増税前の大決算
2019.10.01
んはー!!10月になってしもた!!!
間に合わなかったけど、増税小話。
……って、どんななんだか。
うぅ。本編書きます……。
「……それ、必要か?」
日曜の午後。
昨日の広告をまじまじ見ていたお袋へ告げると、すごい顔で睨まれた。
「アンタはいいわね、生活のことこれっぽっちも考えなくて済むんだから」
「失礼だぞ。俺だってちったぁ考えてる」
「あらそう。これっぽっちは考えてるのね。ふーん」
「……腹立つ」
冷茶のグラスを持ったままソファへ座ったのが、そもそも間違いだったらしい。
いつもみたいに、冷蔵庫から注いですぐ飲みきってくりゃよかったな。
そうしたら、こんな目に遭わなかっただろーに。
「つか、8%が10%になるだけって……たかが2%上がるだけだろ? デカい買い物するわけじゃねーし」
車や家の購入を検討してるなら、かなりデカいだろうけどな。
1000万ならそれこそ80万か100万の差だから、そりゃ今月までに契約すんだろーけど、たかが400円のトイレットペーパーだぜ?
32円と40円の違いって、そんなにデカくねーじゃん。
「だいたい、つい先週も同じこと言って買い溜めしてなかったか? どこに置くんだよ、紙ばっか。納戸いっぱいじゃねーの」
「あーやだやだ。これだから生活観念のない独り者は嫌なのよ。あのね、チリも積もればって言葉知らないの? たかが8円、されど8円よ? トイレットペーパーなんて、絶対使う必需品なんだから、安いうちにまとめて買っておいたらいいじゃない。腐るもんじゃないんだから」
「けど、置き場がなかったら邪魔でしかねーだろ? 今すぐ売り切れるようなもんでもねぇし、都度買いに行けよ」
「……あのね。買いに行けってアンタ、そもそもそのセリフが間違えてるってなんで気づかないの? 暇じゃないのよ私は!」
「なんでそーなんだよ。ンなこと言ってねーじゃん」
「買いに行けじゃなくて、買ってきなさいよじゃあ! アンタが! 帰りにドラッグストアのひとつやふたつ、あるでしょ!?」
ダン、とテーブルへ勢いよく湯呑みを置いたお袋が、あからさまに舌打ちをした。
うわ、やだやだ。
そーゆー反射すんから、俺がこーゆーふうに育ったってのに。
「買えたら買ってきてやるっつの」
「そのセリフじゃ、する気ゼロね」
「なんでだよ」
「行けたら行くってのと同レベルじゃない。絶対買ってこないわね、アンタ」
「……あのな」
つか、たかがトイレットペーパーごときでなんでここまで怒られなきゃなんねーんだよ。
それこそ、とばっちりでしかねーだろ。増税に対する。
しょーがねーじゃん。上がるもんは上がるんだから。
「…………」
ふとテレビを見ると、そこを流れるワイドショーでも『増税前の大量購入!』と題した内容を流していた。
トイレットペーパーに箱ティッシュ。紙おむつに洗剤……とまぁ、今しがたお袋が口にした『腐らないけどかさばるモノ』ばかり。
つか、こーやってテレビで煽るから余計買わなきゃって気になるのもねーか?
ある意味、暗示みたいなもんで。
「どうせなら新車購入に踏み切る連中取材しろよ。そのほうがよっぽどおもしろい」
「そーゆー高いものはいいのよ。生活必需品だから大変なんじゃない」
「けど、食品は据え置きなんだろ?」
「だから買ってないでしょ」
「……あ、そ」
けろりと言われ、まあそうなんだけど……なんだ。まあいいや。
どうせ、お袋としては『増税前に買わなくちゃ』より、『買うのが楽しいから買わなくちゃ』のほうが近い気もするしな。
好きにしてくれ。どーでもいい。
俺としては、有意義な休みを大事にするだけ。
「あ、ちょっと。はいこれ」
「は?」
「メモ作ったから、買ってきて」
「……はァ? なんで俺が。断るに決まってんだろ」
「暇なんでしょ? 行ってきなさいよ。そんでもって、いかに生活を支える主婦たちが忙しいか身をもって知ってきなさい」
「なんで俺が」
「暇でしょ。そして、主婦を馬鹿にしたでしょ」
「いつ俺がンなことしたよ。してねーだろ」
「言ったじゃない、買ってきてやるって。いつだってね、誰かのために自分の時間削ってまでやってくれてる人がいることに感謝するものよ。だから今日は、アンタが行ってきなさい。私はこれから、ドラマのまとめ再放送見るから」
「すっげぇ暇じゃん」
「暇じゃないって言ってるでしょ! 見逃したドラマ見るのに忙しい!」
「ち。うるせーな」
まさかの展開に眉を寄せるも……つか、ひょっとして最初からその気だったか?
