Doing I and You
2020.04.11
暇です。超暇です。
いやー小話、意外と進むわ!
MUSHOKUですからね! なんといっても!!
いや、今となってはNEETというべきか……。
でも家事はしてるんや。だからセーフなんや。
ああ……ということはウン十年ぶりに専業主婦ってことですね。
すてきな響き。ウェルカムバックトゥ!!
最近テンションがおかしいのは通常運転です。
「あー、あれ? 毎朝やってるニュース番組のDIY講座見て作ったのよ」
『え! 絵里、そんなことしてたの? すごい』
「でしょ? もっと褒めてくれていいのよ。なんてったって、イケメンな彼が出る番組だからね。てかもー、朝からやることなくて私最近、ほぼほぼ7時前から見てるわ」
金曜日の午前中。
やることがなくて、全部屋のカーテンを洗濯機へつっこんだあとで、羽織が電話をかけてきた。
最近、テレビしか見てないわ。ほんと、やばい。
課題はそこそこ終わってるし、ていうか、計算式ばっかりだと頭が疲れる。
どっさり出されたところで、自分ひとりでやれってのはなかなか酷よ。センセ方。
これがきっちり教科書のある高校生とかだったら自習のやりようもあるけど、大学ってなるとそうもいかないんだなと改めて思った。
ああ、ちなみにオンライン授業はすでに開始されていて、出席扱いになるものもある。
てか、今ってネットでなんでもできるのねー。
きっちり純也に設定してもらったうえに、電源の入れ方落とし方質問の仕方全部を紙へまとめてもらったから、もう何が起きても大丈夫。
今のところ、順調に質問もできていれば出席もかんばしい。
遅刻もないし、いっそもう今後は全部これでよくない? とも思うけどね。
「塩ビ管でできてるから、軽いのよ。そんでもって、いい色でしょー? ワトコオイルっていう色なの。ちなみにウチ、最近やたらオイル増えてきたから、もしやる気があるならいくらでもあげるわよ」
比喩じゃなく単なる事実。
微妙に色が違うから、ついついおもしろくなって集めてしまった。
凝り性なのねーって、自分でも思ったわ。
「ま、もうちょっと落ち着いたらまたお茶会しましょ。話したいこといっぱいあるんだからさー」
『うん、楽しみにしてるね。あ、この間作ってた珪藻土のコースター、葉月が作り方教えてほしいって言ってたよ』
「あら、じゃあ今度は出張DIYするわ。3人で作りましょ」
『ほんと? 葉月喜ぶよー。じゃあ、楽しみにしてるね!』
「はいはーい。またね」
スマフォをテーブルへ置いたところで、時計が目に入った。
おっと、11時半。
お昼にはちょっと早いけど、今日も6時台に朝ごはんを食べたから、すでにお腹は空いている。
「あら、おかえり」
「ただいま。……つか、またなんか増えてる」
「いいでしょ。本棚よ!」
「お前、何を目指すの? 職人にでもなんの?」
「あら。いざってときになんでもできるほうがいいでしょ? 生きる知恵よ」
キッチンのカウンター下へ設置した本棚を見て、純也が呆れとも取れるため息をついた。
だってもう、やりつくしたんだもん。
大掃除しなくてもいいくらい、家の中ぴかぴかよ。
暇すぎて、床の拭き掃除どころか天井の拭き掃除まで完了してるんだから。
「……ん。なんかいい匂いする」
「メシ、まだだろ? ガパオライス。食べるか?」
「うわ食べる! おいしそー。何? オシャレごはんじゃん」
がさがさとビニール特有の音がするなと思ったら、どうやら買ってきたらしい。
白いプラ容器が取り出された瞬間、和とも洋とも違う独特な香りにお腹が鳴った。
「あー、いい匂い。お腹すいた」
「ここ最近健康的だもんな、お前。何時に起きてる?」
「6時」
「大学も休みなのに?」
「あら。テレビはやってるわよ」
「ほんと、テレビっ子だな」
「子どもじゃないわよ。失礼ね」
いただきます、をしてから早速大きめのひとくち。
んんーおいしい!
このひき肉の味、すごい好き。
ナンプラーとバジルの香りで満面の笑みになったものの、よほど子どもっぽかったのか、純也が吹き出すように笑った。
「悪かったわね」
「いや、ほんとうまそうに食べるな、と思って」
「だってお腹空いたんだもん」
「健康的だな」
「でしょ」
てか、純也だって同じくらいの時間には起きてるじゃない。
私と違って『朝、目が覚める』人らしく、純也は純也で朝からマメに何かしている。
そういえば、昨日は鶏ハム仕込んでたんじゃなかったっけ。
この人、私と違ってほんと料理好きよね。
葉月ちゃんと時短レシピの話してるとき嬉々としていて、ああ主夫が合いそうってホント思ったわ。
「それにしても、毎日よくいろんなもん作るな」
「え、だって暇」
「だろうよ。……で、DIYか。お前ほんと凝り性だな」
「だって楽しいんだもん。暇つぶしになるし」
このリビングの中には、すでに4個ほど私の作品が鎮座している。
すぐそこのリモコン置き、ストッカーと壁の隙間用の新たなストッカー、ちゃんと段にして積めるミニボックス、そんでもって今朝完成したこの本棚。
あー、なかなか壮観ね。
部屋が片付く上に、物が収納できてさっぱりしていくって、win-winでしかないでしょ。
私、偉いわ。ほんと。褒めていただきたい。
「どっか行きたいけど、そういうわけにもいかないし。家の中でできることって言ったら、DIYでしょ」
「いや、なかなかその発想に至らないぞ」
「そう? 楽しいわよ」
「知ってる」
純也はマメだけど、料理以外はあんまりしない。
ああ、掃除と洗濯は好きみたいだけどね。
私はこうやって物作って、新たな配置を考えて収納するっていう一連の流れが好きみたいだから、ある意味バランス取れてるんじゃない?
断捨離するにもいい時期だし、来週は手つかずになってたクローゼットの中を整理してもいいかもしれない。
あ、そしたら新しいラック作れるし。
ふふ。やること意外と尽きないわね。
「あー、じゃあアレだ。タオルハンガーとか自作すれば?」
「タオルハンガー? なんで」
「ほら、お前洗面所のやつ壊したじゃん」
「……あ。そういえば」
あれはついうっかり出来心。
お風呂上りに滑りそうになって、慌ててつかんだらぼっきり折れたわけ。
ありがとう、私を助けてくれて。
おかげで、この年でお尻に青アザ作らなくて済んだわ。
「よーし、明日やること決まった!」
「……それ、なんかこの間見てたカートゥーンのセリフだろ」
「あら、よくわかったわね。あんだけ『お前は子どもか』って言ってたくせに、一緒に見てたんじゃない」
「そりゃ耳に残るだろ。お前はあの日、何話まとめて見てたよ」
げんなりした顔の純也に、とりあえず肩をすくめておく。
せいぜい20話くらいじゃない?
だって無料放送してるんだもん。
でも、なかなかおもしろかったわよ? 非現実的ながら、理系もので。
「んじゃ、どのオイルがいいか試そーっと」
「……お前、ここ最近色考えてるときが一番嬉々としてるよな」
「そりゃあもう。超楽しい」
うんうんうなずいて、親指を立てる。
すると、純也は『人ってある意味適応するんだな』とセオリーっぽいことを言いながら笑った。
いやー小話、意外と進むわ!
MUSHOKUですからね! なんといっても!!
いや、今となってはNEETというべきか……。
でも家事はしてるんや。だからセーフなんや。
ああ……ということはウン十年ぶりに専業主婦ってことですね。
すてきな響き。ウェルカムバックトゥ!!
最近テンションがおかしいのは通常運転です。
「あー、あれ? 毎朝やってるニュース番組のDIY講座見て作ったのよ」
『え! 絵里、そんなことしてたの? すごい』
「でしょ? もっと褒めてくれていいのよ。なんてったって、イケメンな彼が出る番組だからね。てかもー、朝からやることなくて私最近、ほぼほぼ7時前から見てるわ」
金曜日の午前中。
やることがなくて、全部屋のカーテンを洗濯機へつっこんだあとで、羽織が電話をかけてきた。
最近、テレビしか見てないわ。ほんと、やばい。
課題はそこそこ終わってるし、ていうか、計算式ばっかりだと頭が疲れる。
どっさり出されたところで、自分ひとりでやれってのはなかなか酷よ。センセ方。
これがきっちり教科書のある高校生とかだったら自習のやりようもあるけど、大学ってなるとそうもいかないんだなと改めて思った。
ああ、ちなみにオンライン授業はすでに開始されていて、出席扱いになるものもある。
てか、今ってネットでなんでもできるのねー。
きっちり純也に設定してもらったうえに、電源の入れ方落とし方質問の仕方全部を紙へまとめてもらったから、もう何が起きても大丈夫。
今のところ、順調に質問もできていれば出席もかんばしい。
遅刻もないし、いっそもう今後は全部これでよくない? とも思うけどね。
「塩ビ管でできてるから、軽いのよ。そんでもって、いい色でしょー? ワトコオイルっていう色なの。ちなみにウチ、最近やたらオイル増えてきたから、もしやる気があるならいくらでもあげるわよ」
比喩じゃなく単なる事実。
微妙に色が違うから、ついついおもしろくなって集めてしまった。
凝り性なのねーって、自分でも思ったわ。
「ま、もうちょっと落ち着いたらまたお茶会しましょ。話したいこといっぱいあるんだからさー」
『うん、楽しみにしてるね。あ、この間作ってた珪藻土のコースター、葉月が作り方教えてほしいって言ってたよ』
「あら、じゃあ今度は出張DIYするわ。3人で作りましょ」
『ほんと? 葉月喜ぶよー。じゃあ、楽しみにしてるね!』
「はいはーい。またね」
スマフォをテーブルへ置いたところで、時計が目に入った。
おっと、11時半。
お昼にはちょっと早いけど、今日も6時台に朝ごはんを食べたから、すでにお腹は空いている。
「あら、おかえり」
「ただいま。……つか、またなんか増えてる」
「いいでしょ。本棚よ!」
「お前、何を目指すの? 職人にでもなんの?」
「あら。いざってときになんでもできるほうがいいでしょ? 生きる知恵よ」
キッチンのカウンター下へ設置した本棚を見て、純也が呆れとも取れるため息をついた。
だってもう、やりつくしたんだもん。
大掃除しなくてもいいくらい、家の中ぴかぴかよ。
暇すぎて、床の拭き掃除どころか天井の拭き掃除まで完了してるんだから。
「……ん。なんかいい匂いする」
「メシ、まだだろ? ガパオライス。食べるか?」
「うわ食べる! おいしそー。何? オシャレごはんじゃん」
がさがさとビニール特有の音がするなと思ったら、どうやら買ってきたらしい。
白いプラ容器が取り出された瞬間、和とも洋とも違う独特な香りにお腹が鳴った。
「あー、いい匂い。お腹すいた」
「ここ最近健康的だもんな、お前。何時に起きてる?」
「6時」
「大学も休みなのに?」
「あら。テレビはやってるわよ」
「ほんと、テレビっ子だな」
「子どもじゃないわよ。失礼ね」
いただきます、をしてから早速大きめのひとくち。
んんーおいしい!
このひき肉の味、すごい好き。
ナンプラーとバジルの香りで満面の笑みになったものの、よほど子どもっぽかったのか、純也が吹き出すように笑った。
「悪かったわね」
「いや、ほんとうまそうに食べるな、と思って」
「だってお腹空いたんだもん」
「健康的だな」
「でしょ」
てか、純也だって同じくらいの時間には起きてるじゃない。
私と違って『朝、目が覚める』人らしく、純也は純也で朝からマメに何かしている。
そういえば、昨日は鶏ハム仕込んでたんじゃなかったっけ。
この人、私と違ってほんと料理好きよね。
葉月ちゃんと時短レシピの話してるとき嬉々としていて、ああ主夫が合いそうってホント思ったわ。
「それにしても、毎日よくいろんなもん作るな」
「え、だって暇」
「だろうよ。……で、DIYか。お前ほんと凝り性だな」
「だって楽しいんだもん。暇つぶしになるし」
このリビングの中には、すでに4個ほど私の作品が鎮座している。
すぐそこのリモコン置き、ストッカーと壁の隙間用の新たなストッカー、ちゃんと段にして積めるミニボックス、そんでもって今朝完成したこの本棚。
あー、なかなか壮観ね。
部屋が片付く上に、物が収納できてさっぱりしていくって、win-winでしかないでしょ。
私、偉いわ。ほんと。褒めていただきたい。
「どっか行きたいけど、そういうわけにもいかないし。家の中でできることって言ったら、DIYでしょ」
「いや、なかなかその発想に至らないぞ」
「そう? 楽しいわよ」
「知ってる」
純也はマメだけど、料理以外はあんまりしない。
ああ、掃除と洗濯は好きみたいだけどね。
私はこうやって物作って、新たな配置を考えて収納するっていう一連の流れが好きみたいだから、ある意味バランス取れてるんじゃない?
断捨離するにもいい時期だし、来週は手つかずになってたクローゼットの中を整理してもいいかもしれない。
あ、そしたら新しいラック作れるし。
ふふ。やること意外と尽きないわね。
「あー、じゃあアレだ。タオルハンガーとか自作すれば?」
「タオルハンガー? なんで」
「ほら、お前洗面所のやつ壊したじゃん」
「……あ。そういえば」
あれはついうっかり出来心。
お風呂上りに滑りそうになって、慌ててつかんだらぼっきり折れたわけ。
ありがとう、私を助けてくれて。
おかげで、この年でお尻に青アザ作らなくて済んだわ。
「よーし、明日やること決まった!」
「……それ、なんかこの間見てたカートゥーンのセリフだろ」
「あら、よくわかったわね。あんだけ『お前は子どもか』って言ってたくせに、一緒に見てたんじゃない」
「そりゃ耳に残るだろ。お前はあの日、何話まとめて見てたよ」
げんなりした顔の純也に、とりあえず肩をすくめておく。
せいぜい20話くらいじゃない?
