父の日その1
2020.06.21
父の日その1。
時間があったら、その2あげますー。
「瀬那先生、ペンありがとうございました」
「ああ、そうだったな。忘れていたよ」
3時限目が終わり、職員室手前の廊下を曲がったところで、ちょうど彼と出くわした。
今朝、職員会議でお借りしたボールペンは、金の矢羽がついているしっかりした重さのあるもので。
普段俺が使っている、プラスチックのものとはまるで違い、かなり書き心地はよかった。
「それ、使いやすいですね」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ」
重さがあるぶん、書くときに安定するのかもしれない。
角度もつけやすかったし、ペンによって字がうける影響は少なからずあるんだとわかった。
「この間の父の日、娘にもらったんだよ」
「へえ。それは嬉しいですね」
「反抗期があってもよさそうなんだが、孝之を見ていたのかなくてね。いいのか悪いのか、少し心配もある」
「お嬢さんって……今、おいくつでしたっけ?」
「今年、高校2年になったよ」
にっこり笑った彼は、受け取ったボールペンをしげしげ見つめるとどこか嬉しそうに笑った。
父の日にもらったということは、まさについ先日か。
……へえ。
高校2年生のお嬢さんがくれたとあれば、当然嬉しいだろう。
うちの父親も妹からのプレゼントは思い入れが違うらしく、そういえば先日形ばかりの父の日を渡しに行ったら、もらったというウィスキーをそれはそれは大切そうに飲んでいた。
「祐恭君は会ったことがなかったか?」
「普段、孝之としか会わないんで。高校時代にお邪魔したときは、何度かすれ違った気がするんですけれど」
孝之の家であり瀬那先生のご自宅へ伺ったのは、それこそ高校時代まで。
大学に入ってからは俺がひとり暮らしを始めたこともあり、逆にアイツが来ることが増えた。
泊める予定じゃなかったのに、酔い潰れて布団じゃないところで寝ることもザラ。
俺の家なのにアイツの私物がたまにあって、意味がわからないことも割と多かった気はする。
「かわいいお嬢さんなんでしょうね」
「はは、少し幼い気はするがね。この間も、食事に誘ったら嬉しそうについてくるもんだから、逆にいいのかと迷いもしたよ」
「いいじゃないですか。仲がいい証拠だと思いますよ」
「そうかね? 年頃だし、付き合いのある子がいるのかどうかはわからないが、いつまでも男親と当たり前のように歩くのもどうかと心配にはなるもんだよ」
苦笑を浮かべてはいるが、エピソードを話してくれる彼はとても嬉しそうだった。
かわいいんだろうな、きっと。
見た目がどうこうではなく、存在そのものが。
父親と距離を取りたがる娘の話はよく聞くが、逆は逆で微笑ましい気はするけどね。
俺にはわからないけど、でも、アリだとは思う。
娘といい関係性なのは、彼とお袋さんとの関係も影響しているだろうから。
「まぁ、今度家に来ることがあったら紹介するよ」
「そのときは、手土産用意しますね」
「はは。あの子も孝之と一緒で甘いものが好きだから、それは喜ぶな」
からから笑った彼に頭を下げ、次の担当クラスへ向かう。
今日は、先日のテスト返却と解答の説明。
椅子に座ったままではないが、気持ちとしては普段よりも穏やかな時間にはなりそうだ。
……にしても、瀬那先生のお嬢さんってことは、あの孝之の妹ってことだろ?
見た目はわからないが、なかなか現実的な子なんじゃないのか。
いやしかし、反抗期がなくて幼いとも言ってたしな……ちょっと見てみたい気はする。
「……まぁ、なかなか機会はないだろうけど」
勝手に思い描いた想像図を払うように首を振ると、改めて『ないな』とひとりごちていた。
「……えっと……なんですか?」
「いや、おいしそうに食べるなと思って」
6月の第3日曜の昼過ぎ。
手土産として一緒に選んだデザートながらも、羽織は幸せそうにスフレへスプーンを伸ばした。
今日は父の日。
瀬那先生にはこの時間からお邪魔することを伝えていたからか、お袋さんと一緒にきっちり待ってくれていた。
孝之は出かけているらしく、姿はない。
ってことは……まぁ、“父の日“だもんな。
アイツはアイツできっちり義務を果たしてるんだろう。
「そういえば、去年の父の日って何あげたの?」
「去年は、お兄ちゃんにも協力してもらって足袋と雪駄のセットにしたんです」
「へぇ。いいところに目をつけるね」
「お父さん、いろいろ持ってるからどうしようかなぁって思ったんですけれど、そういえばほつれが……ってお母さんに話してるのを聞いて。すっごく喜んでもらえたんですよ」
だろうね。
かなり嬉しそうに笑うのを見て、こっちまで笑みがうつる。
彼の使っている弓具は、かなり物がいい。
が、足袋と雪駄はそれこそ消耗品でもあるし、いくつあっても困りはしないんじゃないか。
足元って、結構見られるしね。
……俺も気をつけよう。
「一昨年は、ボールペンあげたでしょ」
「え?」
「金の矢羽がついてる、シルバーのやつ」
今、リビングには瀬那先生とお袋さんの姿はない。
お袋さんは来客対応をしていて、瀬那先生はスマフォにかかってきた電話対応のため先ほど別の部屋へ向かった。
だから、くしくもふたりきり。
少しだけ羽織へ顔を寄せると、それはそれは不思議そうにまばたいた。
「祐恭さん、どうして知ってるんですか?」
「そのボールペン、借りたことがあるんだよ。で、そのとき初めて、瀬那先生のお嬢さんが高校2年生だって知った」
「そうなんですか!?」
今からちょうど2年前。
俺たちがこうして出会う以前ながらも、間接的には触れていたんだとわかり、素直に嬉しかった。
あのときとは違い、彼女はもう大学生になっている。
月日の経つのは……というよりも、俺と個人的な繋がりができたことは、改めてすごいなと思うよ。
「想像してたより、ずっとかわいかった」
「かわいいって……何がですか?」
「父の日にボールペンをプレゼントしたり、一緒にご飯食べに行ったりしてくれる、瀬那先生のお嬢さん」
「…………」
「…………」
「っえ、私!?」
「君以外にいないだろ」
にっこり笑って褒めたつもりだったのに、羽織は目を丸くした。
あのとき想像したお嬢さんは、目の前の彼女とはまるで違う。
孝之を元にイメージしたから、目元も口元も全然。
むしろ、キツい印象を勝手に抱いたが、180度違うから本当に驚いたよ。
……こんなに素直でいい子とはね。
そりゃ、いろんな意味で心配になるわけだ。
「瀬那先生が父になるなんて、あのときは想像もしなかった」
「……祐恭さん……」
「しかもこんなにかわいい子で、想像した以上にハマるなんてね」
まだ、ふたりが戻らないのをいいことに、そっと頬へ手を伸ばす。
困ったような顔なのに、確実に喜んでくれている気はして。
結ばれた唇に、つい視線は移る。
ふとしたタイミングで、うっかりキスしそうな程度には“欲しい“相手そのもの。
2年前とはまるで違う想いを抱くことになるなんて、人生はどこでどうなるか本当にわからないものだな。
「っ……」
「続きはまたあとでね」
「もぅ……顔赤くなっちゃうじゃないですか」
「大丈夫。かわいいから」
そっと引き寄せ、触れるだけのキスをすると、すぐここで困ったように……でもやっぱり嬉しそうに笑う。
そういう顔してくれるから、もっと手を出したくなるってわかってないんだろうな。きっと。
素直で純粋なイメージは、今のほうが当時よりももっと強い。
そういう意味では、変わらないものもあるんだな。
頬へ手を当てた彼女を笑ったら、ちょうどご両親が揃ってリビングへ戻ってくるところだった。