だとしたら、乗せられた感ハンパない。
……くそ。やっぱリビングに来たのが間違いだった。
ここはひとつ、なかったことにするか。
「あ、そうそう。発泡酒もうないからね」
「……何?」
「昨日、私が飲みきったので終わったから。欲しけりゃ買いに行きなさい」
「ンで買い置きしてねーんだよ! 腐るモンじゃねぇんだから、まとめて買ってきとけよ!」
部屋へ戻ろうといたところで告げられ、大きな声が出た。
ちょうど洗濯物を取り込んできたらしい葉月が、出ようとしたリビングのドアから入ってくる。
「あらやだ、アンタ自分で今言ったばかりでしょ?」
「は!? 何を!」
「あいにく買い置きするとかさばるのよね。段ボールって」
「っ……」
「それに、アレって重たいのよね。だから、せいぜい2箱までしかまとめ買いなんてできないし」
「…………」
「ま、たかが何十円の差だし? 私はこの間もらったワインがあるから、それでちびちびするわー。これからの時期、発泡酒飲むと身体も冷えちゃうしね」
「……くそが」
「あら何? 何か言った?」
「言ってねーよ」
しっかり毒づいた上で反応はしたが、からから笑ったお袋は、宣言通り始まったドラマらしきものを見ると俺を振り返ることはなかった。
腹立つ。
つか、せっかく今日はダラダラしようと思ったのに。
読みたい本もあったし、なんなら洗車とパーツの下見にって思ってたのに……めんどくせーのが増えた。
「お前、ひま?」
「え?」
「ルナちゃんを巻き込まないでちょーだい。忙しいわよ」
「お袋には聞いてねーだろ!」
振り返らずに反応され、腹は立つ。
だが、葉月は小さく笑うと首をかしげた。
「買い物へ行くの?」
「しょーがねーだろ。酒がない」
「たまには禁酒したらいいのに」
「ンな、言うほど家で飲まねーだろ」
俺と違って、ガバガバ空けるそいつのほうがよっぽど飲んでるっつの。
「本屋さんへ行ってもいい? ずっと読みたかった本を買っておきたいの」
「何読むんだ?」
「えっと……言わなきゃだめかな?」
「いや、別にいーけど」
まあ、どうせ本屋行きゃわかるし。
葉月の口ぶりからして、恐らくは俺がひとことふたこと言いそうなやつなんだろ。
増税前の……ね。
いや、そもそもコイツも同じ考えかどーかは知らないが、まあ……そりゃま、いいんじゃねーの。経済回すって意味ではな。
「金」
「アンタ、チンピラかなんか?」
「いや、メモだけじゃなくて渡せよ。買ってきてやるから」
「レシートと交換で払ってあげるわよ。じゃなきゃアンタ、余計なもんまで買ってくるでしょ」
「買わねぇっつの」
「そう言って、先週新しいルアーとテグス買ってきたのどこの誰? 馬鹿じゃないの?」
「あーわかったわかった」
これ以上張り合っても、俺の労力になるだけなのがわかったから、せめて大人しく行くとするか。
レシートと交換、ね。
んじゃ、食品売り場にあるもんなら買ってもバレねだーだろ。
「今日の飯は寿司にしよーぜ」
「もう。どうしてそうなるの?」
「買い出し手数料」
葉月の背を押してリビングから脱出し、財布を取りに行くべく階段へ向かう。
すると、俺を振り返りながら葉月が苦笑した。
「伯母さん、きっと明細もチェックすると思うよ?」
「そこはテキトーにごまかしとけって」
「もう。そんなことしたら、叱られちゃうじゃない」
「したら、俺に買い物言いつけなくなるだろ? ある意味都合いい」
思ったことを口にしたまでだったが、葉月は少しだけ呆れたような顔をした。
うわ、お前腹立つぞそれ。
つか、だんだんお袋に似てきてねぇ?