だって無料放送してるんだもん。
でも、なかなかおもしろかったわよ? 非現実的ながら、理系もので。
「んじゃ、どのオイルがいいか試そーっと」
「……お前、ここ最近色考えてるときが一番嬉々としてるよな」
「そりゃあもう。超楽しい」
うんうんうなずいて、親指を立てる。
すると、純也は『人ってある意味適応するんだな』とセオリーっぽいことを言いながら笑った。
pudding return
2020.04.09
家にいるので、ええ、暇ですよ。
飯炊きくらいはしてますが、ええ暇ですとも!!
毎日まいにち、「お腹すいた」コールを聞きながら、いや自分で作れやと返しつつ、自分も食べるので結局作る日々。
とりあえず、自分の健康を守るために私は避難するわ……。
ソロキャンしたい。庭でもベランダでもいいから!!(切実)
「あー……眠たい」
「ちょっとお昼寝したら?」
「うぅ……でも、これをやっておかないと、明日きつくなるから……」
「じゃあ、少し何か飲む?」
「……ありがとう」
おやつの時間より、少し前。
リビングのテーブルでレポート作成のための分厚い本を読んでいたら、唐突に眠気が襲った。
昨日遅かったのもある。
でも……どう考えても、この300ページもある『心理学概論』の本の影響だと思うんだよね。
錯視といい、実験名といい、心理学者といい……どうしてみんなカタカナなんだろう。
世界史も苦手だった私にとっては、やっぱりきつい部分なんだと思う。
でも、同じようにお昼を食べて、同じようにリビングで勉強していた葉月は、これっぽっちもそんな様子ないんだよね。
何が違うんだろう。
……うぅ、頭の使い方が違うのは自分でもわかってるから触れられない。
「ん、これおいしいねー」
「そう? よかった」
「ていうか、ちゃんとプリンの味がする!」
糖分とちょうどいいタンパク質の補給ってことで、葉月がくれたのはプリン味の豆乳。
初めて見たけど、ひとくち飲んで『ざ・プリン』の味にあの感想が出た。
「葉月は飲んでないの?」
「たまたま、2本だけ売ってたの。だから、飲もうかなとは思ったんだけど……プリン好きな人が、うちにはもうひとりいるじゃない?」
「うーん……けど、お兄ちゃん豆乳飲まなさそうだよね」
「やっぱりそう思う?」
「うん。どっちかっていうと、豆じゃなくて麦っていうか」
芋っていうか、つまりはお酒。
そういえば、豆からできたお酒って知らないないなぁ、なんてふと思う。
「プリンといえば……来週、プリンシェイクが出るって知ってた?」
「え!? どこで!?」
隣へ腰を下ろした葉月が、スマフォを取り出しながら笑った。
あ、もしかしなくても私の反応が『羽織らしいね』ってことだよね。
うぅ、だってプリンおいしいんだもん。
小さいころお母さんがよく作ってくれたせいか、ついつい食べたくなる。
そういえばこの間、葉月が作ってくれたかぼちゃプリンはどっしりじゅわっとしていて、すごくおいしかったっけ。
「ほら」
「わ! ほんとだ!」
見せてくれた画面には、大きな赤いMが目印の特集。
カラメルソースもついてくるとあって、これは……期待大すぎる。
毎年、季節限定で出る味おいしいんだよね。
ちなみにキャラメルは、私の中の不動の1位だ。
「うーん……自粛中とはいえ、買い物はいいんだよね?」
「大丈夫でしょう? ほら、さっき私も外へ出たし」
確かに午前中、葉月は買い物に出ている。
いつもと比べたらお客さんたちは少なめだったらしいけれど、食料品売り場は閉ざされることなく通常営業だったそう。
ちなみに、暇なお兄ちゃんが付き添っている。
あ。
「それ買ったとき、お兄ちゃん何か言わなかった?」
「そもそもね、売り場に並んでるたくさんのフレーバーを見て感心してたよ。『よく考えるよな』って」
あー、言いそう。
ていうか、多分もっとひどい言い方な気もする。
お兄ちゃんって、なんであんなに口が悪いんだろう。
……育ちのせい……?
だとしたら、咄嗟に私も出るのかな。
それはやだなぁ……気をつけよう。
「うーん」
さて。
例のプリンシェイクの販売は、来週の13日。
うちから一番近い店舗まで、歩いたら……どれくらいかかるかなぁ。
15分はかからないと思うけど、そこそこの距離がある。
車なら3分。
そして、ドライブスルー完備。
……となったら……。
「は?」
「お兄ちゃん知らないの? 13日から出るんだよ」
おやつの時間ぴったりにリビングへ下りてきたところで、スマフォを見せる。
葉月のものではなく、私の。
ちなみに、いちばんおいしそうに写っている写真と、とてもとてもそそられるような文章がつづられているサイトを見つけておいた。
時間にして、20分ちょっとかかった……の。実は。
ああ、この時間を読書に当てていたら、もう少し読めただろうなぁとやったあとで反省。
「…………」
「キャラメルに続いてプリンだよ?」
「…………」
「しかもカラメルソースつき!」
黙ってスマフォを眺めているところへ、にこにこしながら言葉を足してみる。
結局、お父さんもお母さんも仕事が休みになったのは、緊急事態宣言が出された次の日だけ。
今はもう、通常勤務へ戻っている。
ただまあ……ちょっとはいつもより帰ってくる時間が早くはなってるけどね。
「で?」
「あ」
放るようにスマフォを返され、しかも『で?』そのものの顔をされた。
うぅ……何それ。
でって……いやあの、あのね?
飲みたくなったでしょ? 欲しいと思わない?
車で3分だからその……ねえ。
「買って来て」
「ハナっからそれ言えよ」
「だって、面倒くさがりそうなんだもん」
「そりゃな。でも、のってやる」
「すごい! プリンのチカラって偉大だね」
「……あのな。そうじゃねーだろ」
あっさり承諾したのを見て思わず手を叩くと、嫌そうな顔をして小さく舌打ちした。
でも、買ってきてくれることになったんだもん、嬉しい。
来週が待ち遠しいなぁ。
「え?」
「ひとくち」
さっき私が飲んだ豆乳プリンを葉月が手にしているのを見て、お兄ちゃんが左手を伸ばした。
飲むんだ。
豆乳とお兄ちゃんがさっぱり結びつかなかったけど、やっぱり“プリン”って名前のつくものの威力ってすごいんだなぁと改めて実感。
ひとくち飲む様子を、思わず葉月と同じように黙って見つめてしまった。
「……あー」
「どう?」
「プリンだな」
「ね。おいしいよね」
「まあ、味はプリンだけど後味豆乳だな」
「すごい……豆乳の香り、わかるの?」
「たりめーだろ」
紙パックを葉月へ返しながら、お兄ちゃんが眉を寄せた。
別に馬鹿にしたわけじゃなくて、私は豆乳の後味を感じなかっただけ。
……うーん。鼻が詰まってるのかな。
それとも、味覚の問題?
だとしたら、お兄ちゃんって結構繊細なんだね。見た目と違って。
「なんだよ」
「え?」
「お前今、一瞬俺のこと馬鹿にしたろ」
「え!? なんで、そんなことしてないってば」
目を細められて放たれた言葉に、ぎくりとしながら両手を振る。
まさか、そんなことしてないよー。
あはは、と笑いながら続けると、それはそれはいぶかしげに見られ、慌てて心理学の本へ戻ることにした。
プリンシェイク発売まで、あと少し。
家にいながらあの味を体験できるなんて……ああ、いい時期だなぁ。
てことは、お兄ちゃん13日にひとりでお姉さんへ『プリンシェイク3つ』ってオーダーするんだよね。
…………。
それはそれで見てみたい、って絵里が言いそう。
ああ、そういえば絵里ってば今ごろ何してるのかな。
昨日の夜は『暇すぎてDIY始めた』っていうなかなか謎な行動をしてるみたいだけど、どうやら充実はしてるらしい。
ちなみに、送られてきた本棚の写真はなかなか職人的に上手で、お兄ちゃんに見せたら『だいぶ極めてんな』と感想を口にした。
これ、おいしかったー。
また買ってこよーっと思ったときの、こぼれ話。
飯炊きくらいはしてますが、ええ暇ですとも!!
毎日まいにち、「お腹すいた」コールを聞きながら、いや自分で作れやと返しつつ、自分も食べるので結局作る日々。
とりあえず、自分の健康を守るために私は避難するわ……。
ソロキャンしたい。庭でもベランダでもいいから!!(切実)
「あー……眠たい」
「ちょっとお昼寝したら?」
「うぅ……でも、これをやっておかないと、明日きつくなるから……」
「じゃあ、少し何か飲む?」
「……ありがとう」
おやつの時間より、少し前。
リビングのテーブルでレポート作成のための分厚い本を読んでいたら、唐突に眠気が襲った。
昨日遅かったのもある。
でも……どう考えても、この300ページもある『心理学概論』の本の影響だと思うんだよね。
錯視といい、実験名といい、心理学者といい……どうしてみんなカタカナなんだろう。
世界史も苦手だった私にとっては、やっぱりきつい部分なんだと思う。
でも、同じようにお昼を食べて、同じようにリビングで勉強していた葉月は、これっぽっちもそんな様子ないんだよね。
何が違うんだろう。
……うぅ、頭の使い方が違うのは自分でもわかってるから触れられない。
「ん、これおいしいねー」
「そう? よかった」
「ていうか、ちゃんとプリンの味がする!」
糖分とちょうどいいタンパク質の補給ってことで、葉月がくれたのはプリン味の豆乳。
初めて見たけど、ひとくち飲んで『ざ・プリン』の味にあの感想が出た。
「葉月は飲んでないの?」
「たまたま、2本だけ売ってたの。だから、飲もうかなとは思ったんだけど……プリン好きな人が、うちにはもうひとりいるじゃない?」
「うーん……けど、お兄ちゃん豆乳飲まなさそうだよね」
「やっぱりそう思う?」
「うん。どっちかっていうと、豆じゃなくて麦っていうか」
芋っていうか、つまりはお酒。
そういえば、豆からできたお酒って知らないないなぁ、なんてふと思う。
「プリンといえば……来週、プリンシェイクが出るって知ってた?」
「え!? どこで!?」
隣へ腰を下ろした葉月が、スマフォを取り出しながら笑った。
あ、もしかしなくても私の反応が『羽織らしいね』ってことだよね。
うぅ、だってプリンおいしいんだもん。
小さいころお母さんがよく作ってくれたせいか、ついつい食べたくなる。
そういえばこの間、葉月が作ってくれたかぼちゃプリンはどっしりじゅわっとしていて、すごくおいしかったっけ。
「ほら」
「わ! ほんとだ!」
見せてくれた画面には、大きな赤いMが目印の特集。
カラメルソースもついてくるとあって、これは……期待大すぎる。
毎年、季節限定で出る味おいしいんだよね。
ちなみにキャラメルは、私の中の不動の1位だ。
「うーん……自粛中とはいえ、買い物はいいんだよね?」
「大丈夫でしょう? ほら、さっき私も外へ出たし」
確かに午前中、葉月は買い物に出ている。
いつもと比べたらお客さんたちは少なめだったらしいけれど、食料品売り場は閉ざされることなく通常営業だったそう。
ちなみに、暇なお兄ちゃんが付き添っている。
あ。
「それ買ったとき、お兄ちゃん何か言わなかった?」
「そもそもね、売り場に並んでるたくさんのフレーバーを見て感心してたよ。『よく考えるよな』って」
あー、言いそう。
ていうか、多分もっとひどい言い方な気もする。
お兄ちゃんって、なんであんなに口が悪いんだろう。
……育ちのせい……?
だとしたら、咄嗟に私も出るのかな。
それはやだなぁ……気をつけよう。
「うーん」
さて。
例のプリンシェイクの販売は、来週の13日。
うちから一番近い店舗まで、歩いたら……どれくらいかかるかなぁ。
15分はかからないと思うけど、そこそこの距離がある。
車なら3分。
そして、ドライブスルー完備。
……となったら……。
「は?」
「お兄ちゃん知らないの? 13日から出るんだよ」
おやつの時間ぴったりにリビングへ下りてきたところで、スマフォを見せる。
葉月のものではなく、私の。
ちなみに、いちばんおいしそうに写っている写真と、とてもとてもそそられるような文章がつづられているサイトを見つけておいた。
時間にして、20分ちょっとかかった……の。実は。
ああ、この時間を読書に当てていたら、もう少し読めただろうなぁとやったあとで反省。
「…………」
「キャラメルに続いてプリンだよ?」
「…………」
「しかもカラメルソースつき!」
黙ってスマフォを眺めているところへ、にこにこしながら言葉を足してみる。
結局、お父さんもお母さんも仕事が休みになったのは、緊急事態宣言が出された次の日だけ。
今はもう、通常勤務へ戻っている。
ただまあ……ちょっとはいつもより帰ってくる時間が早くはなってるけどね。
「で?」
「あ」
放るようにスマフォを返され、しかも『で?』そのものの顔をされた。
うぅ……何それ。
でって……いやあの、あのね?
飲みたくなったでしょ? 欲しいと思わない?
車で3分だからその……ねえ。
「買って来て」
「ハナっからそれ言えよ」
「だって、面倒くさがりそうなんだもん」
「そりゃな。でも、のってやる」
「すごい! プリンのチカラって偉大だね」
「……あのな。そうじゃねーだろ」
あっさり承諾したのを見て思わず手を叩くと、嫌そうな顔をして小さく舌打ちした。
でも、買ってきてくれることになったんだもん、嬉しい。
来週が待ち遠しいなぁ。
「え?」
「ひとくち」
さっき私が飲んだ豆乳プリンを葉月が手にしているのを見て、お兄ちゃんが左手を伸ばした。
飲むんだ。
豆乳とお兄ちゃんがさっぱり結びつかなかったけど、やっぱり“プリン”って名前のつくものの威力ってすごいんだなぁと改めて実感。
ひとくち飲む様子を、思わず葉月と同じように黙って見つめてしまった。
「……あー」
「どう?」
「プリンだな」
「ね。おいしいよね」
「まあ、味はプリンだけど後味豆乳だな」
「すごい……豆乳の香り、わかるの?」
「たりめーだろ」
紙パックを葉月へ返しながら、お兄ちゃんが眉を寄せた。
別に馬鹿にしたわけじゃなくて、私は豆乳の後味を感じなかっただけ。
……うーん。鼻が詰まってるのかな。
それとも、味覚の問題?
