、俺に嘘ついたらどうなるかわかっててやったんだよね?」
ちょいちょいと彼女を目の前まで呼び、鼻先がつくかつかないかの距離でささやく。
たちまち表情が変わったけれど、あえて気づかないふりをしておくことにした。
今朝から様子がおかしいなとは思っていたが、彼女があえてソファではなく床に正座したのはつい先ほど。
今日は朝から冷えると言っていたキャスターの言葉は正しく、温かい紅茶を手に戻ってきたら、それはそれは真剣な顔つきで俺の前に座った。
「話?」
「あの……あのですね」
ええととか、あの、とか。
言いあぐねる様子が見え、すでに1分は経っているかもしれない。
どうやらよほど言いにくい何かがあるらしいが、彼女は膝上に置いた指先を眺め――たものの、意を決したように俺をまっすぐに見つめた。
「私ほんとは……祐恭さんのこと、好きじゃないんです」
「…………」
「…………」
「ぅ……て言ったらどうしま」
「どうもしないけど?」
カップに口づけたまま見つめたのが、もしかしなくても多少の圧力にはなったんだろうか。
小さく息をのんだあと、取り繕ったかのように言葉を続けたのを見て、もう少しで吹き出すところだった。
「え、え? どうもしないって……ええ? なんでですか?」
「なんでって、俺が聞きたいけど。なんで急にそんなこと言い出すの?」
「ぅ、いやあの、だって……というかその、あのですね」
「うん」
「本当は私が、祐恭さんのこと好きじゃないって言ったら、あの、どうします……?」
「どうもしないけど」
堂々巡りとはまさにこれ。
心なしか紅茶が少しぬるくなった気がしないでもないが、目の前の彼女は「えぇ?」と言いながら困ったように眉を寄せたので、ひとまずカップをテーブルへ置く。
なんだこの子は。
相変わらず、どこで何を吹き込まれたのか知らないが、本当に興味を惹かれる反応をくるくると繰り返すものだな。
俺の彼女って、こんなにかわいいイキモノだってことは知ってたけど。当然。
「へえ。じゃあ何?俺のこと、好きじゃないんだ」
「ぅ」
「ちっとも?」
「……」
「これっぽっちも?」
「……」
どうやら、言葉で反応するのはやめたらしく、こくりとうなずきを繰り返す。
これ、ひたすら「うん」って言うを繰り返してたら、反射でどんなものでも「うん」ってするんじゃないか。
こくこくうなずく彼女を見たまま、改めて笑いそうになった。
「ふぅん。昨日、あんなに俺にキスされてたくせに?」
「っ……」
「あんな顔して、俺のこと散々好――」
「う、祐恭さんっ!!」
「何?」
「だ、だからあの、あのですねっ。それとこれは別」
「別じゃないでしょ? というか、好きでもない男にあんな顔するなんて、それこそ羽織のほうがよほどいけない子だと思うけど」
「うぅ……だからあの、それは」
昨日というか、正確には今日のこと。
それはそれはかわらしい顔で、かわいらしい声で、散々俺のことをねだったくせに、10時間も経ってない今になって『あれは嘘なんです』と言うこと自体が、無理じゃないかと思うけどもまあ……誰かっていうか、どっちに吹き込まれたのかなとは思う。
そもそも彼女は、俺がこうして見通してるってこと、わかってそうだけど。
でも、約束は反故にできない子なんだよね。それは知ってる。
だからほら、今だってこんなに一生懸命なんだから。
「まあいいや。とりあえずじゃあ、今日はそういうことにしとくよ」
「えぇ? あっ! 祐恭さんっ!」
「ほら。どうせ、午前中もあと2時間で終わるから」
「っ……」
肩をすくめてみせると、一瞬彼女が体を震わせた。
もちろん。わかってますよ? 当然。
目を合わせたままにっこり笑うと、みるみる眉尻を下げ、困ったように俺を見上げる。
うん、かわいいね。
でも、だからって許してあげるとは言ってない。
「言っておくけど、俺に嘘ついたらどうなるかわかっててやったんだよね?」
ちょいちょいと彼女を目の前まで呼び、鼻先がつくかつかないかの距離でささやく。
たちまち表情が変わったけれど、あえて気づかないふりをしておくことにした。
いただきました!!
2021.04.17
ねこ♪さんへのお礼~
わたくし大好き、あんこモノでございます。
「珍しい」
「何が」
「え、だって自分でパン焼いてるんでしょ? 葉月に頼まず」
珍しいといえば、私だって少しは珍しい。
だって今日は、アラームが鳴る前に起きた。これって実はすごいことだと思うんだけど、おとといお兄ちゃんに言ったら鼻で笑われたから二度というものかと決めた。
きっと、祐恭さんなら多少は褒めてくれる。
うぅ。いいもん、多少だもん、それでも十分だもん。
高校生のころ、いつもより20分も早く起きたことが嬉しくて報告したら、まじまじ見つめられたあと『がんばったね』とどこかいたずらっぽく笑われたのは多少懐かしい。
言ったあとで「ひょっとして一般的には自慢できない部類なのか」と気づいたけれど、でも、だって嬉しかったんだもん。
「ていうか、何それ」
「こういうのくれる相手つったら、知れてるだろ」
「優くん?」
「あー、似てるけど違うな。つか、言ったら怒られそう」
トースターとにらめっこしてるお兄ちゃんは、肩をすくめるとすぐそこにあった何かのパッケージをこちらへ見せた。
パンの写真がついているもの。
でも、中にあるのは……。
「え、何これ」
「ようかん」
「ようかん?」
「そ。トースト用のようかん」
一瞬我が耳を疑ったけれど、どうやら聞き間違えではなかったらしい。
薄くスライスされている、ようかん。
食パンにジャストフィットなサイズで、中央にはバターを模した白いようかんも乗っている。
「おもしろいっていうよりは、ちゃんとしてる方向?」
「ネタじゃねぇな。テレビでもやってたらしいぜ」
「へえー。じゃあ優くんじゃないね」
テレビでも取り上げられているということは、人気があるんだろう。
でも、こんなのあるんだ。しかもようかん……ていうか、ちょっと待って。
「え、ようかんなのに焼いちゃうの?」
「それがいいんだろ。トースト用のなんだから」
「そうなの?」
「ひとうひとつ手作業でカットされてンだと」
「ええ! すごい!」
まさかの意見に目を丸くすると、なぜか満足げにお兄ちゃんが笑った。
え、別にお兄ちゃんがすごいわけじゃないのでは……でもそれ言ったらちょっと面倒なことになりそうだから、黙っておく。もちろん。
「りかこさんにいただいたの」
「え? そうなの?」
「うん。本当にいろんなところにアンテナを立ててる人ね」
どうやら花を生けていたらしく、戻ってきた葉月の手には少し大きめの花瓶があった。
まるでバラみたいに華やかな花びらの、チューリップ。
ピンクに白、オレンジと色とりどりで、ああ春っていいなぁと改めて感じる。
「買い物に行ったとき、たーくんが好きそうって思ってくれたみたい」
「へえー。りかこさんって、お兄ちゃんのこと甘やかしてない?」
「ふふ。何かを買うとき、おいしく食べてくれる人のことがつい思い浮かばない?」
「うーん……」
そう言われると……というか、言われなくても何かをするときはたいてい祐恭さんのことが浮かぶ。
嬉しそうな顔も、少しだけ驚いてくれた顔も。
ああ、そうか。食べてもらいたいって気持ちは、より強いものなのかな。
……それにしても。
「りかこさんって、マメだよね」
「そうね。フットワークもとても軽いし」
確かに。
おもしろい商品を見つけてすぐ送ってくれるところは、誰かのためにという気持ちが強い人なんだろうな。
ある意味、第2のお母さん的な。
って、お母さんなんて年じゃないから怒られちゃいそうだけど。
「あ」
トースターが音を立てると同時に、お兄ちゃんが中からトーストを取り出す。