「あ。ついでに俺の買い物も付き合えよ」
「え? たーくん、何か買いたいものあったの?」
「ひょっとして、増税前セールとかやってんかもしんねーじゃん」
ふと思いついたことをそのまま口にしたら、葉月は一転してくすくす笑った。
ンだよ失礼だなお前。
とひとこと言ってやろうと思ったものの、先に口を開かれ、結局言うことはできなかった。
「たーくん、今朝の伯母さんと同じこと言ってる」
「っ……な……!」
「ふふ。似てるね、ふたりとも」
「違う!」
断固として拒否したものの、葉月はしばらくの間思い出すかのようにくすくす笑っていた。
間に合わなかったけど、増税小話。
……って、どんななんだか。
うぅ。本編書きます……。
「……それ、必要か?」
日曜の午後。
昨日の広告をまじまじ見ていたお袋へ告げると、すごい顔で睨まれた。
「アンタはいいわね、生活のことこれっぽっちも考えなくて済むんだから」
「失礼だぞ。俺だってちったぁ考えてる」
「あらそう。これっぽっちは考えてるのね。ふーん」
「……腹立つ」
冷茶のグラスを持ったままソファへ座ったのが、そもそも間違いだったらしい。
いつもみたいに、冷蔵庫から注いですぐ飲みきってくりゃよかったな。
そうしたら、こんな目に遭わなかっただろーに。
「つか、8%が10%になるだけって……たかが2%上がるだけだろ? デカい買い物するわけじゃねーし」
車や家の購入を検討してるなら、かなりデカいだろうけどな。
1000万ならそれこそ80万か100万の差だから、そりゃ今月までに契約すんだろーけど、たかが400円のトイレットペーパーだぜ?
32円と40円の違いって、そんなにデカくねーじゃん。
「だいたい、つい先週も同じこと言って買い溜めしてなかったか? どこに置くんだよ、紙ばっか。納戸いっぱいじゃねーの」
「あーやだやだ。これだから生活観念のない独り者は嫌なのよ。あのね、チリも積もればって言葉知らないの? たかが8円、されど8円よ? トイレットペーパーなんて、絶対使う必需品なんだから、安いうちにまとめて買っておいたらいいじゃない。腐るもんじゃないんだから」
「けど、置き場がなかったら邪魔でしかねーだろ? 今すぐ売り切れるようなもんでもねぇし、都度買いに行けよ」
「……あのね。買いに行けってアンタ、そもそもそのセリフが間違えてるってなんで気づかないの? 暇じゃないのよ私は!」
「なんでそーなんだよ。ンなこと言ってねーじゃん」
「買いに行けじゃなくて、買ってきなさいよじゃあ! アンタが! 帰りにドラッグストアのひとつやふたつ、あるでしょ!?」
ダン、とテーブルへ勢いよく湯呑みを置いたお袋が、あからさまに舌打ちをした。
うわ、やだやだ。
そーゆー反射すんから、俺がこーゆーふうに育ったってのに。
「買えたら買ってきてやるっつの」
「そのセリフじゃ、する気ゼロね」
「なんでだよ」
「行けたら行くってのと同レベルじゃない。絶対買ってこないわね、アンタ」
「……あのな」
つか、たかがトイレットペーパーごときでなんでここまで怒られなきゃなんねーんだよ。
それこそ、とばっちりでしかねーだろ。増税に対する。
しょーがねーじゃん。上がるもんは上がるんだから。
「…………」
ふとテレビを見ると、そこを流れるワイドショーでも『増税前の大量購入!』と題した内容を流していた。
トイレットペーパーに箱ティッシュ。紙おむつに洗剤……とまぁ、今しがたお袋が口にした『腐らないけどかさばるモノ』ばかり。
つか、こーやってテレビで煽るから余計買わなきゃって気になるのもねーか?