時間があったら、その2あげますー。
「瀬那先生、ペンありがとうございました」
「ああ、そうだったな。忘れていたよ」
3時限目が終わり、職員室手前の廊下を曲がったところで、ちょうど彼と出くわした。
今朝、職員会議でお借りしたボールペンは、金の矢羽がついているしっかりした重さのあるもので。
普段俺が使っている、プラスチックのものとはまるで違い、かなり書き心地はよかった。
「それ、使いやすいですね」
「そう言ってもらえたら嬉しいよ」
重さがあるぶん、書くときに安定するのかもしれない。
角度もつけやすかったし、ペンによって字がうける影響は少なからずあるんだとわかった。
「この間の父の日、娘にもらったんだよ」
「へえ。それは嬉しいですね」
「反抗期があってもよさそうなんだが、孝之を見ていたのかなくてね。いいのか悪いのか、少し心配もある」
「お嬢さんって……今、おいくつでしたっけ?」
「今年、高校2年になったよ」
にっこり笑った彼は、受け取ったボールペンをしげしげ見つめるとどこか嬉しそうに笑った。
父の日にもらったということは、まさについ先日か。
……へえ。
高校2年生のお嬢さんがくれたとあれば、当然嬉しいだろう。
うちの父親も妹からのプレゼントは思い入れが違うらしく、そういえば先日形ばかりの父の日を渡しに行ったら、もらったというウィスキーをそれはそれは大切そうに飲んでいた。
「祐恭君は会ったことがなかったか?」
「普段、孝之としか会わないんで。高校時代にお邪魔したときは、何度かすれ違った気がするんですけれど」
孝之の家であり瀬那先生のご自宅へ伺ったのは、それこそ高校時代まで。
大学に入ってからは俺がひとり暮らしを始めたこともあり、逆にアイツが来ることが増えた。
泊める予定じゃなかったのに、酔い潰れて布団じゃないところで寝ることもザラ。
俺の家なのにアイツの私物がたまにあって、意味がわからないことも割と多かった気はする。
「かわいいお嬢さんなんでしょうね」
「はは、少し幼い気はするがね。この間も、食事に誘ったら嬉しそうについてくるもんだから、逆にいいのかと迷いもしたよ」
「いいじゃないですか。仲がいい証拠だと思いますよ」
「そうかね? 年頃だし、付き合いのある子がいるのかどうかはわからないが、いつまでも男親と当たり前のように歩くのもどうかと心配にはなるもんだよ」
苦笑を浮かべてはいるが、エピソードを話してくれる彼はとても嬉しそうだった。
かわいいんだろうな、きっと。
見た目がどうこうではなく、存在そのものが。
父親と距離を取りたがる娘の話はよく聞くが、逆は逆で微笑ましい気はするけどね。
俺にはわからないけど、でも、アリだとは思う。
娘といい関係性なのは、彼とお袋さんとの関係も影響しているだろうから。
「まぁ、今度家に来ることがあったら紹介するよ」
「そのときは、手土産用意しますね」
「はは。あの子も孝之と一緒で甘いものが好きだから、それは喜ぶな」
からから笑った彼に頭を下げ、次の担当クラスへ向かう。
今日は、先日のテスト返却と解答の説明。
椅子に座ったままではないが、気持ちとしては普段よりも穏やかな時間にはなりそうだ。
……にしても、瀬那先生のお嬢さんってことは、あの孝之の妹ってことだろ?
見た目はわからないが、なかなか現実的な子なんじゃないのか。
いやしかし、反抗期がなくて幼いとも言ってたしな……ちょっと見てみたい気はする。
「……まぁ、なかなか機会はないだろうけど」
勝手に思い描いた想像図を払うように首を振ると、改めて『ないな』とひとりごちていた。
「……えっと……なんですか?」
「いや、おいしそうに食べるなと思って」
6月の第3日曜の昼過ぎ。
手土産として一緒に選んだデザートながらも、羽織は幸せそうにスフレへスプーンを伸ばした。
今日は父の日。
瀬那先生にはこの時間からお邪魔することを伝えていたからか、お袋さんと一緒にきっちり待ってくれていた。
孝之は出かけているらしく、姿はない。
ってことは……まぁ、“父の日“だもんな。
アイツはアイツできっちり義務を果たしてるんだろう。
「そういえば、去年の父の日って何あげたの?」
「去年は、お兄ちゃんにも協力してもらって足袋と雪駄のセットにしたんです」
「へぇ。いいところに目をつけるね」
「お父さん、いろいろ持ってるからどうしようかなぁって思ったんですけれど、そういえばほつれが……ってお母さんに話してるのを聞いて。すっごく喜んでもらえたんですよ」
だろうね。
かなり嬉しそうに笑うのを見て、こっちまで笑みがうつる。
彼の使っている弓具は、かなり物がいい。
が、足袋と雪駄はそれこそ消耗品でもあるし、いくつあっても困りはしないんじゃないか。
足元って、結構見られるしね。
……俺も気をつけよう。
「一昨年は、ボールペンあげたでしょ」
「え?」
「金の矢羽がついてる、シルバーのやつ」
今、リビングには瀬那先生とお袋さんの姿はない。
お袋さんは来客対応をしていて、瀬那先生はスマフォにかかってきた電話対応のため先ほど別の部屋へ向かった。
だから、くしくもふたりきり。
少しだけ羽織へ顔を寄せると、それはそれは不思議そうにまばたいた。
「祐恭さん、どうして知ってるんですか?」
「そのボールペン、借りたことがあるんだよ。で、そのとき初めて、瀬那先生のお嬢さんが高校2年生だって知った」
「そうなんですか!?」
今からちょうど2年前。
俺たちがこうして出会う以前ながらも、間接的には触れていたんだとわかり、素直に嬉しかった。
あのときとは違い、彼女はもう大学生になっている。
月日の経つのは……というよりも、俺と個人的な繋がりができたことは、改めてすごいなと思うよ。
「想像してたより、ずっとかわいかった」
「かわいいって……何がですか?」
「父の日にボールペンをプレゼントしたり、一緒にご飯食べに行ったりしてくれる、瀬那先生のお嬢さん」
「…………」
「…………」
「っえ、私!?」
「君以外にいないだろ」
にっこり笑って褒めたつもりだったのに、羽織は目を丸くした。
あのとき想像したお嬢さんは、目の前の彼女とはまるで違う。
孝之を元にイメージしたから、目元も口元も全然。
むしろ、キツい印象を勝手に抱いたが、180度違うから本当に驚いたよ。
……こんなに素直でいい子とはね。
そりゃ、いろんな意味で心配になるわけだ。
「瀬那先生が父になるなんて、あのときは想像もしなかった」
「……祐恭さん……」
「しかもこんなにかわいい子で、想像した以上にハマるなんてね」
まだ、ふたりが戻らないのをいいことに、そっと頬へ手を伸ばす。
困ったような顔なのに、確実に喜んでくれている気はして。
結ばれた唇に、つい視線は移る。
ふとしたタイミングで、うっかりキスしそうな程度には“欲しい“相手そのもの。
2年前とはまるで違う想いを抱くことになるなんて、人生はどこでどうなるか本当にわからないものだな。
「っ……」
「続きはまたあとでね」
「もぅ……顔赤くなっちゃうじゃないですか」
「大丈夫。かわいいから」
そっと引き寄せ、触れるだけのキスをすると、すぐここで困ったように……でもやっぱり嬉しそうに笑う。
そういう顔してくれるから、もっと手を出したくなるってわかってないんだろうな。きっと。
素直で純粋なイメージは、今のほうが当時よりももっと強い。
そういう意味では、変わらないものもあるんだな。
頬へ手を当てた彼女を笑ったら、ちょうどご両親が揃ってリビングへ戻ってくるところだった。
Strawberry Vanilla
2020.06.11
いつの間にでたんすか、スタバさんんん!!