こんがりといい色に焼けたトーストの上には、とろりとしたようかん。
端がふつふつしていて、ふんわりと甘い香りも漂う。
「っち」
「そりゃそうでしょ。焼き立てだもん」
いつもと違って文句が飛んでこなかったのは、食べてるからに違いない。
お皿もなしで食べ始めたのを見て、葉月は苦笑しながら小さめのお皿を取り出す。
「あー……すげぇな。うまい」
「へー」
「……」
「……」
「……」
「え、それだけ?」
食レポというほどのものは期待してなかったけれど、まさか続きが一切出てこないとは思わなかった。
ひとくち食べたいとは思うものの、さすがにお兄ちゃんのものをもらうわけには……あ。
「え?」
お願いの意味をこめてまじまじ葉月を見ると、ほどなくして小さく笑う。
どうやら私の意図を汲んでくれたようで、お兄ちゃんに向き直ると『ひとくちもらってもいい?』と聞こえた。
「……ん、ようかんだね」
「だろ」
「甘さ控えめだし、少しだけとろっとしてて……このバターのところ、不思議な感じ」
「かもな」
「でも、しっかりバターの香りがして、おいしいね」
さすが葉月。
お兄ちゃんとは違って、十分に伝わってくるようなコメント。
食べてはないけれど満足はしたので、思わず小さく拍手していた。
「もう1枚あるから、食うなら食ってもいいぞ」
「え、いいの?」
「つってもま、お前あんこ食わねぇだろ」
「む。食べていいなら食べるもん」
どこか馬鹿にされたように笑われ、思わず唇がとがる。
確かに、普段はジャムとバターでしかトーストは食べないけれど、りかこさんがくれた物なら絶対おいしいし、何よりそんなに人気なものなら食べてみたい。
「葉月、はんぶんこしない?」
「ん。いいよ」
そんなやり取りをいつものようにくすくす笑いながら見ていた葉月は、やっぱり穏やかに笑うと小さくうなずいてくれた。
というわけで、ねこさん~!
ありがとうございました!!
めちゃくちゃおいしかったし、もちっとした感じとか、あんこ特有の香りとか、ほんとにおいしかった!
いつも、そのお優しさと「これを久慈さんに」と思ってくださるお気持ちで、わたくし生きられております(*´▽`*)
ごちそうさまでした!!
わたくし大好き、あんこモノでございます。
「珍しい」
「何が」
「え、だって自分でパン焼いてるんでしょ? 葉月に頼まず」
珍しいといえば、私だって少しは珍しい。
だって今日は、アラームが鳴る前に起きた。これって実はすごいことだと思うんだけど、おとといお兄ちゃんに言ったら鼻で笑われたから二度というものかと決めた。
きっと、祐恭さんなら多少は褒めてくれる。
うぅ。いいもん、多少だもん、それでも十分だもん。
高校生のころ、いつもより20分も早く起きたことが嬉しくて報告したら、まじまじ見つめられたあと『がんばったね』とどこかいたずらっぽく笑われたのは多少懐かしい。
言ったあとで「ひょっとして一般的には自慢できない部類なのか」と気づいたけれど、でも、だって嬉しかったんだもん。
「ていうか、何それ」
「こういうのくれる相手つったら、知れてるだろ」
「優くん?」
「あー、似てるけど違うな。つか、言ったら怒られそう」
トースターとにらめっこしてるお兄ちゃんは、肩をすくめるとすぐそこにあった何かのパッケージをこちらへ見せた。
パンの写真がついているもの。
でも、中にあるのは……。
「え、何これ」
「ようかん」
「ようかん?」
「そ。トースト用のようかん」
一瞬我が耳を疑ったけれど、どうやら聞き間違えではなかったらしい。
薄くスライスされている、ようかん。
食パンにジャストフィットなサイズで、中央にはバターを模した白いようかんも乗っている。
「おもしろいっていうよりは、ちゃんとしてる方向?」
「ネタじゃねぇな。テレビでもやってたらしいぜ」
「へえー。じゃあ優くんじゃないね」
テレビでも取り上げられているということは、人気があるんだろう。
でも、こんなのあるんだ。しかもようかん……ていうか、ちょっと待って。
「え、ようかんなのに焼いちゃうの?」
「それがいいんだろ。トースト用のなんだから」
「そうなの?」
「ひとうひとつ手作業でカットされてンだと」
「ええ! すごい!」
まさかの意見に目を丸くすると、なぜか満足げにお兄ちゃんが笑った。
え、別にお兄ちゃんがすごいわけじゃないのでは……でもそれ言ったらちょっと面倒なことになりそうだから、黙っておく。もちろん。
「りかこさんにいただいたの」
「え? そうなの?」
「うん。本当にいろんなところにアンテナを立ててる人ね」
どうやら花を生けていたらしく、戻ってきた葉月の手には少し大きめの花瓶があった。
まるでバラみたいに華やかな花びらの、チューリップ。
ピンクに白、オレンジと色とりどりで、ああ春っていいなぁと改めて感じる。
「買い物に行ったとき、たーくんが好きそうって思ってくれたみたい」
「へえー。りかこさんって、お兄ちゃんのこと甘やかしてない?」
「ふふ。何かを買うとき、おいしく食べてくれる人のことがつい思い浮かばない?」
「うーん……」
そう言われると……というか、言われなくても何かをするときはたいてい祐恭さんのことが浮かぶ。
嬉しそうな顔も、少しだけ驚いてくれた顔も。
ああ、そうか。食べてもらいたいって気持ちは、より強いものなのかな。
……それにしても。
「りかこさんって、マメだよね」
「そうね。フットワークもとても軽いし」
確かに。
おもしろい商品を見つけてすぐ送ってくれるところは、誰かのためにという気持ちが強い人なんだろうな。
ある意味、第2のお母さん的な。
って、お母さんなんて年じゃないから怒られちゃいそうだけど。
「あ」
トースターが音を立てると同時に、お兄ちゃんが中からトーストを取り出す。
こんがりといい色に焼けたトーストの上には、とろりとしたようかん。
端がふつふつしていて、ふんわりと甘い香りも漂う。
「っち」
「そりゃそうでしょ。焼き立てだもん」
いつもと違って文句が飛んでこなかったのは、食べてるからに違いない。
お皿もなしで食べ始めたのを見て、葉月は苦笑しながら小さめのお皿を取り出す。
「あー……すげぇな。うまい」
「へー」
「……」
「……」
「……」
「え、それだけ?」
食レポというほどのものは期待してなかったけれど、まさか続きが一切出てこないとは思わなかった。
ひとくち食べたいとは思うものの、さすがにお兄ちゃんのものをもらうわけには……あ。
「え?」
お願いの意味をこめてまじまじ葉月を見ると、ほどなくして小さく笑う。
どうやら私の意図を汲んでくれたようで、お兄ちゃんに向き直ると『ひとくちもらってもいい?』と聞こえた。
「……ん、ようかんだね」
「だろ」
「甘さ控えめだし、少しだけとろっとしてて……このバターのところ、不思議な感じ」
「かもな」
「でも、しっかりバターの香りがして、おいしいね」
さすが葉月。
お兄ちゃんとは違って、十分に伝わってくるようなコメント。
食べてはないけれど満足はしたので、思わず小さく拍手していた。
「もう1枚あるから、食うなら食ってもいいぞ」
「え、いいの?」
「つってもま、お前あんこ食わねぇだろ」
「む。食べていいなら食べるもん」
どこか馬鹿にされたように笑われ、思わず唇がとがる。
確かに、普段はジャムとバターでしかトーストは食べないけれど、りかこさんがくれた物なら絶対おいしいし、何よりそんなに人気なものなら食べてみたい。
「葉月、はんぶんこしない?」
「ん。いいよ」
そんなやり取りをいつものようにくすくす笑いながら見ていた葉月は、やっぱり穏やかに笑うと小さくうなずいてくれた。
というわけで、ねこさん~!