ある意味、暗示みたいなもんで。
「どうせなら新車購入に踏み切る連中取材しろよ。そのほうがよっぽどおもしろい」
「そーゆー高いものはいいのよ。生活必需品だから大変なんじゃない」
「けど、食品は据え置きなんだろ?」
「だから買ってないでしょ」
「……あ、そ」
けろりと言われ、まあそうなんだけど……なんだ。まあいいや。
どうせ、お袋としては『増税前に買わなくちゃ』より、『買うのが楽しいから買わなくちゃ』のほうが近い気もするしな。
好きにしてくれ。どーでもいい。
俺としては、有意義な休みを大事にするだけ。
「あ、ちょっと。はいこれ」
「は?」
「メモ作ったから、買ってきて」
「……はァ? なんで俺が。断るに決まってんだろ」
「暇なんでしょ? 行ってきなさいよ。そんでもって、いかに生活を支える主婦たちが忙しいか身をもって知ってきなさい」
「なんで俺が」
「暇でしょ。そして、主婦を馬鹿にしたでしょ」
「いつ俺がンなことしたよ。してねーだろ」
「言ったじゃない、買ってきてやるって。いつだってね、誰かのために自分の時間削ってまでやってくれてる人がいることに感謝するものよ。だから今日は、アンタが行ってきなさい。私はこれから、ドラマのまとめ再放送見るから」
「すっげぇ暇じゃん」
「暇じゃないって言ってるでしょ! 見逃したドラマ見るのに忙しい!」
「ち。うるせーな」
まさかの展開に眉を寄せるも……つか、ひょっとして最初からその気だったか?
だとしたら、乗せられた感ハンパない。
……くそ。やっぱリビングに来たのが間違いだった。
ここはひとつ、なかったことにするか。
「あ、そうそう。発泡酒もうないからね」
「……何?」
「昨日、私が飲みきったので終わったから。欲しけりゃ買いに行きなさい」
「ンで買い置きしてねーんだよ! 腐るモンじゃねぇんだから、まとめて買ってきとけよ!」
部屋へ戻ろうといたところで告げられ、大きな声が出た。
ちょうど洗濯物を取り込んできたらしい葉月が、出ようとしたリビングのドアから入ってくる。
「あらやだ、アンタ自分で今言ったばかりでしょ?」
「は!? 何を!」
「あいにく買い置きするとかさばるのよね。段ボールって」
「っ……」
「それに、アレって重たいのよね。だから、せいぜい2箱までしかまとめ買いなんてできないし」
「…………」
「ま、たかが何十円の差だし? 私はこの間もらったワインがあるから、それでちびちびするわー。これからの時期、発泡酒飲むと身体も冷えちゃうしね」
「……くそが」
「あら何? 何か言った?」
「言ってねーよ」
しっかり毒づいた上で反応はしたが、からから笑ったお袋は、宣言通り始まったドラマらしきものを見ると俺を振り返ることはなかった。
腹立つ。
つか、せっかく今日はダラダラしようと思ったのに。
読みたい本もあったし、なんなら洗車とパーツの下見にって思ってたのに……めんどくせーのが増えた。
「お前、ひま?」
「え?」
「ルナちゃんを巻き込まないでちょーだい。忙しいわよ」
「お袋には聞いてねーだろ!」
振り返らずに反応され、腹は立つ。
だが、葉月は小さく笑うと首をかしげた。
「買い物へ行くの?」
「しょーがねーだろ。酒がない」
「たまには禁酒したらいいのに」
「ンな、言うほど家で飲まねーだろ」
俺と違って、ガバガバ空けるそいつのほうがよっぽど飲んでるっつの。
「本屋さんへ行ってもいい? ずっと読みたかった本を買っておきたいの」
「何読むんだ?」
「えっと……言わなきゃだめかな?」
「いや、別にいーけど」
まあ、どうせ本屋行きゃわかるし。
葉月の口ぶりからして、恐らくは俺がひとことふたこと言いそうなやつなんだろ。
増税前の……ね。
いや、そもそもコイツも同じ考えかどーかは知らないが、まあ……そりゃま、いいんじゃねーの。経済回すって意味ではな。
「金」
「アンタ、チンピラかなんか?」
「いや、メモだけじゃなくて渡せよ。買ってきてやるから」
「レシートと交換で払ってあげるわよ。じゃなきゃアンタ、余計なもんまで買ってくるでしょ」
「買わねぇっつの」
「そう言って、先週新しいルアーとテグス買ってきたのどこの誰? 馬鹿じゃないの?」
「あーわかったわかった」
これ以上張り合っても、俺の労力になるだけなのがわかったから、せめて大人しく行くとするか。
レシートと交換、ね。
んじゃ、食品売り場にあるもんなら買ってもバレねだーだろ。
「今日の飯は寿司にしよーぜ」
「もう。どうしてそうなるの?」
「買い出し手数料」
葉月の背を押してリビングから脱出し、財布を取りに行くべく階段へ向かう。
すると、俺を振り返りながら葉月が苦笑した。
「伯母さん、きっと明細もチェックすると思うよ?」
「そこはテキトーにごまかしとけって」
「もう。そんなことしたら、叱られちゃうじゃない」
「したら、俺に買い物言いつけなくなるだろ? ある意味都合いい」
思ったことを口にしたまでだったが、葉月は少しだけ呆れたような顔をした。
うわ、お前腹立つぞそれ。
つか、だんだんお袋に似てきてねぇ?