今年もいちごの時期がきたのね。
すっごい嬉しいー!(*´∀`)
元気になるなるですね。まさに。
てなわけで、小話。
手にしている人が多いな、とは思ったの。
まさに、いちごそのものの色を纏う、ドリンク。
ホイップクリームと相まって、コントラストはさながらショートケーキのようだった。
おいしいだろうなぁ。
もしかしたら少し甘いかもしれないけれど……でも、あの量をひとりで飲み切るのはなかなか難しい。
ワンサイズ下のものがあればいいなと季節ごとに思うけれど、みんなにとってはちょうどいい量なのかな。
たーくんならきっと、POPにあるケーキも合わせて平らげるだろうけれど。
「…………」
買い物に来ると目に入ることが多い、ショッピングモールにあるコーヒーショップの看板。
この季節限定商品を宣伝していて、実際、歩いている人たちの何人かが手にしている。
前回の季節商品は、ホットも選べたからそちらは飲みきることができた。
あ……もしかして私、冷たい飲み物をたくさん飲むのが苦手なのかな。
今まで生きてきて感じなかったけれど、ひょっとしてと自分の苦手さの理由がひとつ見つかった気もした。
「っ……」
「待ったか?」
「ううん。私も、今戻ってきたの」
お店前のベンチへ腰かけたところで、頭の上にひんやりした何かを置かれた。
置かれた……というのは正確じゃないけれど。
見ると、たーくんはすぐそこのおすすめメニューと同じ、いちごたっぷりのドリンクを手にしていた。
私がここへ来る前に見ていたのは、隣にある靴屋さん。
暑くなってきたから、新しいサンダルを見てみたいなと思ったんだけれど、残念ながら今回はピンとくるものに出会えなかった。
その間、たーくんはコーヒー屋さんへ。
入って行ったときは人が並んでいたけれど、今は少し空いたように見える。
「……あっま」
「え? あ……いいの?」
「いや、飲むだろ? って毎回言ってねーか?」
「かもしれない」
ストローから唇を離すと、彼はそのまま私へ差し出した。
甘いものは好きだけど、飲み物はあまり甘さを好まない人。
季節物はチェックと称して飲むことが多いらしいけれど、普段は無糖のコーヒーを買う程度だとこの前言ってたっけ。
「……ん。いちごがたっぷり入ってるね」
「それはあるな」
ゼリーとは違う、ごろりとしたいちごそのものの感触に少しだけ驚いた。
それになんだか、しゅわしゅわする。
炭酸……じゃないだろうけれど、不思議な感じ。
今まで飲んだどの季節商品とも違っていて、素直においしいと思う。
「暑い時期にぴったりだね」
「だな。子どもとか好きそう」
かなり甘めのドリンクだけど、この食感も相まってそこまでではないように思う。
おいしい。
館内はエアコンが効いているけれど、よく歩いたせいか冷たさが心地よかった。
「果物好きにしたら、どうなんだ? こーゆーの。生とは違うだろ?」
「でも、おいしいよ? なんていうか……デザートみたいな感じだね」
「あー、なるほど」
ホイップクリームも乗っているし、十分豪華なドリンクに部類するだろう、これ。
ひとりでは飲めない量だけれど……というか、そういえば毎回たーくんにシェアしてもらってる気がするんだけど、いいのかな。
結果として、ねだる形になっているような気もする。
「たーくん、いつもありがとう」
「どうした急に」
「だって、このお店の季節メニュー、私毎回こんなふうにひとくちもらってる気がして」
立ち上がって隣に並ぶと、たーくんは私からエコバッグを取り上げた。
かと思えば、まじまじ見つめてから『真面目だなお前』と笑う。
真面目……じゃない気がするけれど、どうして?