ありがとうございました!!
めちゃくちゃおいしかったし、もちっとした感じとか、あんこ特有の香りとか、ほんとにおいしかった!
いつも、そのお優しさと「これを久慈さんに」と思ってくださるお気持ちで、わたくし生きられております(*´▽`*)
ごちそうさまでした!!
Share Happy!
2020.11.11
誕生日おめでとう、瑞穂ちゃんーてなことで、鷹塚センセの小話。
ぬあー。
スタバ行きたい。
てか、今日ラジオで「今年もあと50日です」ってうっかり聞いてしまって戦慄している。
皆様にもシェアさせてくださいませ……という名の、共有……。
1年が終わる!! 早い!!
「あ」
「……あ?」
授業中まさにど真ん中。
3時間目が始まり30分ほど過ぎたところで、不意に聞こえたセリフへうっかり反応した……ら、ふりむきざまに妙な光景が広がっていた。
「何してんの?」
「せんせー知らないの? 今日……てか、あー! 今! 今だし!」
「は?」
ひとりじゃない、ふたりじゃない。数人の児童が俺の真上を指さしたかと思いきや、そのまま人差し指を立てる。
しかも両手。まるで何かを表すかのように同じポーズを取っており、明らかに意味深でしかない。
「何して……あー。そういや今日か」
「でしょ! 先生もやった? 子どものとき!」
「やった気はする」
いや、やってないかも。確かにソワソワもしたし、目配せ程度に反応はしたが、お前たちのようにがっつり反応はしなかった気がする。
両手の人差し指立てて、いかにもじゃん。ついでだから、そのまま問題に答えてもらうか。
「そんじゃ、楽しくイベントこなしたところで、そのまま(1)の答えは?」
「え! なんで⁉︎」
「なんでってそりゃ、今が算数の時間だからだろ。ほら、1:3になる比はどれだ?」
「おーぼーじゃん!」
「正統です」
最初に声を出した男子を指すと、ならうように指を立てていた面々がサッと引いた。とはいえ、おかげさまで誰が挙げたかはちゃんと覚えてるから安心してほしい。あと4問は、期待を裏切らず答えてもらうからそのつもりで。
「……11月11日、ね」
年代が違っても通じるのは、ある意味すごいな。
個人的には、すっかりプライベートと紐づいた日に変わっただけに、去年までと全く違う気持ちでいる自分も少しだけおかしかった。
「なんだこれ」
掃除のあとの短い昼休み。5時間目に使うプリントを取りに一旦職員室へ戻ると、自席の対面の机にはまるでお供えかのように様々なパッケージの箱が置かれていた。
ネーミングこそ違えど、種類は同じ。チョコのついてる棒菓子、それ。
「愛よねー、愛」
「どのへんが?」
「よく見なさいよ。これ、地域限定のやつよ?」
「は? あー……確かに」
この養護教諭は、このあたりでも割と有名で。塩対応がメインなのに子どもからは一定の評判を得ているという、なんとも不思議な現象も起きている。
そんな彼女とは初任のころから顔を合わせているから、もはや腐れ縁レベル。今ではなくなったが、サシで飲みに行ったこともある仲で、ある意味戦友にも似たような関係。
「で?」
「は?」
「まさか、かわいい彼女のプレゼントが同じお菓子じゃないでしょうね」
「おかげさまで、もちっとマシなもん買える程度には稼いでるんで」
「あらそう。それじゃ、今夜のディナーはおしゃれなレストラン予約したんでしょうね?」
「なんで詳細を先に暴露しなきゃなんないんだよ。守秘義務だっつの」
今日は水曜。この机の主である、俺のかわいい彼女の勤務曜日ではないが、今日はウチにくる約束にはなっている。
レストランというよりも、ビストロの雰囲気漂うお馴染みの店はきっちり詳細伝えて予約済みだし、今日の俺の仕事はある意味終わったと言っても過言じゃない。
明日、同伴出勤したらさすがに噂になるだろうが、もはやいいんじゃないかとは思っている。センセイだって人間。
公の顔だけでなく、当然私生活もがっつりあるんだし。……ってま、さすがに子どもたちには見られないほうがいい気はしてるけど。
「ちょっと。顔」
「え?」
「だいぶヤバい顔してるわよ。職場で反芻しないで」
「してない」
「してた。すっごい緩んでたわよ? こんなトコで考えちゃいけないこと考えてたでしょ」
「失礼な。人をなんだと思ってンだよ」
ずびしと人差し指を向けられ、身長が大して変わらないこともあってかより圧力を感じる。勝手な想像でハラスメント発言しないでもらいたいもんだな。まあ、うっかり脳内で服に手をかけるか否かってレベルには及んだけど。
「あー、仕事仕事」
「あ。またそうやって逃げる」
「ちょ、なんか当たりキツくね?」
「そう感じるのはやましさがあるからでしょ」
ああいえばこういうの典型じゃないが、彼女に口喧嘩で勝てたためしはない。引けばいいんだろ? どうせ。ああ、わかってるよ。これでも分別ある大人ですから。
「…………」
ちらりと時計を見ると、定時上がりまであと4時間を切っていた。
もうじき、会える。ああ、そういやそんな歌詞の曲もあったなと、らしくもなく思い出した。
「え? あ。そういえば今日は、そんな日でしたね」
おかげさまで、再会するまでの何年もの間も、俺はずっと彼女の誕生日だけは覚えていた。
11月11日。いわゆる菓子にちなんだ日として浸透しているせいか、忘れたことはない。
俺が彼女に会ったのは、12年前。
今、目の前でかわいらしく微笑む姿より、ずっと幼いまさに“子ども“だった。
「……何?」
「これ……なんか、恥ずかしい」
「なんで」
「だって近いじゃないですか」
振り返った彼女に差し出すのは、くわえたままのポッキー。素直に反対側をかじったものの、目を合わせてすぐくすぐったそうに笑った。
「…………」
実際にやってみてわかったことは、ふたつ。案外、顔の筋肉使うんだなってことと、想像よりも確かに恥ずかしい気がすること。あえて目を合わせたままかじると、眉尻を下げた彼女は笑いをこらえるかのように唇を閉じた。
「っ……ん」
「久しぶりに食べた」
残り数センチが待てず、大きめのひと口とともに触れると、チョコ特有の甘さが先に立った。まあ、ギリギリまで焦らすのもある意味オツかもしれないが、明日も休みじゃない以上、もう少し近づいておきたい気持ちのほうが強い。
「割といい時間だし、一緒に風呂入る?」
抱き寄せたまま、顔を見ずに耳元でささやくと、わずかに身体は反応を見せた。問う形ではあるが、実際はそうじゃないことをわかっているんだろう。わずかに俺へもたれた彼女は、ちらりと視線を向けるとさっきと同じように小さく笑う。
「……先に入っててもいいですか?」
「もちろん。大歓迎」