「あ。ついでに俺の買い物も付き合えよ」
「え? たーくん、何か買いたいものあったの?」
「ひょっとして、増税前セールとかやってんかもしんねーじゃん」
ふと思いついたことをそのまま口にしたら、葉月は一転してくすくす笑った。
ンだよ失礼だなお前。
とひとこと言ってやろうと思ったものの、先に口を開かれ、結局言うことはできなかった。
「たーくん、今朝の伯母さんと同じこと言ってる」
「っ……な……!」
「ふふ。似てるね、ふたりとも」
「違う!」
断固として拒否したものの、葉月はしばらくの間思い出すかのようにくすくす笑っていた。
Drive through real time
2019.08.03
「あ、次の信号右ね」
「はい」
一般的なセダンとは大きく違う点が、挙げればいくつもある。
2つあるルームミラーもそうなら、助手席にペダルがあるのもそう。
だがそれ以上に特別なのは、こうしてひとまわりも年下の子と、ふたりきりでドライブと称しながら密室で過ごせるってのが大きいだろうな。
ありえない日常を、公然とできるわけで。
いろんな子がいるが、少なくとも信号待ちしてる男連中やら、同僚やらが『いいよなぁお前は』って目線を向けてくる子に“引いて"もらえてるのはデカイだろう。
うちの自動車学校も、例に漏れず指名制度。
まぁもっとも、評価も下せるって意味では一石二鳥なんだろうな。
「路上教習、何回目だっけ?」
「まだ3回目ですね」
「そんなだっけ。なんか、もっと何回も出てる気が……って、あー、所内から乗ってるからかも」
「いつもお世話になってます」
「いや、それはこっちのセリフ。毎回指名してくれるなんて、冥利につきるぜ」
信号待ちでギアを落としたのを見ながら、うまくなったもんだなと内心嬉しさもある。
正直、今どきの若くてかわいいと思える彼女がマニュアル車で希望出してるって知って、本気かと半信半疑だった。
が、俺なんかよりよっぽどクラッチワークも丁寧なら、ギアもそう。
ああ、こうやって乗ってやったら車も喜ぶだろうな、なんて感じることは多々。
教習を重ねるごとに上手になっていく様は、見ていて楽しいし誇らしくも思う。
俺の指導の賜物、か。
いつだったか、彼女に言われたセリフ。
『教官がいいと、できない生徒も伸びるんですね』
冗談交じりだとわかってはいたが、それでも、かわいく笑いながら言われたセリフで一瞬言葉に詰まった。
いやいや、落ち着けよ俺。
どう考えたって社交辞令なら、こんな時間もあとちょっと。
卒業検定が終わってしまえば、公然としたこんな特別は回ってこない。
楽しいって思ったのも久しぶりなら、終わらせたくねぇなと思ったのは……不謹慎ながら初めてか。
タイプだからってだけじゃなく、彼女自身の反応も、飲み込みのよさも、そして短いながらも話しているうえで合致したいくつもの価値観も、惜しいと思った。
「瑞穂ちゃんてさ」
「っ……は、い」
「あー、ごめん。葉山さんのほうがいい? セクハラだもんな」
「そんな! あ、えと、そういうわけじゃなくて……全然、嬉しいです」
ドアへ頬杖をつきながら、ルームミラーを直すふりして彼女の表情をうかがうと、前を向いたままながらも、まんざらでもなさげに見えた。
間違いなく、自分の気持ちが大きく影響した結果だろうが、気持ちが緩む。
毎回、この50分間が終わってほしくないなと、彼女も感じてくれていればどれだけいいか、と薄い期待をしながら。
「…………」
彼氏は?