急なセリフに、こちらこそどうしたんだろうと首をかしげると、肩をすくめた。
「いや、むしろ逆だろ。俺もこの量飲めねぇし」
「え? ……そうなの?」
意外なセリフとともに再度ストローを差し出され、唇を開く。
彼は普段、かなりの量のご飯でも平らげてくれるし、まず、食べ物を残すところを見たことがない。
だからてっきり、この量も問題ないんじゃないかと思っていたから、意外でしかなかった。
「どれも微妙に甘いっつーか……あれだな。お前が今言った、デザートそのものって表現がしっくりくる」
「そうかな?」
「だろ。これひとりで飲んだら、最後の最後でギブアップ」
甘すぎる。
普段、これ以上に甘いデザートを口にする人なのに、意外な言葉に目が丸くなる。
確かに、糖分だからお腹いっぱいになるだろうけれど、たーくんでさえそうなら……私が飲めないのは当たり前なのかな。
ストローを離すと、最後の最後をよく混ぜたあとで彼も口づけた。
「だから、俺もお前と一緒ンときしか飲まねーぞ」
「っ……」
「サンキュ」
目を合わせたまま笑われ、どきりとした。
私だけじゃなかったことも嬉しいけれど、そんなふうに“限定“の言葉をもらったら、特別な気持ちになるじゃない。
……もう。
本当に、ふとした瞬間に気持ちすべてを惹きつける人なんだから。
「ンだよ」
「ふふ。嬉しい」
「なんで」
「だって、同じこと思ったんだもん」
感謝してもらえるなんて思わなかった。
特別なやりとりそのものができて、改めて彼に許されている自分を大切に思うことができる。
これでまた『ありがとう』って言ったら、きっとたーくんは眉を寄せるだろうな。
すぐそこに停められている光沢のある黒い車だけでなく、運転席側へ向かった彼の後ろ姿を見ながら、改めて笑みが浮かんだ。
今年もいちごの時期がきたのね。
すっごい嬉しいー!(*´∀`)
元気になるなるですね。まさに。
てなわけで、小話。
手にしている人が多いな、とは思ったの。
まさに、いちごそのものの色を纏う、ドリンク。
ホイップクリームと相まって、コントラストはさながらショートケーキのようだった。
おいしいだろうなぁ。
もしかしたら少し甘いかもしれないけれど……でも、あの量をひとりで飲み切るのはなかなか難しい。
ワンサイズ下のものがあればいいなと季節ごとに思うけれど、みんなにとってはちょうどいい量なのかな。
たーくんならきっと、POPにあるケーキも合わせて平らげるだろうけれど。
「…………」
買い物に来ると目に入ることが多い、ショッピングモールにあるコーヒーショップの看板。
この季節限定商品を宣伝していて、実際、歩いている人たちの何人かが手にしている。
前回の季節商品は、ホットも選べたからそちらは飲みきることができた。
あ……もしかして私、冷たい飲み物をたくさん飲むのが苦手なのかな。
今まで生きてきて感じなかったけれど、ひょっとしてと自分の苦手さの理由がひとつ見つかった気もした。
「っ……」
「待ったか?」
「ううん。私も、今戻ってきたの」
お店前のベンチへ腰かけたところで、頭の上にひんやりした何かを置かれた。
置かれた……というのは正確じゃないけれど。
見ると、たーくんはすぐそこのおすすめメニューと同じ、いちごたっぷりのドリンクを手にしていた。
私がここへ来る前に見ていたのは、隣にある靴屋さん。
暑くなってきたから、新しいサンダルを見てみたいなと思ったんだけれど、残念ながら今回はピンとくるものに出会えなかった。
その間、たーくんはコーヒー屋さんへ。
入って行ったときは人が並んでいたけれど、今は少し空いたように見える。
「……あっま」
「え? あ……いいの?」
「いや、飲むだろ? って毎回言ってねーか?」
「かもしれない」
ストローから唇を離すと、彼はそのまま私へ差し出した。
甘いものは好きだけど、飲み物はあまり甘さを好まない人。
季節物はチェックと称して飲むことが多いらしいけれど、普段は無糖のコーヒーを買う程度だとこの前言ってたっけ。
「……ん。いちごがたっぷり入ってるね」
「それはあるな」
ゼリーとは違う、ごろりとしたいちごそのものの感触に少しだけ驚いた。
それになんだか、しゅわしゅわする。
炭酸……じゃないだろうけれど、不思議な感じ。
今まで飲んだどの季節商品とも違っていて、素直においしいと思う。
「暑い時期にぴったりだね」
「だな。子どもとか好きそう」
かなり甘めのドリンクだけど、この食感も相まってそこまでではないように思う。
おいしい。
館内はエアコンが効いているけれど、よく歩いたせいか冷たさが心地よかった。
「果物好きにしたら、どうなんだ? こーゆーの。生とは違うだろ?」
「でも、おいしいよ? なんていうか……デザートみたいな感じだね」
「あー、なるほど」
ホイップクリームも乗っているし、十分豪華なドリンクに部類するだろう、これ。
ひとりでは飲めない量だけれど……というか、そういえば毎回たーくんにシェアしてもらってる気がするんだけど、いいのかな。
結果として、ねだる形になっているような気もする。
「たーくん、いつもありがとう」
「どうした急に」
「だって、このお店の季節メニュー、私毎回こんなふうにひとくちもらってる気がして」
立ち上がって隣に並ぶと、たーくんは私からエコバッグを取り上げた。
かと思えば、まじまじ見つめてから『真面目だなお前』と笑う。
真面目……じゃない気がするけれど、どうして?
急なセリフに、こちらこそどうしたんだろうと首をかしげると、肩をすくめた。
「いや、むしろ逆だろ。俺もこの量飲めねぇし」
「え? ……そうなの?」
意外なセリフとともに再度ストローを差し出され、唇を開く。
彼は普段、かなりの量のご飯でも平らげてくれるし、まず、食べ物を残すところを見たことがない。
だからてっきり、この量も問題ないんじゃないかと思っていたから、意外でしかなかった。
「どれも微妙に甘いっつーか……あれだな。お前が今言った、デザートそのものって表現がしっくりくる」
「そうかな?」
「だろ。これひとりで飲んだら、最後の最後でギブアップ」
甘すぎる。
普段、これ以上に甘いデザートを口にする人なのに、意外な言葉に目が丸くなる。
確かに、糖分だからお腹いっぱいになるだろうけれど、たーくんでさえそうなら……私が飲めないのは当たり前なのかな。
ストローを離すと、最後の最後をよく混ぜたあとで彼も口づけた。
「だから、俺もお前と一緒ンときしか飲まねーぞ」
「っ……」
「サンキュ」
目を合わせたまま笑われ、どきりとした。
私だけじゃなかったことも嬉しいけれど、そんなふうに“限定“の言葉をもらったら、特別な気持ちになるじゃない。
……もう。
本当に、ふとした瞬間に気持ちすべてを惹きつける人なんだから。
「ンだよ」
「ふふ。嬉しい」
「なんで」
「だって、同じこと思ったんだもん」
感謝してもらえるなんて思わなかった。
特別なやりとりそのものができて、改めて彼に許されている自分を大切に思うことができる。
これでまた『ありがとう』って言ったら、きっとたーくんは眉を寄せるだろうな。
すぐそこに停められている光沢のある黒い車だけでなく、運転席側へ向かった彼の後ろ姿を見ながら、改めて笑みが浮かんだ。
はぴば!
2020.06.10
6月6日は雨ザーザー降ってきて。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。
Thanks mother’s day
2020.05.10
もともとは、去年の母の日用に書いていたものです。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。
プリン事件
2020.04.24
事件ですよ、事件。
私のプリンが……なくなっていたんや……。
これはもう、大事件。
誰じゃい! 勝手に食べたのは!
きーー!!となりながら書いた、安定の瀬那さんち。
うぅ、長いよぅ。
おうちこもりチャレンジ、2ヶ月目が終わろうとしてるんだぜ……。
毎日家にいたら、おかしくなるわい!