だとしたら、お兄ちゃんって結構繊細なんだね。見た目と違って。
「なんだよ」
「え?」
「お前今、一瞬俺のこと馬鹿にしたろ」
「え!? なんで、そんなことしてないってば」
目を細められて放たれた言葉に、ぎくりとしながら両手を振る。
まさか、そんなことしてないよー。
あはは、と笑いながら続けると、それはそれはいぶかしげに見られ、慌てて心理学の本へ戻ることにした。
プリンシェイク発売まで、あと少し。
家にいながらあの味を体験できるなんて……ああ、いい時期だなぁ。
てことは、お兄ちゃん13日にひとりでお姉さんへ『プリンシェイク3つ』ってオーダーするんだよね。
…………。
それはそれで見てみたい、って絵里が言いそう。
ああ、そういえば絵里ってば今ごろ何してるのかな。
昨日の夜は『暇すぎてDIY始めた』っていうなかなか謎な行動をしてるみたいだけど、どうやら充実はしてるらしい。
ちなみに、送られてきた本棚の写真はなかなか職人的に上手で、お兄ちゃんに見せたら『だいぶ極めてんな』と感想を口にした。
これ、おいしかったー。
また買ってこよーっと思ったときの、こぼれ話。
お家でエンジョイできること?
2020.04.07
そんなこんなで、小話ふたつめ。
今日がもしかしたらここ最近のラスト勤務になるかもですが、いってきまーす。
「外出自粛……」
何度もテレビに流れる文字を見ながら、思わず口にする。
カラオケもだめ、テーマパークもだめ、ダメじゃないけど外食も自粛、そしてそしてショッピングモールも同じく。
うぅ。お買い物行きたかった。
映画も見たかった。
カラオケだって約束してた。
高校のときの同級生みんなで、テーマパーク行くはずだったのに。
「はー……」
大々的に政府が出した“緊急事態宣言”なるもののおかげで、大学は当面休みになった。
家にいるようになって、すでに1ヶ月以上が経っている。
そして、またまた追加の休校宣言。
はーー……。
外へ出たいなぁ。
ていうか、大学が休みなのに遊びに行けない状態じゃ、何もすることがない。
……ってもちろん、勉強すればいいんだけど。
これでも一応は課題が出てるし、レポートもあるからやってはいる。
でも、ストレスはたまるんだもん。外行きたいなぁ。
ていうか——。
「……祐恭さんに会いたいなぁ」
リビングのソファへもたれながら、ぽつりと本音が漏れた。
一番会いたい人は、彼だ。
電話もしてるし、メッセージは毎日のようにやりとりしている。
でも、直接会えてない。
万が一があったら困るし、お仕事上大きな支障をきたすことになるからと、私のほうから少し離れます宣言をした。
だけど……だけど。
「はー……」
「羽織、紅茶でも飲む?」
「あ、欲しい」
「ちょっと待ってね」
リビングのテーブルへ伏していたら、葉月が声をかけてくれた。
ほどなくして、ベリーのような甘い香りがここまで漂ってくる。
あ、頬がゆるんだ。
いい匂いって、ほんと癒されるなぁ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
マグカップを受け取り、さっそくひとくち。
香りはとっても甘いけれど、味はさっぱり。
うん、おいしい。
私がいれるのと違って全然渋くないから、やっぱりいれる人によって味が変わるんだなぁと素直に思う。
「おかえりなさい」
「ただいま」
テレビのチャンネルを変えたところで、玄関の鍵が空いた音がした。
振り返るまでもなく、葉月の声で相手が誰かわかる。
「明日から、弁当いらない」
「え? たーくんも、お仕事休みになったの?」
「ああ。しばらく休館にして、全職員自宅待機」
「そうなんだ」
「ただま、俺は過去のデータ整理買って出たから、場所が変わっただけでやること変わんねーけど」
バッグからお弁当の包みを取り出しながら、お兄ちゃんが葉月へ手渡した。
ということは、もしかしたら祐恭さんも休みになるのかなぁ。
それとも、研究職だからそれは別?
判断基準が私にはわからないけれど、でも……会えないことに変わりはないんだよね。
「はー……」
「羽織、今日はため息が多いね」
「……だって、どこにも出かけられないんだもん」
「いいじゃん。毎日家でごろごろしてんだろ?」
「もぅ。ごろごろしてないってば!」
お兄ちゃんってば、つくづく失礼だなぁ。
これでも、学生としてやるべきことはしてるのに。
……といっても、ソファでついうとうとしちゃうことはあるんだけど。
でも、課題はそこそこ手をつけてる。
「緊急事態宣言が出ると、何が変わるのかなぁ」
「単純に、自治体が政府判断ってことで後ろ盾になるかどうかの差だろ。結局、罰則云々じゃねーし、自粛要請から1ランク上がったみてーなもんだ。ちょっと強く言えるようになる、くらいの」
「そうなんだ。じゃあ、今までとそんなに変わらないってこと?」
「いや、変わりはするだろ。自粛要請だったのが、『政府が発表しましたよね』つってもう少し圧はかけられる」
「……買い物とかは?」
「不要不急ったって、日常生活すんなって言ってるわけじゃねーんだし、食料品の買い出しは平気だろ。ただ、問題なのは企業側がどうするかだよな。消費者と同じように、働く側だってそれぞれ家庭とか個人の状況は考慮されてしかるべきなんだし、となれば今までと同じようにはいかなくて勤務形態を変える必要あんだろ」
ニュースに出た赤い文字を見ながら、なんだか少し不安にもなる。
ていうか、あんなに大々的に『出ました!』みたいに発表されると、ちょっとどきっとするじゃない。
目立たせる必要はあるだろうし、大事なことだっていうのはわかるけど……なんだか、不安をあおられてる気分。
「うちの職場のパートさんは、小学生の子どもひとりで留守にできないつって、しばらく休んでる。だけど、当然時給で仕事してるからそのぶん収入面が不安だろ? で、そこ含めて館長が総務へかけあってたぜ。そういう配慮は、それぞれの立場やら企業、団体で変わってくるだろーけど、こういう”緊急事態“だからこそ、ぶっちゃけ質が問われるよな」
ニュースを見ながらのお兄ちゃんの言葉に、改めて事態を受け止めなきゃなぁとは思う。
でも、ずっとずっと我慢をしいられているわけで、大学生の私でもこんなにストレスを感じてるんだから、小さい子はもっと感じているだろうし、不安だろうなぁって思うと、なんだかすごく切ない気がした。
だって、大学からの通知でも『適度な運動を』なんて書かれてたけど、どこですればいいの?
出歩いていいの?
この間、公園で体操してたら怒られたって話もあったよ?
もう、何がなんだかわからないし、だからこそ不安になる。
どうなるんだろう。この先、何が起きるんだろう。
「あとはまあ、医薬品とか感染拡大防止に関して、土地とか建物を権限で押さえられるようになるとかはあるらしいぜ。こんだけマスク不足やらアルコール系不足やらだけど、だからっつって休めない業種があるだろ? それこそ矢面に立って、俺たちなんかよりよっぽど高ストレス強いられてる医療従事者を政府が率先して守ってやんなきゃ、それこそ致命的だ。知り合いの看護師なんて、家庭も大変だし現場も大変だしで泣いてたからな」
「……そっか」
そうなんだよね。
私たち一般人だけじゃなくて、現場で命と常に向き合っている人たちがいる。
おかげで回復していく人もいるし、危機的状況を脱することのできる患者さんもいる。
私たちだけじゃない……ううん、私たち以上に、大変な思いをしているんだ。
私たちと同じく、みんなみんな家庭があって背景がある、一個人なんだもん。
「でも、ずっと家にいたら、ストレスたまっちゃうよね」
「うん。なんか、いろいろし尽くした気分」
はー、と今日何度目かのため息をつき、テレビのチャンネルを変える。
ニュースも大事だけど、もう少し楽しい話題を吸収したい。
落ち着いたら行ける、近場のおいしいお店とか温泉とか。
そういえば今年は、お花見もちゃんとできてない。
「明日、おやつにクレープでも作る?」
「え! クレープって家で作れるの?」
「さっき買い物に出たとき、いちごと生クリームは買ってきたの。楽しい時間潰しにはなるよ?」
「わ、わ、それすごい嬉しい! え、作りたいー!」
ちょうどテレビに映ったのが、まさしくクレープ屋さんの行列だったこともあって、葉月の言葉にいちごの甘ずっぱい味が蘇る。
クレープ! おうちで作れるとか、すごい!
さっきまでと全然違って、元気になったし!
すごい!!
でも、あまりにも勢いよく身体を起こしたのが”あまりにも“な反応でか、お兄ちゃんが立ったまま吹き出した。
「お前はコイツのお袋か」
「でも、楽しい時間があったほうがいいでしょう?」
「そりゃそーかもしんねーけど」
「たーくんも作る?」
「いや、食うだけでいい」
「もぅ。食べるなら自分で作ればいいのに。葉月を頼りすぎじゃない?」
「どの口が言うんだよ。お前こそコイツを頼りすぎだっつの」
葉月を顎でさすのは、どうかと思うよ?
でも、葉月はくすくす笑うだけで、それ以上何も言わなかった。
ていうか、優しすぎると思う。そしてそして、甘やかしてる気がする。
お兄ちゃん、ただでさえ葉月にいろいろしてもらってるんだから、もう少し貢献すればいいのに。
あ、でも明日から家にいるのか。
じゃあ、葉月のご飯作ったり洗濯したりすればいいのにね。
葉月の前でそれを言ったら『いいのよ』なんて遠慮するにきまってるから、あとで直接お兄ちゃんへ言っておこうっと。
「お母さんたちはどうするのかな?」
「んー、もしかしたらみんなでお昼食べることになるかもね」
「そうなったら、ここ最近初めてくらいじゃない?」
「そうね。みんな、いつも少しずつ時間ずれてるから」
「……それって、ちょっとだけ年末年始みたいで特別感あるね」
「単純だな、お前。緊急事態だ、つってんだろ」
「でも、起きちゃったんだもん、だったらせめて楽しめる方向にもっていきたいでしょ?」
そう。
お兄ちゃんは鼻で笑うけれど、起きてしまったことは戻らない
だったらせめて、”今“できることをするしかないんだもん。
「ねえ、自分の家の庭なら出てもいいよね?」
「そこまで規制されたら、国家としてアウトじゃねーか?」
「じゃあさ、クレープできたら外でお茶にしない? お茶会みたいに!」
「だったらいっそ、庭でテントでも張ればいいんじゃね? 今はやりのソロキャンだな」
「もぅ。お兄ちゃんはひとこと余計!」
ていうか、絶対今馬鹿にしたでしょ。ひどいなぁもぅ。
でも、お庭キャンプはある意味楽しそうだなとは思った。
……もしかして、私って思った以上に単純なのかも。
「たーくん、椅子とテーブル持ってたでしょう? あとで貸してくれる?」
「いーけど。え、お前付き合うのか?」
「うん。だって、きっと楽しいと思うよ」
「……お前ら単純だな」
褒められてない気はするけれど、でも、葉月がのってくれただけで満足。
ずっとずっと押し込められていて鬱々としていたけれど、ほんの少しだけ晴れた気がした。
もちろん……本当は遊びに行きたいし、祐恭さんとも直接会って話したい。
ドライブにだって行きたいし、おいしいごはんを一緒に食べて……手を繋いで、そばにいたいと思う。
でも、今がきっと一番大事な時期なんだよね。
みんなで少しずつ我慢したら、年号が変わったばかりのあのころみたいに、みんなでお祝いできるよね。
よかったね、って。がんばったねって、みんなで言える日が来るんでしょ?
だったら、あと少しだけがんばってみよう。
息が詰まらない程度に我慢して、できることを、少しだけやってみよう。
これまでも、何度だって危機はあったけれど、私たち”人間“は努力して知恵を出して助け合って打ち勝ってきたんだから。
明けない夜はない。そう信じて、いくしかないんだ。
「じゃあじゃあ、どうせならお湯も外で沸かそうよー。お兄ちゃん、バーナー持ってたよね?」
「あ、ランタンなら私も持ってるよ」
「え! どうしよ……ねえ、やっぱりテント張って寝る? 雲がなかったら、星とか見れそうだよね。それにそれに、焚き火しながら紅茶飲んだりしたら、夜すごい楽しそう!」
「ふふ。楽しくなってきた?」
「すっごく!」
お兄ちゃんが呆れたように『子どもか』と言ったのはわかったけれど、聞こえなかったことにした。
だって、楽しいほうがいい。
やっちゃいけないことじゃなくて、できることを想像したいもん。
ちなみに。
次の日の夕方、葉月とふたりでガチャガチャやっていたら、結局お兄ちゃんも輪に交ざり始めた。
そうしたら、お母さんが『焼きマシュマロをチョコクッキーでサンドしたい』と言い出し、夕飯がバーベキューに変わった。
いつもは乗らないお父さんも、珍しくお兄ちゃんとビールを飲んでたっけ。
ストレスを感じてるのは、子どもだけじゃないんだなぁってわかった。
そして、大人だって楽しいことをしたがってるんだなってことも。
あと少しだけ、できる範囲で楽しんでいこう。
ちなみに、その写真を祐恭さんへ送らせてもらったんだけど、おかげで電話ごしとはいえ長い時間話すことができたから、ほんの少しだけ満たされた。
今日がもしかしたらここ最近のラスト勤務になるかもですが、いってきまーす。
「外出自粛……」
何度もテレビに流れる文字を見ながら、思わず口にする。
カラオケもだめ、テーマパークもだめ、ダメじゃないけど外食も自粛、そしてそしてショッピングモールも同じく。
うぅ。お買い物行きたかった。
映画も見たかった。
カラオケだって約束してた。
高校のときの同級生みんなで、テーマパーク行くはずだったのに。
「はー……」
大々的に政府が出した“緊急事態宣言”なるもののおかげで、大学は当面休みになった。
家にいるようになって、すでに1ヶ月以上が経っている。
そして、またまた追加の休校宣言。
はーー……。
外へ出たいなぁ。
ていうか、大学が休みなのに遊びに行けない状態じゃ、何もすることがない。
……ってもちろん、勉強すればいいんだけど。
これでも一応は課題が出てるし、レポートもあるからやってはいる。
でも、ストレスはたまるんだもん。外行きたいなぁ。
ていうか——。
「……祐恭さんに会いたいなぁ」
リビングのソファへもたれながら、ぽつりと本音が漏れた。
一番会いたい人は、彼だ。
電話もしてるし、メッセージは毎日のようにやりとりしている。
でも、直接会えてない。
万が一があったら困るし、お仕事上大きな支障をきたすことになるからと、私のほうから少し離れます宣言をした。
だけど……だけど。
「はー……」
「羽織、紅茶でも飲む?」
「あ、欲しい」
「ちょっと待ってね」
リビングのテーブルへ伏していたら、葉月が声をかけてくれた。
ほどなくして、ベリーのような甘い香りがここまで漂ってくる。
あ、頬がゆるんだ。
いい匂いって、ほんと癒されるなぁ。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
マグカップを受け取り、さっそくひとくち。
香りはとっても甘いけれど、味はさっぱり。
うん、おいしい。
私がいれるのと違って全然渋くないから、やっぱりいれる人によって味が変わるんだなぁと素直に思う。
「おかえりなさい」
「ただいま」
テレビのチャンネルを変えたところで、玄関の鍵が空いた音がした。
振り返るまでもなく、葉月の声で相手が誰かわかる。
「明日から、弁当いらない」
「え? たーくんも、お仕事休みになったの?」
「ああ。しばらく休館にして、全職員自宅待機」
「そうなんだ」
「ただま、俺は過去のデータ整理買って出たから、場所が変わっただけでやること変わんねーけど」
バッグからお弁当の包みを取り出しながら、お兄ちゃんが葉月へ手渡した。
ということは、もしかしたら祐恭さんも休みになるのかなぁ。
それとも、研究職だからそれは別?
