はぴば!
2020.06.10
6月6日は雨ザーザー降ってきて。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。
というわけで、鷹塚センセー誕生日おめでとー!
今年はこんな小話。
次の誕生日は祐恭センセですね!
ちったぁ甘めにするぜ。きっと。
「鷹塚先生。明日、お時間ありますか?」
金曜日の放課後。この時間はきっと教師だけでなく、明日が休みの社会人はみんなほっとしてるだろう時間。いつもの平日と同じく児童を送り出し、職員室へ戻ってきてすぐに同僚の小川先生から声をかけられた。
席にもつかず、5時間目に行った漢字五十問テストの束を持ったまま。にこにこしながら問われ、逡巡するも一応確認。
「……それって、仕事? プライベート?」
「あー、どっちかっていうと仕事ですかね」
まじすか。それは何か。どうしても受けなきゃいけない何かか。PTAの行事って何か入ってたっけ。先日の職員会議での話を思い出そうとはするものの、出てくるのはどうでもいい情報ばかり。
まぁいいよ。ああいいよ別に。明日はみんなにとっていつもと同じ土曜日で、特別な想いを抱いてる人間なんていないだろうからな。ぶっちゃけ、俺だって別に特別な想いは抱いちゃいない。ただ、人よりもほんの少しだけ期待したってだけのこと。
「どうせ暇でしょ。来なさいよ」
「いつから俺の上司になったんだよ」
「あら。それじゃ、何か特別なご予定でもおありかしら?」
舌打ちが出なかったのは、社会人として立派な反応だと信じたい。うちの養護教諭が意味ありげな笑みを浮かべ、3メートル向こうから声をかけてきた。
なんだよそれ。命令か? だったら対価払ってくれんの? うっかり口に出そうな悪態を飲みこむ代わりにどうやら顔には出たらしく、小枝ちゃんはコーヒーカップを手にしたまま『そういうのは素直って言わないのよ』と瞳を細めた。
「休みの日に何すんだよ」
「バーベキュー」
「……は?」
「だから、バーベキューするから来なさいってば。暇でしょ?」
思ってもなかったセリフに、今度はこっちの眉が寄る。小川先生の隣に立った小枝ちゃんは、にこにこしながら彼へ同意を求めた。
全然わかんねぇ。仕事か? それ。てことは接待? とりあえず目の前のふたりは参加確定っぽいが、じゃあほかの人間はいかに。……ひょっとして他校の先生とプライベートを語った懇親会か何かか? 何にせよ、行かないのが吉と弾き出されたんだが、素直に伝えていいよなこれは。
「忙しいからパス」
「内容聞いてから断るなんて、大人としての礼儀もなってないの?」
「なんでバーベーキューなんだよ。やだって」
「そういうこと言わないで来なさいよ。教頭先生が自腹でビール奢ってくれるらしいから」
あ、教頭先生も参加すか。徐々にメンツが割れてきて、なおさら行かないほうがいい気はしてきた。つか、明日はもしかしたら忙しくなるかもしんねぇんだって。
なんせ、俺にとっては年に一度の特別な日。ああ、そうそう。特別なんだって。きっと大人になってもな。
「どうせ誕生日祝ってくれる人いないんでしょ? 明日じゃ、子どももお祝いしてくれないしねー」
「くっ……!」
高笑いこそしなかったが、小枝ちゃんは明らかに先読みした顔でくすくす笑った。
あー感じわる。傷ついた。もう行きたくない。俺だって十分わかってたよ。前々からな! ああ、今年の誕生日は土曜日だから、子どもたちから『先生今年で何歳だっけ』と弄られることもないってな!
でも、ちょっとだけ意識するじゃん。30半ばをとうに過ぎたとはいえ、殊勝な誰かが『誕生日ですね』って言ってくれるかもな、って。……ま、前日の今日も子どもたちは誰ひとりとして『先生、明日誕生日だね』なんて言わずに全員帰宅したけども。そんなもんだってのは知ってた。でも期待して……って、あー切ないから終わりにしとこ。
「誘うなら俺じゃなくてもいいじゃん。花山とか誘ってやれって」
「酒癖悪いのがくると面倒でしょ」
「案外楽しいかもしんねーぞ」
「誰が責任取るのよ。押しつけないで」
さすがに小枝ちゃんも察したらしく、本人がすぐそこにいるとわかってか、声を潜めた。顔が近づくものの、まったくときめかなければどきどきもしない相手。それは小枝ちゃんも同じらしく、すぐここであからさまに舌打ちまでしやがった。
「釣り大会もやるって言ってたわよ」
「なんで釣り」
「前校長が来るからきなさいよ」
「……それか」
ようやっと最後の最後で吐露された事実に、ようやく理解する。ああそうすか。それで必死だったんすね。なんで俺をそこまでして呼びたがるのかと思えば、単純に飲める相手増やしたかっただけじゃん。最初から言やいいのに、隠すから面倒なことになるんだろ? ま、ハナから聞いたところでじゃあ行く一択になるかつったら、確実にならないほうだけどな。
彼は、かなり飲める人。でかつ、同じペースで飲める人間がいないと……不機嫌にはならないけど、泣き始めるんだよな。それってどうなんだと思うが、悪い人じゃないからこそ、強く言うのもはばかれるとあってか、小枝ちゃんでさえ『めんどくさい』とは言ったりしない。
リーダーシップもあって、保護者にも寄り添えて、若手指導に尽力する、本当の意味で『いい人』だから。
「とりあえず保留で」
「なんでよ」
「やだよ。誕生日だもん」
「子どもじゃないんだから飲み込みなさいよ」
「だから、やだつってんじゃん」
つか、保留って言ってンだからよくね? 一応聞きはしたから、考えはする。まぁ8割行かないときの常套句だけど。もしプライベートな予定が入るなら当然そっちを優先させるし。
「ちょっと! 話まだ終わってない!」
「仕事あるんで」
肩をすくめて職員室のドアに手をかけると、はこめまれているガラス越しに目が合う……人を見て、動きが止まる。
「こんにちは。……というかもう夕方ですね」
「なんでここに」
にっこり笑った彼女は、普段とは違ってスカートではなくパンツ姿。それはそれで見ない姿なせいか、やけに目につく。え、なんで? 今日出勤じゃねぇじゃん。なのにここにいるとか……ひょっとして俺のためだったりする? だとしたらすげぇテンション上がるんすけど、これはいかに。
ウチの学校の心の教室相談員さんでありかつ……俺にとっての誰よりも優先されるプライベートな人物。無条件で手が伸びる愛しい彼女だけに、バースデー・イブとあってか少しばかり期待した。
「今日、16時からケース会議があるんです。時間が合えば参加させていただく予定だったんですけれど、調整できたので」
「あー……なるほど」
お仕事ですか。職員室の黒板には確かに、3年ケース会議と記載がある。俺の学年ではないから、当然自分は不参加。残念どころか、どっちかっつーと悔しい気持ちも多少ある。
ああ、どうせ大人気ないって。十分わかってるから誰にもつっこまれたくない。
「あっ、瑞穂ちゃん!」
「え? ……あっ」
「葉山先生、ひとり相談したい児童がいるんすけど」
「ちょっと鷹塚君!!」
「なんだよ。こちとら仕事だぞ」
「何言ってんのよ、とってつけたような理由で連れてかないで!」
「はいはい、あとで」
週明けにやろうとした漢字プリントの原本はあるが、まぁ帰りに印刷室寄ればいいだろ。今はそんなことよりも、一刻を争う。俺にとっての超重大任務。これが決まるか否かで、明日の明暗がわかれる。
距離が近いのもそうなら、両手を肩に置くのも十分セクハラ案件だろうが、相手が俺とあってか彼女は何も言わず回れ右した。向かうのは、きっと後30分後に行われるケース会議の舞台でもある相談室。ここに来るのは昨日ぶりだ。彼女の勤務日の昼休みには、子どもだけでなく我々教員もここへ相談という形で姿を見せるから。
「えっと……昨日とは違うお子さんですか?」
「明日誕生日なんだけどさ、誰も祝ってくれないらしくて」
「あ……お休みですもんね。でも、鷹塚先生なら前日お祝いしてあげるんじゃないですか? 先月、喜んでた子がいましたよ」
おっしゃる通りで。土曜が誕生日の子は金曜に、日曜の子は月曜にそれぞれ帰りの会で小さく祝う習慣は続いている。それこそ、目の前の彼女が5年生だったころから、ずっと。そういう意味では、十分俺はマメなんだなと思えるな。
「でも、明日が誕生日なんて、鷹塚先生と一緒ですね」
「っ……」
ふふ、と笑った彼女がわずかに首をかしげた。さらりと髪が流れ、首筋にかかる。その様はいかにも大人で、12年前とは比べものにならない色香があった。
「あ……」
「キスだけなら許されるか?」
その問いは誰に対してか。髪を耳にかけてやりながら目を合わせると、瑞穂はこくりと小さく喉を動かす。
「てか、今日はまだ名前呼ばれてない気がする」
「その……つい、癖で」
「まぁ家じゃねぇから我慢する」
くすぐったそうに笑われるだけで、身体は反応しそうになる。ああ、そういやドア開けっぱなしだった。今、廊下を同僚が通った日には、当然バレるだろうな。いろいろ。それもいいかとどこかで思う程度には、感覚は麻痺してるけど。
「明日、お暇ですか?」
「っ……」
まるで内緒話かのように、瑞穂は小さくささやいた。それは当然、そういう意味だよな? 期待していいってこと? だとしたら、やっぱバーベキューはなしだな。ふたりきりで誕生日に過ごせるとか、いかにもじゃん。
「空いてる。朝から晩まで……てか、日曜も空いてるけど?」
泊まり来る? こっそりではなくあからさまに意図して付け足すと、瑞穂は一瞬目を丸くしたものの、笑うと小さくうなずいた。
はー、その反応すげぇ嬉しい。てかむしろ今年はこの曜日でよかったな。平日だったら、なかったかもしれない時間。土日とあって彼女が家にきてくれるなら、毎年これでも悪くない。
「明日、小枝さんにバーベキューへ誘われたんです。壮士さんもぜひって言ってましたよ」
「え」
「……壮士さん?」
思いもよらないセリフが聞こえ、うっかり素のデカい声で反応したあとで気づきはしたものの、今さら引っ込められるはずもなく。てか、バーベキューって。ついさっきまで断り続けていたことが巡り巡ってこうなるとは思わなかっただけに、反動で疲労感が半端なかった。
「誕生日なんすけど」
「あ、えっと……お昼過ぎには終わるって言ってましたよ」
「ふぅん」
まさかすでに小枝ちゃんが根回し済みとは思わず、機嫌は6割ほど悪くなる。が、瑞穂は両手を合わせると、『どうですか?』と俺を見上げた。
「瑞穂が夜、ふたりきりで祝ってくれるなら考える」
「もちろんです。お祝いさせてください」
「……へぇ」
ふたつ返事でにっこり笑った顔は、あまりにも嬉しそうで。どころか、初めからそのつもりだったかのようにも聞こえ、口角は上がる。
「じゃあ期待してる」
「私も楽しみにしてますね」
職員室のドアが開き、数人がこちらへ歩いてくるような気配はした。声は近づいており、恐らくは3学年の先生方と教頭先生ってところか。関係ない話してるとバレても咎められはしないだろうが、触ってたらさすがに言われるだろうよ。惜しい気はするが、今は大人しくしておくことにする。明日の夜へ期待を膨らませながら。
「あ! 先輩、ずるいですよ! 葉山先生とふたりきりなんて!」
「なんでだよ。児童の相談だぞ。正当な仕事だ」
蝶ネクタイを結んだ花山が現れ、あからさまに俺を非難した。てか、今どき指差して『いけないんだ!』って言うとか、小学生でもやらねーぞ。
「それじゃ、葉山先生。またあとで」
「え、っと……」
「終わったら助言欲しいから、職員室にいるんで顔出して」
恐らくは1時間ってところか。まだ仕事は残ってるし、一緒に帰れるならそっちを当然選ぶ。ほかの連中には伝わらずとも、瑞穂にはきっちり伝わったんだろうよ。当然今夜も予約させてもらうって意味は。
「じゃあ……終わり次第、お声かけしますね」
「よろしく」
ひらひら手を振り、3年生の先生方とすれ違うように廊下へ。だがそのとき、会議参加者の小枝ちゃんだけは、がっつり意図を読んだらしく『がっついてるわねー』とあからさまに笑った。
Thanks mother’s day
2020.05.10
もともとは、去年の母の日用に書いていたものです。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。
1年ごしだぜ……。
あれから1年。
世の中も私自身も大きく環境は変わりましたが、今、生きている。
感謝しつつ、乗り越えられない壁は人類になかったと信じ、明日を待ちましょう!
ってことで、がっつり濃厚接触です。
ソーシャルディスタンスも守られてません。
買い物も、決死の覚悟でひとり! じゃない。
でも、早く戻ろうぜ。こんな感じに。
まぁ、いろんな意味で言えば衛生的ですけどね。マスクして、パン屋さんのパンもすべて袋に入ってて。
嫌いじゃないぜ、そういう配慮は。
てことで、長文。
「だから、それはいらないって言ってるだろ」
「あらなあに? 祐恭ったら、ずいぶんと物を欲しがらなくなったのね」
「……あのさ、ひとつ聞くけど。いつの俺と比較してる?」
「そうねー、これくらい小さかったころ?」
「それじゃ小学生にもなってないだろ」
うちの母は、そこまで背が高くない。
それもあって、今彼女が手で示したサイズは、明らかに幼児だった。
今までの人生の中で、どうしても買ってくれとねだったことがあるのは、多分そんなに多くない。
というのは単純な理由で、俺の下に双子の弟妹がいるから。
母が俺よりもそちらに気を取られていたことはよく覚えているし、聞き分けのよくないふたりということもあって、自然と俺は言わなくなった。
手間をかけさせたくないと思ったのか、兄だから我慢しなければと思ったのかは、俺にもわからないけれど。
「ふふ。じゃあ、何か買ってあげましょうか」
「は?」
「だって珍しいじゃない? こんなふうに、一緒に買い物に行こうって自分から誘うなんて」
それは確かにーーではなく、そこには特に理由なんてない。
母の日ということで実家へ顔を出した際、さも『誰かついてきてくれないかしら』アピールをされたからというのが正しいわけで、物珍しがってくれているらしい母には面倒なので言わないでおく。
そう。今日は母の日。
今回は、俺だけでなく羽織からも贈り物を預かっており、来ないわけにいかなかった。
そんな彼女はなぜか今、俺の妹弟たちと家にいる。
……なんで、一緒に来たのに離れなきゃいけないんだ。理不尽じゃないか。
『お兄ちゃんはいつだって羽織ちゃん独り占めできるんだから、たまにはいいでしょ』などと紗那に言われたが、そもそもその理由がおかしいのにな。
なんで一瞬ひるんだんだ、俺。
「羽織ちゃんからもらったハーバリウム、とってもきれいだったわー! ほんと、いい子ね」
「そりゃどうも」
「あら。祐恭を褒めたわけじゃないわよ?」
「でも、自分の彼女を認められたら嬉しいだろ?」
「確かにそうね。いい息子にいいお嫁さんが来てくれそうで、母さん安心だわ」
にっこり笑われ、どう答えればいいものか悩んだ。
まだ、学生生活をスタートしたばかりの彼女に、結婚生活を期待する言葉をかけはしないだろうが、この母じゃやりかねない。
そこが若干気がかりだが、まあきっと彼女なら喜んではくれるだろうから、その顔を見るという口実で黙っておくのもたまにはいいか。
学生のときも花の1輪程度買ったことがあった気はしなくもないが、社会人になってからはより、意識するようになった。
なんて話をしたら、誰にでも言われるのが『マメだな』と『親孝行』のふたつ。
ただ、残念ながらそこまできちんとした人生を歩んできたからというよりは、世間的な習わしにしたがってというほうが強いかもしれない。
ここまで育ててくれた恩は、人並みに感じている。
学生時代が平穏無事で波を一切立てなかったわけではないというのもあるが、俺が俺として生まれるためには、必要だった人たち。
今、よかったと思える日々が手元にある基礎を作ってくれたのは、紛れもなく彼女がいたから。
来月の父の日は、何をすればいいのか。
きっと、俺の彼女はまめに何か計画してくれるだろうから、俺もそれなりに考えておかなければならない。
「っ……ちょっと待った、いつの間に!」
買い物カゴを乗せたカートに手を置いたまま、ふとそばにいた小学生とおぼしき親子連れを見ていたら、目を離したすきにカゴがてんこ盛りになっていた。
いやいやいやおかしいだろ、この量は。
確かに、昼飯の支度をかねてという名目の買い物らしいから、多少は認めよう。
家には、育ち盛りと言っていいかはわからないが、学生の涼がいる。
しかし、今日は日曜日で、家政婦として長年我が家の衣食住をある意味支えてくれている佳代さんは不在。
ということは、こんな大量の食材を買い込んだところで処理できる人間がいないということ。
……いやまぁ正確には羽織がいるからなんとかしてくれそうだけど、彼女は今日、お客さんなわけで。
この量を冷蔵庫へ突っ込んだら、絶対叱られると思うが……まあいいか。
俺は今日、泊まらず帰るし。
ふと、ダイニングの椅子へ揃って座らされた涼と紗那が、佳代さんにこってり叱られている様が眼に浮かぶ。
「まー、今日はカレー粉が安いのね」
「待った」
「え? なあに?」
「何じゃなくて。うちは何人家族だ?」
「やぁねぇ。7人よ? といっても、祐恭はこっちにいないから6人だけど」
「だろ? じゃあ、いっぺんにカレー粉4箱買う必要はないよな?」
「でも、カレーって一度に結構使うのよ?」
「じゃあこの缶詰はどこにしまうんだよ」
「どこって……カレー粉と同じ場所でしょ?」
「いつからウチのキッチンの棚は、スーパー並みに拡大された?」
「入るわよ?」
「入る入らないの問題じゃないんだって。だから」
はーーーと深いため息をつくも、納得してないどころか不思議そうな顔のお袋を見つつ、軽く頭痛がする。
というか、そもそも今は昼飯の買い出しに来たんじゃなかったのか?