誰かなんとかして……。
お庭チャレンジも、そろそろ限界です神様。
「…………」
「…………」
「あのね? だから、私じゃないってば!」
「何も言ってねーだろ」
「目が言ってる!」
あれから半日程度経過した、現在。
リビングで録りためた番組を見ていたら、ソファへ座ったお兄ちゃんは相変わらず機嫌悪そうに眉を寄せた。
ていうか、今の今まで部屋にいたのに、なんでまた急にリビングに来るかなぁ。
悪いわけじゃもちろんないけど、でも、あのね?
今ここで喧嘩を始めるわけにはいかないの。
なぜなら——葉月が、留守だから。
「はー……」
早く帰ってきて、葉月。お願いだからぜひとも。
ちらりと壁の時計を見ると、葉月が出かけてまだ40分しか経ってないのが見えた。
「あれ?」
ことの発端は、今日の朝ごはんのあと。
珍しくお兄ちゃんが9時前に起きてきたなぁと思ったら、冷蔵庫を覗いて変な声をあげた。
「お前、プリン知らねぇ?」
「プリン? なんの?」
「いや、普通の。こンくらいのサイズのヤツ」
手で示されたのは、割と小さめなプリンだった。
プリン……えぇ? 知らないけど。
というか、最近は買い物にすら出ていないわけで。
基本、お母さんが仕事帰りに買い物をして帰ってくるから、私も葉月もお兄ちゃんも家からはほとんど出ていない。
せいぜい、郵便物を取りに行くくらいかなぁ。
あ、あとは庭に出るとかね。
だから、冷蔵庫にプリンが入っていたことすら私は知らなかった。
「え、いつ買ったの?」
「おととい」
おととい……あぁ、言われてみれば、その日お兄ちゃんだけ郵便局へ行ったんだっけ。
てことは、その帰りに買ってきたのね。
相変わらず、自分のためのものはきちんと把握してるらしい……って、きっとみんなそうだろうけど。
「お前食ったろ」
「えぇ? 食べてないってば!」
ていうか、存在自体知らないって言ったのに、なんでそうなるの?
ひどいなぁもぅ。
昔からそうだけど、基本、冷蔵庫に入ってるものはお母さんに『これ食べていい?』って聞いちゃうんだよね。
だから、お兄ちゃんと違って私は勝手に食べたりしない。
そう……お兄ちゃんと違って。
なのに、そんなふうに真正面から疑われたら、すっごく嫌な気分。
「寝ぼけて食べちゃったの、忘れてるんじゃないの?」
「ンなわけねーだろ。昨日の夜、風呂あがったときまではあったんだから」
「そのとき、食べたんじゃないの?」
「だから、食ってねぇつってんだろ!」
むぅ。ひどい言いよう。
ていうか、私は食べてないどころか、存在自体知らないんだってばもぅ!
イライラしてるのがわかるから、こっちまでイライラしてくる。
ああもぅ、悪循環。でも、悪いのはどう考えたって勝手に疑いをかけてきたお兄ちゃんなんだからね!
「どうしたの?」
2階から降りてきたらしく、葉月がリビングに姿を見せた。
どうやら2回目のお洗濯をしようとしていたらしく、手にはなぜかお兄ちゃんのスウェットを手にしている。
……って、あー絶対あれ、拾ってきてくれたヤツでしょ。
もぅ。いい加減、自分のことは自分ですればいいのに!
「プリンがねぇんだよ」
「プリン?」
「こないだ買ったコンビニの新商品」
この間、葉月は一緒に出ていない。
けれど、“コンビニ”の言葉を聞いて思い当たったらしく、『あ』と言うと珍しく口をつぐんだ。
「買ってこようか?」
「いや、そーじゃねーだろ。つか、なんでお前が買い……食った?」
「ううん」
ありえないとは思ったものの、当然のように否定するのを見て内心安堵する。
だけど、葉月は両手を合わせるとお兄ちゃんを見て小さく苦笑した。
「今日の午後、お父さんと出かける予定なの。だから、おやつの時間でよければ、買ってくるよ」
「……あのな。俺が知りたいのは、買えるかどうかじゃなくて、誰が食ったかってとこだって」
「そうだけど……でも、ないでしょう?」
「ああ」
「だから……代替案じゃだめかな?」
私と違い、葉月はずっと穏やかなまま話していた。
そのせいか、お兄ちゃんは私に向けていたトゲトゲしい言葉にはならず、最後にはいつもと同じようなテンションに戻っている。
ああ、やっぱりどっちがリードするかで違うんだなぁ。
さっきまでの会話は、間違いなく私がお兄ちゃんに引っ張られていた。
「…………」
舌打ちこそしたけれど、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずにまた冷蔵庫を開けた。
代わりに取り出したのは、冷茶のポット。
どうやら、諦めたらしい。
……よかった。
こんなときに、またこんな情けないことで喧嘩になったら、外にも出れないし発散できないもん。
思わず葉月に視線をうつすと、お兄ちゃんを見送ったあと私を見てやっぱり苦く笑った。
で、今に戻る。
あのあと、結局お兄ちゃんはなんにも言わなくはなったけれど、どこか機嫌は悪そうなままで。
午前中もお昼ごはんのあとも、葉月いわくパソコンで作業してたみたいだけど、さすがにコーヒーブレイクにしたらしい。
葉月をたよらず入れた、ブラックコーヒーの大きめのマグカップがすぐここに置かれている。
…………。
………………。
あの……あのね?
私、今日はさっきまですごくがんばったの。
レポートも仕上げたし、ずっと読んでいたあの分厚い本だってやっと読み終わったの。
午後は葉月と日課のヨガをやるつもりだったけど、今は恭ちゃんとお出かけしてる関係で葉月は不在。
だからこその録画番組消化だったんだけど……うぅ、ちっとも笑える雰囲気じゃなくなっちゃったじゃない。
別にお兄ちゃんが悪いとはひとことも言ってないけれど、でもだってあのね?
…………。
うぅ。せめて、これだけ出演陣が爆笑してるシーンなんだから、反応くらいしたらいいのになぁ。
さっきまでと打って変わって、けらけら笑えなくなった雰囲気に、もういっそ再生をやめようかなとも思った。
どうせなら、一緒に笑ってくれる葉月と見たほうが何倍も楽しいだろうし。
うん、そうしよう。
私も紅茶入れて、そーっと部屋へ戻ろうっと。
あ、その前にさっき畳んだ洗濯物、片付けてからね。
「……あ」
立ち上がってキッチンへ行こうとしたら、玄関の鍵が開いた。
葉月だけでなく恭ちゃんも一緒らしく、ふたりで話しているのが聞こえる。
「お、珍しいな。ふたりとも下にいたのか」
「うん、まあ……いらっしゃい、恭ちゃん」
「ただいま」
「っ葉月、おかえり……!」
にっこり笑った恭ちゃん……ではなく、彼の陰からひょっこり姿を見せた葉月を見て、情けない声が漏れる。
でもでも、だって!