判断基準が私にはわからないけれど、でも……会えないことに変わりはないんだよね。
「はー……」
「羽織、今日はため息が多いね」
「……だって、どこにも出かけられないんだもん」
「いいじゃん。毎日家でごろごろしてんだろ?」
「もぅ。ごろごろしてないってば!」
お兄ちゃんってば、つくづく失礼だなぁ。
これでも、学生としてやるべきことはしてるのに。
……といっても、ソファでついうとうとしちゃうことはあるんだけど。
でも、課題はそこそこ手をつけてる。
「緊急事態宣言が出ると、何が変わるのかなぁ」
「単純に、自治体が政府判断ってことで後ろ盾になるかどうかの差だろ。結局、罰則云々じゃねーし、自粛要請から1ランク上がったみてーなもんだ。ちょっと強く言えるようになる、くらいの」
「そうなんだ。じゃあ、今までとそんなに変わらないってこと?」
「いや、変わりはするだろ。自粛要請だったのが、『政府が発表しましたよね』つってもう少し圧はかけられる」
「……買い物とかは?」
「不要不急ったって、日常生活すんなって言ってるわけじゃねーんだし、食料品の買い出しは平気だろ。ただ、問題なのは企業側がどうするかだよな。消費者と同じように、働く側だってそれぞれ家庭とか個人の状況は考慮されてしかるべきなんだし、となれば今までと同じようにはいかなくて勤務形態を変える必要あんだろ」
ニュースに出た赤い文字を見ながら、なんだか少し不安にもなる。
ていうか、あんなに大々的に『出ました!』みたいに発表されると、ちょっとどきっとするじゃない。
目立たせる必要はあるだろうし、大事なことだっていうのはわかるけど……なんだか、不安をあおられてる気分。
「うちの職場のパートさんは、小学生の子どもひとりで留守にできないつって、しばらく休んでる。だけど、当然時給で仕事してるからそのぶん収入面が不安だろ? で、そこ含めて館長が総務へかけあってたぜ。そういう配慮は、それぞれの立場やら企業、団体で変わってくるだろーけど、こういう”緊急事態“だからこそ、ぶっちゃけ質が問われるよな」
ニュースを見ながらのお兄ちゃんの言葉に、改めて事態を受け止めなきゃなぁとは思う。
でも、ずっとずっと我慢をしいられているわけで、大学生の私でもこんなにストレスを感じてるんだから、小さい子はもっと感じているだろうし、不安だろうなぁって思うと、なんだかすごく切ない気がした。
だって、大学からの通知でも『適度な運動を』なんて書かれてたけど、どこですればいいの?
出歩いていいの?
この間、公園で体操してたら怒られたって話もあったよ?
もう、何がなんだかわからないし、だからこそ不安になる。
どうなるんだろう。この先、何が起きるんだろう。
「あとはまあ、医薬品とか感染拡大防止に関して、土地とか建物を権限で押さえられるようになるとかはあるらしいぜ。こんだけマスク不足やらアルコール系不足やらだけど、だからっつって休めない業種があるだろ? それこそ矢面に立って、俺たちなんかよりよっぽど高ストレス強いられてる医療従事者を政府が率先して守ってやんなきゃ、それこそ致命的だ。知り合いの看護師なんて、家庭も大変だし現場も大変だしで泣いてたからな」
「……そっか」
そうなんだよね。
私たち一般人だけじゃなくて、現場で命と常に向き合っている人たちがいる。
おかげで回復していく人もいるし、危機的状況を脱することのできる患者さんもいる。
私たちだけじゃない……ううん、私たち以上に、大変な思いをしているんだ。
私たちと同じく、みんなみんな家庭があって背景がある、一個人なんだもん。
「でも、ずっと家にいたら、ストレスたまっちゃうよね」
「うん。なんか、いろいろし尽くした気分」
はー、と今日何度目かのため息をつき、テレビのチャンネルを変える。
ニュースも大事だけど、もう少し楽しい話題を吸収したい。
落ち着いたら行ける、近場のおいしいお店とか温泉とか。
そういえば今年は、お花見もちゃんとできてない。
「明日、おやつにクレープでも作る?」
「え! クレープって家で作れるの?」
「さっき買い物に出たとき、いちごと生クリームは買ってきたの。楽しい時間潰しにはなるよ?」
「わ、わ、それすごい嬉しい! え、作りたいー!」
ちょうどテレビに映ったのが、まさしくクレープ屋さんの行列だったこともあって、葉月の言葉にいちごの甘ずっぱい味が蘇る。
クレープ! おうちで作れるとか、すごい!
さっきまでと全然違って、元気になったし!
すごい!!
でも、あまりにも勢いよく身体を起こしたのが”あまりにも“な反応でか、お兄ちゃんが立ったまま吹き出した。
「お前はコイツのお袋か」
「でも、楽しい時間があったほうがいいでしょう?」
「そりゃそーかもしんねーけど」
「たーくんも作る?」
「いや、食うだけでいい」
「もぅ。食べるなら自分で作ればいいのに。葉月を頼りすぎじゃない?」
「どの口が言うんだよ。お前こそコイツを頼りすぎだっつの」
葉月を顎でさすのは、どうかと思うよ?
でも、葉月はくすくす笑うだけで、それ以上何も言わなかった。
ていうか、優しすぎると思う。そしてそして、甘やかしてる気がする。
お兄ちゃん、ただでさえ葉月にいろいろしてもらってるんだから、もう少し貢献すればいいのに。
あ、でも明日から家にいるのか。
じゃあ、葉月のご飯作ったり洗濯したりすればいいのにね。
葉月の前でそれを言ったら『いいのよ』なんて遠慮するにきまってるから、あとで直接お兄ちゃんへ言っておこうっと。
「お母さんたちはどうするのかな?」
「んー、もしかしたらみんなでお昼食べることになるかもね」
「そうなったら、ここ最近初めてくらいじゃない?」
「そうね。みんな、いつも少しずつ時間ずれてるから」
「……それって、ちょっとだけ年末年始みたいで特別感あるね」
「単純だな、お前。緊急事態だ、つってんだろ」
「でも、起きちゃったんだもん、だったらせめて楽しめる方向にもっていきたいでしょ?」
そう。
お兄ちゃんは鼻で笑うけれど、起きてしまったことは戻らない
だったらせめて、”今“できることをするしかないんだもん。
「ねえ、自分の家の庭なら出てもいいよね?」
「そこまで規制されたら、国家としてアウトじゃねーか?」
「じゃあさ、クレープできたら外でお茶にしない? お茶会みたいに!」
「だったらいっそ、庭でテントでも張ればいいんじゃね? 今はやりのソロキャンだな」
「もぅ。お兄ちゃんはひとこと余計!」
ていうか、絶対今馬鹿にしたでしょ。ひどいなぁもぅ。
でも、お庭キャンプはある意味楽しそうだなとは思った。
……もしかして、私って思った以上に単純なのかも。
「たーくん、椅子とテーブル持ってたでしょう? あとで貸してくれる?」
「いーけど。え、お前付き合うのか?」
「うん。だって、きっと楽しいと思うよ」
「……お前ら単純だな」
褒められてない気はするけれど、でも、葉月がのってくれただけで満足。
ずっとずっと押し込められていて鬱々としていたけれど、ほんの少しだけ晴れた気がした。
もちろん……本当は遊びに行きたいし、祐恭さんとも直接会って話したい。
ドライブにだって行きたいし、おいしいごはんを一緒に食べて……手を繋いで、そばにいたいと思う。
でも、今がきっと一番大事な時期なんだよね。
みんなで少しずつ我慢したら、年号が変わったばかりのあのころみたいに、みんなでお祝いできるよね。
よかったね、って。がんばったねって、みんなで言える日が来るんでしょ?
だったら、あと少しだけがんばってみよう。
息が詰まらない程度に我慢して、できることを、少しだけやってみよう。
これまでも、何度だって危機はあったけれど、私たち”人間“は努力して知恵を出して助け合って打ち勝ってきたんだから。
明けない夜はない。そう信じて、いくしかないんだ。
「じゃあじゃあ、どうせならお湯も外で沸かそうよー。お兄ちゃん、バーナー持ってたよね?」
「あ、ランタンなら私も持ってるよ」
「え! どうしよ……ねえ、やっぱりテント張って寝る? 雲がなかったら、星とか見れそうだよね。それにそれに、焚き火しながら紅茶飲んだりしたら、夜すごい楽しそう!」
「ふふ。楽しくなってきた?」
「すっごく!」
お兄ちゃんが呆れたように『子どもか』と言ったのはわかったけれど、聞こえなかったことにした。
だって、楽しいほうがいい。
やっちゃいけないことじゃなくて、できることを想像したいもん。
ちなみに。
次の日の夕方、葉月とふたりでガチャガチャやっていたら、結局お兄ちゃんも輪に交ざり始めた。
そうしたら、お母さんが『焼きマシュマロをチョコクッキーでサンドしたい』と言い出し、夕飯がバーベキューに変わった。
いつもは乗らないお父さんも、珍しくお兄ちゃんとビールを飲んでたっけ。
ストレスを感じてるのは、子どもだけじゃないんだなぁってわかった。
そして、大人だって楽しいことをしたがってるんだなってことも。
あと少しだけ、できる範囲で楽しんでいこう。
ちなみに、その写真を祐恭さんへ送らせてもらったんだけど、おかげで電話ごしとはいえ長い時間話すことができたから、ほんの少しだけ満たされた。
Meeting new
2020.04.06
自粛自粛で、私にできることは何かなーと思ったんですが、
どう考えても、みなさんの暇つぶしになるようなもんを投稿する程度かなと。
いつまで続くかわかりませんし、きっとおそらくたぶん単発で終わる気がしますが、
ちょっとでも笑ってもらえたら、幸いです!
「さー、今日から新年度! みんな、よろしくねー」
高校3年の4月。
新年度初日を迎え、初めましての出会いがあった。
担任の先生はこれまでと同じ日永先生だったけれど、副担任の先生が……初めましてなうえに、若い男の先生とあって、正直みんなテンションが高かった。
かくいう私も、その先生の教科担当だったこともあって、初日からばっちり話せたわけで。
……絵里にはからかわれたけど、でも、ちょっとだけ嬉しい気持ちはあった。
だって、かっこいい人と話せる機会なんて、日常ではそう多くない。
たまに行くお店の店員さんとか、教育実習で来る大学生とか、バスの中で見かける人がせいぜい。
なのに、これからは副担任とあってほぼ毎日確実に会うことができるし、なんだったら、話だってできちゃうんだよ?
これってすごいことだと思う。
「……えへへ」
明日が楽しみだなぁ、なんてバス停から家まで歩きながら、勝手に頬がゆるんだ。
「ただいまー」
「あら、おかえりなさい」
いつもより少し早い時間にもかかわらず、リビングのドアを開けるとお母さんとお兄ちゃんが揃っていた。
珍しい。
特に、お兄ちゃんなんていつも帰宅したら部屋へ行っちゃうのに。
ソファへ座ったまま、これまた珍しくスポーツ番組じゃないテレビを見ていて、正直意外だった。
「あ、羽織。担任の先生誰だったの?」
「日永先生だよ」
「あら、じゃあ安心ね。今年はびしばししごいてもらって、きっちりお勉強しなさい」
「ぅ……がんばり、ます」
ほとんど荷物の入ってないリュックだったのに、急にずしりと重たくなった。
勉強。そうだよね、だって今年受験生だもん。
お兄ちゃんはとっくに卒業して、今は卒業した大学で司書をやっている。
昔聞いた夢は国語の先生だったのに、どこがどうなってそこへたどり着いたのかは知らないけれど、でも、私ももしかしたら抱いている夢とは違うものを得ることになるかもしれないんだよね。
そう考えると、人生って不思議だなって思う。
小さいころは、ケーキ屋さんになりたかった。
あんなにおいしくて、ふわふわしてて、見るだけで笑顔になる食べ物はほかにないと思う。
……えっと、もちろんドーナツやアイスやクレープだって、見たら同じように笑顔になるとは思うけどね?