“今日“が終わるまで、あと少し。だが、存分に堪能できる時間は残されてもいる。……大人の時間の過ごし方ってのは、何に縛られるでもないからいいもんだよな、ほんと。
誕生日プレゼントは、どうせなら風呂上がりに渡したい。“身につける“意味では、まさにベストだろうから。
でも——もう少しだけ。
「ぁ……」
「そういう反応、ほんと好き」
わずかに触れるだけで、それはそれは嬉しそうに笑い、漏れる声は甘く柔らかい。
知らなかったよ、何もかもホント。自分の誕生日以外でこんなにワクワクすることも、待ち遠しさを感じるのも、こうして一緒にいられるようになってからなんだから。
ちなみに。
翌日出勤した彼女が机上の大量の箱菓子を見て若干困っているところで、『帰り車で送るよ』としれっと公言したときの顔がよほど芝居がかっていたとの指摘は、甘んじて受けておいた。
ぬあー。
スタバ行きたい。
てか、今日ラジオで「今年もあと50日です」ってうっかり聞いてしまって戦慄している。
皆様にもシェアさせてくださいませ……という名の、共有……。
1年が終わる!! 早い!!
「あ」
「……あ?」
授業中まさにど真ん中。
3時間目が始まり30分ほど過ぎたところで、不意に聞こえたセリフへうっかり反応した……ら、ふりむきざまに妙な光景が広がっていた。
「何してんの?」
「せんせー知らないの? 今日……てか、あー! 今! 今だし!」
「は?」
ひとりじゃない、ふたりじゃない。数人の児童が俺の真上を指さしたかと思いきや、そのまま人差し指を立てる。
しかも両手。まるで何かを表すかのように同じポーズを取っており、明らかに意味深でしかない。
「何して……あー。そういや今日か」
「でしょ! 先生もやった? 子どものとき!」
「やった気はする」
いや、やってないかも。確かにソワソワもしたし、目配せ程度に反応はしたが、お前たちのようにがっつり反応はしなかった気がする。
両手の人差し指立てて、いかにもじゃん。ついでだから、そのまま問題に答えてもらうか。
「そんじゃ、楽しくイベントこなしたところで、そのまま(1)の答えは?」
「え! なんで⁉︎」
「なんでってそりゃ、今が算数の時間だからだろ。ほら、1:3になる比はどれだ?」
「おーぼーじゃん!」
「正統です」
最初に声を出した男子を指すと、ならうように指を立てていた面々がサッと引いた。とはいえ、おかげさまで誰が挙げたかはちゃんと覚えてるから安心してほしい。あと4問は、期待を裏切らず答えてもらうからそのつもりで。
「……11月11日、ね」
年代が違っても通じるのは、ある意味すごいな。
個人的には、すっかりプライベートと紐づいた日に変わっただけに、去年までと全く違う気持ちでいる自分も少しだけおかしかった。
「なんだこれ」
掃除のあとの短い昼休み。5時間目に使うプリントを取りに一旦職員室へ戻ると、自席の対面の机にはまるでお供えかのように様々なパッケージの箱が置かれていた。
ネーミングこそ違えど、種類は同じ。チョコのついてる棒菓子、それ。
「愛よねー、愛」
「どのへんが?」
「よく見なさいよ。これ、地域限定のやつよ?」
「は? あー……確かに」
この養護教諭は、このあたりでも割と有名で。塩対応がメインなのに子どもからは一定の評判を得ているという、なんとも不思議な現象も起きている。
そんな彼女とは初任のころから顔を合わせているから、もはや腐れ縁レベル。今ではなくなったが、サシで飲みに行ったこともある仲で、ある意味戦友にも似たような関係。
「で?」
「は?」
「まさか、かわいい彼女のプレゼントが同じお菓子じゃないでしょうね」
「おかげさまで、もちっとマシなもん買える程度には稼いでるんで」
「あらそう。それじゃ、今夜のディナーはおしゃれなレストラン予約したんでしょうね?」
「なんで詳細を先に暴露しなきゃなんないんだよ。守秘義務だっつの」
今日は水曜。この机の主である、俺のかわいい彼女の勤務曜日ではないが、今日はウチにくる約束にはなっている。
レストランというよりも、ビストロの雰囲気漂うお馴染みの店はきっちり詳細伝えて予約済みだし、今日の俺の仕事はある意味終わったと言っても過言じゃない。
明日、同伴出勤したらさすがに噂になるだろうが、もはやいいんじゃないかとは思っている。センセイだって人間。
公の顔だけでなく、当然私生活もがっつりあるんだし。……ってま、さすがに子どもたちには見られないほうがいい気はしてるけど。
「ちょっと。顔」
「え?」
「だいぶヤバい顔してるわよ。職場で反芻しないで」
「してない」
「してた。すっごい緩んでたわよ? こんなトコで考えちゃいけないこと考えてたでしょ」
「失礼な。人をなんだと思ってンだよ」
ずびしと人差し指を向けられ、身長が大して変わらないこともあってかより圧力を感じる。勝手な想像でハラスメント発言しないでもらいたいもんだな。まあ、うっかり脳内で服に手をかけるか否かってレベルには及んだけど。
「あー、仕事仕事」
「あ。またそうやって逃げる」
「ちょ、なんか当たりキツくね?」
「そう感じるのはやましさがあるからでしょ」
ああいえばこういうの典型じゃないが、彼女に口喧嘩で勝てたためしはない。引けばいいんだろ? どうせ。ああ、わかってるよ。これでも分別ある大人ですから。
「…………」
ちらりと時計を見ると、定時上がりまであと4時間を切っていた。
もうじき、会える。ああ、そういやそんな歌詞の曲もあったなと、らしくもなく思い出した。
「え? あ。そういえば今日は、そんな日でしたね」
おかげさまで、再会するまでの何年もの間も、俺はずっと彼女の誕生日だけは覚えていた。
11月11日。いわゆる菓子にちなんだ日として浸透しているせいか、忘れたことはない。
俺が彼女に会ったのは、12年前。
今、目の前でかわいらしく微笑む姿より、ずっと幼いまさに“子ども“だった。
「……何?」
「これ……なんか、恥ずかしい」
「なんで」
「だって近いじゃないですか」
振り返った彼女に差し出すのは、くわえたままのポッキー。素直に反対側をかじったものの、目を合わせてすぐくすぐったそうに笑った。
「…………」
実際にやってみてわかったことは、ふたつ。案外、顔の筋肉使うんだなってことと、想像よりも確かに恥ずかしい気がすること。あえて目を合わせたままかじると、眉尻を下げた彼女は笑いをこらえるかのように唇を閉じた。
「っ……ん」
「久しぶりに食べた」
残り数センチが待てず、大きめのひと口とともに触れると、チョコ特有の甘さが先に立った。まあ、ギリギリまで焦らすのもある意味オツかもしれないが、明日も休みじゃない以上、もう少し近づいておきたい気持ちのほうが強い。
「割といい時間だし、一緒に風呂入る?」