こんなに待ちわびたの、いつぶりだろう。
ていうか、葉月がいてくれて本当によかった。
私の反応が意外だったらしく……ていうかまぁそうだろうけど。
恭ちゃんと葉月は、顔を見合わせると少しだけおかしそうに笑った。
「たーくん、おやつ食べる?」
「その前に、孝之は俺たちへ言う言葉があるだろう」
「あー……いらっしゃい。おかえり」
「ずいぶん儀礼的だな」
「いや、別に他意はないんだけど」
あーとか、うーとか言いながらだったのが気になったらしく、恭ちゃんは眉を寄せた。
でも、葉月はくすくす笑うと、お兄ちゃんへ袋から取り出した何かを渡した。
「うわ、なんだこれ」
「ふふ。今日からの新発売なんだって」
「え? なになに? ……わ、すごい! なにこれ!」
珍しい反応をしたお兄ちゃんの手元を覗くと、小さめのプリンが3つ入っている大きなプリンアラモードがあった。
え、えー! なにこれ!
デラックスどころか、すっごい食べ応えありそうなものだけに、おいしそうではあるけれど、さすがにちょっとひとりでは……って、や、お兄ちゃんは食べそうだけどね。全然気にせず。
あまりにもなモノを見てあまりにもな反応をしたせいか、葉月は私を見ておかしそうに笑った。
「羽織には、普通サイズのプリン買ってきたよ」
「え、ほんと!? 嬉しい!」
「なんだ。ふたりとも腹が減ってたのか」
「ぅ、そういうわけじゃないんだけど」
「どうりで、珍しく葉月がコンビニへ寄りたいと言うわけだ」
お兄ちゃんの隣へ腰かけた恭ちゃんは、上着を脱ぐと大きな伸びをひとつ。
足を組んだままお兄ちゃんを見て、『お前は本当に甘いものが好きだな』と苦笑する。
「わざわざ寄ってくれたの?」
「んー……ちょっとだけ、ね」
キッチンにある電気ケトルを手にした葉月を見ると、いつものように笑いながらうなずいた。
でも、それって絶対わざわざ、だよね。
もちろん、私のためでもあるだろうけれど……誰よりも、お兄ちゃんのため、に。
「お父さん、何か飲む?」
「コーヒーをもらおうか」
「ん。羽織は?」
「あ、私も手伝うよ」
あとを追い、食器棚からマグカップを取り出す。
すると、シンクへ向かった葉月が私を見て苦笑した。
「たーくんのプリンね、伯母さんが朝食べちゃったの」
「え! そうなの?」
「内緒にしてね」
「お兄ちゃんには内緒にするけど、もぅ……お母さんにはひとこと言うからね。だって、私すっごい疑われたんだよ?」
苦笑した葉月に唇を尖らせると、想像はしていたらしく、笑うだけで何も言わなかった。
むー。
お母さんのせいで、私がひどいめに遭ったんだから、もぅ!
ていうか、普段あんまりそういうの食べないのに、なんでこういうときにかぎって食べちゃうかな。
今日帰ってきたらひとこと言おう。
でも、お母さんのことだから『あー、ごめんごめん』で終わりにしそうだけど。
「……って、はや! もう食べてるの?」
「うまい」
「ふふ。よかった」
葉月といっしょにマグカップを持ちながらリビングへ戻ると、お兄ちゃんはすでに1/2ほど平らげていた。
生クリームたっぷりのプリンアラモード。
そりゃおいしいだろうなぁとは思うけど、そのサイズをひとりで食べたら夕飯食べられなさそう……。
うぅ。さすがに見るだけでお腹いっぱい。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ソーサーごと恭ちゃんへコーヒーを差し出し、葉月がすぐそこへ座る。
それを見てお兄ちゃんが何か言いたげな顔をしたけれど、口をつぐむと1/4ほどになったプリンを手に冷蔵庫へ向かった。
かと思えば、すっかり冷めたであろうマグを取りに戻ってくる。
「全部食べないの?」
「いや、さすがに多い」
珍しいことを言い出したのが、どうやら葉月も不思議に思ったらしい。
恭ちゃんだけは、普段のお兄ちゃんの物欲……食欲? を知らないからか、無反応。
え、ひょっとして具合悪いとかじゃないよね?
今日のお昼ごはんだったキノコパスタは、いつもと同じようにおかわりしてたし。
「大丈夫?」
「何がだよ。失礼だぞお前」
「む。失礼なのはお兄ちゃんでしょ? 私のこと疑っておいて」
「あ? 蒸し返すのか? お前。まだカタついてねぇんだぞ」
「だから、私が食べたんじゃないってずっと言ってるじゃない!」
「口でだけならどうとでも言えンだろ!」
これでも心配してあげたのに、相変わらずひとこと多いんだよね。お兄ちゃんって。
うぅ、言っちゃいたい。
プリン犯人はお母さんだ、って!
でも……でも、葉月と約束したんだもん、破るわけにもいかない。
これ以上言ったらまた喧嘩になりそうだから閉口したけれど、ちらりと葉月を見るとちょっぴり申し訳なさそうに、『ごめんね』と代わりに謝られてしまった。
……だからもう言わないであげる。
葉月のためにも。
ていうか、もともとは葉月が悪いんじゃなくて、お母さんがよくなかった。
「大きくなっても喧嘩の中身は子どもと同じだな」
「っ……」
「うぅ……お兄ちゃんといっしょにしないでほしい」
「かわいいもんだ」
マグをかたむけた恭ちゃんが、小さく笑った。
どこか呆れているように聞こえなくもない。
もぅ、お兄ちゃんのせいだからね。
でも……そういえば、祐恭さんにもよく言われるんだよね。そのセリフ。
さすがにそろそろ、食べ物で喧嘩しないようにしたい。私だって。
これじゃ、小学生のころとなんにも変わってない感じするし。
からから笑った恭ちゃんに唇を尖らせつつ、一応は反省してみる。
でも……ってだから、堂々巡りになっちゃうから、言わない。
お母さんが帰ってくるだろう時間まで、あと3時間。
少なくとも、恭ちゃんの前では蒸し返さないのが私のためだなと改めて感じた。
ちなみに。
夕食のあと、お兄ちゃんは食べかけのプリンを食べていた。
やっぱり胃がどうかしてると思う。
だって、あれだけフライとサラダもりもり食べてたのにまだ食べられるって……うぅ、お腹いっぱいどころか気持ち悪い。
そんなお兄ちゃんを見て眉を寄せたものの、葉月は『おいしいけど、ひとくちで十分ね』とちょっぴり不思議なことを口にしていた。
ちなみに、私のプリン食べた人はまだ見つかってない……。
誰だよ人の食べたの!ばかぁ!
私のプリンが……なくなっていたんや……。
これはもう、大事件。
誰じゃい! 勝手に食べたのは!
きーー!!となりながら書いた、安定の瀬那さんち。
うぅ、長いよぅ。
おうちこもりチャレンジ、2ヶ月目が終わろうとしてるんだぜ……。
毎日家にいたら、おかしくなるわい!