だけど、ケーキって特別なんだもん。
たまーにお母さんがケーキを焼いてくれることがあるけれど、それってすごくスペシャルな気になるし、なんでもない日のおやつにケーキがあると、それだけでテンション上がる。
嫌なことがあっても、その気持ちが吹き飛んじゃう不思議なチカラがある食べ物だから、私もそれを通じてみんなに笑顔になってほしかったし、何より、販売する側の自分もいつも幸せな気持ちになれそうな気がして、ケーキ屋さんになりたかった。
でも、小学校5年生のときに出会った学校の先生が、すごくおもしろくて、優しくて、かっこよくて。
とにかく学校へ通うことが毎日楽しくなったことで、「私も先生みたいな先生になりたい」って思うようになった。
だから、今のところ5年生から夢は変わっていない。
教育学部に行って、小学校の先生になりたいと今も思っている。
でも……お兄ちゃんが途中で夢を変えたように、私も変えたりするのかな。
少し先の未来だけど、来年どころか、正直明日だってどうなるか見通す力は私にない。
きっと、今日と同じ当たり前の日なんだろうなとぼんやりは考えるけれど、それは見通しを立ててるわけじゃなくて、単なる期待。
だろうな、きっと。
そんな推測でしかないから、何年も先の私がどこで何をしているかは、それこそ誰にもわからないことだ。
「まあ、小学校と違ってなかなか若い先生が担任になることはないわよねー」
湯呑みを傾けながら、お母さんがおせんべいの袋を開けた。
ちなみに、テーブルには同じ袋が2つ乗っていて、もうすでに3つめらしいとわかる。
「あ、でも副担任の先生は若い男の先生だよ」
「まああっ! なんですって!?」
リュックをその場へ下ろしてから、シンクへ向かいそこで手を洗う。
本当は洗面所が当たり前なんだろうけれど、今日、水筒持っていくの忘れちゃったんだよね。
喉がかわいたこともあって、冷蔵庫に近いキッチンを選んだ。
「いくつ?」
「何が?」
「年よ、年!」
「えっと……今年24って言ってたかな」
「んまぁぁあああ!! 24!? わかっ! すんごい若いじゃない!!」
「そうだね。あ、でも1年のときの田代先生もその年だったんだよ」
「はぁあああいいわー。いいわねー!! そんな若い男の先生とか、確実にイケメンじゃない!!」
冷蔵庫にあったレモンティーのペットボトルを手に、リビングへ。
すると、比喩でもなんでもなく、お母さんは両手を頬へ当てるときらきらした顔で私を見つめた。
「で? どんな先生?」
「んー……かっこいい先生」
「へぇえええ!! ああもう写真ないの!?」
「な、ないよさすがに! あ、でも広報誌が毎年配られるから、そのとき見れるんじゃない?」
「それじゃ遅いでしょ? ああもぉ、1枚くらいこっそり撮ってきなさいよ」
「えぇ!? そんな、盗撮みたいなことできるわけないってば!」
「まったくもー。気が利かないわね」
「お母さんっ!」
とんでもない発言だけでなく、まるでお兄ちゃんみたいに小さく舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
もぅ。お母さんとお兄ちゃんって、本当によく似てるよね。
さすがにあんな乱暴な口はきかないけれど、今の反応お兄ちゃんそっくり。
「教科は何?」
「化学だよ」
「理系ね。あーーこれでかっこよかったらもうホントパーフェクトだわ。三者面談、日永先生だけじゃなくてその先生も同席してくれないかしら」
「えぇ……? ないでしょ」
「あら。それじゃ、ちょっと呼び出されなさいよ。学校行ってくるから」
「もぅ。お兄ちゃんじゃないんだから、呼び出されたりしないってば!」
お母さんの対面へ座りながら、テーブルにあったおせんべい……ではなく、チョコパイを手にする。
えへへ。おいしいよね、これ。
袋を開けた瞬間、チョコレートの甘い香りがして頬がゆるんだ。
「誰が呼び出されたって?」
「え? お兄ちゃん、高校のときしょっちゅう家へ電話かかってきたよね?」
「しょっちゅうってほど親呼ばれてねーだろ。失礼だぞ、お前」
「だって、すっごく記憶に残ってるんだもん。学校で悪いことすると電話くるんだーって」
「してねーっつの」
両手を頭の後ろで組んだまま、お兄ちゃんが足を組み替えた。
いやいやいや、してたでしょ? いろいろ。
お母さん、いつもあれやこれや言ってたもん、間違いじゃないはず。
現に、目の前のお母さんがうんうんうなずいてるんだから、それが何よりの証拠だと思う。
「つか、24って俺と同い年じゃん。息子と同年齢相手にキャーキャー言うとか、もちっと考えたほうがいいぜ」
「あんたと違ってイケメンなんだからしょうがないじゃない」
「見てもいねーのに、よくもまぁ想像でしゃべれんな」
「あんただって見てないでしょ。じゃあ私の代わりに見てきなさいよ」
「遅刻すれすれのコイツを送ってったところで、その副担任がわざわざ出迎えるわけでもなし、俺が会えるかっつの」
「なんかこう、ないの? 地元の高校へ出張ブックトークみたいな」
「あのな。誰が好きこのんで妹の通う学校へ行くんだよ。馬鹿か!」
だいたい、ブックトークなんて小学校メインだろ。
そう言いながらお兄ちゃんが鼻で笑い、テレビの番組を変えた。
ちょうどプロ野球の開幕についてキャスターが熱く語っていてか、姿勢を変えて身を乗り出す。
まあでも確かに、私だってお兄ちゃんが学校へ来るとか嫌だなぁ。
瀬尋先生みたいに、優しくてカッコいい人がお兄ちゃんだったら友達に羨ましがられるだろうから大歓迎だけど、これだけ毒づくお兄ちゃんと兄妹だって知られた日には、なんとなく先生方の私を見る目が変わってしまいそうで怖い。
もしかしたら、当時お兄ちゃんに関わってた先生が、うちの学校へ異動してないとも言えないし。
遠慮したいどころか、ぜひともやめていただきたい。
……あ、でも、その……寝坊というアクシデントの影響でバスのないときには、途中まででいいから乗せてってもらいたいけれど。
ちなみに、過去にも何度か学校のロータリーまで送ってもらったことが実はあって、そこを同級生に見られたことがある。
「ねえ、羽織。高校って家庭訪問なかったっけ?」
「ないよ?」
「はー残念。ぜひとも見てみたかったのに」
大きめのひとくちを頬張ったあと、お母さんは机へ伏せるように腕を伸ばした。
そんなに残念がるなんて思わなかったなぁ。
ああ、でもそういえばついこの間、勤めている保育園に卒業したばかりの男性保育士さんが所属になったって言って、しばらく喜んでたっけ。
……そういうものなのかな。
私も、お母さんくらいの年代になったらわかること?
まあでも……カッコいい人は、見てるだけで楽しいよね。
それだけでもいいけど、個人的なものじゃなくてもお話できるとあったら、やっぱりテンション上がるかもしれない。
……ていうか、正直明日からも楽しみだから、私は私で浮かれてるんだろうけれど。
「そんな言うなら、直接行ってくりゃいいじゃん。どうせ暇だろ?」
「失礼ね。暇じゃないわよ」
「暇じゃなくても見てぇんじゃねーの?」
「それは確かに」
「……もぅ。お母さんっ!」
ていうか、まさかそこうなずいちゃうとか思わないでしょ。
真顔で大きくうなずいたのを見て、さすがに声があがった。
明日はどうなるかなんて、誰にもわからない。
その言葉はまさにそのとおりで、まさかこの数日後に直接家まで噂の先生が来ることになるなんて、このときの私たちは誰も予想できていなかった。
そしてそして……その先生と、私が個人的な関係を結ぶようになることも。
どう考えても、みなさんの暇つぶしになるようなもんを投稿する程度かなと。
いつまで続くかわかりませんし、きっとおそらくたぶん単発で終わる気がしますが、
ちょっとでも笑ってもらえたら、幸いです!
「さー、今日から新年度! みんな、よろしくねー」
高校3年の4月。
新年度初日を迎え、初めましての出会いがあった。
担任の先生はこれまでと同じ日永先生だったけれど、副担任の先生が……初めましてなうえに、若い男の先生とあって、正直みんなテンションが高かった。
かくいう私も、その先生の教科担当だったこともあって、初日からばっちり話せたわけで。
……絵里にはからかわれたけど、でも、ちょっとだけ嬉しい気持ちはあった。
だって、かっこいい人と話せる機会なんて、日常ではそう多くない。
たまに行くお店の店員さんとか、教育実習で来る大学生とか、バスの中で見かける人がせいぜい。
なのに、これからは副担任とあってほぼ毎日確実に会うことができるし、なんだったら、話だってできちゃうんだよ?
これってすごいことだと思う。
「……えへへ」
明日が楽しみだなぁ、なんてバス停から家まで歩きながら、勝手に頬がゆるんだ。
「ただいまー」
「あら、おかえりなさい」
いつもより少し早い時間にもかかわらず、リビングのドアを開けるとお母さんとお兄ちゃんが揃っていた。
珍しい。
特に、お兄ちゃんなんていつも帰宅したら部屋へ行っちゃうのに。
ソファへ座ったまま、これまた珍しくスポーツ番組じゃないテレビを見ていて、正直意外だった。
「あ、羽織。担任の先生誰だったの?」
「日永先生だよ」
「あら、じゃあ安心ね。今年はびしばししごいてもらって、きっちりお勉強しなさい」
「ぅ……がんばり、ます」
ほとんど荷物の入ってないリュックだったのに、急にずしりと重たくなった。
勉強。そうだよね、だって今年受験生だもん。
お兄ちゃんはとっくに卒業して、今は卒業した大学で司書をやっている。
昔聞いた夢は国語の先生だったのに、どこがどうなってそこへたどり着いたのかは知らないけれど、でも、私ももしかしたら抱いている夢とは違うものを得ることになるかもしれないんだよね。
そう考えると、人生って不思議だなって思う。
小さいころは、ケーキ屋さんになりたかった。
あんなにおいしくて、ふわふわしてて、見るだけで笑顔になる食べ物はほかにないと思う。
……えっと、もちろんドーナツやアイスやクレープだって、見たら同じように笑顔になるとは思うけどね?
だけど、ケーキって特別なんだもん。
たまーにお母さんがケーキを焼いてくれることがあるけれど、それってすごくスペシャルな気になるし、なんでもない日のおやつにケーキがあると、それだけでテンション上がる。
嫌なことがあっても、その気持ちが吹き飛んじゃう不思議なチカラがある食べ物だから、私もそれを通じてみんなに笑顔になってほしかったし、何より、販売する側の自分もいつも幸せな気持ちになれそうな気がして、ケーキ屋さんになりたかった。
でも、小学校5年生のときに出会った学校の先生が、すごくおもしろくて、優しくて、かっこよくて。
とにかく学校へ通うことが毎日楽しくなったことで、「私も先生みたいな先生になりたい」って思うようになった。
だから、今のところ5年生から夢は変わっていない。
教育学部に行って、小学校の先生になりたいと今も思っている。
でも……お兄ちゃんが途中で夢を変えたように、私も変えたりするのかな。
少し先の未来だけど、来年どころか、正直明日だってどうなるか見通す力は私にない。
きっと、今日と同じ当たり前の日なんだろうなとぼんやりは考えるけれど、それは見通しを立ててるわけじゃなくて、単なる期待。
だろうな、きっと。
そんな推測でしかないから、何年も先の私がどこで何をしているかは、それこそ誰にもわからないことだ。
「まあ、小学校と違ってなかなか若い先生が担任になることはないわよねー」
湯呑みを傾けながら、お母さんがおせんべいの袋を開けた。
ちなみに、テーブルには同じ袋が2つ乗っていて、もうすでに3つめらしいとわかる。
「あ、でも副担任の先生は若い男の先生だよ」
「まああっ! なんですって!?」
リュックをその場へ下ろしてから、シンクへ向かいそこで手を洗う。
本当は洗面所が当たり前なんだろうけれど、今日、水筒持っていくの忘れちゃったんだよね。
喉がかわいたこともあって、冷蔵庫に近いキッチンを選んだ。
「いくつ?」
「何が?」
「年よ、年!」
「えっと……今年24って言ってたかな」
「んまぁぁあああ!! 24!? わかっ! すんごい若いじゃない!!」
「そうだね。あ、でも1年のときの田代先生もその年だったんだよ」
「はぁあああいいわー。いいわねー!! そんな若い男の先生とか、確実にイケメンじゃない!!」
冷蔵庫にあったレモンティーのペットボトルを手に、リビングへ。
すると、比喩でもなんでもなく、お母さんは両手を頬へ当てるときらきらした顔で私を見つめた。
「で? どんな先生?」
「んー……かっこいい先生」
「へぇえええ!! ああもう写真ないの!?」
「な、ないよさすがに! あ、でも広報誌が毎年配られるから、そのとき見れるんじゃない?」
「それじゃ遅いでしょ? ああもぉ、1枚くらいこっそり撮ってきなさいよ」
「えぇ!? そんな、盗撮みたいなことできるわけないってば!」
「まったくもー。気が利かないわね」
「お母さんっ!」
とんでもない発言だけでなく、まるでお兄ちゃんみたいに小さく舌打ちされ、さすがに眉が寄る。
もぅ。お母さんとお兄ちゃんって、本当によく似てるよね。
さすがにあんな乱暴な口はきかないけれど、今の反応お兄ちゃんそっくり。
「教科は何?」
「化学だよ」
「理系ね。あーーこれでかっこよかったらもうホントパーフェクトだわ。三者面談、日永先生だけじゃなくてその先生も同席してくれないかしら」
「えぇ……? ないでしょ」
「あら。それじゃ、ちょっと呼び出されなさいよ。学校行ってくるから」
「もぅ。お兄ちゃんじゃないんだから、呼び出されたりしないってば!」
お母さんの対面へ座りながら、テーブルにあったおせんべい……ではなく、チョコパイを手にする。
えへへ。おいしいよね、これ。
袋を開けた瞬間、チョコレートの甘い香りがして頬がゆるんだ。
「誰が呼び出されたって?」
「え? お兄ちゃん、高校のときしょっちゅう家へ電話かかってきたよね?」
「しょっちゅうってほど親呼ばれてねーだろ。失礼だぞ、お前」
「だって、すっごく記憶に残ってるんだもん。学校で悪いことすると電話くるんだーって」
「してねーっつの」
両手を頭の後ろで組んだまま、お兄ちゃんが足を組み替えた。
いやいやいや、してたでしょ? いろいろ。
お母さん、いつもあれやこれや言ってたもん、間違いじゃないはず。
現に、目の前のお母さんがうんうんうなずいてるんだから、それが何よりの証拠だと思う。
「つか、24って俺と同い年じゃん。息子と同年齢相手にキャーキャー言うとか、もちっと考えたほうがいいぜ」
「あんたと違ってイケメンなんだからしょうがないじゃない」
「見てもいねーのに、よくもまぁ想像でしゃべれんな」
「あんただって見てないでしょ。じゃあ私の代わりに見てきなさいよ」
「遅刻すれすれのコイツを送ってったところで、その副担任がわざわざ出迎えるわけでもなし、俺が会えるかっつの」
「なんかこう、ないの? 地元の高校へ出張ブックトークみたいな」
「あのな。誰が好きこのんで妹の通う学校へ行くんだよ。馬鹿か!」
だいたい、ブックトークなんて小学校メインだろ。
そう言いながらお兄ちゃんが鼻で笑い、テレビの番組を変えた。
ちょうどプロ野球の開幕についてキャスターが熱く語っていてか、姿勢を変えて身を乗り出す。
まあでも確かに、私だってお兄ちゃんが学校へ来るとか嫌だなぁ。
瀬尋先生みたいに、優しくてカッコいい人がお兄ちゃんだったら友達に羨ましがられるだろうから大歓迎だけど、これだけ毒づくお兄ちゃんと兄妹だって知られた日には、なんとなく先生方の私を見る目が変わってしまいそうで怖い。
もしかしたら、当時お兄ちゃんに関わってた先生が、うちの学校へ異動してないとも言えないし。
遠慮したいどころか、ぜひともやめていただきたい。
……あ、でも、その……寝坊というアクシデントの影響でバスのないときには、途中まででいいから乗せてってもらいたいけれど。
ちなみに、過去にも何度か学校のロータリーまで送ってもらったことが実はあって、そこを同級生に見られたことがある。
「ねえ、羽織。高校って家庭訪問なかったっけ?」
「ないよ?」
「はー残念。ぜひとも見てみたかったのに」
大きめのひとくちを頬張ったあと、お母さんは机へ伏せるように腕を伸ばした。
そんなに残念がるなんて思わなかったなぁ。
ああ、でもそういえばついこの間、勤めている保育園に卒業したばかりの男性保育士さんが所属になったって言って、しばらく喜んでたっけ。
……そういうものなのかな。
私も、お母さんくらいの年代になったらわかること?