すっかり忘れているようだが、家に帰ってもあるのは炊けた米だけ。
さっき起きたばかりの涼は、納豆すらないとかなんで!? と悲鳴をあげていた気がする。
「…………」
だがしかし、このてんこもりのカゴに、さらに昼飯のことを口にしたら、ふたカゴ目行くな、間違いなく。
普段、自分ひとりの買い物でカートを使うことは皆無なため、ギャップなのか感覚の違いなのかわからないが、妙に疲れる。
羽織と一緒の買い出しでも、ここまでならないはずなのに。
「あら、今日は黒豚が2割引ですって! 夜はしゃぶしゃぶにしようかしら。羽織ちゃんも夕飯食べていけるでしょ?」
「いや、夕飯の前に昼飯をーーって、豚肉ばっかり4パックもいらないだろ!」
「あらやだ、そうね。お昼買いにきたんじゃないの! じゃあお昼はお刺身とかのほうがいいかしら? 昼も夜もお肉じゃ偏るわよね」
「っ、だから、そういう不安定なところに置くなって!」
お徳用と書かれたしゃぶしゃぶ肉をあるだけカゴに積み上げ、きびすを返して鮮魚コーナーへ。
たちまち崩れそうになる豚肉を支えつつ、はるか彼方へ移動した母を見てため息が漏れた。
なんだ、この感覚の違いは。
ああ、久しぶりに体験したけど、やっぱりつらいな。
料理に関しては俺と同じくらいのレベルなはずだけに、お袋があっているかどうか判断つかないのが切ないところだが、多少はましだと思っている。
それもすべては、羽織との学習のおかげ。
だが、今彼女は不在。
となると、管理するのは俺一人なわけで。
「……はー」
買い物に付き合うと言った俺を、奇特な眼差しで見た家族連中の心情が、今ならよくわかる。
だが、今日は母の日。
この母の血が、俺にも流れている。
「……あのさ」
「え? なに?」
「…………なんでもない」
「なぁに? この子ったら。今日はへんな日ね」
やっと追いついたかと思いきや、デザートコーナーへ寄り道らしい。
くすくす笑ったお袋に、とりあえず肩をすくめるだけにしておく。
両手に焼きプリンを持っていたが、まあ、日持ちするならいいんじゃないか。
「俺は食べない」
「羽織ちゃんのぶんよ」
「ほかに誰が食べるんだよ」
「あまったら、持って帰りなさい」
器用に4つ両手で持ったのを見て、思わず手が伸びた。
何個買い込む気なんだ。
これ以上は無理なので、仕方なくすぐそこにあったカゴをひとつカートへ乗せることにする。
「来てくれて、ありがとうね」
「え?」
「だって、ひとりで買い物に来るつもりだったのよ。だから、祐恭が来てくれて助かったわ。ひとりじゃ運べなかったもの」
「まぁそうだろうな」
思わぬところで礼をもらい、目が丸くなった。
まあ、たまには付き合ってやってもいいのかもな。
親に感謝されることなんて、そうないものだし。
と思った矢先に食パンを2斤カゴへ入れそうになったのを見て、慌てて止める。
「……はー」
プリンで思い浮かべたヤツは、今ごろどこで何してるんだか。
ふと、アイツ……いや、あの兄妹が好きそうなプリンだなと思ったあたり、だいぶよくわかってる自分に感心した。
「だから。アンタは買い物に付き合ってるのか、自分の買い物なのか、どっち?」
「付き合ってやってんだから感謝しろって」
「じゃあ今すぐその1パックは戻してきなさいよ」
「手間賃みてーなもんだろ? どーせお袋だって飲むじゃん」
「私はそれは苦くて飲めないって言ってんでしょ」
「じゃ俺が消費しとく」
「だから……はーもーアンタは」
この前、ビールを飲んだのは歓送迎会のとき。
といっても、職場の図書館ではなく大学の事務連中のほうで呼ばれたやつ。
図書館は相変わらず、俺より下の人間が配属されることはなく、今年も学生のバイトが入れ替わった程度。
野上さんの『今年も若いイケメンがこない』ことへの八つ当たりは、そろそろ俺が引き受けなくてもいいんじゃねぇのか。
「……アンタね」
「あ?」
「なんでそこで、当たり前のようにプリン入れるのよ」
「食う?」
「……ルナちゃんと羽織の分も入れて」
ひとつだけ入れたのが気に入らなかったらしく、顎でプリンを指された。
いや、このサイズのプリン食うの俺くらいだと思うけどまあいいや。
俺の金じゃないし。
「アンタ、今日何の日か知ってる?」
「5月の第2日曜日」
「世間一般では?」
「母の日」
「わかってての暴挙?」
「なんで暴挙なんだよ。付き合ってやってんだろ?」
「別に頼んでないでしょ?」
カートを押しながらため息をついたお袋を見ると、それはそれは嫌そうな顔をして牛肉のパックをカゴへ入れた。
そういや今日はすき焼きにするとか言ってたな。
だったら俺は、牛もいいけど豚も食いたいところ。
つーかまあ、ぶっちゃけ肉とえのきと長ネギさえあればいい。
「ビール1ケース買い込むんじゃ重たいだろうなと思って、わざわざ俺が来てやったのに」
「あっそう」
「全然抑揚ねーな」
「だって、私が買いたいものよりアンタが食べたい物のほうが多いんだもの」
多分気のせい。
ま、さっきも言ったけどいわゆる手間賃ってヤツだと思えば、安いんじゃねーの。
母の日という理由じゃないだろうが、食品売り場はかなり混雑していた。
いろんなものにカーネーションを模したシールやら小さな造花やらがついていて、嫌でも目につく。
昔から、とりあえず母の日には何が欲しいか聞いてやっていたが、就職してからは旅行などというやたら値が張るモンを求められるようになり、聞くことをやめている。
今ごろ、家じゃ葉月がいろいろ用意してんだろーよ。
アイツほんとマメだよな。
『こっそり準備したいから買い物へ行ってきてくれる?』と頼まれ、仕方なく出た今。
ついでに買ってきて欲しいと言われたモノは、ついさっきお袋がセールのアナウンスを聞きつけて行方をくらました間に、一応買ってはおいた。
「で? アンタ、恭介くんのお嫁さんに何あげたの?」
「は? なんで俺が」
「……馬鹿なの?」
「なんでだよ。失礼だぞお前」
「お前って言うほうが失礼でしょ、馬鹿息子」
ぽんぽんとお袋が叩いた、いつも飲んでる発泡酒のケースを2つほどカートへ積み込んだとき、それはそれは失礼な言葉をぶつけられた。
つか、なんで俺が恭介さんの嫁さんへ母の日のプレゼント渡すんだよ。
葉月がいそいそと準備していたのは知っているが、まさかの言葉にうっかり素で返事をしていた。
「わかってないわねー。普通、付き合ってる彼女のお母さんを気遣うもんでしょ?」
「いや、あれは祐恭がマメだからだろ?」
「知らないわよ? 恭介君のお小言ちょうだいしても」
「…………」
「まだ間に合うんじゃないのー? 恭介君たち今日、午後からおじいちゃんち行くって言ってたわよ」
今朝、羽織を迎えに来た祐恭は、お袋へラッピングされたカーネーションの花束と、某有名菓子店のチョコレート詰め合わせを届けていた。
マメだなと素直に感心したが、まさかそんな理由からとは考えもせず。
付き合ってる彼女の母を気遣う。
あー……やべぇ。
恭介さん、そこ絶対突っ込んでくるとこじゃねーか。
「あら、こんなところで都合よく母の日フェアやってるわー」
「っ……」
わざとらしい声ながらも、そちらへ意識が引っ張られたことには正直に感謝する。
「アンタもいっちょまえに、動こうって思わざるを得ないちゃんとした彼女ができたのね」
「しょうがねぇだろ。せざるをえない相手なんだし」
カートへ腕を乗せたままにやにやと笑われ、小さく舌打ちが出る。
とはいえ、どれを選べばいいかなんてさっぱり。
この手のことは、同じ性別に聞くのがてっとりばやいか。
「どれがいい?」
「えー? そうねぇ。このブランドは落ち着いた色味が多いから、若い人なら……明るい基調のこっちのほうがいいんじゃない?」
昔から目にする刺繍のハンカチブランド。
それが食品売場のすぐ隣で特設コーナーを開いており、老若男女問わず人が溢れている。
「あら、これもかわいいじゃない。このハンカチ、吸水もいいし生地がしっかりしてるから使い勝手いいのよね」
「へー」
「アンタ、もう少しいろいろ知っといたほうがいいわよ? それこそ、職場のお礼なんかにも使えるんだから、今後のために覚えておきなさい」
「はいはい」
手近にあったハンカチを広げて柄を見ていたお袋に、ひらひら手を振ってオススメされたものを手にレジへ向かう。
普段、礼として使うときは消え物の菓子で済ませることが多い。
だがまぁ、少なくとも確実に迷惑じゃなく喜んでくれると思える相手なら、もうちょっと違ったモンを贈ってもいいのかもな、とは素直に思った。
「ほらよ」
「え?」
ラッピングされたうちのひとつを、受け取ったショップの袋ごと差し出すと、
それと俺とを見比べながら、お袋が笑った。
「コンサル料」
「あらそーお? ルナちゃんに伝えておくわ。かわいい彼女の教育がちゃんと行き届いてる証拠ねー」
「うるせぇな」
思わず舌打ちするも、からから笑ったお袋はいつものごとくあっけらかんと手を伸ばした。
訝しげな顔のあと、まるで思い出し笑いでもするかのように噴き出され、眉が寄る。
「ありがとう」
「おー」
「次は現金でいいわよ」
「素直に喜んどけよ、バチ当たんねぇから」
素直に感謝されたかと思いきやのセリフで、当然のように舌打ちをする。
だが、まあこれはこれでお袋らしいかと思い直し、自身も表情が緩んだ。
「うわーー何これ、すっごいきれい!!」
いつもの、土曜日の女子会。
4月の連休前にうちへきた絵里は、リビングのテーブルに置かれていた瓶を手にすると、光へかざすように持ち上げた。
ほぼ毎日大学で会ってるから、そもそも毎日が女子会みたいなものだけど、やっぱりこうして家でのんびり過ごす時間は違った感じ。
学食ではおおっぴらに話せないことも、ほかに人がいないこの時間はいくらでもできるし。
「これって、去年くらいから流行り始めたわよね」
「ハーバリウムだよね。わぁ、この形の瓶かわいい」
今日はいつもより少し時間が早くて、10時まであと少し。
そのせいか、おやつの甘い香りではなく、お昼用にと葉月が仕込んでいたビーフシチューの香りが漂っている。
「好きな素材で作れるから、贈り物にも喜ばれると思うよ」
「えっ! 作れるの!? これ!」
「ひょっとしてこれ、ハンドメイド!?」
今日はいつもより気温が上がったこともあってか、葉月はいつもの温かい紅茶ではなく、ジンジャエールを出してくれた。
といっても市販のものではなく、葉月がシロップを漬け込んだお手製のまさにジンジャエール。
クローブのいい香りがして、すっごくおいしい。
「もうじき母の日でしょう? 今年はそれにしようと思って、試作してみたの。ふたりも作ってみる?」
「え! やりたい!!」
「私も!」
「じゃあ、材料揃えておくね」
にっこり笑った葉月は、そう言って私たちの前にコースターとグラスを置いた。
「今年は直接渡せる人がたくさんいて、とっても嬉しい」
「そっかぁ。じゃあ、ちょっと忙しいかもね」
「ふふ。楽しい忙しさなら、大歓迎ね」
「ねね、手伝えることがあったら私やるから言ってね! でもさ、きっともらった人は喜んでくれると思う!」
葉月は、うちのお母さんにも渡してくれるつもりらしい。
それはお兄ちゃんの彼女だからという理由だけじゃなくて、小さいころからうちのお母さんを慕ってくれてたから。
葉月にとってはきっと、『お母さん』って響きが特別なんだろうな。
「母の日かぁ。祐恭さん……何渡すんだろう」
そのとき、ふと口にした彼の名前が嬉しかった。
なんかこう、自然と思い浮かんだことがっていうかーー……ううん、彼のそばにもう一度いることが、必然になってくれたことが。
「ふたりはどんな色がいい?」
「色?」
「うん。イメージカラーって言うのかな。ふたりが送りたい人の色のイメージがあったら、教えてね。用意するから」
にっこり笑った葉月の言葉で思い浮かんだ色は、うちのお母さんでも、祐恭さんのお母さんでもなく、彼自身のイメージが強い、バラの濃い赤い色だった。
「……羽織ちゃん?」
「え? あ、すみません。なんですか?」
「ごめんねー、ほんとは一緒に行きたかったでしょ? お兄ちゃんと、買い物」
両手を合わせた紗那さんが、申し訳なさそうに笑う。
でも、そんなつもりではなかったので、慌てて首と手を振っていた。
「でもでも、お母さんすっごく喜んでたんだよー? 今日、羽織ちゃんがきてくれるって聞いて!」
「え、そうなんですか?」
「うんっ! お兄ちゃんが来ることよりも先に、羽織ちゃんがうちに来てくれるんですってーって、すっごく嬉しそうだった」
にっこり笑った紗那さんを見ながら、知らなかった言葉を代わりにもらえて、すごく嬉しくなる。
そんなふうに言ってもらえてたんだ。
受け入れてもらえたことが、ただただ嬉しい。
ううん、もう一度そう思ってくれたことが、何よりも。
「……あ」
「え? あ、帰ってきたねー」
独特のエンジン音と、タイヤが砂利を踏む音で窓を見ると、白いレースのカーテン越しに、真っ赤なRX−8が見えた。
玄関までお出迎えにいくと、ドアが開いたのとほぼ同じタイミングで、お母さんが入ってくる。
「ただいまー。いっぱい買っちゃったわー」
「わ、すごいですね! 重たかったんじゃないですか?」
「そうなのよー。でも、ついついみんないるからと思って、おやつも買ってきちゃった」
「おやつ? 食べるー」
「俺はおやつより、飯……」
お母さんの声で、紗那さんと涼さんもリビングから出てくると、袋ごと食材をダイニングへ運んでいった。
「おかえりなさい」
「ただいま。平気だった?」
「何がですか?」
「いや、俺がいないのに留守番させて、ごめん」
「そんな! 全然大丈夫ですよ。紗那さんがいろんな話してくれました」
「それはそれで気になるね」
玄関の鍵を閉めた彼が、靴を脱ぎながら苦笑する。
もう、まもなくお昼。
せっかくだから、私もお手伝いをーーとそちらへ足を向けたら、ふいに手を引かれた。
「祐恭さん?」
「ちょっとだけ」
「えっと……」
繋いだ右手を引かれ、階段へ促される。
表情はいつもと同じというか、笑みを浮かべてはいるから、もしかしたら見せたい何かがあるとか……なのかな?
それとも、母の日でお母さんへのサプライズの計画とか?
今朝、家を出る前に葉月がお兄ちゃんへそんな話をしていたのを思い出して、ふいに笑みが浮かんだ。
「っ……」
「はー。落ち着く」
階段を上がりきった先にある、彼の部屋。
その手前の少し広くなっているスペースで、振り返りざまに抱きしめられた。
身体越しに彼の言葉が響いて、なんだかくすぐったい。
「一緒に居られる時間が限られてるのに、まさかこんなところで思わぬロスが出るとは思わなかった」
「でも、久しぶりの親子水入らずの時間じゃないですか。母の日ですしね」
「一緒に来てくれたことには感謝するけど、でも、俺にとっても大事な時間だから」
「っ……」
腰に回ったままの片手が外れ、ひたりと頬に触れる。
柔らかな眼差しで見下されたせいか、どきりとしたのももしかしたら気づかれていたかもしれない。
「ありがとう」
「祐恭さ、ん……」
「俺だけじゃなくて、うちの家族まで大事にしてくれて」
顔が近づいて、本当の目の前でささやかれた感謝に、胸の奥が震える。
だって、それはむしろ私のセリフ。
彼のそばにいる私を、ご家族みんなが受け入れてくれて、許してくれて、私はすごくすごく幸せだと思う。
「ん……」
唇が重なる……だけじゃなく、舌が触れる。
ぞくりと背中が震えて、だけど嬉しくて、応えるように唇を開いた。
大好きな人が喜んでくれることは嬉しくて。
まさに、自分の存在意義だと思うから、できることならどんなことでもしたいと思う。
それに……彼の大切なご家族に迎え入れてもらえることは、やっぱり特別で。
ああ、今日ここに来ることができて、みんなに受け入れてもらえて、私は本当に幸せだと思う。
「っ……祐恭さん」
「何?」
「な、にじゃなくて……っ」
口づけたまま、カットソーの裾から彼の指先が入ってきた。
慌ててというか、思わず反射的に胸を押す——ものの、目の前には意地悪そうな笑みがある。
うぅ。なんですかその顔。
私がこういう反応するってわかってて、やりましたね……?
「もぅ。えっち」
「つい勝手に手が動いて」
くすくす笑った彼が、そのまま抱き寄せた。
もぅ……こんなふうにされたら、許しちゃう気持ちになっちゃう。
ずるいなぁ。
私のこと、私以上に祐恭さんはわかってるらしい。
「お兄ちゃんー! お母さんがお昼作るって言ってるんだけど!」
「…………」
「羽織ちゃん、止めて!」
階下から、涼さんと沙那さんの悲痛な叫びが飛んできてか、祐恭さんがため息をついた。
お昼ごはん、なんの予定でどんな食材なんだろう。
一緒に買い物へ行った彼は知ってるはずだけど、今のところなんの情報もない……のがちょっぴり不安。
でもきっと、なんとかなるよね。
だって、調理法はいくらでもあるんだから。
「……ごめん、ちょっとだけ助けて」
「大丈夫ですよ。お手伝いさせてもらいますね」
申し訳なさそうな顔をした祐恭さんに笑って首を振り、階段へ……向かったものの、彼がまた腕を引いた。
「っ……」
「昼飯食べたら帰ろう? せっかくの日曜だし、ウチで過ごしたい」
ちゅ、と重ねるだけのキスをされたうえに、目の前でそんな甘い言葉をささやかれて、顔が赤くなる。
うぅ。みんなの前に行けないじゃないですか。
知ってかしらずかわからないけれど、そんな私を見て祐恭さんはどこか満足げに笑った。
「んまぁ! 何これ、すっごいきれい!」
「よかった……そう言ってもらえて、嬉しいです」
「やだ、ルナちゃんが作ってくれたの!? すっごい。ほんともー……うちの嫁は器用だわ」
「あのな」
先日、羽織と絵里ちゃんと一緒にこっそり作ったハーバリウムを渡すと、伯母さんは本当に嬉しそうに笑ってくれた。
彼女のイメージカラーは、オレンジ。
まさにビタミンカラーそのもので、周りの人も元気にしてくれる活力に溢れる色。
小さいころから笑顔を絶やさない人で、私はいつも元気づけられた。
泣いているときはただ寄り添って、抱きしめてくれて。
幼稚園行事の母の日には、しゅんとしていた私に『母の日は、あなたがここにいることを喜ぶ日よ』と教えてくれ、『ルナちゃんは何が欲しい?』と私と一緒に作品を作ってくれた。
伯母さんは、当時から私にとって大切なお母さんその人でもある。
たーくんを好きになって、そばにいることを認めてもらえるようになった今、より強い想いとともに、本当の意味で『お母さん』になってくれた。
だからこそ、今年の母の日は思いがまるで違う。
「……これも買ってきたぞ」
「伯母さん、このワイン好きでしょう? 私じゃ買えなかったから。たーくん、ありがとう」
とんとん、と肩を叩かれてリビングからダイニングへ呼ばれてみると、お願いしたワインをしっかり買ってきてくれた。
一緒に買い物に行くっていうからお願いしていいものか悩んだけれど、きっと伯母さんには気づかれないうちに買ってきてくれたんだろうなぁ。
私じゃ、こんなにうまくいかない。
「あ。スコーン焼いたから、おやつに食べてね」
「スコーン?」
「うん。生クリームで、クロテッドクリームみたいに作れるんだって。たーくんが
教えてくれたでしょう?」
「あー、あれな」
「コーヒー淹れるから、いつでも言ってね」
つい先日、インターネットで公開されているレシピだと彼が教えてくれた。
クロテッドクリーム、置いてないお店もあるから、そんなふうに作れちゃうなんてすごいなぁと本当に驚いた。
焼き立てのスコーンは、さくさくというより、ほろほろ。
バターの香りがいっぱいに広がって、それだけで十分おいしそうだと感じたから、ジャムはつけなくてもいいかもしれない。
たーくん、あんまり好きじゃないもんね。
「え?」
「コーヒーの前に、ちょっと付き合え」
ワインを冷蔵庫へしまい終えたところで、たーくんが腕を引いた。
そのまま玄関へと足を向ける。
「えっと……どこへ行くの?」
「じーちゃんち」
「どうして?」
「今、恭介さんきてるんだろ? 渡したいもんがある」
意外な場所を口にされ、『あ』と漏れた。
できれば、私も行きたいと思っていた場所。
というか……お父さんたちに、用がある。
「少しだけ待ってくれる? 私も、渡したいものがあるの」
「おー」
今年は、もうひとりの“お母さん”へようやく渡すことができる。
お父さんの大切な人は、私にとっても同じ。
彼女のイメージカラーである、藤色と同じ淡い紫のハーバリウムを取りに、一度部屋へ向かうことにした。
「たーくんも用意してくれたなんて、思わなかった」
茅ヶ崎方面からの、帰り道。
来るときと違って逆方向の道が混んでいるけれど、車列の向こうにはきらきらした海が広がっている。
普段はこっちにあまりこないお父さんたちが、こっちまで足を伸ばしてくれていたことと、たーくんが車を出してくれたおかげで、当日のうちに渡すことができた。
「すげぇ喜んでくれてよかったな」
「たーくんが、お花まで用意してくれたからだよ?」
「いや、どう考えたってお前が『お母さん』って言ったからだろ」
お父さんの伴侶として隣にいてくれる彼女は、私にとってお母さんその人。
よく目にする色合いの服からイメージしたんだけれど、好きな色でもあったことで、とても喜んでくれた。
……ほんの少し、私のほうが泣きそうになっちゃった。
たーくんが渡してくれたハンカチも、白地に紫とピンクの花が刺繍されていて、同じように喜んでくれたことが、私は嬉しかった。
「ほんとは、ハンカチだけでいいかとも思ったんだけどな。恭介さんの手前、もう少し気張っておかねーとまずい気がして」
「お父さん、そんなに言わないと思うよ?」
「わかんねぇじゃん」
「けれど、とっても喜んでくれたね」
彼女だけでなく、お父さんもたーくんのプレゼントには意外そうな顔をして、『よくわかってるじゃないか』と笑った。
まるで、小さいころそうしていたのと同じように、彼の頭を大きな手で撫でていたけれど、あれはきっと本当に嬉しかったからだと思う。
……途中で、なぜか襟首を掴んでいたけれど。
「ありがとう、たーくん」
どうやら、彼にとっては“叔父”から相当気を使う相手に変わったらしく、少しだけ申し訳ない気持ちもあった。
でも……私が伯母さんへ感じたのと同じように、私の父だから、思いが変わったんだろうとはわかる。
大切に思ってくれることがわかるから、嬉しい。
彼女ももちろんだけど、私のこともそう思ってくれてるんだなぁって……幸せな気持ちだ。
「あー……そうだ。忘れてた」
「え? わぁ……きれい」
ちょうど信号が赤に変わったところで、たーくんが後部座席へ手を伸ばした。
目の前に現れたのは、小さなブーケ。
ピンクのカーネーションと、最近見かけるようになった、紫色のカーネーションが添えられている。
「お前にやる」
「え……私に?」
「お袋、相当喜んでたな。サンキュ」
「っ……」
髪を撫でてくれた彼が、柔らかく笑った。
普段と違う……なんて言ったら叱られちゃうけれど、あまりにも優しい顔で笑われて、どきどきしないはずがない。
信号は変わって、ギアを入れる。
その手元へ視線が落ちたまま、なんともいえなくて思わず唇を噛んだ。
「ハーバリウムだっけ? あれだけでもあんな喜んでんのに、夕飯は好きなワインとビーフシチューだろ? またうるせぇだろうな」
「喜んでくれたらいいけれど」
「いや、どう考えたってがっつり喜ぶだろ」
俺も喜ぶぜ。
付け足された言葉の意味で彼を見ると、『どっちもうまいじゃん』と嬉しいセリフを向けられ、思わず苦笑が漏れる。
ワインは伯母さん用だけど、そうだね。たーくん相手に飲むんだろうなぁ。
クリスマスのとき、ふたりでボトルを開けていたのを思い出した。
「あ。ちょっとコンビニ寄っていいか?」
「もちろん。どうぞ」
何かを思い出したかのように、たーくんが口にした。
今日の用事はどれもすでに達成済み。
さすがにまだ夕飯の時間には早いし、なにより、ふたりだけで過ごせる時間が増えることは、当然嬉しいから。
「…………」
手元にある、カーネーションの花束。
きっと、何気ない気持ちからかもしれないけれど、私が花を好きだと知ってくれているからこそのチョイスだろう。
でも……知ってるのかな。
このふたつの色の、カーネーションの花言葉。
もし知らないんだとしたら、私から彼へ贈ってもいいよね。
だって、どちらも私が抱いていることと同じなんだから。
永遠の幸福。そして、感謝。
今、この時間を過ごせていることがまさに幸せそのもので、どうか長く続いてほしい象徴でもある。
だけど、その幸福が得られたことは、まさに見えない力がたくさん働いた上でのこと。
巡り合わせであり、縁であり、たくさんの人のおかげであり。
感謝の上で成り立っている、特別なこと。
だから……どうかこの先も末長く、彼と同じ時間を過ごせますように。
「ありがとう。とっても嬉しい」
「…………」
「たーくん?」
ちょうどお店の真横にある駐車場へ車を停めたところで彼を見ると、まじまじ見たまま口をつぐんだ。
えっと……何か、いけなかった?