抱き寄せたまま、顔を見ずに耳元でささやくと、わずかに身体は反応を見せた。問う形ではあるが、実際はそうじゃないことをわかっているんだろう。わずかに俺へもたれた彼女は、ちらりと視線を向けるとさっきと同じように小さく笑う。
「……先に入っててもいいですか?」
「もちろん。大歓迎」
“今日“が終わるまで、あと少し。だが、存分に堪能できる時間は残されてもいる。……大人の時間の過ごし方ってのは、何に縛られるでもないからいいもんだよな、ほんと。
誕生日プレゼントは、どうせなら風呂上がりに渡したい。“身につける“意味では、まさにベストだろうから。
でも——もう少しだけ。
「ぁ……」
「そういう反応、ほんと好き」
わずかに触れるだけで、それはそれは嬉しそうに笑い、漏れる声は甘く柔らかい。
知らなかったよ、何もかもホント。自分の誕生日以外でこんなにワクワクすることも、待ち遠しさを感じるのも、こうして一緒にいられるようになってからなんだから。
ちなみに。
翌日出勤した彼女が机上の大量の箱菓子を見て若干困っているところで、『帰り車で送るよ』としれっと公言したときの顔がよほど芝居がかっていたとの指摘は、甘んじて受けておいた。
メガネの日
2020.10.01
じうがつ。
今年ももう、あと少し……。
今年度は、まだ半分折り返し地点ですねー。
一時は、9月入学話も出たけど、立ち消えたなぁ。
個人的には、ほっとしてます。
てことで、羽織と祐恭〜。
「……あれ?」
久しぶりに気持ちいいくらい、からりと晴れた。
リビングの奥の大きな窓からは、青い空に高い位置の雲が広がっている。
空気が乾燥しているから曇りでも洗濯物は十分乾くだろうけれど、もともとこのマンションは外干しできない構造のため、万年洗濯乾燥機でまかなわれている。
実家のときなら、きっと掛け布団を干したんだろうなぁなんて、乾いた洗濯物を畳むべくカゴごとリビングへ戻ってくると、ついさっきまでソファに座っていた祐恭さんの姿はなかった。
今日は平日だけど、彼はお昼過ぎからお仕事らしく、昨日のうちに大学の講義が休講になった私ともども過ごしていたからか、まるで週末のお休みの日にも錯覚する。
テーブルの上には、さっきまで彼がずっと読んでいた分厚めの本が置かれていて、日本語のタイトルなのに漢字ばかりなせいか一瞬読み違えそうにもなった。
「…………」
その、本の隣。
見覚えがあるどころか、ある意味彼の一部でもあるメガネが置かれていて、すぐそこのラックのものすべてが、レンズ越しに縮小されたかのように映っていた。
「……うっ」
それこそ、まるで親の目を盗んで悪戯しようとしている小さい子と同義の振る舞いだろう。
そっと両手でメガネのツルを持ち、レンズを覗い——た瞬間、くらりと目眩よりも強い浮遊感のようなものを感じ、慌てて目が閉じた。
……まるで酔っぱらったみたい。
一瞬しか覗けなかったけれど、レンズ越しの景色はかなり歪んでおり、はっきりどころかだいぶぼやけた像にしかならなかった。
そういえば、だいぶ前にもこんなことをした気がするんだけど。
というか——そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もないころ。
こうして自宅にお邪魔させてもらうようになって、何度目かのときだった。
「…………」
懐かしいなぁ。
まだ何年も経っていないのに、勝手に懐かしさから頬が緩む。
私よりも年上の彼は、いつだって大人で、かっこよくて、まっすぐで、揺るがなくて。
メガネ越しの眼差しはいつだって芯が強そうで、誰かと議論しているときはよりその雰囲気が強くなっているように感じた。
けれど、私と目が合った瞬間、わずかに目尻が緩む。
あれはまさに、瞬間で。
同時に笑みで迎えられるたび、胸がきゅうっと締めつけられるほど嬉しい気持ちがあふれた。
「……っわ!? え、え! 祐恭さん、いつからそこに!」
「だいぶ前かな。というか、羽織のすぐあとこっちから戻ってきたんだけど、気づかなかった?」
「っ……全然気づきませんでした」
頬に手を当ててにんまりした瞬間の顔を、キッチンカウンターのすぐ隣に立っていた彼に、どうやら真正面から見られたらしい。
書斎方向の廊下を指差され、バツの悪さからわずかに唇を噛む。
にっこりではなく、どちらかというと、にやにや。
そう表現できるような表情に、かぁと頬が熱くなる。
「別に、メガネなんて珍しくないでしょ?」
「それはそうですけど……でも、ウチは誰もかけてなかったから、つい目がいくというか」
「あー、そうか」
家系なのか、両親もお兄ちゃんも……そして私も、視力に困ってはいない。
『だから老眼になるのよ』とお母さんが言い始めたのは、つい最近。
そういえばずっとメガネをしていなかったお父さんも、新聞を読むときに時々かけているのを見かける。
「別に外さなくてもいいんだけど、こう、長時間本読んでると疲れるっていうか」
「……ぅ」
「こうして近づかれたら、機嫌悪いようにも見えるでしょ」
「ちょっとだけ」
ソファへ腰掛けた彼が、普段と違っていわゆる“素“のまま私の顔を覗き込む。
理由がわかれば納得できる、表情。
目を細めることで、焦点を合わせるんだよね。
目が悪くないから知らなかったけれど、でも確かに、理由がわからなかったら睨まれていると感じる人もいるかもしれない。
「っ……」
目の前。本当の、ここ。
まるでキスされる直前かのような近づき方に、どきどきする。
吐息が重なっている気がする、なんて感じてしまえばより一層。
まるで私がそう感じているのを十分わかっているかのように、小さく笑った彼が指先で頬に触れた。
「男物のメガネも、なかなか違う意味で似合うよ?」
「え?」
「今、流行ってるんでしょ? 彼氏の私物身につけるの」
「そうなんですか?」
「あれ。そういうの、ちょうどど真ん中な世代じゃないの?」
「……う」
流行には、実はそこまで敏感じゃない。
どちらかというと疎いほうかもしれないし、友達の間で十分流行ったころに気づくタイプだろうか。
特に困っていないのは、きっとメディアからの情報を素早くキャッチする友達が数人いるからかな。
かわいい、やりたい、と思うことは私も手を伸ばすけれど、それ以外はあまり試すこともない。
でも、絵里曰く『それがアンタらしい』だそうだし、彼も彼で『十分でしょ』と言ってくれるから、どうやらこちら方面では変わらずとも済みそうだ。
「いくらでもお貸しするから、どうぞ?」
「や、あの……くらくらして、歩けません」
「だろうね」
机に置かれていたメガネに手を伸ばすも、私が苦笑したからか祐恭さんは手にしなかった。
小さく笑いながら改めて私に向き直り、頬に向かって改めて手を伸ばす。