まあでも……カッコいい人は、見てるだけで楽しいよね。
それだけでもいいけど、個人的なものじゃなくてもお話できるとあったら、やっぱりテンション上がるかもしれない。
……ていうか、正直明日からも楽しみだから、私は私で浮かれてるんだろうけれど。
「そんな言うなら、直接行ってくりゃいいじゃん。どうせ暇だろ?」
「失礼ね。暇じゃないわよ」
「暇じゃなくても見てぇんじゃねーの?」
「それは確かに」
「……もぅ。お母さんっ!」
ていうか、まさかそこうなずいちゃうとか思わないでしょ。
真顔で大きくうなずいたのを見て、さすがに声があがった。
明日はどうなるかなんて、誰にもわからない。
その言葉はまさにそのとおりで、まさかこの数日後に直接家まで噂の先生が来ることになるなんて、このときの私たちは誰も予想できていなかった。
そしてそして……その先生と、私が個人的な関係を結ぶようになることも。
HAPPY? Halloween
2019.10.31
ハロウィンっていったら、やっぱりやらなきゃと思って……!
でもえろくならなかった。
もうしわけなす。
「トリックオアトリート!」
「いや……お前な」
「お菓子くれなきゃイタズラしちゃうぞ!」
「……暇なの?」
平日も平日。特にノー残業でもなんでもない日だろうし、そもそもそんな言葉は皆無な業界にいるのはお互い様。
なのに、優人はわざわざ大学まで姿を見せたどころか、俺の研究室にまで足を伸ばしてきた。
ああ、暇なんだなお前。羨ましい。
片手には、コイツがよく『ファッションの一部』と言っているコーヒーチェーン店のカップがあり、しかもそこにはいかにもってくらいかわいらしい文字でフルネームと『お疲れさまです』の言葉が添えられていた。
「今日、羽織と会うだろ?」
「いや、平日だからどうかな。レポートがどうのって、昨日も図書館へ詰めてたし」
会えるならそりゃ会いたい相手。
だが、学生の本分は勉強であり、資料を集めるとか整理するのが苦手とも言っていたあたりからして、今日は難しいかもしれない。
まあ、その辺を口実に……ってわけにいかないんだけど。
俺もちょっと忙しい。
「あー、ちょっと待った」
「え、なになに? なんかくれんの?」
「ああ」
にこにことなぜか楽しげな優人を見ていたら、ふと思い出した。
今日の2限目に学生からもらった、クッキーがあったんだったな。
「ほら。これやるから帰れ」
「うっは、すげ! なにこれ、手作り?」
「市販」
「へーすっげー! いやー、昨今のハロウィンブームはすごいですなー」
手のひらよりも大きなサイズの、クモ……を象ったクッキー。
ご丁寧に模様までチョコレートで描かれており、見た目のグロテスクさとビビッドな色遣いも相まってまったく食欲が湧かなかった。
あー、よかった。ちょうどいいところにきてくれて。
これで無事処分先が決まった。
「あ、そんじゃ俺からもプレゼントあげる」
「いや、普通逆だろ? ていうか、菓子渡したんだから帰れよ」
「やだなー、大人ですから。たしなみ程度におすそわけ」
にっこり笑って差し出されたのは、真っ黒い袋。
いかにも怪しげで、眉が寄る。
「そんな顔すんなって。羽織ちゃんきっと大喜び」
「嘘つけ」
「ひどいなーホントだって。羽織の好きな、いちご味だもん」
「……味?」
「そ。一緒に召しあがれ」
いつだって優人の笑みは嘘くさい。
だが、彼女の名前を出されると弱い……って待て。なんか去年もこんなことなかったか。
「あ! おま、ちょっ……待てって!」
「いやー俺っち忙しいんだわー。このあと図書館行かなきゃなんないし」
「……お前、怒られるぞ」
「あ、慣れてるから平気」
ほとんど人通りのないここと違い、図書館は不特定多数の人間が行き交う場所。
まだ閉館時間にはほと遠いが、ドアからコイツが入ったら間違いなく孝之は嫌がるだろうよ。
まあ、実際は優人の扱いに一番慣れてそうだけど。
るんたるんたと楽しげに去っていく後ろ姿をそれ以上何も言わずに見送ったことに、何も問題はなかった。
「…………」
いちご味。
とか言いながら、絶対怪しい何かじゃないのか。
「……あれ」
装飾の一切ない袋の封を切ると、意外にも中からはイチゴフレーバーの紅茶が出てきた。
うわ、普通だ。いや、普通か?
いかにも外国製品ではあるが、ざっと見たところいかがわしい要素はない。
しいていうなら、ピンクのリボンを付けた黒猫を象ったパッケージが、唯一ハロウィンっぽいか。
「…………」
紅茶か。
こういう普通の物も買うんだな、アイツ。
たしかに彼女が好きそうで、そう思ったからこそ……あー、会いたくなるだろ。くそ。
学内にいるかどうかわからないものの、今まとめていた作業を終えたらメッセージを送る気になった。
******
「……お前暇だな」
「あれ、なんかそれデジャヴ」
「あっそ」
返却図書を棚へ戻し、階段を降りようとしたところで4階のエレベーターが口を開けた。
乗ってたのは、優人のみ。
いるはずないヤツがいると結構ビビるものの、コイツなら仕方ないと思うあたり俺も割とどうかしてる。
「トリックオアトリート!」
「ほらよ」
「え、なんで持ってんの?」
「さっきもらった」
エレベーターへ乗り込み、下階へ。
ワイシャツのポケットから、ハロウィン用に作られたお化けのパッケージのチョコを渡すと、それはそれは意外そうな顔をされた。
お前のそーゆー顔久しぶりに見た。
ある意味貴重か。
テレビのニュースで賑わう都内とは違い、少なくとも俺の周辺でイベントはない。
駅前の商店街や市立図書館では、子ども向けのイベントが1週間ほど行われていたが、大学じゃねーよな。さすがに。
とか思ったものの、マメに折り紙やら色画用紙であちこち野上さんがデコってたけど。
そういや今朝は、魔女がかぶってそうな帽子を持ってうろうろしてたけどな。
小さい子どもが来ることはほとんどない場所なのにやるってことは、本人が楽しんでるってことだろ。
さすがにねーな。俺には。
「じゃあ、これはたーくんにあげるにゃん」
「いや、いらねーけど」
「なんでだよー。喜べってそこは」
「お前からもらったモンで、俺が喜んだことあんまねーだろ」
思い返すまでもなく、夏にもらった暑中見舞いはハバネロが練りこまれた激辛ソーメンだったし、バレンタインは……あー忘れとくか。
そういや、優人の所業を知ってるもうひとりは、珍しく羽織と4階のテーブルで何やら本を広げていた。
俺に気づいて苦笑したのは、あからさまに俺が羽織を蔑んだのがわかったんだろーよ。
でも、そりゃそーだろ?
学科違うのに、葉月にレポート手伝ってもらってんじゃねーよ。
だが、そう言う前に『心理学実験のお手伝いだから』と先行されたから言わないでやったけど。
「あ? なんだこれ」
「紅茶だよ、紅茶。薔薇のかほり」
「…………」
「やだぁ、そんないかがわしい目つきしなくても他意はないにゃん」
ぽんと渡されたのは、黒猫を象ったパッケージの何か。
成分表の書かれているラベルを見ると、確かにまあ怪しい単語は見受けられない。
だが……。
「はい、アウトー」
「っ……ンだよ」
「勘のいいガキは嫌いだよ」
「タメに言う台詞じゃねーだろ」
眼鏡をしてもいないのに直すような仕草をされ、思わず噴き出す。
てことはやっぱ、マトモなもんじゃねーってことだな。
仕方なく、取り出したスマフォをポケットへ戻し、ドアが開いたところでカウンターへ……ってなんだ。コイツも暇だな。
「忙しかったんじゃねーの?」
「忙しい」
「そう見えねーから聞いてんだろ」
今日の昼、学食へ行ったら席に着いた途端、『返しに行く時間がない』と祐恭から本の束を渡された。
つか、担々麺食おうとしてる俺に渡すなっつの。
どー考えても汁飛ぶだろ。
あれは間違いなく嫌がらせだと取っていい案件だった。
「どいもこいつも、暇なら帰れば?」
「だから、暇じゃないって……」
「あ、俺ちん忙しいから帰るわ」
「いや、お前が一番暇だろ」
「失敬だなー。これからハロウィンコンがあるのだよ」
「明日もあんのに、元気だな」
「いやー、それほどでも」
スチャ、と手を挙げた優人は言いながらガラスドアへ向かった。
知り合いでもないはずなのに、入れ違いで入ってきた女子数人に笑顔で挨拶をしながら。
「で? お前は帰んねーの?」
「4階に用事」
「……アイツまだ終わんねーぞ」
「なんでわかったんだよ」
「お前が敢えて足向ける理由なんざ、ンなもんだろ」
どいつもコイツも暇だな。
うっかり口走ったのが悪かったらしく、ふくらはぎを蹴飛ばされるはめになった。
*********
「これ、俺そんなに嫌いじゃないんだよね」
「疲れません?」
「計算は得意だから」
「うぅ……羨ましい」
「いや、本気に取らないでほしいんだけど」
図書館ではなく、場所を研究室へ移したあとも、彼女は数枚の結果用紙を見ながら平均値を求めるのに苦労していた。
それこそ、心理学実験はそれ用のプログラムもあるんだし、パソコンでやったほうが早そう……なんだけど、今回のものはタイムの平均値をもとにグラフを作るらしく、まだ手作業でいいらしい。
「あ。私淹れます」
「いいよ。俺は手伝っただけだし」
「でも……」
「まだかかるでしょ? 夜は長いね」
「……うぅ」
電気ケトルが止まったのを見て、立ち上がりかけた彼女を制す。
久しぶりにやったな、クレペリン作業検査。
単純に、隣り合う数字を足していく作業。
負荷はかかるが、さほど嫌いじゃないあたり性分なのかなんなのか。
まあ、彼女に貢献できてるっていうのが大きいんだろうけど。
「はい」
「わあ……甘い香り。いちごですか?」
「らしいね。優人がくれた」
「へえー!」
彼女へは、先ほど優人からもらった紅茶をホットで。
念のため味見はしたが、いわゆる普通のフレーバーティ……のはず。
多少色が濃い気はしないが、さすがにいかがわしいものを大事な従妹に渡さないだろ。
……多分。
「これもあげる」
「え? わ、かわいいですね」
「一緒に入ってたんだよ」
小さなかぼちゃの台座に立つ、猫のキャンドル。
尻尾部分に火がつくようになっていて、思った通り彼女は嬉しそうに手を伸ばした。
「…………」
気のせいかな、とは思った。
だが、どうやらそうじゃないらしい。
数人の実験結果をまとめている彼女……の唇に目がいく。
あー……そーゆーことか。
「え?」
「ごめん、もっと早く気付くべきだった」
「えっと……何がですか?」
手鏡なんてシャレたものはないが、つい今しがた使ったばかりの実験用鏡を彼女へ渡す。
違う違う。見るのは、ここ。
「っわ!」
「……こういう駄菓子あったよね、昔」
「そうなんですか?」
「あー……そうか、知らないか」
6歳違うってことは、それなりに文化も異なるからな。まあ仕方ない。
最初見たときは気のせいか、はたまた彼女自身の化粧かと思ったんだが、カップを口に運ぶたび濃くなっていくのは気のせいじゃなかった。
赤い紅茶の色が、唇を染めたらしい。
「あー……」
「赤いですか?」
「これはまた、なかなか……ゾンビ感ある」
「えぇ!?」
「冗談。色っぽいよ」
「もぅ……あんまり嬉しくないです」
頬に手を当てると、意図を察したのか彼女は唇を開いた。
舌まで真っ赤。
明日までに薄くなればいいけど、これで講義受けるってのはちょっとかわいそうだな。
「…………」
「……祐恭さん?」
唇が、普段とは異なる色味を帯びていて、それこそ……ちょっとイケナイ子に見えなくもない。
こういう色の口紅をすることはなさそうでか、色っぽいと素直に思う。
「っ……ん」
口づけると、かなり甘いイチゴの香りがした。
外国製品特有といえばそう。
だが、普段の口づけも甘いような気はしてるし、これはこれで特に問題ないか。
「ん……っ……ぁ、祐恭さん……」
「うん?」
「もぅ……あはは、ちょっとかわいい」
「え?」
ちゅ、と音を立てて離れると、さっき俺がしたように今度は彼女が俺の頬へ触れる。
かと思いきいや小さく笑われ、何が——……あー。
「しまった」
唇が染まるということは、そういうこと。
テーブルに置いたままの鏡を見ると、案の定ほんのりと唇が染まっていた。
「ハロウィンっぽいですね」
きっとなんの気なしの台詞だったんだろうが、だからこそふと決まり文句が浮かぶ。
「Trick or treat?」
「…………」
「…………」
「え、っと……え? お菓子ですか?」
「持ってる?」
「えぇ!?」
目の前で囁くと、きょとんとまばたいたあと意図を察したように目を丸くした。
さすが、よくわかってるね。
慌てたようにバッグを探ってはいるけれど、どうやらないらしい。
それじゃあ仕方ない。
通例に従うしかないよね。
「あ、あっ! 絵里にもらった、おせんべいならっ……!」