両手でそっと花束を包んだままお礼を言ったんだけれど、それとも何か足りなかったのかな。
「……っ、ん」
両手が伸びたかと思いきやふいに口づけられ、思わず目が丸くなる。
手の中の花束が少しだけ音を立てて、今起きていることはもちろん夢じゃないらしい。
「……たーくん……」
「なんだよ」
「もう……外なのに」
「誰も見てねぇだろ」
確かに、前向き駐車で目の前には看板しかないけれど、でも……あのね? 隣には車が停まってるんだよ?
何気なく見られたら、どうするの?
「もう」
「反射だな。ある意味」
肩をすくめたのを見ながらも、当然笑みが浮かぶ。
嬉しくないわけない。
だって、こうして触れてくれることは、私にとっての何よりの幸せ。
「なんだよ。物足りないのか?」
「え?」
「別にいいけど? もう少し、いつもみたいにしてやっても」
「っ……もう。違うの」
まじまじと見つめていたのを、勘違いされたらしい。
……もう。キスのことじゃないの。
ついさっき見せてくれた柔らかい笑みとは違い、あきらかに私の反応をおもしろがるように笑われ、さすがに眉が寄った。
「切手買ってくる。降りるか?」
「あ、ううん。待ってるね」
ひらひら手を振った彼を見送り、改めて花束を見つめる。
今日は、母の日。
……お母さんだけでなく、自分がここに存在していることにも感謝する日。
ありがとう。
私は今、とても幸せ。
花束を見てにまにましていたのがガラス越しにも見えたらしく、運転席へ戻ってきた彼は、『ンな喜んでくれるなら、また買ってやるよ』と笑った。
プリン事件
2020.04.24
事件ですよ、事件。
私のプリンが……なくなっていたんや……。
これはもう、大事件。
誰じゃい! 勝手に食べたのは!
きーー!!となりながら書いた、安定の瀬那さんち。
うぅ、長いよぅ。
おうちこもりチャレンジ、2ヶ月目が終わろうとしてるんだぜ……。
毎日家にいたら、おかしくなるわい!
誰かなんとかして……。
お庭チャレンジも、そろそろ限界です神様。
「…………」
「…………」
「あのね? だから、私じゃないってば!」
「何も言ってねーだろ」
「目が言ってる!」
あれから半日程度経過した、現在。
リビングで録りためた番組を見ていたら、ソファへ座ったお兄ちゃんは相変わらず機嫌悪そうに眉を寄せた。
ていうか、今の今まで部屋にいたのに、なんでまた急にリビングに来るかなぁ。
悪いわけじゃもちろんないけど、でも、あのね?
今ここで喧嘩を始めるわけにはいかないの。
なぜなら——葉月が、留守だから。
「はー……」
早く帰ってきて、葉月。お願いだからぜひとも。
ちらりと壁の時計を見ると、葉月が出かけてまだ40分しか経ってないのが見えた。
「あれ?」
ことの発端は、今日の朝ごはんのあと。
珍しくお兄ちゃんが9時前に起きてきたなぁと思ったら、冷蔵庫を覗いて変な声をあげた。
「お前、プリン知らねぇ?」
「プリン? なんの?」
「いや、普通の。こンくらいのサイズのヤツ」
手で示されたのは、割と小さめなプリンだった。
プリン……えぇ? 知らないけど。
というか、最近は買い物にすら出ていないわけで。
基本、お母さんが仕事帰りに買い物をして帰ってくるから、私も葉月もお兄ちゃんも家からはほとんど出ていない。
せいぜい、郵便物を取りに行くくらいかなぁ。
あ、あとは庭に出るとかね。
だから、冷蔵庫にプリンが入っていたことすら私は知らなかった。
「え、いつ買ったの?」
「おととい」
おととい……あぁ、言われてみれば、その日お兄ちゃんだけ郵便局へ行ったんだっけ。
てことは、その帰りに買ってきたのね。
相変わらず、自分のためのものはきちんと把握してるらしい……って、きっとみんなそうだろうけど。
「お前食ったろ」
「えぇ? 食べてないってば!」
ていうか、存在自体知らないって言ったのに、なんでそうなるの?
ひどいなぁもぅ。
昔からそうだけど、基本、冷蔵庫に入ってるものはお母さんに『これ食べていい?』って聞いちゃうんだよね。
だから、お兄ちゃんと違って私は勝手に食べたりしない。
そう……お兄ちゃんと違って。
なのに、そんなふうに真正面から疑われたら、すっごく嫌な気分。
「寝ぼけて食べちゃったの、忘れてるんじゃないの?」
「ンなわけねーだろ。昨日の夜、風呂あがったときまではあったんだから」
「そのとき、食べたんじゃないの?」
「だから、食ってねぇつってんだろ!」
むぅ。ひどい言いよう。
ていうか、私は食べてないどころか、存在自体知らないんだってばもぅ!
イライラしてるのがわかるから、こっちまでイライラしてくる。
ああもぅ、悪循環。でも、悪いのはどう考えたって勝手に疑いをかけてきたお兄ちゃんなんだからね!
「どうしたの?」
2階から降りてきたらしく、葉月がリビングに姿を見せた。
どうやら2回目のお洗濯をしようとしていたらしく、手にはなぜかお兄ちゃんのスウェットを手にしている。
……って、あー絶対あれ、拾ってきてくれたヤツでしょ。
もぅ。いい加減、自分のことは自分ですればいいのに!
「プリンがねぇんだよ」
「プリン?」
「こないだ買ったコンビニの新商品」
この間、葉月は一緒に出ていない。
けれど、“コンビニ”の言葉を聞いて思い当たったらしく、『あ』と言うと珍しく口をつぐんだ。
「買ってこようか?」
「いや、そーじゃねーだろ。つか、なんでお前が買い……食った?」
「ううん」
ありえないとは思ったものの、当然のように否定するのを見て内心安堵する。
だけど、葉月は両手を合わせるとお兄ちゃんを見て小さく苦笑した。
「今日の午後、お父さんと出かける予定なの。だから、おやつの時間でよければ、買ってくるよ」
「……あのな。俺が知りたいのは、買えるかどうかじゃなくて、誰が食ったかってとこだって」
「そうだけど……でも、ないでしょう?」
「ああ」
「だから……代替案じゃだめかな?」
私と違い、葉月はずっと穏やかなまま話していた。
そのせいか、お兄ちゃんは私に向けていたトゲトゲしい言葉にはならず、最後にはいつもと同じようなテンションに戻っている。
ああ、やっぱりどっちがリードするかで違うんだなぁ。
さっきまでの会話は、間違いなく私がお兄ちゃんに引っ張られていた。
「…………」
舌打ちこそしたけれど、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずにまた冷蔵庫を開けた。
代わりに取り出したのは、冷茶のポット。
どうやら、諦めたらしい。
……よかった。
こんなときに、またこんな情けないことで喧嘩になったら、外にも出れないし発散できないもん。
思わず葉月に視線をうつすと、お兄ちゃんを見送ったあと私を見てやっぱり苦く笑った。
で、今に戻る。
あのあと、結局お兄ちゃんはなんにも言わなくはなったけれど、どこか機嫌は悪そうなままで。
午前中もお昼ごはんのあとも、葉月いわくパソコンで作業してたみたいだけど、さすがにコーヒーブレイクにしたらしい。
葉月をたよらず入れた、ブラックコーヒーの大きめのマグカップがすぐここに置かれている。
…………。
………………。
あの……あのね?
私、今日はさっきまですごくがんばったの。
レポートも仕上げたし、ずっと読んでいたあの分厚い本だってやっと読み終わったの。
午後は葉月と日課のヨガをやるつもりだったけど、今は恭ちゃんとお出かけしてる関係で葉月は不在。
だからこその録画番組消化だったんだけど……うぅ、ちっとも笑える雰囲気じゃなくなっちゃったじゃない。
別にお兄ちゃんが悪いとはひとことも言ってないけれど、でもだってあのね?
…………。
うぅ。せめて、これだけ出演陣が爆笑してるシーンなんだから、反応くらいしたらいいのになぁ。
さっきまでと打って変わって、けらけら笑えなくなった雰囲気に、もういっそ再生をやめようかなとも思った。
どうせなら、一緒に笑ってくれる葉月と見たほうが何倍も楽しいだろうし。
うん、そうしよう。
私も紅茶入れて、そーっと部屋へ戻ろうっと。
あ、その前にさっき畳んだ洗濯物、片付けてからね。
「……あ」
立ち上がってキッチンへ行こうとしたら、玄関の鍵が開いた。
葉月だけでなく恭ちゃんも一緒らしく、ふたりで話しているのが聞こえる。
「お、珍しいな。ふたりとも下にいたのか」
「うん、まあ……いらっしゃい、恭ちゃん」
「ただいま」
「っ葉月、おかえり……!」
にっこり笑った恭ちゃん……ではなく、彼の陰からひょっこり姿を見せた葉月を見て、情けない声が漏れる。
でもでも、だって!
こんなに待ちわびたの、いつぶりだろう。
ていうか、葉月がいてくれて本当によかった。
私の反応が意外だったらしく……ていうかまぁそうだろうけど。
恭ちゃんと葉月は、顔を見合わせると少しだけおかしそうに笑った。
「たーくん、おやつ食べる?」
「その前に、孝之は俺たちへ言う言葉があるだろう」
「あー……いらっしゃい。おかえり」
「ずいぶん儀礼的だな」
「いや、別に他意はないんだけど」
あーとか、うーとか言いながらだったのが気になったらしく、恭ちゃんは眉を寄せた。
でも、葉月はくすくす笑うと、お兄ちゃんへ袋から取り出した何かを渡した。
「うわ、なんだこれ」
「ふふ。今日からの新発売なんだって」
「え? なになに? ……わ、すごい! なにこれ!」
珍しい反応をしたお兄ちゃんの手元を覗くと、小さめのプリンが3つ入っている大きなプリンアラモードがあった。
え、えー! なにこれ!
デラックスどころか、すっごい食べ応えありそうなものだけに、おいしそうではあるけれど、さすがにちょっとひとりでは……って、や、お兄ちゃんは食べそうだけどね。全然気にせず。
あまりにもなモノを見てあまりにもな反応をしたせいか、葉月は私を見ておかしそうに笑った。
「羽織には、普通サイズのプリン買ってきたよ」
「え、ほんと!? 嬉しい!」
「なんだ。ふたりとも腹が減ってたのか」
「ぅ、そういうわけじゃないんだけど」
「どうりで、珍しく葉月がコンビニへ寄りたいと言うわけだ」
お兄ちゃんの隣へ腰かけた恭ちゃんは、上着を脱ぐと大きな伸びをひとつ。
足を組んだままお兄ちゃんを見て、『お前は本当に甘いものが好きだな』と苦笑する。
「わざわざ寄ってくれたの?」
「んー……ちょっとだけ、ね」
キッチンにある電気ケトルを手にした葉月を見ると、いつものように笑いながらうなずいた。
でも、それって絶対わざわざ、だよね。
もちろん、私のためでもあるだろうけれど……誰よりも、お兄ちゃんのため、に。
「お父さん、何か飲む?」
「コーヒーをもらおうか」
「ん。羽織は?」
「あ、私も手伝うよ」
あとを追い、食器棚からマグカップを取り出す。
すると、シンクへ向かった葉月が私を見て苦笑した。
「たーくんのプリンね、伯母さんが朝食べちゃったの」
「え! そうなの?」
「内緒にしてね」
「お兄ちゃんには内緒にするけど、もぅ……お母さんにはひとこと言うからね。だって、私すっごい疑われたんだよ?」
苦笑した葉月に唇を尖らせると、想像はしていたらしく、笑うだけで何も言わなかった。
むー。
お母さんのせいで、私がひどいめに遭ったんだから、もぅ!
ていうか、普段あんまりそういうの食べないのに、なんでこういうときにかぎって食べちゃうかな。
今日帰ってきたらひとこと言おう。
でも、お母さんのことだから『あー、ごめんごめん』で終わりにしそうだけど。
「……って、はや! もう食べてるの?」
「うまい」
「ふふ。よかった」
葉月といっしょにマグカップを持ちながらリビングへ戻ると、お兄ちゃんはすでに1/2ほど平らげていた。
生クリームたっぷりのプリンアラモード。
そりゃおいしいだろうなぁとは思うけど、そのサイズをひとりで食べたら夕飯食べられなさそう……。
うぅ。さすがに見るだけでお腹いっぱい。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ソーサーごと恭ちゃんへコーヒーを差し出し、葉月がすぐそこへ座る。
それを見てお兄ちゃんが何か言いたげな顔をしたけれど、口をつぐむと1/4ほどになったプリンを手に冷蔵庫へ向かった。
かと思えば、すっかり冷めたであろうマグを取りに戻ってくる。
「全部食べないの?」
「いや、さすがに多い」
珍しいことを言い出したのが、どうやら葉月も不思議に思ったらしい。
恭ちゃんだけは、普段のお兄ちゃんの物欲……食欲? を知らないからか、無反応。
え、ひょっとして具合悪いとかじゃないよね?
今日のお昼ごはんだったキノコパスタは、いつもと同じようにおかわりしてたし。
「大丈夫?」
「何がだよ。失礼だぞお前」
「む。失礼なのはお兄ちゃんでしょ? 私のこと疑っておいて」
「あ? 蒸し返すのか? お前。まだカタついてねぇんだぞ」
「だから、私が食べたんじゃないってずっと言ってるじゃない!」
「口でだけならどうとでも言えンだろ!」
これでも心配してあげたのに、相変わらずひとこと多いんだよね。お兄ちゃんって。
うぅ、言っちゃいたい。
プリン犯人はお母さんだ、って!
でも……でも、葉月と約束したんだもん、破るわけにもいかない。
これ以上言ったらまた喧嘩になりそうだから閉口したけれど、ちらりと葉月を見るとちょっぴり申し訳なさそうに、『ごめんね』と代わりに謝られてしまった。
……だからもう言わないであげる。
葉月のためにも。
ていうか、もともとは葉月が悪いんじゃなくて、お母さんがよくなかった。
「大きくなっても喧嘩の中身は子どもと同じだな」
「っ……」
「うぅ……お兄ちゃんといっしょにしないでほしい」
「かわいいもんだ」
マグをかたむけた恭ちゃんが、小さく笑った。
どこか呆れているように聞こえなくもない。
もぅ、お兄ちゃんのせいだからね。
でも……そういえば、祐恭さんにもよく言われるんだよね。そのセリフ。
さすがにそろそろ、食べ物で喧嘩しないようにしたい。私だって。
これじゃ、小学生のころとなんにも変わってない感じするし。
からから笑った恭ちゃんに唇を尖らせつつ、一応は反省してみる。
でも……ってだから、堂々巡りになっちゃうから、言わない。
お母さんが帰ってくるだろう時間まで、あと3時間。
少なくとも、恭ちゃんの前では蒸し返さないのが私のためだなと改めて感じた。
ちなみに。
夕食のあと、お兄ちゃんは食べかけのプリンを食べていた。
やっぱり胃がどうかしてると思う。
だって、あれだけフライとサラダもりもり食べてたのにまだ食べられるって……うぅ、お腹いっぱいどころか気持ち悪い。
そんなお兄ちゃんを見て眉を寄せたものの、葉月は『おいしいけど、ひとくちで十分ね』とちょっぴり不思議なことを口にしていた。
ちなみに、私のプリン食べた人はまだ見つかってない……。
誰だよ人の食べたの!ばかぁ!
私のプリンが……なくなっていたんや……。
これはもう、大事件。
誰じゃい! 勝手に食べたのは!
きーー!!となりながら書いた、安定の瀬那さんち。
うぅ、長いよぅ。
おうちこもりチャレンジ、2ヶ月目が終わろうとしてるんだぜ……。
毎日家にいたら、おかしくなるわい!
誰かなんとかして……。
お庭チャレンジも、そろそろ限界です神様。
「…………」
「…………」
「あのね? だから、私じゃないってば!」
「何も言ってねーだろ」
「目が言ってる!」
あれから半日程度経過した、現在。
リビングで録りためた番組を見ていたら、ソファへ座ったお兄ちゃんは相変わらず機嫌悪そうに眉を寄せた。
ていうか、今の今まで部屋にいたのに、なんでまた急にリビングに来るかなぁ。
悪いわけじゃもちろんないけど、でも、あのね?
今ここで喧嘩を始めるわけにはいかないの。
なぜなら——葉月が、留守だから。
「はー……」
早く帰ってきて、葉月。お願いだからぜひとも。
ちらりと壁の時計を見ると、葉月が出かけてまだ40分しか経ってないのが見えた。
「あれ?」
ことの発端は、今日の朝ごはんのあと。
珍しくお兄ちゃんが9時前に起きてきたなぁと思ったら、冷蔵庫を覗いて変な声をあげた。
「お前、プリン知らねぇ?」
「プリン? なんの?」
「いや、普通の。こンくらいのサイズのヤツ」
手で示されたのは、割と小さめなプリンだった。
プリン……えぇ? 知らないけど。
というか、最近は買い物にすら出ていないわけで。
基本、お母さんが仕事帰りに買い物をして帰ってくるから、私も葉月もお兄ちゃんも家からはほとんど出ていない。
せいぜい、郵便物を取りに行くくらいかなぁ。
あ、あとは庭に出るとかね。
だから、冷蔵庫にプリンが入っていたことすら私は知らなかった。
「え、いつ買ったの?」
「おととい」
おととい……あぁ、言われてみれば、その日お兄ちゃんだけ郵便局へ行ったんだっけ。
てことは、その帰りに買ってきたのね。
相変わらず、自分のためのものはきちんと把握してるらしい……って、きっとみんなそうだろうけど。
「お前食ったろ」
「えぇ? 食べてないってば!」
ていうか、存在自体知らないって言ったのに、なんでそうなるの?
ひどいなぁもぅ。
昔からそうだけど、基本、冷蔵庫に入ってるものはお母さんに『これ食べていい?』って聞いちゃうんだよね。
だから、お兄ちゃんと違って私は勝手に食べたりしない。
そう……お兄ちゃんと違って。
なのに、そんなふうに真正面から疑われたら、すっごく嫌な気分。
「寝ぼけて食べちゃったの、忘れてるんじゃないの?」
「ンなわけねーだろ。昨日の夜、風呂あがったときまではあったんだから」
「そのとき、食べたんじゃないの?」
「だから、食ってねぇつってんだろ!」
むぅ。ひどい言いよう。
ていうか、私は食べてないどころか、存在自体知らないんだってばもぅ!
イライラしてるのがわかるから、こっちまでイライラしてくる。
ああもぅ、悪循環。でも、悪いのはどう考えたって勝手に疑いをかけてきたお兄ちゃんなんだからね!
「どうしたの?」
2階から降りてきたらしく、葉月がリビングに姿を見せた。
どうやら2回目のお洗濯をしようとしていたらしく、手にはなぜかお兄ちゃんのスウェットを手にしている。
……って、あー絶対あれ、拾ってきてくれたヤツでしょ。
もぅ。いい加減、自分のことは自分ですればいいのに!
「プリンがねぇんだよ」
「プリン?」
「こないだ買ったコンビニの新商品」
この間、葉月は一緒に出ていない。
けれど、“コンビニ”の言葉を聞いて思い当たったらしく、『あ』と言うと珍しく口をつぐんだ。
「買ってこようか?」
「いや、そーじゃねーだろ。つか、なんでお前が買い……食った?」
「ううん」
ありえないとは思ったものの、当然のように否定するのを見て内心安堵する。
だけど、葉月は両手を合わせるとお兄ちゃんを見て小さく苦笑した。
「今日の午後、お父さんと出かける予定なの。だから、おやつの時間でよければ、買ってくるよ」
「……あのな。俺が知りたいのは、買えるかどうかじゃなくて、誰が食ったかってとこだって」
「そうだけど……でも、ないでしょう?」
「ああ」
「だから……代替案じゃだめかな?」
私と違い、葉月はずっと穏やかなまま話していた。
そのせいか、お兄ちゃんは私に向けていたトゲトゲしい言葉にはならず、最後にはいつもと同じようなテンションに戻っている。
ああ、やっぱりどっちがリードするかで違うんだなぁ。
さっきまでの会話は、間違いなく私がお兄ちゃんに引っ張られていた。
「…………」
舌打ちこそしたけれど、お兄ちゃんはそれ以上何も言わずにまた冷蔵庫を開けた。
代わりに取り出したのは、冷茶のポット。
どうやら、諦めたらしい。
……よかった。
こんなときに、またこんな情けないことで喧嘩になったら、外にも出れないし発散できないもん。
思わず葉月に視線をうつすと、お兄ちゃんを見送ったあと私を見てやっぱり苦く笑った。
で、今に戻る。
あのあと、結局お兄ちゃんはなんにも言わなくはなったけれど、どこか機嫌は悪そうなままで。
午前中もお昼ごはんのあとも、葉月いわくパソコンで作業してたみたいだけど、さすがにコーヒーブレイクにしたらしい。
葉月をたよらず入れた、ブラックコーヒーの大きめのマグカップがすぐここに置かれている。
…………。
………………。
あの……あのね?