「っ……」
「まだ平気か」
「え、とっ……」
「俺が平気なんだから、羽織も平気だよね?」
抱きすくめるように腕がまわり、彼が目の前で笑った。
ううん、もっと近く。
鼻先がつくほどの距離で、いつものようにキスをされる直前の雰囲気を勝手に感じ、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。
「キスだけじゃないつもりだから、メガネはまだいいかな」
「っ……」
囁かれてすぐ、唇が触れた。
柔らかな感覚に、どうしたって声は漏れて。
彼の言葉の意味を知るのは、さほど遅くもない、ほんの少しあとのことだった。
今年ももう、あと少し……。
今年度は、まだ半分折り返し地点ですねー。
一時は、9月入学話も出たけど、立ち消えたなぁ。
個人的には、ほっとしてます。
てことで、羽織と祐恭〜。
「……あれ?」
久しぶりに気持ちいいくらい、からりと晴れた。
リビングの奥の大きな窓からは、青い空に高い位置の雲が広がっている。
空気が乾燥しているから曇りでも洗濯物は十分乾くだろうけれど、もともとこのマンションは外干しできない構造のため、万年洗濯乾燥機でまかなわれている。
実家のときなら、きっと掛け布団を干したんだろうなぁなんて、乾いた洗濯物を畳むべくカゴごとリビングへ戻ってくると、ついさっきまでソファに座っていた祐恭さんの姿はなかった。
今日は平日だけど、彼はお昼過ぎからお仕事らしく、昨日のうちに大学の講義が休講になった私ともども過ごしていたからか、まるで週末のお休みの日にも錯覚する。
テーブルの上には、さっきまで彼がずっと読んでいた分厚めの本が置かれていて、日本語のタイトルなのに漢字ばかりなせいか一瞬読み違えそうにもなった。
「…………」
その、本の隣。
見覚えがあるどころか、ある意味彼の一部でもあるメガネが置かれていて、すぐそこのラックのものすべてが、レンズ越しに縮小されたかのように映っていた。
「……うっ」
それこそ、まるで親の目を盗んで悪戯しようとしている小さい子と同義の振る舞いだろう。
そっと両手でメガネのツルを持ち、レンズを覗い——た瞬間、くらりと目眩よりも強い浮遊感のようなものを感じ、慌てて目が閉じた。
……まるで酔っぱらったみたい。
一瞬しか覗けなかったけれど、レンズ越しの景色はかなり歪んでおり、はっきりどころかだいぶぼやけた像にしかならなかった。
そういえば、だいぶ前にもこんなことをした気がするんだけど。
というか——そう。
あれは、彼と付き合い始めて間もないころ。
こうして自宅にお邪魔させてもらうようになって、何度目かのときだった。
「…………」
懐かしいなぁ。
まだ何年も経っていないのに、勝手に懐かしさから頬が緩む。
私よりも年上の彼は、いつだって大人で、かっこよくて、まっすぐで、揺るがなくて。
メガネ越しの眼差しはいつだって芯が強そうで、誰かと議論しているときはよりその雰囲気が強くなっているように感じた。
けれど、私と目が合った瞬間、わずかに目尻が緩む。
あれはまさに、瞬間で。
同時に笑みで迎えられるたび、胸がきゅうっと締めつけられるほど嬉しい気持ちがあふれた。
「……っわ!? え、え! 祐恭さん、いつからそこに!」
「だいぶ前かな。というか、羽織のすぐあとこっちから戻ってきたんだけど、気づかなかった?」
「っ……全然気づきませんでした」
頬に手を当ててにんまりした瞬間の顔を、キッチンカウンターのすぐ隣に立っていた彼に、どうやら真正面から見られたらしい。
書斎方向の廊下を指差され、バツの悪さからわずかに唇を噛む。
にっこりではなく、どちらかというと、にやにや。
そう表現できるような表情に、かぁと頬が熱くなる。
「別に、メガネなんて珍しくないでしょ?」
「それはそうですけど……でも、ウチは誰もかけてなかったから、つい目がいくというか」
「あー、そうか」
家系なのか、両親もお兄ちゃんも……そして私も、視力に困ってはいない。
『だから老眼になるのよ』とお母さんが言い始めたのは、つい最近。
そういえばずっとメガネをしていなかったお父さんも、新聞を読むときに時々かけているのを見かける。
「別に外さなくてもいいんだけど、こう、長時間本読んでると疲れるっていうか」
「……ぅ」
「こうして近づかれたら、機嫌悪いようにも見えるでしょ」
「ちょっとだけ」
ソファへ腰掛けた彼が、普段と違っていわゆる“素“のまま私の顔を覗き込む。
理由がわかれば納得できる、表情。
目を細めることで、焦点を合わせるんだよね。
目が悪くないから知らなかったけれど、でも確かに、理由がわからなかったら睨まれていると感じる人もいるかもしれない。
「っ……」
目の前。本当の、ここ。
まるでキスされる直前かのような近づき方に、どきどきする。
吐息が重なっている気がする、なんて感じてしまえばより一層。
まるで私がそう感じているのを十分わかっているかのように、小さく笑った彼が指先で頬に触れた。
「男物のメガネも、なかなか違う意味で似合うよ?」
「え?」
「今、流行ってるんでしょ? 彼氏の私物身につけるの」
「そうなんですか?」
「あれ。そういうの、ちょうどど真ん中な世代じゃないの?」
「……う」
流行には、実はそこまで敏感じゃない。
どちらかというと疎いほうかもしれないし、友達の間で十分流行ったころに気づくタイプだろうか。
特に困っていないのは、きっとメディアからの情報を素早くキャッチする友達が数人いるからかな。
かわいい、やりたい、と思うことは私も手を伸ばすけれど、それ以外はあまり試すこともない。
でも、絵里曰く『それがアンタらしい』だそうだし、彼も彼で『十分でしょ』と言ってくれるから、どうやらこちら方面では変わらずとも済みそうだ。
「いくらでもお貸しするから、どうぞ?」
「や、あの……くらくらして、歩けません」
「だろうね」
机に置かれていたメガネに手を伸ばすも、私が苦笑したからか祐恭さんは手にしなかった。
小さく笑いながら改めて私に向き直り、頬に向かって改めて手を伸ばす。
「っ……」
「まだ平気か」
「え、とっ……」
「俺が平気なんだから、羽織も平気だよね?」
抱きすくめるように腕がまわり、彼が目の前で笑った。
ううん、もっと近く。
鼻先がつくほどの距離で、いつものようにキスをされる直前の雰囲気を勝手に感じ、嬉しくも恥ずかしい気持ちになる。
「キスだけじゃないつもりだから、メガネはまだいいかな」
「っ……」
囁かれてすぐ、唇が触れた。
柔らかな感覚に、どうしたって声は漏れて。
彼の言葉の意味を知るのは、さほど遅くもない、ほんの少しあとのことだった。
9月14日
2020.09.14