誰かなんとかして……。
お庭チャレンジも、そろそろ限界です神様。
「…………」
「…………」
「あのね? だから、私じゃないってば!」
「何も言ってねーだろ」
「目が言ってる!」
あれから半日程度経過した、現在。
リビングで録りためた番組を見ていたら、ソファへ座ったお兄ちゃんは相変わらず機嫌悪そうに眉を寄せた。
ていうか、今の今まで部屋にいたのに、なんでまた急にリビングに来るかなぁ。
悪いわけじゃもちろんないけど、でも、あのね?
今ここで喧嘩を始めるわけにはいかないの。
なぜなら——葉月が、留守だから。
「はー……」
早く帰ってきて、葉月。お願いだからぜひとも。
ちらりと壁の時計を見ると、葉月が出かけてまだ40分しか経ってないのが見えた。
「あれ?」
ことの発端は、今日の朝ごはんのあと。
珍しくお兄ちゃんが9時前に起きてきたなぁと思ったら、冷蔵庫を覗いて変な声をあげた。
「お前、プリン知らねぇ?」
「プリン? なんの?」
「いや、普通の。こンくらいのサイズのヤツ」
手で示されたのは、割と小さめなプリンだった。
プリン……えぇ? 知らないけど。
というか、最近は買い物にすら出ていないわけで。
基本、お母さんが仕事帰りに買い物をして帰ってくるから、私も葉月もお兄ちゃんも家からはほとんど出ていない。
せいぜい、郵便物を取りに行くくらいかなぁ。
あ、あとは庭に出るとかね。
だから、冷蔵庫にプリンが入っていたことすら私は知らなかった。
「え、いつ買ったの?」
「おととい」
おととい……あぁ、言われてみれば、その日お兄ちゃんだけ郵便局へ行ったんだっけ。
てことは、その帰りに買ってきたのね。
相変わらず、自分のためのものはきちんと把握してるらしい……って、きっとみんなそうだろうけど。
「お前食ったろ」
「えぇ? 食べてないってば!」
ていうか、存在自体知らないって言ったのに、なんでそうなるの?
ひどいなぁもぅ。
昔からそうだけど、基本、冷蔵庫に入ってるものはお母さんに『これ食べていい?』って聞いちゃうんだよね。
だから、お兄ちゃんと違って私は勝手に食べたりしない。
そう……お兄ちゃんと違って。
なのに、そんなふうに真正面から疑われたら、すっごく嫌な気分。
「寝ぼけて食べちゃったの、忘れてるんじゃないの?」
「ンなわけねーだろ。昨日の夜、風呂あがったときまではあったんだから」
「そのとき、食べたんじゃないの?」
「だから、食ってねぇつってんだろ!」
むぅ。ひどい言いよう。
ていうか、私は食べてないどころか、存在自体知らないんだってばもぅ!
イライラしてるのがわかるから、こっちまでイライラしてくる。
ああもぅ、悪循環。でも、悪いのはどう考えたって勝手に疑いをかけてきたお兄ちゃんなんだからね!
「どうしたの?」
2階から降りてきたらしく、葉月がリビングに姿を見せた。
どうやら2回目のお洗濯をしようとしていたらしく、手にはなぜかお兄ちゃんのスウェットを手にしている。
……って、あー絶対あれ、拾ってきてくれたヤツでしょ。
もぅ。いい加減、自分のことは自分ですればいいのに!
「プリンがねぇんだよ」
「プリン?」
「こないだ買ったコンビニの新商品」
この間、葉月は一緒に出ていない。
けれど、“コンビニ”の言葉を聞いて思い当たったらしく、『あ』と言うと珍しく口をつぐんだ。
「買ってこようか?」
「いや、そーじゃねーだろ。つか、なんでお前が買い……食った?」
「ううん」
ありえないとは思ったものの、当然のように否定するのを見て内心安堵する。
だけど、葉月は両手を合わせるとお兄ちゃんを見て小さく苦笑した。
「今日の午後、お父さんと出かける予定なの。だから、おやつの時間でよければ、買ってくるよ」
「……あのな。俺が知りたいのは、買えるかどうかじゃなくて、誰が食ったかってとこだって」
「そうだけど……でも、ないでしょう?」
「ああ」
「だから……代替案じゃだめかな?」
私と違い、葉月はずっと穏やかなまま話していた。
そのせいか、お兄ちゃんは私に向けていたトゲトゲしい言葉にはならず、最後にはいつもと同じようなテンションに戻っている。
ああ、やっぱりどっちがリードするかで違うんだなぁ。
さっきまでの会話は、間違いなく私がお兄ちゃんに引っ張られていた。
「…………」
舌打ちこそしたけれど、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずにまた冷蔵庫を開けた。
代わりに取り出したのは、冷茶のポット。
どうやら、諦めたらしい。
……よかった。
こんなときに、またこんな情けないことで喧嘩になったら、外にも出れないし発散できないもん。
思わず葉月に視線をうつすと、お兄ちゃんを見送ったあと私を見てやっぱり苦く笑った。
で、今に戻る。
あのあと、結局お兄ちゃんはなんにも言わなくはなったけれど、どこか機嫌は悪そうなままで。
午前中もお昼ごはんのあとも、葉月いわくパソコンで作業してたみたいだけど、さすがにコーヒーブレイクにしたらしい。
葉月をたよらず入れた、ブラックコーヒーの大きめのマグカップがすぐここに置かれている。
…………。
………………。
あの……あのね?
私、今日はさっきまですごくがんばったの。
レポートも仕上げたし、ずっと読んでいたあの分厚い本だってやっと読み終わったの。
午後は葉月と日課のヨガをやるつもりだったけど、今は恭ちゃんとお出かけしてる関係で葉月は不在。
だからこその録画番組消化だったんだけど……うぅ、ちっとも笑える雰囲気じゃなくなっちゃったじゃない。
別にお兄ちゃんが悪いとはひとことも言ってないけれど、でもだってあのね?
…………。
うぅ。せめて、これだけ出演陣が爆笑してるシーンなんだから、反応くらいしたらいいのになぁ。
さっきまでと打って変わって、けらけら笑えなくなった雰囲気に、もういっそ再生をやめようかなとも思った。
どうせなら、一緒に笑ってくれる葉月と見たほうが何倍も楽しいだろうし。
うん、そうしよう。
私も紅茶入れて、そーっと部屋へ戻ろうっと。
あ、その前にさっき畳んだ洗濯物、片付けてからね。
「……あ」
立ち上がってキッチンへ行こうとしたら、玄関の鍵が開いた。
葉月だけでなく恭ちゃんも一緒らしく、ふたりで話しているのが聞こえる。
「お、珍しいな。ふたりとも下にいたのか」
「うん、まあ……いらっしゃい、恭ちゃん」
「ただいま」
「っ葉月、おかえり……!」
にっこり笑った恭ちゃん……ではなく、彼の陰からひょっこり姿を見せた葉月を見て、情けない声が漏れる。
でもでも、だって!