私、今日はさっきまですごくがんばったの。
レポートも仕上げたし、ずっと読んでいたあの分厚い本だってやっと読み終わったの。
午後は葉月と日課のヨガをやるつもりだったけど、今は恭ちゃんとお出かけしてる関係で葉月は不在。
だからこその録画番組消化だったんだけど……うぅ、ちっとも笑える雰囲気じゃなくなっちゃったじゃない。
別にお兄ちゃんが悪いとはひとことも言ってないけれど、でもだってあのね?
…………。
うぅ。せめて、これだけ出演陣が爆笑してるシーンなんだから、反応くらいしたらいいのになぁ。
さっきまでと打って変わって、けらけら笑えなくなった雰囲気に、もういっそ再生をやめようかなとも思った。
どうせなら、一緒に笑ってくれる葉月と見たほうが何倍も楽しいだろうし。
うん、そうしよう。
私も紅茶入れて、そーっと部屋へ戻ろうっと。
あ、その前にさっき畳んだ洗濯物、片付けてからね。
「……あ」
立ち上がってキッチンへ行こうとしたら、玄関の鍵が開いた。
葉月だけでなく恭ちゃんも一緒らしく、ふたりで話しているのが聞こえる。
「お、珍しいな。ふたりとも下にいたのか」
「うん、まあ……いらっしゃい、恭ちゃん」
「ただいま」
「っ葉月、おかえり……!」
にっこり笑った恭ちゃん……ではなく、彼の陰からひょっこり姿を見せた葉月を見て、情けない声が漏れる。
でもでも、だって!
こんなに待ちわびたの、いつぶりだろう。
ていうか、葉月がいてくれて本当によかった。
私の反応が意外だったらしく……ていうかまぁそうだろうけど。
恭ちゃんと葉月は、顔を見合わせると少しだけおかしそうに笑った。
「たーくん、おやつ食べる?」
「その前に、孝之は俺たちへ言う言葉があるだろう」
「あー……いらっしゃい。おかえり」
「ずいぶん儀礼的だな」
「いや、別に他意はないんだけど」
あーとか、うーとか言いながらだったのが気になったらしく、恭ちゃんは眉を寄せた。
でも、葉月はくすくす笑うと、お兄ちゃんへ袋から取り出した何かを渡した。
「うわ、なんだこれ」
「ふふ。今日からの新発売なんだって」
「え? なになに? ……わ、すごい! なにこれ!」
珍しい反応をしたお兄ちゃんの手元を覗くと、小さめのプリンが3つ入っている大きなプリンアラモードがあった。
え、えー! なにこれ!
デラックスどころか、すっごい食べ応えありそうなものだけに、おいしそうではあるけれど、さすがにちょっとひとりでは……って、や、お兄ちゃんは食べそうだけどね。全然気にせず。
あまりにもなモノを見てあまりにもな反応をしたせいか、葉月は私を見ておかしそうに笑った。
「羽織には、普通サイズのプリン買ってきたよ」
「え、ほんと!? 嬉しい!」
「なんだ。ふたりとも腹が減ってたのか」
「ぅ、そういうわけじゃないんだけど」
「どうりで、珍しく葉月がコンビニへ寄りたいと言うわけだ」
お兄ちゃんの隣へ腰かけた恭ちゃんは、上着を脱ぐと大きな伸びをひとつ。
足を組んだままお兄ちゃんを見て、『お前は本当に甘いものが好きだな』と苦笑する。
「わざわざ寄ってくれたの?」
「んー……ちょっとだけ、ね」
キッチンにある電気ケトルを手にした葉月を見ると、いつものように笑いながらうなずいた。
でも、それって絶対わざわざ、だよね。
もちろん、私のためでもあるだろうけれど……誰よりも、お兄ちゃんのため、に。
「お父さん、何か飲む?」
「コーヒーをもらおうか」
「ん。羽織は?」
「あ、私も手伝うよ」
あとを追い、食器棚からマグカップを取り出す。
すると、シンクへ向かった葉月が私を見て苦笑した。
「たーくんのプリンね、伯母さんが朝食べちゃったの」
「え! そうなの?」
「内緒にしてね」
「お兄ちゃんには内緒にするけど、もぅ……お母さんにはひとこと言うからね。だって、私すっごい疑われたんだよ?」
苦笑した葉月に唇を尖らせると、想像はしていたらしく、笑うだけで何も言わなかった。
むー。
お母さんのせいで、私がひどいめに遭ったんだから、もぅ!
ていうか、普段あんまりそういうの食べないのに、なんでこういうときにかぎって食べちゃうかな。
今日帰ってきたらひとこと言おう。
でも、お母さんのことだから『あー、ごめんごめん』で終わりにしそうだけど。
「……って、はや! もう食べてるの?」
「うまい」
「ふふ。よかった」
葉月といっしょにマグカップを持ちながらリビングへ戻ると、お兄ちゃんはすでに1/2ほど平らげていた。
生クリームたっぷりのプリンアラモード。
そりゃおいしいだろうなぁとは思うけど、そのサイズをひとりで食べたら夕飯食べられなさそう……。
うぅ。さすがに見るだけでお腹いっぱい。
「はい、どうぞ」
「ああ、ありがとう」
ソーサーごと恭ちゃんへコーヒーを差し出し、葉月がすぐそこへ座る。
それを見てお兄ちゃんが何か言いたげな顔をしたけれど、口をつぐむと1/4ほどになったプリンを手に冷蔵庫へ向かった。
かと思えば、すっかり冷めたであろうマグを取りに戻ってくる。
「全部食べないの?」
「いや、さすがに多い」
珍しいことを言い出したのが、どうやら葉月も不思議に思ったらしい。
恭ちゃんだけは、普段のお兄ちゃんの物欲……食欲? を知らないからか、無反応。
え、ひょっとして具合悪いとかじゃないよね?
今日のお昼ごはんだったキノコパスタは、いつもと同じようにおかわりしてたし。
「大丈夫?」
「何がだよ。失礼だぞお前」
「む。失礼なのはお兄ちゃんでしょ? 私のこと疑っておいて」
「あ? 蒸し返すのか? お前。まだカタついてねぇんだぞ」
「だから、私が食べたんじゃないってずっと言ってるじゃない!」
「口でだけならどうとでも言えンだろ!」
これでも心配してあげたのに、相変わらずひとこと多いんだよね。お兄ちゃんって。
うぅ、言っちゃいたい。
プリン犯人はお母さんだ、って!
でも……でも、葉月と約束したんだもん、破るわけにもいかない。
これ以上言ったらまた喧嘩になりそうだから閉口したけれど、ちらりと葉月を見るとちょっぴり申し訳なさそうに、『ごめんね』と代わりに謝られてしまった。
……だからもう言わないであげる。
葉月のためにも。
ていうか、もともとは葉月が悪いんじゃなくて、お母さんがよくなかった。
「大きくなっても喧嘩の中身は子どもと同じだな」
「っ……」
「うぅ……お兄ちゃんといっしょにしないでほしい」
「かわいいもんだ」
マグをかたむけた恭ちゃんが、小さく笑った。
どこか呆れているように聞こえなくもない。
もぅ、お兄ちゃんのせいだからね。
でも……そういえば、祐恭さんにもよく言われるんだよね。そのセリフ。
さすがにそろそろ、食べ物で喧嘩しないようにしたい。私だって。
これじゃ、小学生のころとなんにも変わってない感じするし。
からから笑った恭ちゃんに唇を尖らせつつ、一応は反省してみる。
でも……ってだから、堂々巡りになっちゃうから、言わない。
お母さんが帰ってくるだろう時間まで、あと3時間。
少なくとも、恭ちゃんの前では蒸し返さないのが私のためだなと改めて感じた。
ちなみに。
夕食のあと、お兄ちゃんは食べかけのプリンを食べていた。
やっぱり胃がどうかしてると思う。
だって、あれだけフライとサラダもりもり食べてたのにまだ食べられるって……うぅ、お腹いっぱいどころか気持ち悪い。
そんなお兄ちゃんを見て眉を寄せたものの、葉月は『おいしいけど、ひとくちで十分ね』とちょっぴり不思議なことを口にしていた。
ちなみに、私のプリン食べた人はまだ見つかってない……。
誰だよ人の食べたの!ばかぁ!
愛のバクダン
2020.04.21
あと2週間で果たして落ち着くのか……落ち着かない気がします(*´-`)
がしかし、ゴールデンウィーク明けたら、少しは変わってるといいですよね。
そんでもって、10人諭吉が来るらしいのでそれは期待。
自動車税とかね……住民税とかなんとか税って、5月はただでさえ出費がかさむんや……。
それも消費税と一緒に定減税になったらいいのになーーー。
以上、mushokuのわたくしの戯言でした。
さて。
小話もネタが尽きてきたよ(笑)
健全な精神が宿るためには、健全な肉体が必要なんです。
ということは、それこそそういうことですよ奥さん!
とはいえ、濃厚接触ですからね。みんな、自粛するんよ。
リングフィットでもやって、おうち筋トレタイムを増やしていきましょう。
「ねぇ、葉月。今日のおやつ、何がいい?」
「え? 羽織が作ってくれるの?」
「だって、おうち待機になってから、ずーっと葉月が作ってくれてるでしょ? たまには私が作ろうかなって思って」
おうち待機になって、早2ヶ月が経とうとしている。
うーん、なかなかにお腹のあたりがぷよぷよし始めた気もするけれど、見なかったことに……できないけどね。
うぅ。
大学始まったら、少しは今よりも歩く時間は増えるだろうし、人目にさらされるから、きっと気をつけるはず。
だけど、毎日家で勉強だけしていても、楽しさは……どうなんだろう。え、見出せてないのは私だけなのかな。
同じように分厚い本を読んでいるものの、葉月は付箋をつけたりノートへまとめたり、見ているだけだととても楽しそうにも見える。
んんーこれってやっぱり、普段からどんな学習をしているかがわかっちゃうね。
日中は一緒にリビングで勉強しているものの、どうやら葉月は自室へ戻ったときもそんなふうに過ごしてるみたいで、私とは……基礎的なものが違うんだな、とあらためて感じた。
「プリン、チーズケーキ、シュークリーム、ガトーショコラ、チョコレートケーキ、いちごショート、ロールケーキに……どら焼き、みかんゼリー、マフィン、スコーン、クレープ、ホットケーキ……なんかほかにも……あ、パフェ! 昨日食べたいちごパフェ、すごいおいしかったー」
「ふふ。よかった。一緒に作れるおやつって、楽しくておいしくてお得な感じするよね」
「ほんとそれ!」
これまでに葉月が作ってくれたデザートを挙げてみたけれど、私が忘れてるだけで、もっとあるはず。
さすがに、毎日食べてますってわけじゃないけど、ほぼほぼ毎日のルーティンのようにもなっていて、お兄ちゃんが家にいるようになってからはさらに回数が増えた気がする。
「もうさ、お店出せるよね」
「羽織とたーくんが喜んでくれるから、作りがいがあるんだよ」
「紅茶もおいしいし、ある意味毎日アフタヌーンティー開いてる気分だもん」
そう。葉月は日替わりで紅茶のフレーバーを変えてくれていて、それも特別感が増す。
ああ、幸せだなあ。
おいしいおやつがあるって、こんなにもうきうきするんだね。
……って、そうだけどそうじゃなくて!
いつも私たちのために作ってくれるからこそ、たまには葉月をおもてなししたいって気持ちになった。
できることならというか、むしろお兄ちゃんを積極的に動かしながら!
張本人にはまだ内緒だけど!
「作ってくれるなら、なんでも嬉しいよ?」
「そりゃそうかもしれないけど……食べたいもの、ない?」
「んー……おすすめはなぁに?」
「え!? そ、そうだなぁ……あ、じゃあさフルーツ系とクリーム系どっちがいい?」
「どっちもおいしそうね」
「うぅ、ありがたいけどぉお」
まぁ確かに、決められないっていうのはなんとなくわかる。
だって、私も昨日葉月に『パフェとクリームブリュレどっちがいい?』って聞かれて、結局どっちも一緒に作ることにしたんだもん。
ちなみに、クリームブリュレはお風呂上がりにおいしくいただいた。
……ってああもう。
これだから、葉月を休ませてあげられないんだなぁ……反省。
「うーん、あ、わかった。じゃあさ、とりあえず今日は私が何かしら作っておもてなしするから、葉月は自分の時間ゆっくり過ごしてて。ね?」
「いいの?」
「もちろん! 今日はのんびり好きな本読んでね」
バッチリ任せてほしい! と太鼓判は押せない気もするけれど、でも、どうせなら私がたまには作ったものを『おいしい』って食べてほしかった。
いつもの感謝の気持ちをばっちり込めてね!
「……は?」
「えっと、だからね? たまには、葉月におやつ作ってあげたいなって思うんだけど、何がいいと思う?」
お兄ちゃんの部屋へ行ってみたら、どうやらwebで誰かと話しているらしく、パソコンの画面には複数の人たちの顔があった。
……とと、映るつもりはないので、カメラから外れた位置へ立つ。
っていうか、お兄ちゃんの背景なんかすっごいキレイな海外セレブの部屋みたいになってるけど、こんな機能あるの?
と思いきや、ほかの人に至ってはアニメの世界観だったりドラマのセットみたいだったり、はたまた牢屋だったりとバラエティ豊富すぎでしょ。
今どきの会議っていうか……ああ、これ絶対仕事じゃないやつ。
ヘッドフォンを外したお兄ちゃんを見たら気持ちが表情へ出たらしく、なぜか『ほっとけ』と舌打ちされた。
「なんでもいいんじゃね?」
「だから。そうだろうけど、何かしらおもてなししたいでしょ? 日ごろの感謝を込めて」
「日ごろの、ね。まぁ……そうだな。でも、ほぼほぼなんでも作れるだろ? アイツ」
「う」
「だから、俺たちが作るよかよっぽどアイツの作ったモンのほうが、うまいじゃん」
「それは……わかってる、んだけどさ……」
正論だとは思うけれど、でもだって、だって!
たまには、休んでほしいじゃない!
いつも私たちがお世話になりまくりなんだから!
「まぁ、たまにはって気持ちもわからなくねーけど……あー、わーった。んじゃ、作ればいいんだろ? あとで」
「え? お兄ちゃん作ってくれるの?」
「おー。期待しとけ」
ひらひら手を振った彼が、ヘッドフォンを手にした。
あ、もう戻るつもりね。
どうやらマイクだけをミュートにしてあるようで、ぎゃーぎゃーと悲鳴のような声は私まで聞こえていた。
なんだかんだいって、自由というかある意味謳歌してるんだなぁ。
けらけら笑いながらつっこみを始めたお兄ちゃんを見て、ああこの人はどんな状況下でも生きていけるんだろうなと改めて感じた。
「え? これって……」
「……たこ焼き?」
「そ」
宣言通り、14時を過ぎたあたりからお兄ちゃんがキッチンで何かしてるなと思ったものの、私と葉月が覗こうとしたら『立ち入り禁止』と手のひらを向けられた。
そのとき『密』って言ってたけど、それって絶対アレの真似でしょ。
単純に言いたいだけだろうと思ったけれど、つっこまず葉月とふたりでリビングへ戻ることにはした。
で、改めて呼ばれた今……なんだけど。
ダイニングテーブルの上には、いわゆる電気で作れるタイプのたこ焼き器が置かれていて、じゅうじゅうと丸い物体がおいしそうな……って、あれ。
「ねぇ、これってなんか生地違う?」
「よくわかったな」
「だって、なんか甘い匂いするよね? ホットケーキみたいな」
「ご名答」
見た目はまんまるたこ焼きなんだけど、匂いはホットケーキみたいな甘いもの。
てことは、生地はそれなのね。
お兄ちゃんが作るっていうからどんなものかと思いきや、でもお手軽でいいなぁとも素直に感心した。
「こんだけありゃ、あとは好きにトッピングでもなんでもして食えるだろ」
葉月と一緒に席へつき、配られた小皿と竹串を手にたこ焼きを見つめる。
見た目は一緒。匂いも一緒で、おいしそう。
ちなみに、トッピングとして置かれたのは、昨日のパフェで使ったチョコレートソースとキャラメルソースに、生クリームと大きなカップに入っているバニラアイスだった。
「……あ、このアイスお母さんが食べたいって言って買ったものじゃない?」
「そうは言っても、買ったのだいぶ前だろ? 結局ひとくちしか食ってねーし、よくね?」
バレなきゃいいんだよ、どうせ。
葉月の隣へ腰掛けたお兄ちゃんは、なかなか怖いことを言ってくれる。
うぅ。でも、お母さんこのアイス好きなんだよ……? 知らないからね?
ちょっとお高めのバニラアイス、もちろんおいしいのはよく知ってる。
……。
まぁ……いいか。
何かあったら、お兄ちゃんにまず責任は取ってもらおう。
「どこからでも好きなの食っていいぞ」
「へー。それじゃあ……」
「ふふ。いただきます」
肩をすくめたのを見てから、葉月と一緒に竹串を伸ばす。
このとき、本当は気づけばよかったんだよね。
だって……お兄ちゃんは私たちを見ながらも、腕を組んだままにやにや笑ってたんだから。
「っ……!!?」
熱いだろうなと思って食べたけど、そうじゃない。
や、あの、熱いには熱かったの。
でもそうじゃなくて……そうじゃなくてっ!
「なにこれ!?」
ひとくちで行ったのがまずかったらしく、噛んだ瞬間中からじゅわっと何かがあふれた。
何か。
何かって……これ、みかんでしょ!
あつあつのみかんの果汁があふれて、危うくむせるところだった。
「アタリか。引き強いな、お前」
「そういう問題じゃないでしょ!? えぇえ!? ちょ、なんで!? なんで中身がみかんなの!?」
この間食べたみかんゼリーと同じ感じだから、きっと缶詰のみかん。
うぅ……じゅわっとホットなみかん果汁は……思いのほか、甘ずっぱい。
でも、お兄ちゃんはテーブルへ頬杖をつくと、葉月へ向き直った。
「中身なんだった?」
「……キャンディチーズ?」
「ち。ハズレか」
「え、当たりでしょ!」
「そーか? 期待したリアクションと違ったら、ハズレだろ」
お兄ちゃんの判断基準がまったくわからない。
ていうか……てことは……え、ええ?
もしかしてこれ全部、中身違うの?
じゅうじゅうと音を立てて焼かれているまんまるの物体が、改めてちょっと異様な存在感を示しているように見えた。
「おやつじゃないじゃない!」
「中身がランダムってだけで、どー考えたっておやつだろ。食べられるモンしか入れてねーぞ」
「そういう問題じゃないっ!」
ああもうああもう!
自信満々に言うから信じたのに、まさかこんなことになるなんて!
うぅ。怖いんだけど……。
ぽっかり2個ほど空いた場所を見ながら、当然眉は寄った。
「たーくんは食べないの?」
「いや、俺中身知ってるし。アンパイしか引かねーから、おもしろくねぇじゃん」
「うぅ、不正行為だ」
ていうか、こんなわくわくしないおやつ嫌だぁ。
見た目はおいしそうだったのに、今となっては隠されているものがあるとわかって、恨めしい。
でも……食べ物、粗末にしちゃいけないでしょ。
匂いはおいしそうなのになぁ。
とはいえ、葉月はキャンディチーズを引いたわけでしょ?
てことは、あと……えっと1/17はもしかしたらおいしい何かかもしれない。
うー。心臓悪いなぁ。
ニヤニヤしながら中央のひとつをつまんだお兄ちゃんは、『ウィンナーだと完全にアメリカンドックだな』とつぶやいていた。
「……これっ!」
「あー」
「っ……ねぇやめてそれ! 食べる前に怖い!」
「お前、単純だな」
「もう。たーくん、羽織で遊ばないであげて」
意を決して選んだ瞬間そう言われたら、なんかもう……何を信じればいいの?
葉月が意見してはくれたけれど、お兄ちゃんはまったく気にしない様子で『おすすめはこの辺な』と私が選んだのと逆側を指で示した。
「……葉月どれにする?」
「んー……じゃあ、これ」
「こっちがうまいっつってんだろ」
「おいしいとは言わなかったでしょう?」
「ち。お前、勘いいな」
葉月が選んだものをみて、お兄ちゃんは明らかに舌打ちした。
うぅ。私たちで遊ぶのやめてよー。
葉月が半分ほどかじったそれは、いちごジャムだったらしく、ほっとした顔で生クリームを追加していた。
「…………」
ごくり。
私も……おいしいのがいい。
ていうか、全部の具は何なの?
一覧みたいなのが欲しいんだけど、そういうマメさはなさそうだから諦める。
「えいっ!」
ど真ん中に位置するものを刺し、お兄ちゃんの反応を見ずに……恐る恐る、かじる。
と。
「あ、ウィンナーだ」
「よかったね」
「え、同じ具材ってありなの?」
「そんなに種類ねーからな。さすがに、ヤバイやつは入れてねーし」
「うぅ、心臓に悪いよ……ていうか、違う意味でどきどきするおやつなんてやだぁ」
さっきのみかんが、少しだけトラウマ。
みかんは、みかんとして食べるのが絶対いいと思うんだよね。
それにしても、なんでこんなおやつを考えたのか。
まさにギャンブルそのもので、ああ性格ってこういうときよくわかるよねとある意味納得した。
「てか、ちびちび食ってねーで、ひとくちでいけよ」
「だって怖いんだもん!」
「だから、そんな変なモン入れてな——ッ!!」
からから笑ったお兄ちゃんは、宣言通りひとくちで行った。
瞬間、口へ手を当てて立ち上がり、慌てたように冷蔵庫へ向かう。
え……え、やだ、何? 何食べたの?
げほげほとむせているのが聞こえ、葉月と眉を寄せて見守るしかできなかった。
「たーくん、大丈夫?」
「くっそ……ミスった」
グラスへなみなみと冷茶を注いで戻ってきたお兄ちゃんは、椅子へ座り直すと半分ほど飲みほす。
え、なんの具食べたの?