今日はなんの日? シリーズにもはやなりつつある。
「なんかあるのか?」
「ううん、違うの。夕方、雨が降りそうだったのに……いつの間にか、晴れたんだなって」
三日月が、低い位置に出ていた。
同じように空を見上げた彼は、どこか感心するように『よく気づいたな』と笑う。
月を見るのが、小さいころから好きだった。
幼かったのは覚えているけれど、思い出せるあのころの自分は何歳なんだろう。保育園から帰ると服に着替えて、夕食の手伝いというか……お箸とお茶碗を並べるのが、そういえばあのころの自分の仕事だった。
小さいころに住んでいたのはここではなく、少し離れた街にある平屋のお家。
長い廊下は中庭に面していて、そこからよくぽっかりと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
太陽とは違い、直接見ても眩しくない光。昔は月の光がとても明るいと感じたのに、住宅街だからか今では少しだけ穏やかさを感じる。
「明日もきっとお天気だね」
「どうだかな。台風のシーズンでもあるし、ここンところしょっちゅう夜中に雨降るじゃん。まぁ、日中は平気だろうけど」
「そんなによく、雨降ってるの?」
「ああ。……ま、気づかず寝れるのもある意味才能かもな」
肩をすくめた彼は、ふわりと頭に触れるとすぐそこのソファへ腰かける。
テレビは日曜の夜特有のバラエティが流れていて、数人の芸能人がおかしそうに笑っていた。
「明日、午後から暇だつってたよな」
「うん。3時限目が休校になったって、連絡があったよ」
いつもはその時間、国文学の講義が入っているけれど、教授の急な都合によると先ほどスマフォへ連絡が入った。
そのことを夕食のときに話したんだけれど、こんなふうに聞いてくるということは、何かしらの意図があるように思う……というより、どうしたって期待するよね。
だって、明日は私の誕生日なんだから。
「もし上がれそうなら、午後から半休取る」
「え……本当?」
「もともと早上がりの予定だったから、多分平気だと思うけどな。ちょっと付き合えよ。どうせなら、メシ食いがてら出ようぜ」
彼の仕事は、まさに私の普段のテリトリー内であり、過ごす校舎とは目と鼻の先。
講義中でも、つい図書館を眺めてしまっていて、我ながらこんなに注意力が散漫なんだと笑うしかない。
「それって……誕生日だから?」
「まぁな。期待しとけ。美味いって評判のイングリッシュガーデンランチ、って触れ込みらしいし」
よくわかんねぇけど。
両手を頭の後ろで組んだ彼が、ぽつりと付け足した言葉がまさに“らしく“て。
彼も花を見てきっといろいろ思ってはいる人だろうけれど、わざわざ感想を口にすることはよほどでないとしない。
今朝も、うちの庭に咲いている黄色いバラと白いコスモスを玄関へ飾ったら、ちらりと視線こそ向けたものの、聞こえたのは花を愛でる言葉ではなかった。
『お前、ほんとマメだな』
ネクタイを結びながら笑ってくれたのは嬉しくて、ああもしかして私がここに花を飾るのは、彼のこの顔を見たくてなのかなと気づいてしまった。
「……ふふ。嬉しい」
ソファへ腰を下ろし、ほんの少しだけ彼へ肩を寄せる。
エアコンではなく、今は窓からの風。
だけど、9月を過ぎたころから明らかに風は変わって、ときおり吹き込んでくるのは十分に涼しいと感じるものだった。
「ほら、ずっと工事してたモールの改修が終わっただろ? ちょうど見たいモンあったんだよ」
「買い物だったら、今日でもよかったのに」
「いや、今日行ったらすげぇ混むじゃん。人でパンパンとかヤじゃね?」
欲しいものがあるならとは思ったものの、彼の言い分ももっともで。
ましてや明日、時間が取れるとわかっていたなら、確かに動くはずはないもんね。
「どうせならゆっくり見たい」
「何を見るの?」
「そりゃ、買うモンなんて決まって——」
本屋さんか服屋さんかと逡巡したものの、ふいに聞こえたテレビの音声に意識が引っ張られた。
でも、それは私だけじゃなくて。
さっきまで聞こえていた笑い声ではなく、どこか感嘆にも似たようなもので余計そちらが気になったのかもしれない。
「…………」
「……いや、ちょ……違う。あのな、俺がそういうタイプじゃねぇのは知ってンだろ」
「それはそう、なんだけど……えっと……」
「いや、だから! つかンな反応すんな!」
まじまじと彼を見たまま、自分でも頬が熱くなったのはわかったから、きっと十分顔に出ていたんだろう。
でも、だって……だってね?
こんなふうに聞いたのは初めてだったけれど、あまりにもタイミングがばっちりというか。
つい、余計にインプットされてしまったようで、なんともいえない気恥ずかしさからか、思わず唇を噛むと視線が落ちた。
「っ……」
「期待したなら買ってやってもいいけど?」
「ち、がっ……もう。そんな顔しないで」
さっきとは違い、私の顎をとらえた彼はすぐここで悪戯っぽく笑った。
もう。本当に、瞬間的に態度が変わる人なんだから。
そういうところ、さすがだなと思いながらもほんの少しだけずるいようにさえ感じる。
「しょうがねぇじゃん。そういう日なんだろ? 明日は」
「でも私、そんなの初めて聞いて……」
「俺も今知った。でもま、ちょうどいいじゃん。誕生日だし、なんなら毎年買ってやるよ」
「っ……もう」
意図的に笑われ、頬がより熱くなる。
9月14日は、『メンズ・バレンタインデー』。
そんなふうに言われているのも今日知ったけれど、それがどういう日なのかが問題で。
テレビに映っている芸能人がおもむろに紹介を始めたけれど、次の瞬間目に入ったのはビビッドな色合いの女性用下着だった。
「ま、どうせなら俺が勝手に見繕うより、一緒に選んだほうがいいか。だろ?」
「……だから、もう……どこまで本気なのかわからないでしょう?」
「がっつり本気に受け取っていいぞ。つか、俺が普段から否定しねぇのお前が一番よくわかってんじゃん」
だから困るのに。
きっと、彼のことだから明日出かけたら間違いなくお店に足を向けるだろう。
普段、自分がどんなふうに下着を選んでいたか思い出せない。
というか、あの手のお店に彼と一緒に行くのは正直私は抵抗があって。
だって、その……意識するじゃない。どうしたって。
水着じゃないからこそ、服を脱がなければ目に入らない種類のものなんだから。
「ま、期待しとけ」
「っ……」
一緒にご飯を食べに行けることも、出かけられることも嬉しいけれど、なんだか少しだけどきどきして苦しい。
だけど、さらりと髪を撫でた彼に今朝よりもよほど近い距離で笑われ、もうそれ以上は何も言えずただただ誤魔化すように笑うしかなかった。
てことで、9月14日はメンズバレンタインだそうですよ!