こんなに待ちわびたの、いつぶりだろう。
ていうか、葉月がいてくれて本当によかった。
私の反応が意外だったらしく……ていうかまぁそうだろうけど。
恭ちゃんと葉月は、顔を見合わせると少しだけおかしそうに笑った。
「たーくん、おやつ食べる?」
「その前に、孝之は俺たちへ言う言葉があるだろう」
「あー……いらっしゃい。おかえり」
「ずいぶん儀礼的だな」
「いや、別に他意はないんだけど」
あーとか、うーとか言いながらだったのが気になったらしく、恭ちゃんは眉を寄せた。
でも、葉月はくすくす笑うと、お兄ちゃんへ袋から取り出した何かを渡した。
「うわ、なんだこれ」
「ふふ。今日からの新発売なんだって」
「え? なになに? ……わ、すごい! なにこれ!」
珍しい反応をしたお兄ちゃんの手元を覗くと、小さめのプリンが3つ入っている大きなプリンアラモードがあった。
え、えー! なにこれ!
デラックスどころか、すっごい食べ応えありそうなものだけに、おいしそうではあるけれど、さすがにちょっとひとりでは……って、や、お兄ちゃんは食べそうだけどね。全然気にせず。
あまりにもなモノを見てあまりにもな反応をしたせいか、葉月は私を見ておかしそうに笑った。
「羽織には、普通サイズのプリン買ってきたよ」
「え、ほんと!? 嬉しい!」
「なんだ。ふたりとも腹が減ってたのか」
「ぅ、そういうわけじゃないんだけど」
「どうりで、珍しく葉月がコンビニへ寄りたいと言うわけだ」
お兄ちゃんの隣へ腰かけた恭ちゃんは、上着を脱ぐと大きな伸びをひとつ。
足を組んだままお兄ちゃんを見て、『お前は本当に甘いものが好きだな』と苦笑する。
「わざわざ寄ってくれたの?」
「んー……ちょっとだけ、ね」
キッチンにある電気ケトルを手にした葉月を見ると、いつものように笑いながらうなずいた。
でも、それって絶対わざわざ、だよね。
もちろん、私のためでもあるだろうけれど……誰よりも、お兄ちゃんのため、に。
「お父さん、何か飲む?」
「コーヒーをもらおうか」
「ん。羽織は?」
「あ、私も手伝うよ」
あとを追い、食器棚からマグカップを取り出す。
すると、シンクへ向かった葉月が私を見て苦笑した。
「たーくんのプリンね、伯母さんが朝食べちゃったの」
「え! そうなの?」
「内緒にしてね」
「お兄ちゃんには内緒にするけど、もぅ……お母さんにはひとこと言うからね。だって、私すっごい疑われたんだよ?」
苦笑した葉月に唇を尖らせると、想像はしていたらしく、笑うだけで何も言わなかった。
むー。
お母さんのせいで、私がひどいめに遭ったんだから、もぅ!
ていうか、普段あんまりそういうの食べないのに、なんでこういうときにかぎって食べちゃうかな。
今日帰ってきたらひとこと言おう。
でも、お母さんのことだから『あー、ごめんごめん』で終わりにしそうだけど。
「……って、はや! もう食べてるの?」
「うまい」
「ふふ。よかった」
葉月といっしょにマグカップを持ちながらリビングへ戻ると、お兄ちゃんはすでに1/2ほど平らげていた。
生クリームたっぷりのプリンアラモード。
そりゃおいしいだろうなぁとは思うけど、そのサイズをひとりで食べたら夕飯食べられなさそう……。
うぅ。さすがに見るだけでお腹いっぱい。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ソーサーごと恭ちゃんへコーヒーを差し出し、葉月がすぐそこへ座る。
それを見てお兄ちゃんが何か言いたげな顔をしたけれど、口をつぐむと1/4ほどになったプリンを手に冷蔵庫へ向かった。
かと思えば、すっかり冷めたであろうマグを取りに戻ってくる。
「全部食べないの?」
「いや、さすがに多い」
珍しいことを言い出したのが、どうやら葉月も不思議に思ったらしい。
恭ちゃんだけは、普段のお兄ちゃんの物欲……食欲? を知らないからか、無反応。
え、ひょっとして具合悪いとかじゃないよね?
今日のお昼ごはんだったキノコパスタは、いつもと同じようにおかわりしてたし。
「大丈夫?」
「何がだよ。失礼だぞお前」
「む。失礼なのはお兄ちゃんでしょ? 私のこと疑っておいて」
「あ? 蒸し返すのか? お前。まだカタついてねぇんだぞ」
「だから、私が食べたんじゃないってずっと言ってるじゃない!」
「口でだけならどうとでも言えンだろ!」
これでも心配してあげたのに、相変わらずひとこと多いんだよね。お兄ちゃんって。
うぅ、言っちゃいたい。
プリン犯人はお母さんだ、って!
でも……でも、葉月と約束したんだもん、破るわけにもいかない。
これ以上言ったらまた喧嘩になりそうだから閉口したけれど、ちらりと葉月を見るとちょっぴり申し訳なさそうに、『ごめんね』と代わりに謝られてしまった。
……だからもう言わないであげる。
葉月のためにも。
ていうか、もともとは葉月が悪いんじゃなくて、お母さんがよくなかった。
「大きくなっても喧嘩の中身は子どもと同じだな」
「っ……」
「うぅ……お兄ちゃんといっしょにしないでほしい」
「かわいいもんだ」
マグをかたむけた恭ちゃんが、小さく笑った。
どこか呆れているように聞こえなくもない。
もぅ、お兄ちゃんのせいだからね。
でも……そういえば、祐恭さんにもよく言われるんだよね。そのセリフ。
さすがにそろそろ、食べ物で喧嘩しないようにしたい。私だって。
これじゃ、小学生のころとなんにも変わってない感じするし。
からから笑った恭ちゃんに唇を尖らせつつ、一応は反省してみる。
でも……ってだから、堂々巡りになっちゃうから、言わない。
お母さんが帰ってくるだろう時間まで、あと3時間。
少なくとも、恭ちゃんの前では蒸し返さないのが私のためだなと改めて感じた。
ちなみに。
夕食のあと、お兄ちゃんは食べかけのプリンを食べていた。
やっぱり胃がどうかしてると思う。
だって、あれだけフライとサラダもりもり食べてたのにまだ食べられるって……うぅ、お腹いっぱいどころか気持ち悪い。
そんなお兄ちゃんを見て眉を寄せたものの、葉月は『おいしいけど、ひとくちで十分ね』とちょっぴり不思議なことを口にしていた。
ちなみに、私のプリン食べた人はまだ見つかってない……。
誰だよ人の食べたの!ばかぁ!