「お菓子ならなんでもいいわけじゃないんだよ?」
「えぇ!? そうなんですか?」
「treatだから、もてなしてくれないとね」
昔懐かしいパッケージの煎餅が現れ、味が一瞬浮かぶ。
小さいころ食べたな、そういえば。
今となっては食べる機会の減った、甘しょっぱいアレ。
それにしても、絵里ちゃん意外と渋いな。
とか言ったら、怒られそうだけど。
「まあもっとも、俺の場合は甘いもの食べないから何もいらないけどね」
「そんなぁ! それじゃ、こまっ……」
「困る?」
「っ……祐恭さん、ずるい……」
「そういう顔するほうが、よっぽどずるいと思うけど」
くすくす笑いながら近づくと、唇を結んで眉を寄せる。
ほんの少しだけ自分のせいで明かりが陰り、一層赤い唇が目についた。
「続きは家でしようか」
「で、でも、祐恭さん……忙しいんじゃ……」
「レポートのまとめの話だよ?」
「っ……!」
頬に指先で触れ、顎をたどって少しだけ上を向かせる。
ああ、その顔もかわいいね。
小さく笑って口づけると、まだイチゴの甘い香りがした。
********
「ふふ。小さい子は喜ぶでしょうね」
「そーか? 恭介さんが知ったら、怒りそうじゃね?」
「これくらいで怒ったりしないよ?」
ならよし。
赤と言うよりやや紫に近い色の口紅でもつけているかのような、葉月。
やめとけと言ったのに『おもしろそうだね』と意外な台詞とともにコイツは優人の紅茶を自ら口にした。
手鏡を覗きながらくすくす笑っている今、それこそ普段とはまるで違う濃い色の唇が余計目につく。
「…………」
色が白いからか、やけに目立つんだよな。
つか、えろい。
恐らくは無意識だろうが、手鏡をテーブルへ置いたまま指先で唇をなぞり、その様がやたら艶やかで。
ニュースで流れている作り物のメイクを纏う連中とはまた違う意味で目立つ。
「向こうでもやるのか? ハロウィン」
「んー、やるっていうか……イベントくらいかな。友達の家を訪ねることはしないよ」
「へえ」
まあ確かに、ハロウィンはアメリカがメインか。
とはいえ、数日前からうちの玄関にもくり抜かれたオレンジのかぼちゃが花台に鎮座しており、小さいながらも夜になると葉月は火を灯してランタンにしていた。
マメだなほんと。
まあ、もしかしなくても意外と祭りとかそーゆーの好きなんだろーけど。
「高校のときは、学校でチャリティパーティーをするの」
「チャリティ?」
「うん。その日だけは仮装して登校していいことになってる代わりに、募金を集めて市内の病院へ寄付するんだよ」
「はー。殊勝な心がけだな」
「せっかく人が集まるなら、貢献できるとなおいいって思うんじゃないかな」
となると、コイツの目には……いや、そういうことをしてる連中からしたら、単に仮装して酒飲んで挙げ句の果てに散らかすだけの連中はどう見えてるんだかな。
ソファへもたれたまま両手を頭の後ろで組み、テレビへ視線を移す。
と、ちょうどいいタイミングでハロウィンの中継から湯河原の温泉宿特集へと切り替わった。
「てことは、お前もなんか仮装したのか?」
「仮装っていうか……私の場合は、袴をはいて行ったけれど」
「は?」
隣へ腰掛けた葉月に、思い切り声が出た。
袴って……なんでまた。
いや、そりゃ日本人なら別におかしくねーけどよ。
にしたってまさかンな答え出てくるとか思わねーだろ。
よほど俺が意外そうな顔をしたらしく、葉月はくすくす笑うとスマフォを取り出して何か探し始めた。
「うわ、すっげぇ」
「ふふ。意外でしょう? お父さんもこんなことするんだよ」
「いや、それもあるけど……ってすげぇな。これ、ガチで人斬ってる顔じゃね」
「もう。怒られるよ?」
「……言うなよ」
スマフォの画面いっぱいに映る、恭介さんと葉月の写真。
だがしかし、まさかの袴違いっつーか……まさか居合の格好とは誰が思うよ。
白と紺の組み合わせといい、手にしてる大振りの模造刀といい……この血糊といい。
にこやかではなく不敵な笑みにしか見えず、ホンモノっぽくて一瞬背筋が震える。
「つか、さすがにこんなスプラッタで学校行かねーだろ?」
「行くよ?」
「マジで!?」
「まだ、おとなしいほうだと思うの。……ほら」
「うわ。グロい」
映し出されたのは、まさにゾンビ集団。
メイクもかなり凝っており、小さい子どもが見たら泣くレベル。
ゾンビだけでなくハラワタぶら下げてるミイラしかり、フランケンしかり、どいつもこいつもクオリティ高すぎだろ。
さすが海外。ちょっとナメてた。
「……こんな連中相手に授業するとか、教師もすげーな」
「ふふ。特別だね」
数枚の写真の中には授業風景もあり、ズタボロの服をまとう連中がみな大人しく着席していた。
つか、教員も仮装ってすげーな。
英語で書かれているのでぱっと見て英語の授業か見まごうが、多分違う。理科か何かだな。
ちなみに、写真に写っている教師は血まみれの白衣をまとっている。
「…………」
スマフォをいじり、写真の一覧からふたたび袴姿の葉月を選ぶ。
様々な連中と写ってはいるが、普段どころかまったく見たことのない姿に、つい興味が出たらしい。
白と紺の袴をまとい、高い位置で髪を結んでいる。
手には模造刀。
あー、こういうポスターありそう。
つか、じーちゃんが見たらこれを基にして剣士募集チラシ作りそうだなと素直に思った。
「ん?」
「いや……お前和装似合うな」
「そうかな? ありがとう」
素直な感想を伝えると、いつもと同じように笑みを浮かべる。
袴も悪くねーな。
機会があったら、こっちでも着たらいい。
「…………」
がしかし、そういって笑った葉月は、写真とは異なり艶やかな唇のまま。
違う意味で目が行き、スマフォを返しながら体の向きを変える。
「え?」
「言ってみ?」
「Happy Halloween?」
「そっちじゃねぇやつ」
あー、そうだな。お前は言わないだろうよ。
首をかしげたのを見ながら、指先で頬に触れる。
さらりと髪が流れ、ほのかに甘い香りがした。
ああ、そういやあの紅茶も薔薇だつってたっけな。
実際に甘いかどうかは知らないが、少なくとも香りは十分甘かった。
「Trick or treat?」
聞き返す意味だったんだろうが、よほどいい発音でささやかれ小さく笑いが漏れる。
残念。あいにくもう、手元に菓子はない。
テーブルの端に、お袋が職場で配ったらしいチョコの残りがあったが、それは見ないことにした。
「So naughty」
「ッ……たーくん!」
「発音がえろい」
「そういう使い方しないでしょう? もう!」
「なんだよ。褒めてンぞ、これでも」
「だって……びっくりするじゃない」
言葉通り、葉月は目を丸くした。
だが、ほんのり頬を染めており、それがさらに……だからえろいんだよ、お前。
「んっ……!」
視線を逸らしたのを見てから口づけ、押さえ込むように腕を回す。
菓子はいらないし、これといって渡せる何かはない。
が、そっちが先に希望したんであれば、しょーがねぇだろ。
大人しく……いや、甘んじて受ければいい。
「……ふ……」
わずかに漏れた吐息が、やけに耳について。
向けられた眼差しが色っぽく見えるのは、唇のせいなんだろうな。
小さく笑うとついなぞるように唇に触れており、くすぐったようにつぐまれたが、その仕草がかえってぞくりとさせられた。
でもえろくならなかった。
もうしわけなす。
「トリックオアトリート!」
「いや……お前な」
「お菓子くれなきゃイタズラしちゃうぞ!」
「……暇なの?」
平日も平日。特にノー残業でもなんでもない日だろうし、そもそもそんな言葉は皆無な業界にいるのはお互い様。
なのに、優人はわざわざ大学まで姿を見せたどころか、俺の研究室にまで足を伸ばしてきた。
ああ、暇なんだなお前。羨ましい。
片手には、コイツがよく『ファッションの一部』と言っているコーヒーチェーン店のカップがあり、しかもそこにはいかにもってくらいかわいらしい文字でフルネームと『お疲れさまです』の言葉が添えられていた。
「今日、羽織と会うだろ?」
「いや、平日だからどうかな。レポートがどうのって、昨日も図書館へ詰めてたし」
会えるならそりゃ会いたい相手。
だが、学生の本分は勉強であり、資料を集めるとか整理するのが苦手とも言っていたあたりからして、今日は難しいかもしれない。
まあ、その辺を口実に……ってわけにいかないんだけど。
俺もちょっと忙しい。
「あー、ちょっと待った」
「え、なになに? なんかくれんの?」
「ああ」
にこにことなぜか楽しげな優人を見ていたら、ふと思い出した。
今日の2限目に学生からもらった、クッキーがあったんだったな。
「ほら。これやるから帰れ」
「うっは、すげ! なにこれ、手作り?」
「市販」
「へーすっげー! いやー、昨今のハロウィンブームはすごいですなー」
手のひらよりも大きなサイズの、クモ……を象ったクッキー。
ご丁寧に模様までチョコレートで描かれており、見た目のグロテスクさとビビッドな色遣いも相まってまったく食欲が湧かなかった。
あー、よかった。ちょうどいいところにきてくれて。
これで無事処分先が決まった。
「あ、そんじゃ俺からもプレゼントあげる」
「いや、普通逆だろ? ていうか、菓子渡したんだから帰れよ」
「やだなー、大人ですから。たしなみ程度におすそわけ」
にっこり笑って差し出されたのは、真っ黒い袋。
いかにも怪しげで、眉が寄る。
「そんな顔すんなって。羽織ちゃんきっと大喜び」
「嘘つけ」
「ひどいなーホントだって。羽織の好きな、いちご味だもん」
「……味?」
「そ。一緒に召しあがれ」
いつだって優人の笑みは嘘くさい。
だが、彼女の名前を出されると弱い……って待て。なんか去年もこんなことなかったか。
「あ! おま、ちょっ……待てって!」
「いやー俺っち忙しいんだわー。このあと図書館行かなきゃなんないし」
「……お前、怒られるぞ」
「あ、慣れてるから平気」
ほとんど人通りのないここと違い、図書館は不特定多数の人間が行き交う場所。
まだ閉館時間にはほと遠いが、ドアからコイツが入ったら間違いなく孝之は嫌がるだろうよ。
まあ、実際は優人の扱いに一番慣れてそうだけど。
るんたるんたと楽しげに去っていく後ろ姿をそれ以上何も言わずに見送ったことに、何も問題はなかった。
「…………」
いちご味。
とか言いながら、絶対怪しい何かじゃないのか。
「……あれ」
装飾の一切ない袋の封を切ると、意外にも中からはイチゴフレーバーの紅茶が出てきた。
うわ、普通だ。いや、普通か?
いかにも外国製品ではあるが、ざっと見たところいかがわしい要素はない。
しいていうなら、ピンクのリボンを付けた黒猫を象ったパッケージが、唯一ハロウィンっぽいか。
「…………」
紅茶か。
こういう普通の物も買うんだな、アイツ。
たしかに彼女が好きそうで、そう思ったからこそ……あー、会いたくなるだろ。くそ。
学内にいるかどうかわからないものの、今まとめていた作業を終えたらメッセージを送る気になった。
******
「……お前暇だな」
「あれ、なんかそれデジャヴ」
「あっそ」
返却図書を棚へ戻し、階段を降りようとしたところで4階のエレベーターが口を開けた。
乗ってたのは、優人のみ。
いるはずないヤツがいると結構ビビるものの、コイツなら仕方ないと思うあたり俺も割とどうかしてる。
「トリックオアトリート!」
「ほらよ」
「え、なんで持ってんの?」
「さっきもらった」
エレベーターへ乗り込み、下階へ。
ワイシャツのポケットから、ハロウィン用に作られたお化けのパッケージのチョコを渡すと、それはそれは意外そうな顔をされた。
お前のそーゆー顔久しぶりに見た。
ある意味貴重か。
テレビのニュースで賑わう都内とは違い、少なくとも俺の周辺でイベントはない。
駅前の商店街や市立図書館では、子ども向けのイベントが1週間ほど行われていたが、大学じゃねーよな。さすがに。
とか思ったものの、マメに折り紙やら色画用紙であちこち野上さんがデコってたけど。
そういや今朝は、魔女がかぶってそうな帽子を持ってうろうろしてたけどな。
小さい子どもが来ることはほとんどない場所なのにやるってことは、本人が楽しんでるってことだろ。
さすがにねーな。俺には。
「じゃあ、これはたーくんにあげるにゃん」
「いや、いらねーけど」
「なんでだよー。喜べってそこは」
「お前からもらったモンで、俺が喜んだことあんまねーだろ」
思い返すまでもなく、夏にもらった暑中見舞いはハバネロが練りこまれた激辛ソーメンだったし、バレンタインは……あー忘れとくか。
そういや、優人の所業を知ってるもうひとりは、珍しく羽織と4階のテーブルで何やら本を広げていた。
俺に気づいて苦笑したのは、あからさまに俺が羽織を蔑んだのがわかったんだろーよ。
でも、そりゃそーだろ?