下着プレゼントするんだって。
どうやってサイズ測るの……?それとも、聞き出して買うの?
対面で下着買うってなかなかなハードルの高さだよね。
その様をこっそり見てたいわw
「なんかあるのか?」
「ううん、違うの。夕方、雨が降りそうだったのに……いつの間にか、晴れたんだなって」
三日月が、低い位置に出ていた。
同じように空を見上げた彼は、どこか感心するように『よく気づいたな』と笑う。
月を見るのが、小さいころから好きだった。
幼かったのは覚えているけれど、思い出せるあのころの自分は何歳なんだろう。保育園から帰ると服に着替えて、夕食の手伝いというか……お箸とお茶碗を並べるのが、そういえばあのころの自分の仕事だった。
小さいころに住んでいたのはここではなく、少し離れた街にある平屋のお家。
長い廊下は中庭に面していて、そこからよくぽっかりと夜空に浮かぶ月を眺めていた。
太陽とは違い、直接見ても眩しくない光。昔は月の光がとても明るいと感じたのに、住宅街だからか今では少しだけ穏やかさを感じる。
「明日もきっとお天気だね」
「どうだかな。台風のシーズンでもあるし、ここンところしょっちゅう夜中に雨降るじゃん。まぁ、日中は平気だろうけど」
「そんなによく、雨降ってるの?」
「ああ。……ま、気づかず寝れるのもある意味才能かもな」
肩をすくめた彼は、ふわりと頭に触れるとすぐそこのソファへ腰かける。
テレビは日曜の夜特有のバラエティが流れていて、数人の芸能人がおかしそうに笑っていた。
「明日、午後から暇だつってたよな」
「うん。3時限目が休校になったって、連絡があったよ」
いつもはその時間、国文学の講義が入っているけれど、教授の急な都合によると先ほどスマフォへ連絡が入った。
そのことを夕食のときに話したんだけれど、こんなふうに聞いてくるということは、何かしらの意図があるように思う……というより、どうしたって期待するよね。
だって、明日は私の誕生日なんだから。
「もし上がれそうなら、午後から半休取る」
「え……本当?」
「もともと早上がりの予定だったから、多分平気だと思うけどな。ちょっと付き合えよ。どうせなら、メシ食いがてら出ようぜ」
彼の仕事は、まさに私の普段のテリトリー内であり、過ごす校舎とは目と鼻の先。
講義中でも、つい図書館を眺めてしまっていて、我ながらこんなに注意力が散漫なんだと笑うしかない。
「それって……誕生日だから?」
「まぁな。期待しとけ。美味いって評判のイングリッシュガーデンランチ、って触れ込みらしいし」
よくわかんねぇけど。
両手を頭の後ろで組んだ彼が、ぽつりと付け足した言葉がまさに“らしく“て。
彼も花を見てきっといろいろ思ってはいる人だろうけれど、わざわざ感想を口にすることはよほどでないとしない。
今朝も、うちの庭に咲いている黄色いバラと白いコスモスを玄関へ飾ったら、ちらりと視線こそ向けたものの、聞こえたのは花を愛でる言葉ではなかった。
『お前、ほんとマメだな』
ネクタイを結びながら笑ってくれたのは嬉しくて、ああもしかして私がここに花を飾るのは、彼のこの顔を見たくてなのかなと気づいてしまった。
「……ふふ。嬉しい」
ソファへ腰を下ろし、ほんの少しだけ彼へ肩を寄せる。
エアコンではなく、今は窓からの風。
だけど、9月を過ぎたころから明らかに風は変わって、ときおり吹き込んでくるのは十分に涼しいと感じるものだった。
「ほら、ずっと工事してたモールの改修が終わっただろ? ちょうど見たいモンあったんだよ」
「買い物だったら、今日でもよかったのに」
「いや、今日行ったらすげぇ混むじゃん。人でパンパンとかヤじゃね?」
欲しいものがあるならとは思ったものの、彼の言い分ももっともで。
ましてや明日、時間が取れるとわかっていたなら、確かに動くはずはないもんね。
「どうせならゆっくり見たい」
「何を見るの?」
「そりゃ、買うモンなんて決まって——」
本屋さんか服屋さんかと逡巡したものの、ふいに聞こえたテレビの音声に意識が引っ張られた。
でも、それは私だけじゃなくて。
さっきまで聞こえていた笑い声ではなく、どこか感嘆にも似たようなもので余計そちらが気になったのかもしれない。
「…………」
「……いや、ちょ……違う。あのな、俺がそういうタイプじゃねぇのは知ってンだろ」
「それはそう、なんだけど……えっと……」
「いや、だから! つかンな反応すんな!」
まじまじと彼を見たまま、自分でも頬が熱くなったのはわかったから、きっと十分顔に出ていたんだろう。
でも、だって……だってね?
こんなふうに聞いたのは初めてだったけれど、あまりにもタイミングがばっちりというか。
つい、余計にインプットされてしまったようで、なんともいえない気恥ずかしさからか、思わず唇を噛むと視線が落ちた。
「っ……」
「期待したなら買ってやってもいいけど?」
「ち、がっ……もう。そんな顔しないで」
さっきとは違い、私の顎をとらえた彼はすぐここで悪戯っぽく笑った。
もう。本当に、瞬間的に態度が変わる人なんだから。
そういうところ、さすがだなと思いながらもほんの少しだけずるいようにさえ感じる。
「しょうがねぇじゃん。そういう日なんだろ? 明日は」
「でも私、そんなの初めて聞いて……」
「俺も今知った。でもま、ちょうどいいじゃん。誕生日だし、なんなら毎年買ってやるよ」
「っ……もう」
意図的に笑われ、頬がより熱くなる。
9月14日は、『メンズ・バレンタインデー』。
そんなふうに言われているのも今日知ったけれど、それがどういう日なのかが問題で。
テレビに映っている芸能人がおもむろに紹介を始めたけれど、次の瞬間目に入ったのはビビッドな色合いの女性用下着だった。
「ま、どうせなら俺が勝手に見繕うより、一緒に選んだほうがいいか。だろ?」
「……だから、もう……どこまで本気なのかわからないでしょう?」
「がっつり本気に受け取っていいぞ。つか、俺が普段から否定しねぇのお前が一番よくわかってんじゃん」
だから困るのに。
きっと、彼のことだから明日出かけたら間違いなくお店に足を向けるだろう。
普段、自分がどんなふうに下着を選んでいたか思い出せない。
というか、あの手のお店に彼と一緒に行くのは正直私は抵抗があって。
だって、その……意識するじゃない。どうしたって。
水着じゃないからこそ、服を脱がなければ目に入らない種類のものなんだから。
「ま、期待しとけ」
「っ……」
一緒にご飯を食べに行けることも、出かけられることも嬉しいけれど、なんだか少しだけどきどきして苦しい。
だけど、さらりと髪を撫でた彼に今朝よりもよほど近い距離で笑われ、もうそれ以上は何も言えずただただ誤魔化すように笑うしかなかった。
てことで、9月14日はメンズバレンタインだそうですよ!
下着プレゼントするんだって。
どうやってサイズ測るの……?それとも、聞き出して買うの?
対面で下着買うってなかなかなハードルの高さだよね。
その様をこっそり見てたいわw