怖いような聞いてみたいような気持ちで見つめたら、ため息をついて頬杖をついた。
「塩辛」
「えぇえ!? やだっ! 何入れてるの!?」
「しょーがねーじゃん。アタリが多めじゃなきゃおもしろくねぇだろ?」
「やだやだやだっ、絶対おいしくないでしょ! もぅ、なんでそういう珍味を入れようとするわけ!? 信じられない!」
「案外合うかもしんねーだろ」
「合わなかったでしょ!? そういうの自業自得って言うんだからね!」
でも、ほんとまさに自業自得だからね!
うぅう入れた張本人が間違うとか、そんなのやなんだけど!
塩辛もやだけど、きっとほかにもいろんな具材が隠れてるんだ。
うぅ、やだぁ。楽しめない!
だってこれじゃ、まるで闇鍋みたいじゃない!
「とりあえず、これで一巡したな。あとは……よし、じゃんけんで順番決めようぜ」
「え!?」
「しょーがねーじゃん。誰かひとり多く食う権利あるぞ」
「全然嬉しくない!」
たこ焼き器には、あと13個残っている。
ふあぁやだぁ。
ていうか、こんな緊張をしいられたまま4つも食べなきゃいけないことが、そもそもストレスなんだけど。
もぅ! 食べ物で遊んじゃいけないんだよ!
葉月を見ると、中身を当てるかのようにじぃっとたこ焼きを見つめていたものの、小さくため息をついて諦めた様子を見せた。
「ねぇ、たーくん」
「あ?」
「今日の夕飯、餃子にしようと思ったんだけど……いろんな具があったほうが楽しめる?」
おずおずと手を挙げた葉月を見て、けらけら笑っていたお兄ちゃんが動きを止めた。
餃子……そういえば餃子も、中身見えなくなるよね。
え、それってそういうこと?
うぅ、私は絶対普通の餃子がいい!
まじまじと見られているのがわかってか、お兄ちゃんもさすがに口を閉ざした。
「いいか? 食い物ってのは、安心ていう大前提があって然るべきだろ? つまり、おやつだからって遊んじゃいけないんだよ。わかるか?」
「それはこっちのセリフ!」
「餃子はガチでいい。てか、普通じゃない餃子ってなんだよ」
「作ろうか?」
「やめろ」
真面目な顔で何をいうかと思えば、当たり前のことを当たり前のように言われ、つっこむしかなかった。
葉月は、怒ってないと思うけれど、間違いなく呆れてるんだとは思う。
小さくため息をつくと、『こういうのは、一緒のテンションで楽しめる人とやってね』と苦く笑った。
「ごめんね、葉月」
「え?」
「私が作るって言い出したばっかりに、こんなゲテモノおやつになっちゃって」
どれにしようか悩んでいた葉月へ頭を下げると、まばたいてから首を横へ振った。
お兄ちゃんへ見せた苦笑とは違い、いつもと同じ笑顔なのがかえって申し訳ない。
「楽しいは楽しいし、今のところふたつともおいしかったよ」
「でも……」
「こういうおやつもいいんだな、ってちょっとだけ思ったから……次からは中身を変えてみるね」
「いや、だから悪かったって!」
にっこり笑った葉月を見て、お兄ちゃんが慌てたように声をあげた。
ああ、こういう叱り方もあるのね。
正面きって正論をぶつけるよりも、お兄ちゃんの場合はこういうほうが効くらしい。
くすくす笑った葉月へ切々と言い訳をしているのを見ながら、ああやっぱり葉月のほうが一枚上手だなと改めて思った。
そんな、ロシアンたこ焼き。
お子さまと一緒にやってみるのも、ある意味盛り上がるかも……!?
という、そんな1日でございました。
がしかし、ゴールデンウィーク明けたら、少しは変わってるといいですよね。
そんでもって、10人諭吉が来るらしいのでそれは期待。
自動車税とかね……住民税とかなんとか税って、5月はただでさえ出費がかさむんや……。
それも消費税と一緒に定減税になったらいいのになーーー。
以上、mushokuのわたくしの戯言でした。
さて。
小話もネタが尽きてきたよ(笑)
健全な精神が宿るためには、健全な肉体が必要なんです。
ということは、それこそそういうことですよ奥さん!
とはいえ、濃厚接触ですからね。みんな、自粛するんよ。
リングフィットでもやって、おうち筋トレタイムを増やしていきましょう。
「ねぇ、葉月。今日のおやつ、何がいい?」
「え? 羽織が作ってくれるの?」
「だって、おうち待機になってから、ずーっと葉月が作ってくれてるでしょ? たまには私が作ろうかなって思って」
おうち待機になって、早2ヶ月が経とうとしている。
うーん、なかなかにお腹のあたりがぷよぷよし始めた気もするけれど、見なかったことに……できないけどね。
うぅ。
大学始まったら、少しは今よりも歩く時間は増えるだろうし、人目にさらされるから、きっと気をつけるはず。
だけど、毎日家で勉強だけしていても、楽しさは……どうなんだろう。え、見出せてないのは私だけなのかな。
同じように分厚い本を読んでいるものの、葉月は付箋をつけたりノートへまとめたり、見ているだけだととても楽しそうにも見える。
んんーこれってやっぱり、普段からどんな学習をしているかがわかっちゃうね。
日中は一緒にリビングで勉強しているものの、どうやら葉月は自室へ戻ったときもそんなふうに過ごしてるみたいで、私とは……基礎的なものが違うんだな、とあらためて感じた。
「プリン、チーズケーキ、シュークリーム、ガトーショコラ、チョコレートケーキ、いちごショート、ロールケーキに……どら焼き、みかんゼリー、マフィン、スコーン、クレープ、ホットケーキ……なんかほかにも……あ、パフェ! 昨日食べたいちごパフェ、すごいおいしかったー」
「ふふ。よかった。一緒に作れるおやつって、楽しくておいしくてお得な感じするよね」
「ほんとそれ!」
これまでに葉月が作ってくれたデザートを挙げてみたけれど、私が忘れてるだけで、もっとあるはず。
さすがに、毎日食べてますってわけじゃないけど、ほぼほぼ毎日のルーティンのようにもなっていて、お兄ちゃんが家にいるようになってからはさらに回数が増えた気がする。
「もうさ、お店出せるよね」
「羽織とたーくんが喜んでくれるから、作りがいがあるんだよ」
「紅茶もおいしいし、ある意味毎日アフタヌーンティー開いてる気分だもん」
そう。葉月は日替わりで紅茶のフレーバーを変えてくれていて、それも特別感が増す。
ああ、幸せだなあ。
おいしいおやつがあるって、こんなにもうきうきするんだね。
……って、そうだけどそうじゃなくて!
いつも私たちのために作ってくれるからこそ、たまには葉月をおもてなししたいって気持ちになった。
できることならというか、むしろお兄ちゃんを積極的に動かしながら!
張本人にはまだ内緒だけど!
「作ってくれるなら、なんでも嬉しいよ?」
「そりゃそうかもしれないけど……食べたいもの、ない?」
「んー……おすすめはなぁに?」
「え!? そ、そうだなぁ……あ、じゃあさフルーツ系とクリーム系どっちがいい?」
「どっちもおいしそうね」
「うぅ、ありがたいけどぉお」
まぁ確かに、決められないっていうのはなんとなくわかる。
だって、私も昨日葉月に『パフェとクリームブリュレどっちがいい?』って聞かれて、結局どっちも一緒に作ることにしたんだもん。
ちなみに、クリームブリュレはお風呂上がりにおいしくいただいた。
……ってああもう。
これだから、葉月を休ませてあげられないんだなぁ……反省。
「うーん、あ、わかった。じゃあさ、とりあえず今日は私が何かしら作っておもてなしするから、葉月は自分の時間ゆっくり過ごしてて。ね?」
「いいの?」
「もちろん! 今日はのんびり好きな本読んでね」
バッチリ任せてほしい! と太鼓判は押せない気もするけれど、でも、どうせなら私がたまには作ったものを『おいしい』って食べてほしかった。
いつもの感謝の気持ちをばっちり込めてね!
「……は?」
「えっと、だからね? たまには、葉月におやつ作ってあげたいなって思うんだけど、何がいいと思う?」
お兄ちゃんの部屋へ行ってみたら、どうやらwebで誰かと話しているらしく、パソコンの画面には複数の人たちの顔があった。
……とと、映るつもりはないので、カメラから外れた位置へ立つ。
っていうか、お兄ちゃんの背景なんかすっごいキレイな海外セレブの部屋みたいになってるけど、こんな機能あるの?
と思いきや、ほかの人に至ってはアニメの世界観だったりドラマのセットみたいだったり、はたまた牢屋だったりとバラエティ豊富すぎでしょ。
今どきの会議っていうか……ああ、これ絶対仕事じゃないやつ。
ヘッドフォンを外したお兄ちゃんを見たら気持ちが表情へ出たらしく、なぜか『ほっとけ』と舌打ちされた。
「なんでもいいんじゃね?」
「だから。そうだろうけど、何かしらおもてなししたいでしょ? 日ごろの感謝を込めて」
「日ごろの、ね。まぁ……そうだな。でも、ほぼほぼなんでも作れるだろ? アイツ」
「う」
「だから、俺たちが作るよかよっぽどアイツの作ったモンのほうが、うまいじゃん」
「それは……わかってる、んだけどさ……」
正論だとは思うけれど、でもだって、だって!
たまには、休んでほしいじゃない!
いつも私たちがお世話になりまくりなんだから!
「まぁ、たまにはって気持ちもわからなくねーけど……あー、わーった。んじゃ、作ればいいんだろ? あとで」
「え? お兄ちゃん作ってくれるの?」
「おー。期待しとけ」
ひらひら手を振った彼が、ヘッドフォンを手にした。
あ、もう戻るつもりね。
どうやらマイクだけをミュートにしてあるようで、ぎゃーぎゃーと悲鳴のような声は私まで聞こえていた。
なんだかんだいって、自由というかある意味謳歌してるんだなぁ。
けらけら笑いながらつっこみを始めたお兄ちゃんを見て、ああこの人はどんな状況下でも生きていけるんだろうなと改めて感じた。
「え? これって……」
「……たこ焼き?」
「そ」
宣言通り、14時を過ぎたあたりからお兄ちゃんがキッチンで何かしてるなと思ったものの、私と葉月が覗こうとしたら『立ち入り禁止』と手のひらを向けられた。
そのとき『密』って言ってたけど、それって絶対アレの真似でしょ。
単純に言いたいだけだろうと思ったけれど、つっこまず葉月とふたりでリビングへ戻ることにはした。
で、改めて呼ばれた今……なんだけど。
ダイニングテーブルの上には、いわゆる電気で作れるタイプのたこ焼き器が置かれていて、じゅうじゅうと丸い物体がおいしそうな……って、あれ。
「ねぇ、これってなんか生地違う?」
「よくわかったな」
「だって、なんか甘い匂いするよね? ホットケーキみたいな」
「ご名答」
見た目はまんまるたこ焼きなんだけど、匂いはホットケーキみたいな甘いもの。
てことは、生地はそれなのね。
お兄ちゃんが作るっていうからどんなものかと思いきや、でもお手軽でいいなぁとも素直に感心した。
「こんだけありゃ、あとは好きにトッピングでもなんでもして食えるだろ」
葉月と一緒に席へつき、配られた小皿と竹串を手にたこ焼きを見つめる。
見た目は一緒。匂いも一緒で、おいしそう。
ちなみに、トッピングとして置かれたのは、昨日のパフェで使ったチョコレートソースとキャラメルソースに、生クリームと大きなカップに入っているバニラアイスだった。
「……あ、このアイスお母さんが食べたいって言って買ったものじゃない?」
「そうは言っても、買ったのだいぶ前だろ? 結局ひとくちしか食ってねーし、よくね?」
バレなきゃいいんだよ、どうせ。
葉月の隣へ腰掛けたお兄ちゃんは、なかなか怖いことを言ってくれる。
うぅ。でも、お母さんこのアイス好きなんだよ……? 知らないからね?
ちょっとお高めのバニラアイス、もちろんおいしいのはよく知ってる。
……。
まぁ……いいか。
何かあったら、お兄ちゃんにまず責任は取ってもらおう。
「どこからでも好きなの食っていいぞ」
「へー。それじゃあ……」
「ふふ。いただきます」
肩をすくめたのを見てから、葉月と一緒に竹串を伸ばす。
このとき、本当は気づけばよかったんだよね。
だって……お兄ちゃんは私たちを見ながらも、腕を組んだままにやにや笑ってたんだから。
「っ……!!?」
熱いだろうなと思って食べたけど、そうじゃない。
や、あの、熱いには熱かったの。
でもそうじゃなくて……そうじゃなくてっ!
「なにこれ!?」
ひとくちで行ったのがまずかったらしく、噛んだ瞬間中からじゅわっと何かがあふれた。
何か。
何かって……これ、みかんでしょ!
あつあつのみかんの果汁があふれて、危うくむせるところだった。
「アタリか。引き強いな、お前」
「そういう問題じゃないでしょ!? えぇえ!? ちょ、なんで!? なんで中身がみかんなの!?」
この間食べたみかんゼリーと同じ感じだから、きっと缶詰のみかん。
うぅ……じゅわっとホットなみかん果汁は……思いのほか、甘ずっぱい。
でも、お兄ちゃんはテーブルへ頬杖をつくと、葉月へ向き直った。
「中身なんだった?」
「……キャンディチーズ?」
「ち。ハズレか」
「え、当たりでしょ!」
「そーか? 期待したリアクションと違ったら、ハズレだろ」
お兄ちゃんの判断基準がまったくわからない。
ていうか……てことは……え、ええ?
もしかしてこれ全部、中身違うの?
じゅうじゅうと音を立てて焼かれているまんまるの物体が、改めてちょっと異様な存在感を示しているように見えた。
「おやつじゃないじゃない!」
「中身がランダムってだけで、どー考えたっておやつだろ。食べられるモンしか入れてねーぞ」
「そういう問題じゃないっ!」
ああもうああもう!
自信満々に言うから信じたのに、まさかこんなことになるなんて!
うぅ。怖いんだけど……。
ぽっかり2個ほど空いた場所を見ながら、当然眉は寄った。
「たーくんは食べないの?」
「いや、俺中身知ってるし。アンパイしか引かねーから、おもしろくねぇじゃん」
「うぅ、不正行為だ」
ていうか、こんなわくわくしないおやつ嫌だぁ。
見た目はおいしそうだったのに、今となっては隠されているものがあるとわかって、恨めしい。
でも……食べ物、粗末にしちゃいけないでしょ。
匂いはおいしそうなのになぁ。
とはいえ、葉月はキャンディチーズを引いたわけでしょ?
てことは、あと……えっと1/17はもしかしたらおいしい何かかもしれない。
うー。心臓悪いなぁ。
ニヤニヤしながら中央のひとつをつまんだお兄ちゃんは、『ウィンナーだと完全にアメリカンドックだな』とつぶやいていた。
「……これっ!」
「あー」
「っ……ねぇやめてそれ! 食べる前に怖い!」
「お前、単純だな」
「もう。たーくん、羽織で遊ばないであげて」
意を決して選んだ瞬間そう言われたら、なんかもう……何を信じればいいの?
葉月が意見してはくれたけれど、お兄ちゃんはまったく気にしない様子で『おすすめはこの辺な』と私が選んだのと逆側を指で示した。
「……葉月どれにする?」
「んー……じゃあ、これ」
「こっちがうまいっつってんだろ」
「おいしいとは言わなかったでしょう?」
「ち。お前、勘いいな」
葉月が選んだものをみて、お兄ちゃんは明らかに舌打ちした。
うぅ。私たちで遊ぶのやめてよー。
葉月が半分ほどかじったそれは、いちごジャムだったらしく、ほっとした顔で生クリームを追加していた。
「…………」
ごくり。
私も……おいしいのがいい。
ていうか、全部の具は何なの?
一覧みたいなのが欲しいんだけど、そういうマメさはなさそうだから諦める。
「えいっ!」
ど真ん中に位置するものを刺し、お兄ちゃんの反応を見ずに……恐る恐る、かじる。
と。
「あ、ウィンナーだ」
「よかったね」
「え、同じ具材ってありなの?」
「そんなに種類ねーからな。さすがに、ヤバイやつは入れてねーし」
「うぅ、心臓に悪いよ……ていうか、違う意味でどきどきするおやつなんてやだぁ」
さっきのみかんが、少しだけトラウマ。
みかんは、みかんとして食べるのが絶対いいと思うんだよね。
それにしても、なんでこんなおやつを考えたのか。
まさにギャンブルそのもので、ああ性格ってこういうときよくわかるよねとある意味納得した。
「てか、ちびちび食ってねーで、ひとくちでいけよ」
「だって怖いんだもん!」
「だから、そんな変なモン入れてな——ッ!!」
からから笑ったお兄ちゃんは、宣言通りひとくちで行った。
瞬間、口へ手を当てて立ち上がり、慌てたように冷蔵庫へ向かう。
え……え、やだ、何? 何食べたの?
げほげほとむせているのが聞こえ、葉月と眉を寄せて見守るしかできなかった。
「たーくん、大丈夫?」
「くっそ……ミスった」
グラスへなみなみと冷茶を注いで戻ってきたお兄ちゃんは、椅子へ座り直すと半分ほど飲みほす。
え、なんの具食べたの?
怖いような聞いてみたいような気持ちで見つめたら、ため息をついて頬杖をついた。
「塩辛」
「えぇえ!? やだっ! 何入れてるの!?」
「しょーがねーじゃん。アタリが多めじゃなきゃおもしろくねぇだろ?」
「やだやだやだっ、絶対おいしくないでしょ! もぅ、なんでそういう珍味を入れようとするわけ!? 信じられない!」
「案外合うかもしんねーだろ」
「合わなかったでしょ!? そういうの自業自得って言うんだからね!」
でも、ほんとまさに自業自得だからね!
うぅう入れた張本人が間違うとか、そんなのやなんだけど!
塩辛もやだけど、きっとほかにもいろんな具材が隠れてるんだ。
うぅ、やだぁ。楽しめない!
だってこれじゃ、まるで闇鍋みたいじゃない!
「とりあえず、これで一巡したな。あとは……よし、じゃんけんで順番決めようぜ」
「え!?」
「しょーがねーじゃん。誰かひとり多く食う権利あるぞ」
「全然嬉しくない!」
たこ焼き器には、あと13個残っている。
ふあぁやだぁ。
ていうか、こんな緊張をしいられたまま4つも食べなきゃいけないことが、そもそもストレスなんだけど。
もぅ! 食べ物で遊んじゃいけないんだよ!
葉月を見ると、中身を当てるかのようにじぃっとたこ焼きを見つめていたものの、小さくため息をついて諦めた様子を見せた。
「ねぇ、たーくん」
「あ?」
「今日の夕飯、餃子にしようと思ったんだけど……いろんな具があったほうが楽しめる?」
おずおずと手を挙げた葉月を見て、けらけら笑っていたお兄ちゃんが動きを止めた。
餃子……そういえば餃子も、中身見えなくなるよね。
え、それってそういうこと?
うぅ、私は絶対普通の餃子がいい!
まじまじと見られているのがわかってか、お兄ちゃんもさすがに口を閉ざした。
「いいか? 食い物ってのは、安心ていう大前提があって然るべきだろ? つまり、おやつだからって遊んじゃいけないんだよ。わかるか?」
「それはこっちのセリフ!」
「餃子はガチでいい。てか、普通じゃない餃子ってなんだよ」
「作ろうか?」
「やめろ」
真面目な顔で何をいうかと思えば、当たり前のことを当たり前のように言われ、つっこむしかなかった。
葉月は、怒ってないと思うけれど、間違いなく呆れてるんだとは思う。
小さくため息をつくと、『こういうのは、一緒のテンションで楽しめる人とやってね』と苦く笑った。
「ごめんね、葉月」
「え?」
「私が作るって言い出したばっかりに、こんなゲテモノおやつになっちゃって」
どれにしようか悩んでいた葉月へ頭を下げると、まばたいてから首を横へ振った。
お兄ちゃんへ見せた苦笑とは違い、いつもと同じ笑顔なのがかえって申し訳ない。
「楽しいは楽しいし、今のところふたつともおいしかったよ」
「でも……」
「こういうおやつもいいんだな、ってちょっとだけ思ったから……次からは中身を変えてみるね」
「いや、だから悪かったって!」
にっこり笑った葉月を見て、お兄ちゃんが慌てたように声をあげた。
ああ、こういう叱り方もあるのね。
正面きって正論をぶつけるよりも、お兄ちゃんの場合はこういうほうが効くらしい。
くすくす笑った葉月へ切々と言い訳をしているのを見ながら、ああやっぱり葉月のほうが一枚上手だなと改めて思った。
そんな、ロシアンたこ焼き。
お子さまと一緒にやってみるのも、ある意味盛り上がるかも……!?