学科違うのに、葉月にレポート手伝ってもらってんじゃねーよ。
だが、そう言う前に『心理学実験のお手伝いだから』と先行されたから言わないでやったけど。
「あ? なんだこれ」
「紅茶だよ、紅茶。薔薇のかほり」
「…………」
「やだぁ、そんないかがわしい目つきしなくても他意はないにゃん」
ぽんと渡されたのは、黒猫を象ったパッケージの何か。
成分表の書かれているラベルを見ると、確かにまあ怪しい単語は見受けられない。
だが……。
「はい、アウトー」
「っ……ンだよ」
「勘のいいガキは嫌いだよ」
「タメに言う台詞じゃねーだろ」
眼鏡をしてもいないのに直すような仕草をされ、思わず噴き出す。
てことはやっぱ、マトモなもんじゃねーってことだな。
仕方なく、取り出したスマフォをポケットへ戻し、ドアが開いたところでカウンターへ……ってなんだ。コイツも暇だな。
「忙しかったんじゃねーの?」
「忙しい」
「そう見えねーから聞いてんだろ」
今日の昼、学食へ行ったら席に着いた途端、『返しに行く時間がない』と祐恭から本の束を渡された。
つか、担々麺食おうとしてる俺に渡すなっつの。
どー考えても汁飛ぶだろ。
あれは間違いなく嫌がらせだと取っていい案件だった。
「どいもこいつも、暇なら帰れば?」
「だから、暇じゃないって……」
「あ、俺ちん忙しいから帰るわ」
「いや、お前が一番暇だろ」
「失敬だなー。これからハロウィンコンがあるのだよ」
「明日もあんのに、元気だな」
「いやー、それほどでも」
スチャ、と手を挙げた優人は言いながらガラスドアへ向かった。
知り合いでもないはずなのに、入れ違いで入ってきた女子数人に笑顔で挨拶をしながら。
「で? お前は帰んねーの?」
「4階に用事」
「……アイツまだ終わんねーぞ」
「なんでわかったんだよ」
「お前が敢えて足向ける理由なんざ、ンなもんだろ」
どいつもコイツも暇だな。
うっかり口走ったのが悪かったらしく、ふくらはぎを蹴飛ばされるはめになった。
*********
「これ、俺そんなに嫌いじゃないんだよね」
「疲れません?」
「計算は得意だから」
「うぅ……羨ましい」
「いや、本気に取らないでほしいんだけど」
図書館ではなく、場所を研究室へ移したあとも、彼女は数枚の結果用紙を見ながら平均値を求めるのに苦労していた。
それこそ、心理学実験はそれ用のプログラムもあるんだし、パソコンでやったほうが早そう……なんだけど、今回のものはタイムの平均値をもとにグラフを作るらしく、まだ手作業でいいらしい。
「あ。私淹れます」
「いいよ。俺は手伝っただけだし」
「でも……」
「まだかかるでしょ? 夜は長いね」
「……うぅ」
電気ケトルが止まったのを見て、立ち上がりかけた彼女を制す。
久しぶりにやったな、クレペリン作業検査。
単純に、隣り合う数字を足していく作業。
負荷はかかるが、さほど嫌いじゃないあたり性分なのかなんなのか。
まあ、彼女に貢献できてるっていうのが大きいんだろうけど。
「はい」
「わあ……甘い香り。いちごですか?」
「らしいね。優人がくれた」
「へえー!」
彼女へは、先ほど優人からもらった紅茶をホットで。
念のため味見はしたが、いわゆる普通のフレーバーティ……のはず。
多少色が濃い気はしないが、さすがにいかがわしいものを大事な従妹に渡さないだろ。
……多分。
「これもあげる」
「え? わ、かわいいですね」
「一緒に入ってたんだよ」
小さなかぼちゃの台座に立つ、猫のキャンドル。
尻尾部分に火がつくようになっていて、思った通り彼女は嬉しそうに手を伸ばした。
「…………」
気のせいかな、とは思った。
だが、どうやらそうじゃないらしい。
数人の実験結果をまとめている彼女……の唇に目がいく。
あー……そーゆーことか。
「え?」
「ごめん、もっと早く気付くべきだった」
「えっと……何がですか?」
手鏡なんてシャレたものはないが、つい今しがた使ったばかりの実験用鏡を彼女へ渡す。
違う違う。見るのは、ここ。
「っわ!」
「……こういう駄菓子あったよね、昔」
「そうなんですか?」
「あー……そうか、知らないか」
6歳違うってことは、それなりに文化も異なるからな。まあ仕方ない。
最初見たときは気のせいか、はたまた彼女自身の化粧かと思ったんだが、カップを口に運ぶたび濃くなっていくのは気のせいじゃなかった。
赤い紅茶の色が、唇を染めたらしい。
「あー……」
「赤いですか?」
「これはまた、なかなか……ゾンビ感ある」
「えぇ!?」
「冗談。色っぽいよ」
「もぅ……あんまり嬉しくないです」
頬に手を当てると、意図を察したのか彼女は唇を開いた。
舌まで真っ赤。
明日までに薄くなればいいけど、これで講義受けるってのはちょっとかわいそうだな。
「…………」
「……祐恭さん?」
唇が、普段とは異なる色味を帯びていて、それこそ……ちょっとイケナイ子に見えなくもない。
こういう色の口紅をすることはなさそうでか、色っぽいと素直に思う。
「っ……ん」
口づけると、かなり甘いイチゴの香りがした。
外国製品特有といえばそう。
だが、普段の口づけも甘いような気はしてるし、これはこれで特に問題ないか。
「ん……っ……ぁ、祐恭さん……」
「うん?」
「もぅ……あはは、ちょっとかわいい」
「え?」
ちゅ、と音を立てて離れると、さっき俺がしたように今度は彼女が俺の頬へ触れる。
かと思いきいや小さく笑われ、何が——……あー。
「しまった」
唇が染まるということは、そういうこと。
テーブルに置いたままの鏡を見ると、案の定ほんのりと唇が染まっていた。
「ハロウィンっぽいですね」
きっとなんの気なしの台詞だったんだろうが、だからこそふと決まり文句が浮かぶ。
「Trick or treat?」
「…………」
「…………」
「え、っと……え? お菓子ですか?」
「持ってる?」
「えぇ!?」
目の前で囁くと、きょとんとまばたいたあと意図を察したように目を丸くした。
さすが、よくわかってるね。
慌てたようにバッグを探ってはいるけれど、どうやらないらしい。
それじゃあ仕方ない。
通例に従うしかないよね。
「あ、あっ! 絵里にもらった、おせんべいならっ……!」
「お菓子ならなんでもいいわけじゃないんだよ?」
「えぇ!? そうなんですか?」
「treatだから、もてなしてくれないとね」
昔懐かしいパッケージの煎餅が現れ、味が一瞬浮かぶ。
小さいころ食べたな、そういえば。
今となっては食べる機会の減った、甘しょっぱいアレ。
それにしても、絵里ちゃん意外と渋いな。
とか言ったら、怒られそうだけど。
「まあもっとも、俺の場合は甘いもの食べないから何もいらないけどね」
「そんなぁ! それじゃ、こまっ……」
「困る?」
「っ……祐恭さん、ずるい……」
「そういう顔するほうが、よっぽどずるいと思うけど」
くすくす笑いながら近づくと、唇を結んで眉を寄せる。
ほんの少しだけ自分のせいで明かりが陰り、一層赤い唇が目についた。
「続きは家でしようか」
「で、でも、祐恭さん……忙しいんじゃ……」
「レポートのまとめの話だよ?」
「っ……!」
頬に指先で触れ、顎をたどって少しだけ上を向かせる。
ああ、その顔もかわいいね。
小さく笑って口づけると、まだイチゴの甘い香りがした。
********
「ふふ。小さい子は喜ぶでしょうね」
「そーか? 恭介さんが知ったら、怒りそうじゃね?」
「これくらいで怒ったりしないよ?」
ならよし。
赤と言うよりやや紫に近い色の口紅でもつけているかのような、葉月。
やめとけと言ったのに『おもしろそうだね』と意外な台詞とともにコイツは優人の紅茶を自ら口にした。
手鏡を覗きながらくすくす笑っている今、それこそ普段とはまるで違う濃い色の唇が余計目につく。
「…………」
色が白いからか、やけに目立つんだよな。
つか、えろい。
恐らくは無意識だろうが、手鏡をテーブルへ置いたまま指先で唇をなぞり、その様がやたら艶やかで。
ニュースで流れている作り物のメイクを纏う連中とはまた違う意味で目立つ。
「向こうでもやるのか? ハロウィン」
「んー、やるっていうか……イベントくらいかな。友達の家を訪ねることはしないよ」
「へえ」
まあ確かに、ハロウィンはアメリカがメインか。
とはいえ、数日前からうちの玄関にもくり抜かれたオレンジのかぼちゃが花台に鎮座しており、小さいながらも夜になると葉月は火を灯してランタンにしていた。
マメだなほんと。
まあ、もしかしなくても意外と祭りとかそーゆーの好きなんだろーけど。
「高校のときは、学校でチャリティパーティーをするの」
「チャリティ?」
「うん。その日だけは仮装して登校していいことになってる代わりに、募金を集めて市内の病院へ寄付するんだよ」
「はー。殊勝な心がけだな」
「せっかく人が集まるなら、貢献できるとなおいいって思うんじゃないかな」
となると、コイツの目には……いや、そういうことをしてる連中からしたら、単に仮装して酒飲んで挙げ句の果てに散らかすだけの連中はどう見えてるんだかな。
ソファへもたれたまま両手を頭の後ろで組み、テレビへ視線を移す。
と、ちょうどいいタイミングでハロウィンの中継から湯河原の温泉宿特集へと切り替わった。
「てことは、お前もなんか仮装したのか?」
「仮装っていうか……私の場合は、袴をはいて行ったけれど」
「は?」
隣へ腰掛けた葉月に、思い切り声が出た。
袴って……なんでまた。
いや、そりゃ日本人なら別におかしくねーけどよ。
にしたってまさかンな答え出てくるとか思わねーだろ。
よほど俺が意外そうな顔をしたらしく、葉月はくすくす笑うとスマフォを取り出して何か探し始めた。
「うわ、すっげぇ」
「ふふ。意外でしょう? お父さんもこんなことするんだよ」
「いや、それもあるけど……ってすげぇな。これ、ガチで人斬ってる顔じゃね」
「もう。怒られるよ?」
「……言うなよ」
スマフォの画面いっぱいに映る、恭介さんと葉月の写真。
だがしかし、まさかの袴違いっつーか……まさか居合の格好とは誰が思うよ。
白と紺の組み合わせといい、手にしてる大振りの模造刀といい……この血糊といい。
にこやかではなく不敵な笑みにしか見えず、ホンモノっぽくて一瞬背筋が震える。
「つか、さすがにこんなスプラッタで学校行かねーだろ?」
「行くよ?」
「マジで!?」
「まだ、おとなしいほうだと思うの。……ほら」
「うわ。グロい」
映し出されたのは、まさにゾンビ集団。
メイクもかなり凝っており、小さい子どもが見たら泣くレベル。
ゾンビだけでなくハラワタぶら下げてるミイラしかり、フランケンしかり、どいつもこいつもクオリティ高すぎだろ。
さすが海外。ちょっとナメてた。
「……こんな連中相手に授業するとか、教師もすげーな」
「ふふ。特別だね」
数枚の写真の中には授業風景もあり、ズタボロの服をまとう連中がみな大人しく着席していた。
つか、教員も仮装ってすげーな。
英語で書かれているのでぱっと見て英語の授業か見まごうが、多分違う。理科か何かだな。
ちなみに、写真に写っている教師は血まみれの白衣をまとっている。
「…………」
スマフォをいじり、写真の一覧からふたたび袴姿の葉月を選ぶ。
様々な連中と写ってはいるが、普段どころかまったく見たことのない姿に、つい興味が出たらしい。
白と紺の袴をまとい、高い位置で髪を結んでいる。
手には模造刀。
あー、こういうポスターありそう。
つか、じーちゃんが見たらこれを基にして剣士募集チラシ作りそうだなと素直に思った。
「ん?」
「いや……お前和装似合うな」
「そうかな? ありがとう」
素直な感想を伝えると、いつもと同じように笑みを浮かべる。
袴も悪くねーな。
機会があったら、こっちでも着たらいい。
「…………」
がしかし、そういって笑った葉月は、写真とは異なり艶やかな唇のまま。
違う意味で目が行き、スマフォを返しながら体の向きを変える。
「え?」
「言ってみ?」
「Happy Halloween?」
「そっちじゃねぇやつ」
あー、そうだな。お前は言わないだろうよ。
首をかしげたのを見ながら、指先で頬に触れる。
さらりと髪が流れ、ほのかに甘い香りがした。
ああ、そういやあの紅茶も薔薇だつってたっけな。
実際に甘いかどうかは知らないが、少なくとも香りは十分甘かった。
「Trick or treat?」
聞き返す意味だったんだろうが、よほどいい発音でささやかれ小さく笑いが漏れる。
残念。あいにくもう、手元に菓子はない。
テーブルの端に、お袋が職場で配ったらしいチョコの残りがあったが、それは見ないことにした。
「So naughty」
「ッ……たーくん!」
「発音がえろい」
「そういう使い方しないでしょう? もう!」
「なんだよ。褒めてンぞ、これでも」
「だって……びっくりするじゃない」
言葉通り、葉月は目を丸くした。
だが、ほんのり頬を染めており、それがさらに……だからえろいんだよ、お前。
「んっ……!」
視線を逸らしたのを見てから口づけ、押さえ込むように腕を回す。
菓子はいらないし、これといって渡せる何かはない。
が、そっちが先に希望したんであれば、しょーがねぇだろ。
大人しく……いや、甘んじて受ければいい。
「……ふ……」
わずかに漏れた吐息が、やけに耳について。
向けられた眼差しが色っぽく見えるのは、唇のせいなんだろうな。
小さく笑うとついなぞるように唇に触れており、くすぐったようにつぐまれたが、その仕草がかえってぞくりとさせられた。