という、そんな1日でございました。
限界
2020.04.16
飽きた(^^)/
もーーーー飽きました。さすがに。
在宅ワークと称して資料まとめてたけど、全部終わったぜ。
やりきったぜ……だがしかし、終わらないのは日々のごはんづくり。
ここんところ、朝食昼食夕食すべてをマックス食材で作っているため、
食費がはんぱねぇ。
そして現在MUSHOKUなわけで、諭吉がえらい勢いで飛んでいく……。
そういや、ここにきてひとり10人諭吉が配られるとかなんとか。
くればいいな……諭吉かもーん。
そんなこんなで、今回は長文。
お時間のあるときにでもー
「さすがに飽きた」
自宅謹慎になって、4日目。
お昼を食べ終えたところで、お兄ちゃんがおもむろに口を開いた。
ここ数日、家にいるのは葉月とお兄ちゃんと私の3人きり。
昼食を当番制にしたおかげで、分担は同じくらい……なんだけど、当然、メニューに大きな偏りはある。
ちなみに、今日のお昼はお兄ちゃんが作った海鮮塩焼きそば。
ご丁寧にチンゲンサイやきくらげと一緒に、冷凍とはいえシーフードミックスが入っていて、実はすごくおいしかったんだよね。
お兄ちゃん、ちゃんと作れるんだなぁとある意味感心。
でも、葉月がすごくすっごく褒めたんだけど、当の本人は『今どき、ネットでいくらでもレシピあんだろ』と冷めた反応でそれも意外だった。
明日の当番は私だから、何にしようかなーって思ったんだけど……まさかのセリフでリビングにいた私と葉月は思わず顔を見合わせていた。
「買い物行ってくれば?」
「スーパーとドラッグストアへ何しに行くんだよ。マスクパトロールか?」
「あ、あったら買ってきてってお母さん言ってたよ」
「そりゃそーだろーけど、そうじゃねぇんだよ。お前ら、よく飽きねーな。身体なまんねぇ?」
「んー……葉月とふたりでヨガやってるから、別に」
「ヨガ?」
「お母さんが昔買ったDVDがあったから、一緒にやってるよ」
そう。
あまりにも暇暇言ってたら、お母さんが思い出したようにDVDの存在を教えてくれた。
以来、14時からは毎日ヨガタイムを過ごしている。
なんかこう、呼吸を意識してやるからなのか、身体が軽いんだよね。
眠くならないし、ちょうどいいからしばらくは続けられそう……なんだけど、まあ、お兄ちゃんはやらないだろうなとも思う。
だって、ヨガって静かな動きだし。
お兄ちゃんが求めるのは、もっとこう激しいスポーツ的なものだろうから。
「明日出かけてくる」
「どこへ?」
「山」
「……山? 上るの?」
「車でな」
ソファへ座ったまま腕を組んだお兄ちゃんが、唐突に宣言した。
え、いいの? 外に出て?
自宅軟禁が必須だと思っていたから、思わず葉月と二度目の顔をあわせていた。
「お前らも行くか?」
「お出かけしていいの?」
「いや、山のてっぺんならいーだろーよ。ごみごみしてるほど人がいたら、降りなきゃいいだろ」
「……なるほど」
何がなんでもというか、是が非でも外へ出たいらしい。
私も葉月も、家にいることは嫌いじゃないし、多分ずっといられる。
葉月にいたっては、本を読んだり宿題したりだけじゃなくて、外でガーデニングしてたり、新しいレシピを試してみたりと割と充実しているようで、すっごく楽しそうなんだけど。
私は、こうしてリビングでだらーっと過ごすのもそんなに嫌いじゃない。
本を読んでいて、うとうとして……ってしあわせじゃない?
なんて言ったら、お兄ちゃんはすごく嫌そうな顔しそうだけど。
「明日はお天気もいいって」
「じゃあ行こうかな」
「ね。たまには、お庭じゃない外へ行くのもいいかもね」
スマフォで天気予報を見ていたらしく、葉月が笑った。
外かぁ……久しぶりだなぁ。
庭で楽しむことはしたし、窓を開けて部屋で過ごしてはきたけど、外出は久しぶり。
そっか。密集、密接、密閉じゃなければいいのかな。
もうすでに桜は散っていて、お花見のベストは過ぎちゃってるし、山の上とあれば密集は考えられない。
「んじゃ、明日。午前中なら空いてんじゃねーか?」
「え。お兄ちゃん、午前中に起きられるの?」
「起きる」
ああ、どうやらよっぽど外へ出たいらしい。
普段起きない時間帯を自ら指定って、やっぱり、『やりたい』気持ちは原動力なんだなぁ。
ついこの間、心理学の授業で聞いたことを思い浮かべながら、葉月と思わず顔を見合わせて笑っていた。
「わあぁああ!!?」
身体が、横へ、大きく揺さぶられる。
かと思いきや今度は反対。
ぐっ、と瞬間的に息が詰まって苦しい。
え、あの、これって後部座席だから、なの?
「っひゃあ!」
「言ったろ、しっかりつかまってろって」
「そういう問題じゃ……っちょ、まっ……! うー!!」
バックミラーごしに一瞬お兄ちゃんと目が合ったけど、次の瞬間、カーブへ差しかかってまた身体が反対方向へ揺さぶられた。
「羽織、大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ないっ。ていうか、なんで? 葉月こそ平気なの?」
「んー……お父さんに慣らされたのは少しあるかな」
「えぇええ」
助手席の彼女を見ると、シートへ深く腰かけたままアシストグリップをしっかり握りしめていた。
知ってた? 窓の上にある、つり革みたいなところの名前。
私は今日初めて知った。
この体験のおかげで、多分二度と忘れないと思う。
うぅう、そこを握れば少しは違うのかなぁ。
というか、身体が揺さぶられる以上に、正直ちょっと痛い。
まさか、山道になった途端加速されるとか思わないでしょ。
とはいえ、当の本人は私と違ってまったく声はあげないけれど、とても楽しそうに運転していた。
いやだってあのね。
ギアさばきもそうなら、ブレーキングも何もかもいつもと違いすぎて。
うぅ……酔うでしょ、これ。
こんなことになるなら、家にいればよかったと素直に思う。
「つか、お前が言ったんだろ? 道にあるタイヤ痕見て」
「それは……でも、だからってこんな飛ばすと思わないでしょ!」
確かに言った。『なんでこんなにタイヤの跡がついてるの?』って。
でもそれは素朴な疑問であって、何も再現してほしいなんてひとことも言ってない。
うぅ、気持ち悪くなりそうでやだなぁ。
っていうか、運転してる人って気持ち悪くならないのかな。
まだ未経験な部分だけに、ちょっとよくわからないところだ。
「飛ばしてねーじゃん。きっちり法廷速度内だ」
「うぅ……でも、こう、キュッて曲がられると重力すごいんだけど」
「下りはこの倍だな。もっとおもしろい」
「えぇ!? 絶対無理だからやめて!」
さらりととんでもない発言をされ、慌てて首を振る。
法廷速度内とはいえ、こう、キュキュっと曲がられるとそのたび身体が振られて大変なことになるんだってば。本当にもう。
「う!」
グッとアクセルを踏み込んだかと思いきや、次の瞬間ギアチェンジと同時にスピードががくんと落ちた。
危うくシートへ鼻がぶつかりそうになって、思わず両手で身体を支える。
「……え? 着いたの?」
「先行車」
言われて前を覗くと、白い車が10メートル先くらいを走っていた。
ああ、多分普通に走ってる。
スピードもそうなら、カーブへの入り方も一般的。
……はああ、やっと普通に戻った。
どこの誰かは知らないけれど、おかげで助かった。
さすがに距離を開けてさっきよりだいぶゆっくり走っているから、身体に感じる重力はほとんどなかった。
「……へえ」
ようやく、飲みたかったレモンティーの蓋を開けられる……と思ったのに、なぜかお兄ちゃんは小さく笑った。
「わあ!?」
途端、ぐっ、とまた身体がシートへ押し付けられる。
え、ちょ、ちょっと待って。なんで? なんで!?
「お兄ちゃ……前に車いるんでしょ!?」
「いや、あっちが先に走り出したじゃん」
「えぇ!?」
見ると、前を走っていた白い車が加速したらしくさっきよりも距離が開いていた。
……加速、じゃない。
走り方が変わったんだ。
ブレーキの踏み方も短ければ、ハンドリングも急。
それこそ、最短ルートを通るような走り方に変わっていた。
「あのシルビアも、上りに来たな」
「そうなの?」
「だろ? じゃなきゃ走り方変える必要ねぇじゃん。俺はだいぶ距離取ってたんだから」
どうして嬉しそうなのかわからないけれど、さっきと同じようにお兄ちゃんは走り方を変えた。
おかげで、レモンティーが……飲めないじゃないもぅ!
今蓋を開けたら、絶対こぼれる。私が大変なことになる。
うぅう、落ち着いて飲みたいのに。
「頂上まであと3分ってとこだな。我慢しろ」
「えぇえっ……ぅ!!」
まったく知らない人だろうに、どうしてこうもリンクするのか。
みんな、欲求不満なの?
まるで知り合いの車を追うかのように距離を詰めて走るのを見ながら、ため息とは違う大きな息が漏れそうになって……また詰まった。
「はぁあああ……やっと下りられた……」
ずっとずっと続いていた坂道をのぼりきったところで見えた、広い駐車場。
そこでようやく車を降りることができ、ある意味ふらふらになりながら地面の感触を両足で確かめるように立つと、それだけでしあわせを感じる。
ちなみに、先行していた白い車は、そのままさらに上を目指していった。
……あの先に何があるのかは知らないし、もともとお兄ちゃんの目的地はここだったみたいだから、ほっとはしたけどね。
でも、なぜか駐車場を曲がる寸前に、お兄ちゃんはハザードを焚いて減速した。
なんの意味があるのかは、わからない。
でも、前の車も同じように反応してたから、ひょっとしなくても暗黙の何かなんだろうとは思う。
知り合いじゃないのに、ある意味すごい。
車が好きっていう共通点だけで十分なのかな。もしかしたら。
「大丈夫?」
「うぅ……葉月よく平気だね……」
「つか、お前乗り慣れすぎだろ。シートの角度も位置も当たり前のように直してたな」
そう。それは見てた。
私がタイヤ痕を見て『なんであんな痕がつくの?』って聞いたあと、お兄ちゃんが『やってやろうか?』って言ったとき、葉月はシートを少しだけ起こしてベルトの位置を調整していた。
なんでだろうって思ったんだけど……ていうか、お兄ちゃんもそれ見てたから、あんなふうに走り出したんでしょ。
絶対、葉月の調整を待ってた。
だったらひとこと、私にも教えてくれればいいのに!
「お父さんも車好きだから」
「つっても、恭介さんあんなふうに走らねぇだろ?」
「一般道ではね。でも、イベントで走れるときがあるの」
「へぇ」
「車が好きな人は、世界中にいるのね」
ふらふらな私とは違い、葉月は特に普段と変わらない様子で立っていた。
私だけなのね……。
うぅ、無事に辿り着いてよかった。帰りは絶対やめてほしい。
「帰りは前へ座ったら?」
「前に乗っても、あの勢いじゃ酔うと思う」
「帰りはしねぇって。さすがに」
「……じゃあ平気」
鍵を閉めたお兄ちゃんは、先にあっちへ向かって歩き始めた。
ここは、広い湖のある公園というよりは芝生の広場的な場所。
徒歩でさらに奥へ行くと小さな滝もあるらしく、矢印と距離が書かれた案内板も立っている。
広々と作られている駐車場には、お兄ちゃん以外に1台しか車がなかった。
そういう意味で言えば、穴場になるのかもしれない。
ていうかまあ、自粛中だもんね。
きっと、家で過ごすのがストレスじゃない人は、こんなところへこないはずだから。
「あー……やっぱ外いいな」
「わぁ、見て。桜がまだ咲いてる!」
「ほんと。地上と比べて、少し涼しいのね」
大きく伸びをしたお兄ちゃんのはるか向こうに、満開の桜が見えた。
湖畔ぞいに何本も植えられている淡いピンクが目に入った瞬間、気持ちがすっきりする。
家でのんびりするのも嫌いじゃない。
でも……風の音やうぐいすの鳴き声、湖のさざ波や揺れる木々といった、まさに自然をすぐここで感じられるのは、気持ちいいと思う。
……早く、みんなが当たり前に外へ出て過ごせるようになればいいな。
ここだけじゃない、日本全国そして世界中すべてが我慢を強いられている今だからこそ、ひとりひとりのチカラが実は大きいんじゃないかなとも思った。
「羽織、紅茶とお茶どっちがいい?」
「え? でも……自動販売機あっちじゃない?」
「ふふ。外だから、できることあるでしょう?」
「……わ! 持って来たの?」
「せっかくのお天気だし、ピクニック日和だよね」
大きなバスケットを持っていたのは知ってるけど、まさかセット持参とは思わなかった。
つい先日、庭キャンプをしたときにお兄ちゃんが持ち出してきたシングルバーナーのガス缶を取り出したのを見て、ちょっぴりテンションが上がる。
ピクニック、まさに!
「このへんでいいよね?」
「ほかに人もいないし、何より……桜! お花見できるね」
レジャーシートよりも少し厚手のシートを取り出したのを見て、葉月へ駆け寄る。
やるやる、もちろん一緒に手伝う!
いそいそと支度するべくシートの端を持ったら、お兄ちゃんが少しだけ呆れたように『お前切り替えはえーな』と笑った。
「たーくんは、コーヒーとお茶どっちがいい?」
「コーヒー」
「沸かしてくれるの?」
「暇だからな」
お兄ちゃんがバスケットの中から取り出したのは、ロールテーブル。
折りたたみ式よりもさらにコンパクトになるってこの間言ってたけど、ほんとにちっちゃくなるんだなぁと感心した。
手際よくガス缶にバーナーをセットして、着火。
さらに、お水を入れたコッヘルをその上へ。
……キャンプ。
ううん、キャンプっていうよりデイキャンプ? バーベキューとは少し違うけど、ああやっぱり外っていいなぁ。
庭でやったのももちろん楽しかったけれど、違う場所の今はもっと楽しい。
うきうきするっていうのかな。
とにかく、気持ちが全然違って笑みが浮かぶ。
「なんか、家のコンロより沸くの早いね」
「火力が違うからな」
「へえ。山の高さかなって思ったんだけど」
「富士山じゃねーし、ンなデカイ差はないだろ」
見ると、コッヘルの底からぽこぽこ泡が立っていた。
火力か。なるほど。
普段、キャンプどころかこういうキャンプ用品を触ることもないんだけど、ちょっと興味を引かれる。
だって、自分でできたら楽しそうだよね。
といっても……さすがに、お兄ちゃんみたいにひとりで山へ行くことはまずないだろうけれど。
運転できるようになったら、違うのかなぁ。
うーん。
……でもやっぱり、私の場合は行くなら誰かと一緒かな。
森の中、ひとりでまったり過ごしている姿は、ちょっと想像できなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
きっと、家で飲むのと同じ茶葉のはず。
香りが同じで、甘酸っぱい匂いが一緒だからっていうのが根拠なんだけど……でも、気持ちが違うせいか味も違う気がした。
おいしい。
えへへ、外で食べるごはんっておいしいもんね。
「……え、寝るの?」
「天気いいしな」
「来たばっかりなのに、もったいなくない?」
「そーか? 俺は山走れたし、満足した」
シートへごろりと横になったお兄ちゃんを見て、眉が寄る。
なんかこう、景色を楽しむとか、散歩してみるとか、そういう気はないのかな。
人工的な音のまったくない環境。
目の前には大きな湖があって、桜が咲いている遊歩道がぐるりと敷かれていて、ウグイスが鳴いていて……ってなったら、歩きたくない?
まさか、ここにきて寝ようとするとは思わなかった。
だって、そもそもお兄ちゃんが外へ出たいって言い出したのに。
「お散歩してみる?」
「付き合ってくれるの?」
「せっかく来たんだもん、歩いてみたいなと思って」
「だよねー。さすが葉月。安心した」
すっかり横になったままのお兄ちゃんは、葉月が準備してきたブランケットを枕にスマフォを弄り始めた。
うわー、不健全な気がする。
ぽかぽか天気のいい下で過ごすっていうのは健康的だけど、まさか寝ころんだままスマフォとか……もぅ。
「ちょっとだけ行こう?」
「せっかくだもんね」
動きそうにないお兄ちゃんは放置し、葉月と立ち上がる。
ここにいるなら、バッグは置いて行ってもいいよね。
あ、せめて写真は撮りたいから、スマフォだけ持っていこう。
「荷物見ててね」
答える代わりにお兄ちゃんがひらひら手を振ったのを見て、葉月が笑った。
いやいやいや、そこは怒ってもいいところじゃない?
……もぅ。お兄ちゃんって、よくわからない。
でも、山をぐいぐい上ってるときは相当楽しそうだったから、満足したってセリフはホントなんだろうけど。
「んーなんか、春の匂いがするね」
舗装されているというほどではないものの、整備されている遊歩道は歩きやすかった。
湖畔の水が日差しを受けて、キラキラ輝く。
どこからか、花の甘い香りが漂ってくるけれど……さすがに何の花かはわからない。
桜は6部咲きで、つぼみが残っている枝も多かった。
「今年は、お花見らしいお花見はできなかったね」
「きっとみんなできてないんでしょうね。でも、今日こうして一緒にこれてよかった」
「ほんと! お兄ちゃんが出かけようって言わなかったら、こんな機会なかったかも」
そういう意味では感謝してる。もちろん。
でも……できることなら、やっぱり祐恭さんと一緒にお花見をしたかった。
おいしいものを食べたりしなくてもいい。
ただ、並んで歩きながら一緒に見て、感想を交わせたらそれで十分だった。
……来年は絶対お花見する。
そして、自粛が終わったら近場でいいからどこかへ遊びに行きたい。
きっと、同じように思っている人たちは多いだろうなぁ。
人影のない湖を見ながら、ボートに乗ってみても楽しそうだなぁとは思った――ものの、残念ながら今回は自粛営業中らしい。
道中にあった看板には、ご丁寧に『休止中』の文字と今回の対応についての張り紙がされていた。
あと少し。きっと、あと少しだよね。
みんなでがまんしたら、早く収束するよね。
症状が出ない人も多い以上、もしかしたら私だって……という不安はある。
だから、家族とだけ過ごすのがベストだもん。
あとちょっと…………でも長いなぁ。
先が見えないって、こんなに不安になるんだね。
世間とは違って、対岸まではっきり見通せる湖を見ながら小さくため息が漏れた。
「あ」
「あー!」
15分ほどかけてゆっくり一周回って戻ってきたら、お兄ちゃんの手にはサンドイッチがあった。
ていうか、自由すぎじゃない?
寝てたと思ってたら、勝手にひとりでお昼とか!
もぅ。子どもよりタチが悪いように思う。
「ずるい。先に食べちゃうなんて」
「タイミングいいなお前ら。たまたま1個食おうとしただけなのに」
「そういう問題じゃないでしょ! もぅ」
サンドイッチだけじゃなく、もう片手にはからあげの刺さったピックまである。
はーー。もぅ、自由人すぎて呆れるとはこのこと。
でも、葉月は苦笑こそしたものの『手だけ拭いてね』とまるで小さな子へ注意するようなセリフを口にした。
「さて。食ったし動くか」
「え。私たち動いてきたのに」
「なんだよ。散歩だろ? 大したカロリー消費にはなんねーぞ」
「っ……痛いところを」
ふたくちほどで平らげたあと、立ち上がったお兄ちゃんがまさに余計なひとことを口にする。
散歩だってね、有酸素運動には該当するんだよ?
そりゃあ……息は切れてないけど。
でも、動かないよりはずっとマシだと思う。
だって、お兄ちゃんってばコーヒー飲んでごろごろして食べてっていう、家と変わらないことしかしてないじゃない。
私たちのほうがよほど有意義だと思うんだけど、どうだろうか。
「え?」
「俺が勝ったら、あそこで饅頭買ってこいよ」
「えぇ? やだよそんな。動いてないんだから、お兄ちゃんが行けばいいでしょ?」
「大した距離じゃねーだろ。走りゃ1分だ」
「だから。それならお兄ちゃんが行けばいいじゃない」
どこから取り出したのかバドミントンのラケットを渡され、つい受け取ってしまったものの眉が寄る。
ていうか、今日やってるの? あそこのお店。
ちょうど駐車場の端っこにある小さなお土産屋さんのようで、『おまんじゅう』と書かれた旗が立っているのはわかるけれど、営業中かどうかはちょっとわからない。
あそこまで行ってお休みでしたってなったら、すごく切ないんだけど。
でも、お兄ちゃんはこっちの意見をすべて無視して、シャトルを手にした。
「わわっ!?」
「お前反応鈍くねーか?」
「もぅ! やるならやるって言ってよ!」
突然シャトルが目の前へ飛んできて、慌ててラケットを立てる。
さっきまではそこそこ風が吹いていたけれど、今は静かになっていた。
ていうか、バドミントンなんて久しぶりだなぁ。
高校生のころ、体育の授業でやったのを思い出して、ほんの少しだけ懐かしさから笑みが浮かぶ。
――けど。
「っわぁ!?」
「甘いな」
「ちょ、はわぁ!?」
「まだまだ」
くっくと笑いながらバックハンドになる位置へ打ち込まれ、悲鳴にも似た声があがる。
うぅ、なんでこんなところにきてまで、特訓みたいなことを受けなきゃいけないの。
でも、気持ち程度は身体が重い気がして、ここ数週間の運動不足で確実に筋肉が落ちたんだなとは感じた。
「あ。お前、誰がシャトル掴んでいいっつった」
「はー……はー……ちょ、ちょっと待って。1回休憩」
意図的に左右へ揺さぶられ、ラケットで身体を支えながら大きく息を吸う。
うぅ、体育の授業以来。
しかも芝生ゆえに足場が滑りやすいから、普段絶対使わない筋肉を使ってる気しかしない。
「え?」
「バトンタッチ」
「ずるくね? こっちは変わらねぇのに」
「だって、たーくんはお散歩しなかったでしょう? 羽織と私は半分ずつね」
思わずしゃがんでいたら、葉月がラケットへ手を伸ばした。
もちろん大歓迎。
こくこくうなずいてから立ち上がり、シート……ではなくすぐそこにあった木のベンチへ腰かける。
はー……今は、このちょっとだけ吹いてる冷たい風が心地いい。
さっきのお散歩のときは肌寒いなと思ったけど、身体動かすとやっぱり春はあったかいんだなぁ。
「っ……!」
パシン、といい音が響いたかと思いきや、地面を蹴る音が響いた。
芝生だから、そんなに大きくない。
のに、明らかに……って、動いてる。お兄ちゃんが。
さっきと全然違って、むしろ葉月が動いてない。
『うわ』とか『あー』とか言いながら、さっきの私みたいにお兄ちゃんが動いていて、これはこれで見てるのは楽しいなぁとちょっと思う。
「おまっ……えげつねぇな!」
「え?」
「明らかに狙ってんだろ!」
「んー……でも、たーくんもさっき羽織へ狙って打ってたでしょう?」
「そりゃっ……く! ちょっと待て。たんま!」
少しだけ肩で息をしながら、お兄ちゃんは葉月へ向かって手のひらを向けた。
ジャケットを脱ぎ……うわ!
こっちへ放られ、反射的につかむ。
もぅ。ちゃんと置きに来ればいいのに、横着だなぁ。
さすがに私でもそれはしない。
「葉月ナイスー」
手のひらでくるくるとラケットを回転させているのを見ながら、ばっちり応援。
にっこり笑って手を振り返したのを見て、ああ間違いなく余裕あるんだなと思う。
「あっ」
「あー、お兄ちゃんずるい!」
「ずるかねーだろ。よそ見してンからだ」
は、と短く笑ったその顔は明らかに悪い人の顔。
あーもぅ、ずるいなぁ。
同じ血が流れていると思うと、なんだか切ない。
「っ!」
「あ、ごめん」
「くっそ……謝ンな!」
葉月が地面すれすれへ打ち込んだところを、踏みとどまってお兄ちゃんが打ち上げた。
あれは……意地になってるよね、絶対。
私とのバトルとは違い、明らかに葉月が優勢。
ほら、やっぱり言いだしっぺが動くことになるんだよ。
こういうのって、ある意味ジンクスあるように思うけどどうだろうか。
「…………」
「……たーくん、大丈夫?」
「うるせぇ」
ぜーぜー肩で息をするお兄ちゃんへ、葉月が近づいた。
勝負は明らか。
最後は風が強く吹いたこともあって、シャトルはお兄ちゃんのはるか後ろへ落ちている。
「ち。行きゃいいんだろ、行きゃ!」
「私行こうか?」
「そこで待ってろ!」
葉月へ放るようにラケットを渡してすぐ、お兄ちゃんはぶつぶつ言いながら売店へ歩いていった。
……あ、走った。
その後ろ姿を見ながら、葉月が少しだけ心配そうな顔をしている。
「え?」
「言いだしっぺだもん、平気だよ」
「でも……ちょっとやりすぎちゃったかな」
「それ言ったら、多分お兄ちゃんもっと怒りそうだから、そっとしとこ?」
ちょっぴり申し訳なさそうな顔の葉月へ首を振る。
……と、敷いてあったシートのほうから電話の着信音が響いた。
あれは、私のじゃない。
てことは……。
「もしもし?」
すぐに反応した葉月が小走りで戻り、スマフォを耳へ当てた。
でも、見ている方向はお兄ちゃんのほう。
……そんなに離れてないんだから、戻って来たらいいのになぁと少し思ったものの、ああそんな体力実は残ってないのかもとも思った。
「え?」
「お財布、ここに置いてきちゃったんだって。ちょっとだけ行って来るね」
「もぅ」
苦笑を浮かべた葉月に眉を寄せるものの、お兄ちゃんのものではなく、葉月は自分のバッグを手に歩いていった。
結局、葉月に買いに行かせたようなものだなぁ。
ほどなくして葉月が到着し、そのままふたり揃って中へ消えていった。
「…………」
風が気持ちいい。
でも、休憩してたせいかちょっとだけ肌寒くも感じる。
気分転換で楽しいのは、楽しい。
だけど……って、ちょっとだけどうしても思っちゃうんだよね。
家にいなきゃいけないのもわかるし、今が大切だってこともわかる。
でも。でもね?
もう何日も会えてないんだもん。
私だって……一緒に過ごしたいな、って思うのは仕方ないよね。
「……あ」
ふたり揃ってお店から出てきたのが見えたところで、ちょうどよくウグイスが鳴いた。
すぐここの木。
春はもうすでに訪れていて、新しい年が巡って数カ月経っている。
鮮やかなほど、様々な色をまとって。
「……え」
山を上ってくるエンジン音があるなとは思ったの。
車通りは少なくて、私たちが着いてからそう何台も通ってない。
山の間を抜けるように作られている道だから、音が反響しているのはある。
でも。
だけどまさか、すぐそこに咲いている椿よりも目を惹く、赤い車が上がってくるなんて想像もしてなかった。
「ッ……」
ううん、想像はしてたの。
会えたらいいのに、って。
葉月とお兄ちゃんが揃って歩いているのを見て、私もあんなふうに歩きたいなって一瞬でも強く願ったから。
ふたりが足を止めたのを見たのは、駆け出してからだった。
変なの。
さっきは、ちょっと動いただけで疲れちゃって、今日は十分運動したなって思ったのに。
なのに、まだ走れる。全然、もっと先まで。
こちらへフロントを向けたままの車が、助手席の窓を開けた。
ドア越しにお兄ちゃんが近づき、葉月が頭下げる。
あんなふうにする相手は、ひとりだけ。
あの形の赤い車に乗っている人を、ひとりしか知らない。
「わ、っとと……!」
葉月が私を見て笑った瞬間、ちょっとだけほっとしてつまずきそうになった。
驚いたのは、私も一緒。
飛び込むように葉月へ手を伸ばし、抱きとめてくれたところで方向を変える。
ずっと、ずっと会いたかった。
ああ、こういうのって奇跡って言えるよね。
整わない息のままドア越しに運転席へ目を向けると、こうなってしまう前と同じ、祐恭さんが笑ってギアに手を置いた。
「こんなところで会えると思わなかった」
「っ……私こそ……!」
会いたかった。ずっと、ずっとどうしても会いたかった。
でも、会っちゃいけないって思っていたし、我慢もした。
……でも。
心の底ではやっぱり納得できない部分もあって。
変わらない彼の笑顔を見たら、ほんの少し涙が滲む。
「お前も持て余したか。つーか、謹慎になったのか?」
「学生は休みだし、ゴールデンウィーク明けまでは基本休んでほしいって通達が県から昨日出たよ」
「へぇ。授業どーすんの?」
「聞いてないのか? 今年はほとんどの大学が、前期はオンライン授業を取り入れたじゃないか」
「……う。そうなんですか?」
「…………見てないの?」
「み……てませんでした……」
そうなるかもしれない、という手紙は見た。読んだ。ちゃんと。
でも、まさか実施されることになっていたなんて……え、いつ出されたんだろう。
とはいえどうやら確認してなかったのは私だけみたいで、葉月は苦笑していた。
「週明けからは間引き勤務になるかな。準備もあるし」
「大変だな」
「いや、お前も忙しいだろ?」
「つっても、別に授業ねーし。予約本の受け渡しをどうするかもっかい考えるってとこだろうな」
お兄ちゃんが肩をすくめたのを見て、祐恭さんが『よろしく』と笑った。
例に漏れず、彼も読みたい本があるらしい。
「で? 今日は3人でお花見?」
「です」
「天気もいいし、楽しめそうだね」
「瀬尋先生も一緒にいかがですか?」
「いや……でも俺は……」
「いーんじゃね? 外だし。密閉でもねーしな。2m離れりゃいいんだろ? お互い」
接触するのは難しいけれど、距離を保って外で話すなら許されると思いたい。
本当はそばにいたいし、触れたいとも思う。
でも……自覚症状のない人が多いと言われていることもあって、叶わないよね。さすがに。
お互いのため。
そう。今は、どっちのためにも我慢しなきゃいけない大切な時期。
「そんだけ離れたって、直接喋れンだろ」
渋る祐恭さんへ、お兄ちゃんが肩をすくめた。
直接話せることは、すごく大きい。
だけど……躊躇する気持ちもわかるから、判断は委ねたい気持ちのほうが強い。
「それじゃ、少しだけ」
「っ……!」
ハンドルへ手を置いていた彼が、小さく笑ってうなずいたのを見て、瞬間的に声が出そうになった。
でも、しなかっただけで、素振りは十分出ていたらしい。
目が合った葉月は、にっこり笑って『よかったね』と小さくささやいた。
「あ。バドミントンあるぜ。距離を保つにはちょうどよく」
「……バドミントン? お前元気だな」
「いや、手ぶらで山上ってもつまんねーじゃん。手軽な暇つぶしだろ」
「だからって……ラケットすら久しぶりに見た」
お兄ちゃんの車の隣へ停めた祐恭さんが、シートへ置いたままだったラケットを見て意外そうな顔をした。
でも、気持ちはとってもよくわかります。
私も、まさかお兄ちゃんがそんな選択するなんて思わなかったもん。
「え、あ、私?」
「お前、十分休んだろ。祐恭とやれよ」
「えぇ……?」
シャトルを放られ、キャッチしてすぐラケットを差し出された。
あ。食べる気まんまん。
どうやら温かいお饅頭らしく、パックから取り出したひとつを頬張って『あっち』と悲鳴にも似た声が聞こえた。
「手加減なしでいいの?」
「っ……なんでそんな全力モードなんですか」
「いや、やるからには運動量上がるほうがいいでしょ?」
「うぅ」
さわさわと風で木が揺れる音がする。
少しだけ冷たい、春先の風。
いつもとはまるで違う場所とシチュエーションだけど、目の前に彼がいることがとても嬉しい。
……会いたかったんだもん。ずっと。
勝手に頬が緩んで、ああもう顔が戻りません。
「わ!」
「ごめん、今のはなし」
「うぅ……」
「久しぶりすぎて感覚つかみにくいな」
ジャンプしないと届かないほど前へ落ちたシャトルを、がんばって拾おうとはした。
でも、当然届かない。
祐恭さんが苦笑して拾い上げたのを見て……笑みが浮かぶ。
だって嬉しいんだもん。
距離があっても話せることが。彼を見ることができるのが。
「俺が勝ったら、何かご褒美ある?」
「えぇ!? もぅ……どうしてみんな賭け事にしたがるんですか」
「冗談だよ」
お兄ちゃんと違って苦笑した祐恭さんは、確実に私が返せるようなところへ毎回シャトルを打ってくれた。
なんでもそうだけど、人によっていろんなものの端々に性格が出るんだなぁというのは改めて感じた。
2メートル。
縮まらない……ううん、できるだけ離れなきゃいけないのはわかってるけど、これまででもっとも近い距離。
機械越しじゃない声を聞きながら、リアルタイムのレスポンスがただただ嬉しくてたまらなかった。
もーーーー飽きました。さすがに。
在宅ワークと称して資料まとめてたけど、全部終わったぜ。
やりきったぜ……だがしかし、終わらないのは日々のごはんづくり。
ここんところ、朝食昼食夕食すべてをマックス食材で作っているため、
食費がはんぱねぇ。
そして現在MUSHOKUなわけで、諭吉がえらい勢いで飛んでいく……。
そういや、ここにきてひとり10人諭吉が配られるとかなんとか。
くればいいな……諭吉かもーん。
そんなこんなで、今回は長文。
お時間のあるときにでもー
「さすがに飽きた」
自宅謹慎になって、4日目。
お昼を食べ終えたところで、お兄ちゃんがおもむろに口を開いた。
ここ数日、家にいるのは葉月とお兄ちゃんと私の3人きり。
昼食を当番制にしたおかげで、分担は同じくらい……なんだけど、当然、メニューに大きな偏りはある。
ちなみに、今日のお昼はお兄ちゃんが作った海鮮塩焼きそば。
ご丁寧にチンゲンサイやきくらげと一緒に、冷凍とはいえシーフードミックスが入っていて、実はすごくおいしかったんだよね。
お兄ちゃん、ちゃんと作れるんだなぁとある意味感心。
でも、葉月がすごくすっごく褒めたんだけど、当の本人は『今どき、ネットでいくらでもレシピあんだろ』と冷めた反応でそれも意外だった。
明日の当番は私だから、何にしようかなーって思ったんだけど……まさかのセリフでリビングにいた私と葉月は思わず顔を見合わせていた。
「買い物行ってくれば?」
「スーパーとドラッグストアへ何しに行くんだよ。マスクパトロールか?」
「あ、あったら買ってきてってお母さん言ってたよ」
「そりゃそーだろーけど、そうじゃねぇんだよ。お前ら、よく飽きねーな。身体なまんねぇ?」
「んー……葉月とふたりでヨガやってるから、別に」
「ヨガ?」
「お母さんが昔買ったDVDがあったから、一緒にやってるよ」
そう。
あまりにも暇暇言ってたら、お母さんが思い出したようにDVDの存在を教えてくれた。
以来、14時からは毎日ヨガタイムを過ごしている。
なんかこう、呼吸を意識してやるからなのか、身体が軽いんだよね。
眠くならないし、ちょうどいいからしばらくは続けられそう……なんだけど、まあ、お兄ちゃんはやらないだろうなとも思う。
だって、ヨガって静かな動きだし。
お兄ちゃんが求めるのは、もっとこう激しいスポーツ的なものだろうから。
「明日出かけてくる」
「どこへ?」
「山」
「……山? 上るの?」
「車でな」
ソファへ座ったまま腕を組んだお兄ちゃんが、唐突に宣言した。
え、いいの? 外に出て?
自宅軟禁が必須だと思っていたから、思わず葉月と二度目の顔をあわせていた。
「お前らも行くか?」
「お出かけしていいの?」
「いや、山のてっぺんならいーだろーよ。ごみごみしてるほど人がいたら、降りなきゃいいだろ」
「……なるほど」
何がなんでもというか、是が非でも外へ出たいらしい。
私も葉月も、家にいることは嫌いじゃないし、多分ずっといられる。
葉月にいたっては、本を読んだり宿題したりだけじゃなくて、外でガーデニングしてたり、新しいレシピを試してみたりと割と充実しているようで、すっごく楽しそうなんだけど。
私は、こうしてリビングでだらーっと過ごすのもそんなに嫌いじゃない。
本を読んでいて、うとうとして……ってしあわせじゃない?
なんて言ったら、お兄ちゃんはすごく嫌そうな顔しそうだけど。
「明日はお天気もいいって」
「じゃあ行こうかな」
「ね。たまには、お庭じゃない外へ行くのもいいかもね」
スマフォで天気予報を見ていたらしく、葉月が笑った。
外かぁ……久しぶりだなぁ。
庭で楽しむことはしたし、窓を開けて部屋で過ごしてはきたけど、外出は久しぶり。
そっか。密集、密接、密閉じゃなければいいのかな。
もうすでに桜は散っていて、お花見のベストは過ぎちゃってるし、山の上とあれば密集は考えられない。
「んじゃ、明日。午前中なら空いてんじゃねーか?」
「え。お兄ちゃん、午前中に起きられるの?」
「起きる」
ああ、どうやらよっぽど外へ出たいらしい。
普段起きない時間帯を自ら指定って、やっぱり、『やりたい』気持ちは原動力なんだなぁ。
ついこの間、心理学の授業で聞いたことを思い浮かべながら、葉月と思わず顔を見合わせて笑っていた。
「わあぁああ!!?」
身体が、横へ、大きく揺さぶられる。
かと思いきや今度は反対。
ぐっ、と瞬間的に息が詰まって苦しい。
え、あの、これって後部座席だから、なの?
「っひゃあ!」
「言ったろ、しっかりつかまってろって」
「そういう問題じゃ……っちょ、まっ……! うー!!」
バックミラーごしに一瞬お兄ちゃんと目が合ったけど、次の瞬間、カーブへ差しかかってまた身体が反対方向へ揺さぶられた。
「羽織、大丈夫?」
「大丈夫じゃ……ないっ。ていうか、なんで? 葉月こそ平気なの?」
「んー……お父さんに慣らされたのは少しあるかな」
「えぇええ」
助手席の彼女を見ると、シートへ深く腰かけたままアシストグリップをしっかり握りしめていた。
知ってた? 窓の上にある、つり革みたいなところの名前。
私は今日初めて知った。
この体験のおかげで、多分二度と忘れないと思う。
うぅう、そこを握れば少しは違うのかなぁ。
というか、身体が揺さぶられる以上に、正直ちょっと痛い。
まさか、山道になった途端加速されるとか思わないでしょ。
とはいえ、当の本人は私と違ってまったく声はあげないけれど、とても楽しそうに運転していた。
いやだってあのね。
ギアさばきもそうなら、ブレーキングも何もかもいつもと違いすぎて。
うぅ……酔うでしょ、これ。
こんなことになるなら、家にいればよかったと素直に思う。
「つか、お前が言ったんだろ? 道にあるタイヤ痕見て」
「それは……でも、だからってこんな飛ばすと思わないでしょ!」
確かに言った。『なんでこんなにタイヤの跡がついてるの?』って。
でもそれは素朴な疑問であって、何も再現してほしいなんてひとことも言ってない。
うぅ、気持ち悪くなりそうでやだなぁ。
っていうか、運転してる人って気持ち悪くならないのかな。
まだ未経験な部分だけに、ちょっとよくわからないところだ。
「飛ばしてねーじゃん。きっちり法廷速度内だ」
「うぅ……でも、こう、キュッて曲がられると重力すごいんだけど」
「下りはこの倍だな。もっとおもしろい」
「えぇ!? 絶対無理だからやめて!」
さらりととんでもない発言をされ、慌てて首を振る。
法廷速度内とはいえ、こう、キュキュっと曲がられるとそのたび身体が振られて大変なことになるんだってば。本当にもう。
「う!」
グッとアクセルを踏み込んだかと思いきや、次の瞬間ギアチェンジと同時にスピードががくんと落ちた。
危うくシートへ鼻がぶつかりそうになって、思わず両手で身体を支える。
「……え? 着いたの?」
「先行車」
言われて前を覗くと、白い車が10メートル先くらいを走っていた。
ああ、多分普通に走ってる。
スピードもそうなら、カーブへの入り方も一般的。
……はああ、やっと普通に戻った。
どこの誰かは知らないけれど、おかげで助かった。
さすがに距離を開けてさっきよりだいぶゆっくり走っているから、身体に感じる重力はほとんどなかった。
「……へえ」
ようやく、飲みたかったレモンティーの蓋を開けられる……と思ったのに、なぜかお兄ちゃんは小さく笑った。
「わあ!?」
途端、ぐっ、とまた身体がシートへ押し付けられる。
え、ちょ、ちょっと待って。なんで? なんで!?
「お兄ちゃ……前に車いるんでしょ!?」
「いや、あっちが先に走り出したじゃん」
「えぇ!?」
見ると、前を走っていた白い車が加速したらしくさっきよりも距離が開いていた。
……加速、じゃない。
走り方が変わったんだ。
ブレーキの踏み方も短ければ、ハンドリングも急。
それこそ、最短ルートを通るような走り方に変わっていた。
「あのシルビアも、上りに来たな」
「そうなの?」
「だろ? じゃなきゃ走り方変える必要ねぇじゃん。俺はだいぶ距離取ってたんだから」
どうして嬉しそうなのかわからないけれど、さっきと同じようにお兄ちゃんは走り方を変えた。
おかげで、レモンティーが……飲めないじゃないもぅ!
今蓋を開けたら、絶対こぼれる。私が大変なことになる。
うぅう、落ち着いて飲みたいのに。
「頂上まであと3分ってとこだな。我慢しろ」
「えぇえっ……ぅ!!」
まったく知らない人だろうに、どうしてこうもリンクするのか。
みんな、欲求不満なの?
まるで知り合いの車を追うかのように距離を詰めて走るのを見ながら、ため息とは違う大きな息が漏れそうになって……また詰まった。
「はぁあああ……やっと下りられた……」
ずっとずっと続いていた坂道をのぼりきったところで見えた、広い駐車場。
そこでようやく車を降りることができ、ある意味ふらふらになりながら地面の感触を両足で確かめるように立つと、それだけでしあわせを感じる。
ちなみに、先行していた白い車は、そのままさらに上を目指していった。
……あの先に何があるのかは知らないし、もともとお兄ちゃんの目的地はここだったみたいだから、ほっとはしたけどね。
でも、なぜか駐車場を曲がる寸前に、お兄ちゃんはハザードを焚いて減速した。
なんの意味があるのかは、わからない。
でも、前の車も同じように反応してたから、ひょっとしなくても暗黙の何かなんだろうとは思う。
知り合いじゃないのに、ある意味すごい。
車が好きっていう共通点だけで十分なのかな。もしかしたら。
「大丈夫?」
「うぅ……葉月よく平気だね……」
「つか、お前乗り慣れすぎだろ。シートの角度も位置も当たり前のように直してたな」
そう。それは見てた。
私がタイヤ痕を見て『なんであんな痕がつくの?』って聞いたあと、お兄ちゃんが『やってやろうか?』って言ったとき、葉月はシートを少しだけ起こしてベルトの位置を調整していた。
なんでだろうって思ったんだけど……ていうか、お兄ちゃんもそれ見てたから、あんなふうに走り出したんでしょ。
絶対、葉月の調整を待ってた。
だったらひとこと、私にも教えてくれればいいのに!
「お父さんも車好きだから」
「つっても、恭介さんあんなふうに走らねぇだろ?」
「一般道ではね。でも、イベントで走れるときがあるの」
「へぇ」
「車が好きな人は、世界中にいるのね」
ふらふらな私とは違い、葉月は特に普段と変わらない様子で立っていた。
私だけなのね……。
うぅ、無事に辿り着いてよかった。帰りは絶対やめてほしい。
「帰りは前へ座ったら?」
「前に乗っても、あの勢いじゃ酔うと思う」
「帰りはしねぇって。さすがに」
「……じゃあ平気」
鍵を閉めたお兄ちゃんは、先にあっちへ向かって歩き始めた。
ここは、広い湖のある公園というよりは芝生の広場的な場所。
徒歩でさらに奥へ行くと小さな滝もあるらしく、矢印と距離が書かれた案内板も立っている。
広々と作られている駐車場には、お兄ちゃん以外に1台しか車がなかった。
そういう意味で言えば、穴場になるのかもしれない。
ていうかまあ、自粛中だもんね。
きっと、家で過ごすのがストレスじゃない人は、こんなところへこないはずだから。
「あー……やっぱ外いいな」
「わぁ、見て。桜がまだ咲いてる!」
「ほんと。地上と比べて、少し涼しいのね」
大きく伸びをしたお兄ちゃんのはるか向こうに、満開の桜が見えた。
湖畔ぞいに何本も植えられている淡いピンクが目に入った瞬間、気持ちがすっきりする。
家でのんびりするのも嫌いじゃない。
でも……風の音やうぐいすの鳴き声、湖のさざ波や揺れる木々といった、まさに自然をすぐここで感じられるのは、気持ちいいと思う。
……早く、みんなが当たり前に外へ出て過ごせるようになればいいな。
ここだけじゃない、日本全国そして世界中すべてが我慢を強いられている今だからこそ、ひとりひとりのチカラが実は大きいんじゃないかなとも思った。
「羽織、紅茶とお茶どっちがいい?」
「え? でも……自動販売機あっちじゃない?」
「ふふ。外だから、できることあるでしょう?」
「……わ! 持って来たの?」
「せっかくのお天気だし、ピクニック日和だよね」
大きなバスケットを持っていたのは知ってるけど、まさかセット持参とは思わなかった。
つい先日、庭キャンプをしたときにお兄ちゃんが持ち出してきたシングルバーナーのガス缶を取り出したのを見て、ちょっぴりテンションが上がる。
ピクニック、まさに!
「このへんでいいよね?」
「ほかに人もいないし、何より……桜! お花見できるね」
レジャーシートよりも少し厚手のシートを取り出したのを見て、葉月へ駆け寄る。
やるやる、もちろん一緒に手伝う!
いそいそと支度するべくシートの端を持ったら、お兄ちゃんが少しだけ呆れたように『お前切り替えはえーな』と笑った。
「たーくんは、コーヒーとお茶どっちがいい?」
「コーヒー」
「沸かしてくれるの?」
「暇だからな」
お兄ちゃんがバスケットの中から取り出したのは、ロールテーブル。
折りたたみ式よりもさらにコンパクトになるってこの間言ってたけど、ほんとにちっちゃくなるんだなぁと感心した。
手際よくガス缶にバーナーをセットして、着火。
さらに、お水を入れたコッヘルをその上へ。
……キャンプ。
ううん、キャンプっていうよりデイキャンプ? バーベキューとは少し違うけど、ああやっぱり外っていいなぁ。
庭でやったのももちろん楽しかったけれど、違う場所の今はもっと楽しい。
うきうきするっていうのかな。
とにかく、気持ちが全然違って笑みが浮かぶ。
「なんか、家のコンロより沸くの早いね」
「火力が違うからな」
「へえ。山の高さかなって思ったんだけど」
「富士山じゃねーし、ンなデカイ差はないだろ」
見ると、コッヘルの底からぽこぽこ泡が立っていた。
火力か。なるほど。
普段、キャンプどころかこういうキャンプ用品を触ることもないんだけど、ちょっと興味を引かれる。
だって、自分でできたら楽しそうだよね。
といっても……さすがに、お兄ちゃんみたいにひとりで山へ行くことはまずないだろうけれど。
運転できるようになったら、違うのかなぁ。
うーん。
……でもやっぱり、私の場合は行くなら誰かと一緒かな。
森の中、ひとりでまったり過ごしている姿は、ちょっと想像できなかった。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
きっと、家で飲むのと同じ茶葉のはず。
香りが同じで、甘酸っぱい匂いが一緒だからっていうのが根拠なんだけど……でも、気持ちが違うせいか味も違う気がした。
おいしい。
えへへ、外で食べるごはんっておいしいもんね。
「……え、寝るの?」
「天気いいしな」
「来たばっかりなのに、もったいなくない?」
「そーか? 俺は山走れたし、満足した」
シートへごろりと横になったお兄ちゃんを見て、眉が寄る。
なんかこう、景色を楽しむとか、散歩してみるとか、そういう気はないのかな。
人工的な音のまったくない環境。
目の前には大きな湖があって、桜が咲いている遊歩道がぐるりと敷かれていて、ウグイスが鳴いていて……ってなったら、歩きたくない?
まさか、ここにきて寝ようとするとは思わなかった。
だって、そもそもお兄ちゃんが外へ出たいって言い出したのに。
「お散歩してみる?」
「付き合ってくれるの?」
「せっかく来たんだもん、歩いてみたいなと思って」
「だよねー。さすが葉月。安心した」
すっかり横になったままのお兄ちゃんは、葉月が準備してきたブランケットを枕にスマフォを弄り始めた。
うわー、不健全な気がする。
ぽかぽか天気のいい下で過ごすっていうのは健康的だけど、まさか寝ころんだままスマフォとか……もぅ。
「ちょっとだけ行こう?」
「せっかくだもんね」
動きそうにないお兄ちゃんは放置し、葉月と立ち上がる。
ここにいるなら、バッグは置いて行ってもいいよね。
あ、せめて写真は撮りたいから、スマフォだけ持っていこう。
「荷物見ててね」
答える代わりにお兄ちゃんがひらひら手を振ったのを見て、葉月が笑った。
いやいやいや、そこは怒ってもいいところじゃない?
……もぅ。お兄ちゃんって、よくわからない。
でも、山をぐいぐい上ってるときは相当楽しそうだったから、満足したってセリフはホントなんだろうけど。
「んーなんか、春の匂いがするね」
舗装されているというほどではないものの、整備されている遊歩道は歩きやすかった。
湖畔の水が日差しを受けて、キラキラ輝く。
どこからか、花の甘い香りが漂ってくるけれど……さすがに何の花かはわからない。
桜は6部咲きで、つぼみが残っている枝も多かった。
「今年は、お花見らしいお花見はできなかったね」
「きっとみんなできてないんでしょうね。でも、今日こうして一緒にこれてよかった」
「ほんと! お兄ちゃんが出かけようって言わなかったら、こんな機会なかったかも」
そういう意味では感謝してる。もちろん。
でも……できることなら、やっぱり祐恭さんと一緒にお花見をしたかった。
おいしいものを食べたりしなくてもいい。
ただ、並んで歩きながら一緒に見て、感想を交わせたらそれで十分だった。
……来年は絶対お花見する。
そして、自粛が終わったら近場でいいからどこかへ遊びに行きたい。
きっと、同じように思っている人たちは多いだろうなぁ。
人影のない湖を見ながら、ボートに乗ってみても楽しそうだなぁとは思った――ものの、残念ながら今回は自粛営業中らしい。
道中にあった看板には、ご丁寧に『休止中』の文字と今回の対応についての張り紙がされていた。
あと少し。きっと、あと少しだよね。
みんなでがまんしたら、早く収束するよね。
症状が出ない人も多い以上、もしかしたら私だって……という不安はある。
だから、家族とだけ過ごすのがベストだもん。
あとちょっと…………でも長いなぁ。
先が見えないって、こんなに不安になるんだね。
世間とは違って、対岸まではっきり見通せる湖を見ながら小さくため息が漏れた。
「あ」
「あー!」
15分ほどかけてゆっくり一周回って戻ってきたら、お兄ちゃんの手にはサンドイッチがあった。
ていうか、自由すぎじゃない?
寝てたと思ってたら、勝手にひとりでお昼とか!
もぅ。子どもよりタチが悪いように思う。
「ずるい。先に食べちゃうなんて」
「タイミングいいなお前ら。たまたま1個食おうとしただけなのに」
「そういう問題じゃないでしょ! もぅ」
サンドイッチだけじゃなく、もう片手にはからあげの刺さったピックまである。
はーー。もぅ、自由人すぎて呆れるとはこのこと。
でも、葉月は苦笑こそしたものの『手だけ拭いてね』とまるで小さな子へ注意するようなセリフを口にした。
「さて。食ったし動くか」
「え。私たち動いてきたのに」
「なんだよ。散歩だろ? 大したカロリー消費にはなんねーぞ」
「っ……痛いところを」
ふたくちほどで平らげたあと、立ち上がったお兄ちゃんがまさに余計なひとことを口にする。
散歩だってね、有酸素運動には該当するんだよ?
そりゃあ……息は切れてないけど。
でも、動かないよりはずっとマシだと思う。
だって、お兄ちゃんってばコーヒー飲んでごろごろして食べてっていう、家と変わらないことしかしてないじゃない。
私たちのほうがよほど有意義だと思うんだけど、どうだろうか。
「え?」
「俺が勝ったら、あそこで饅頭買ってこいよ」
「えぇ? やだよそんな。動いてないんだから、お兄ちゃんが行けばいいでしょ?」
「大した距離じゃねーだろ。走りゃ1分だ」
「だから。それならお兄ちゃんが行けばいいじゃない」
どこから取り出したのかバドミントンのラケットを渡され、つい受け取ってしまったものの眉が寄る。
ていうか、今日やってるの? あそこのお店。
ちょうど駐車場の端っこにある小さなお土産屋さんのようで、『おまんじゅう』と書かれた旗が立っているのはわかるけれど、営業中かどうかはちょっとわからない。
あそこまで行ってお休みでしたってなったら、すごく切ないんだけど。
でも、お兄ちゃんはこっちの意見をすべて無視して、シャトルを手にした。
「わわっ!?」
「お前反応鈍くねーか?」
「もぅ! やるならやるって言ってよ!」
突然シャトルが目の前へ飛んできて、慌ててラケットを立てる。
さっきまではそこそこ風が吹いていたけれど、今は静かになっていた。
ていうか、バドミントンなんて久しぶりだなぁ。
高校生のころ、体育の授業でやったのを思い出して、ほんの少しだけ懐かしさから笑みが浮かぶ。
――けど。
「っわぁ!?」
「甘いな」
「ちょ、はわぁ!?」
「まだまだ」
くっくと笑いながらバックハンドになる位置へ打ち込まれ、悲鳴にも似た声があがる。
うぅ、なんでこんなところにきてまで、特訓みたいなことを受けなきゃいけないの。
でも、気持ち程度は身体が重い気がして、ここ数週間の運動不足で確実に筋肉が落ちたんだなとは感じた。
「あ。お前、誰がシャトル掴んでいいっつった」
「はー……はー……ちょ、ちょっと待って。1回休憩」
意図的に左右へ揺さぶられ、ラケットで身体を支えながら大きく息を吸う。
うぅ、体育の授業以来。
しかも芝生ゆえに足場が滑りやすいから、普段絶対使わない筋肉を使ってる気しかしない。
「え?」
「バトンタッチ」
「ずるくね? こっちは変わらねぇのに」
「だって、たーくんはお散歩しなかったでしょう? 羽織と私は半分ずつね」
思わずしゃがんでいたら、葉月がラケットへ手を伸ばした。
もちろん大歓迎。
こくこくうなずいてから立ち上がり、シート……ではなくすぐそこにあった木のベンチへ腰かける。
はー……今は、このちょっとだけ吹いてる冷たい風が心地いい。
さっきのお散歩のときは肌寒いなと思ったけど、身体動かすとやっぱり春はあったかいんだなぁ。
「っ……!」
パシン、といい音が響いたかと思いきや、地面を蹴る音が響いた。
芝生だから、そんなに大きくない。
のに、明らかに……って、動いてる。お兄ちゃんが。
さっきと全然違って、むしろ葉月が動いてない。
『うわ』とか『あー』とか言いながら、さっきの私みたいにお兄ちゃんが動いていて、これはこれで見てるのは楽しいなぁとちょっと思う。
「おまっ……えげつねぇな!」
「え?」
「明らかに狙ってんだろ!」
「んー……でも、たーくんもさっき羽織へ狙って打ってたでしょう?」
「そりゃっ……く! ちょっと待て。たんま!」
少しだけ肩で息をしながら、お兄ちゃんは葉月へ向かって手のひらを向けた。
ジャケットを脱ぎ……うわ!
こっちへ放られ、反射的につかむ。
もぅ。ちゃんと置きに来ればいいのに、横着だなぁ。
さすがに私でもそれはしない。
「葉月ナイスー」
手のひらでくるくるとラケットを回転させているのを見ながら、ばっちり応援。
にっこり笑って手を振り返したのを見て、ああ間違いなく余裕あるんだなと思う。
「あっ」
「あー、お兄ちゃんずるい!」
「ずるかねーだろ。よそ見してンからだ」
は、と短く笑ったその顔は明らかに悪い人の顔。
あーもぅ、ずるいなぁ。
同じ血が流れていると思うと、なんだか切ない。
「っ!」
「あ、ごめん」
「くっそ……謝ンな!」
葉月が地面すれすれへ打ち込んだところを、踏みとどまってお兄ちゃんが打ち上げた。
あれは……意地になってるよね、絶対。
私とのバトルとは違い、明らかに葉月が優勢。
ほら、やっぱり言いだしっぺが動くことになるんだよ。
こういうのって、ある意味ジンクスあるように思うけどどうだろうか。
「…………」
「……たーくん、大丈夫?」
「うるせぇ」
ぜーぜー肩で息をするお兄ちゃんへ、葉月が近づいた。
勝負は明らか。
最後は風が強く吹いたこともあって、シャトルはお兄ちゃんのはるか後ろへ落ちている。
「ち。行きゃいいんだろ、行きゃ!」
「私行こうか?」
「そこで待ってろ!」
葉月へ放るようにラケットを渡してすぐ、お兄ちゃんはぶつぶつ言いながら売店へ歩いていった。
……あ、走った。
その後ろ姿を見ながら、葉月が少しだけ心配そうな顔をしている。
「え?」
「言いだしっぺだもん、平気だよ」
「でも……ちょっとやりすぎちゃったかな」
「それ言ったら、多分お兄ちゃんもっと怒りそうだから、そっとしとこ?」
ちょっぴり申し訳なさそうな顔の葉月へ首を振る。
……と、敷いてあったシートのほうから電話の着信音が響いた。
あれは、私のじゃない。
てことは……。
「もしもし?」
すぐに反応した葉月が小走りで戻り、スマフォを耳へ当てた。
でも、見ている方向はお兄ちゃんのほう。
……そんなに離れてないんだから、戻って来たらいいのになぁと少し思ったものの、ああそんな体力実は残ってないのかもとも思った。
「え?」
「お財布、ここに置いてきちゃったんだって。ちょっとだけ行って来るね」
「もぅ」
苦笑を浮かべた葉月に眉を寄せるものの、お兄ちゃんのものではなく、葉月は自分のバッグを手に歩いていった。
結局、葉月に買いに行かせたようなものだなぁ。
ほどなくして葉月が到着し、そのままふたり揃って中へ消えていった。
「…………」
風が気持ちいい。
でも、休憩してたせいかちょっとだけ肌寒くも感じる。
気分転換で楽しいのは、楽しい。
だけど……って、ちょっとだけどうしても思っちゃうんだよね。
家にいなきゃいけないのもわかるし、今が大切だってこともわかる。
でも。でもね?
もう何日も会えてないんだもん。
私だって……一緒に過ごしたいな、って思うのは仕方ないよね。
「……あ」
ふたり揃ってお店から出てきたのが見えたところで、ちょうどよくウグイスが鳴いた。
すぐここの木。
春はもうすでに訪れていて、新しい年が巡って数カ月経っている。
鮮やかなほど、様々な色をまとって。
「……え」
山を上ってくるエンジン音があるなとは思ったの。
車通りは少なくて、私たちが着いてからそう何台も通ってない。
山の間を抜けるように作られている道だから、音が反響しているのはある。
でも。
だけどまさか、すぐそこに咲いている椿よりも目を惹く、赤い車が上がってくるなんて想像もしてなかった。
「ッ……」
ううん、想像はしてたの。
会えたらいいのに、って。
葉月とお兄ちゃんが揃って歩いているのを見て、私もあんなふうに歩きたいなって一瞬でも強く願ったから。
ふたりが足を止めたのを見たのは、駆け出してからだった。
変なの。
さっきは、ちょっと動いただけで疲れちゃって、今日は十分運動したなって思ったのに。
なのに、まだ走れる。全然、もっと先まで。
こちらへフロントを向けたままの車が、助手席の窓を開けた。
ドア越しにお兄ちゃんが近づき、葉月が頭下げる。
あんなふうにする相手は、ひとりだけ。
あの形の赤い車に乗っている人を、ひとりしか知らない。
「わ、っとと……!」
葉月が私を見て笑った瞬間、ちょっとだけほっとしてつまずきそうになった。
驚いたのは、私も一緒。
飛び込むように葉月へ手を伸ばし、抱きとめてくれたところで方向を変える。
ずっと、ずっと会いたかった。
ああ、こういうのって奇跡って言えるよね。
整わない息のままドア越しに運転席へ目を向けると、こうなってしまう前と同じ、祐恭さんが笑ってギアに手を置いた。
「こんなところで会えると思わなかった」
「っ……私こそ……!」
会いたかった。ずっと、ずっとどうしても会いたかった。
でも、会っちゃいけないって思っていたし、我慢もした。
……でも。
心の底ではやっぱり納得できない部分もあって。
変わらない彼の笑顔を見たら、ほんの少し涙が滲む。
「お前も持て余したか。つーか、謹慎になったのか?」
「学生は休みだし、ゴールデンウィーク明けまでは基本休んでほしいって通達が県から昨日出たよ」
「へぇ。授業どーすんの?」
「聞いてないのか? 今年はほとんどの大学が、前期はオンライン授業を取り入れたじゃないか」
「……う。そうなんですか?」
「…………見てないの?」
「み……てませんでした……」
そうなるかもしれない、という手紙は見た。読んだ。ちゃんと。
でも、まさか実施されることになっていたなんて……え、いつ出されたんだろう。
とはいえどうやら確認してなかったのは私だけみたいで、葉月は苦笑していた。
「週明けからは間引き勤務になるかな。準備もあるし」
「大変だな」
「いや、お前も忙しいだろ?」
「つっても、別に授業ねーし。予約本の受け渡しをどうするかもっかい考えるってとこだろうな」
お兄ちゃんが肩をすくめたのを見て、祐恭さんが『よろしく』と笑った。
例に漏れず、彼も読みたい本があるらしい。
「で? 今日は3人でお花見?」
「です」
「天気もいいし、楽しめそうだね」
「瀬尋先生も一緒にいかがですか?」
「いや……でも俺は……」
「いーんじゃね? 外だし。密閉でもねーしな。2m離れりゃいいんだろ? お互い」
接触するのは難しいけれど、距離を保って外で話すなら許されると思いたい。
本当はそばにいたいし、触れたいとも思う。
でも……自覚症状のない人が多いと言われていることもあって、叶わないよね。さすがに。
お互いのため。
そう。今は、どっちのためにも我慢しなきゃいけない大切な時期。
「そんだけ離れたって、直接喋れンだろ」
渋る祐恭さんへ、お兄ちゃんが肩をすくめた。
直接話せることは、すごく大きい。
だけど……躊躇する気持ちもわかるから、判断は委ねたい気持ちのほうが強い。
「それじゃ、少しだけ」
「っ……!」
ハンドルへ手を置いていた彼が、小さく笑ってうなずいたのを見て、瞬間的に声が出そうになった。
でも、しなかっただけで、素振りは十分出ていたらしい。
目が合った葉月は、にっこり笑って『よかったね』と小さくささやいた。
「あ。バドミントンあるぜ。距離を保つにはちょうどよく」
「……バドミントン? お前元気だな」
「いや、手ぶらで山上ってもつまんねーじゃん。手軽な暇つぶしだろ」
「だからって……ラケットすら久しぶりに見た」
お兄ちゃんの車の隣へ停めた祐恭さんが、シートへ置いたままだったラケットを見て意外そうな顔をした。
でも、気持ちはとってもよくわかります。
私も、まさかお兄ちゃんがそんな選択するなんて思わなかったもん。
「え、あ、私?」
「お前、十分休んだろ。祐恭とやれよ」
「えぇ……?」
シャトルを放られ、キャッチしてすぐラケットを差し出された。
あ。食べる気まんまん。
どうやら温かいお饅頭らしく、パックから取り出したひとつを頬張って『あっち』と悲鳴にも似た声が聞こえた。
「手加減なしでいいの?」
「っ……なんでそんな全力モードなんですか」
「いや、やるからには運動量上がるほうがいいでしょ?」
「うぅ」
さわさわと風で木が揺れる音がする。
少しだけ冷たい、春先の風。
いつもとはまるで違う場所とシチュエーションだけど、目の前に彼がいることがとても嬉しい。
……会いたかったんだもん。ずっと。
勝手に頬が緩んで、ああもう顔が戻りません。
「わ!」
「ごめん、今のはなし」
「うぅ……」
「久しぶりすぎて感覚つかみにくいな」
ジャンプしないと届かないほど前へ落ちたシャトルを、がんばって拾おうとはした。
でも、当然届かない。
祐恭さんが苦笑して拾い上げたのを見て……笑みが浮かぶ。
だって嬉しいんだもん。
距離があっても話せることが。彼を見ることができるのが。
「俺が勝ったら、何かご褒美ある?」
「えぇ!? もぅ……どうしてみんな賭け事にしたがるんですか」
「冗談だよ」
お兄ちゃんと違って苦笑した祐恭さんは、確実に私が返せるようなところへ毎回シャトルを打ってくれた。
なんでもそうだけど、人によっていろんなものの端々に性格が出るんだなぁというのは改めて感じた。
2メートル。
縮まらない……ううん、できるだけ離れなきゃいけないのはわかってるけど、これまででもっとも近い距離。
機械越しじゃない声を聞きながら、リアルタイムのレスポンスがただただ嬉しくてたまらなかった。