どこに住んでる?
休みの日は何してんの?
大学生なのは聞いたし、バイト先も自分の昔話にかこつけて聞き出してはいるが、聞けないことは多い。
セクハラまがいのことをしてきた自覚はあるが、それでも、にこにこと相槌をうってくれていながら次からぷっつり指名が途絶えた日には、心がへし折れるじゃ済まない怖さもあった。
年取ったんだろうな、間違いなく。
別にいいし、と思えなくなったのか……はたまた、この子ならって思ったのか、どっちかと言われたら俺はなんて答えるのか。
「鷹塚先生?」
「え?」
「えっと……しばらく道なりでいいですか?」
何を言おうとしてたのか、自分でも気づかないうちに景色が過ぎていた。
いつもなら、もっと手前の交差点で右折し、ぐるりと線路を超えるルートで教習所へ戻る。
線路、緩い登り坂、きつめのカーブに、幅の狭い路地。
いつもは、そこ。
だが、考え事をしていたのが功を奏してか——はたまた、無意識のうちにそうなればいいと考えていたのか、さてどっちだ。
この場所は、プライベート色のほうがずっと濃い。
「次の信号、右折ね」
「はい」
押しボタン式で変わる信号のある、横断歩道手前でウィンカーを出し、中央線へ寄る。
シフトダウンも、ブレーキングも、問題なし。
左手はシフトレバーに置かれているし、ギアチェンジも問題ないだろう。
「あそこ、右手にコンビニの看板見える?」
「はい」
いわゆる大手のコンビニ。
日用雑貨はもちろん、日ごろの俺の食生活やら何やらを細々と世話してくれる大事な店。
——であることを、彼女は知らない。
そして、よもやそんな超個人情報をさらけ出すとは、5分前の俺も考えてなかった。
「この2階が、俺んち」
「えっ」
「いつでも遊びに来ていいよ」
どう言えば、いつもみたいな冗談めいて聞こえただろう。
嘘だよ、冗談。
さすがに付け足すことはできず、一瞬の気まずさが車内に満ちる。
あー、言うんじゃなかった。
これで、次からは指名がぱたりと途絶える可能性大。
それでも、仕事柄いろんな出会いがあったにもかかわらず、今までは一線を引けてた自分が犯した、デカい判断ミスってことで片付けられればいいか。
残念だよ、お前。
若い子困らして、何したいんだか。
「あー、ぐるっと川沿いドライブして帰ろうぜ。3分前には戻れるだろ」
腕時計に視線を向け、教習日誌を開く。
そのとき、ギアに置かれた左手がハザードランプを押すのが見えたものの、一瞬何が起きたのかわからなかった。
「瑞穂ちゃん?」
「遠回りしたら、だめですか?」
「遠回り?」
カチカチとハザードの規則的な音が耳に届いているはずなのに、彼女の表情に視線が奪われたせいか、音が遠く消える。
大通りからは1本入った道だけあって、対向車も後続もない平坦な道。
ハンドルとギアに置かれていた両手を軽く組んだ彼女は、俺に向き直るとまっすぐに見つめた。
「この先の道を曲がって、少し行った場所……私の家なんです」
事実かどうかはわからないものの、つい今しがたの自分と同じことを言われ、ガラにもなくどきりとした。
それは、彼女のこの真剣な眼差しゆえだろう。
「……あー、それはちょっとまずいかな」
カチリとボールペンのノックを押し込み、くるりと回す。
反応を伺うように彼女を見つめたまま口にすると、残念そうというよりも、傷ついたような表情が見え、罪悪感を覚えた。
「え?」
「代わりと言っちゃなんだけど、今度詳細聞けるように、ID教えてもらえる?」
差し出すのはボールペンと左の手のひら。
交互に見やった彼女は、今の今と違って目を丸くした。
「プライベートで迎えに行ってもいい?」
「っ……」
残念ながら、教習時はスマフォ持ち込み厳禁。
あいにくメモ用紙なんてものも置いてはないから、できることといえばこの程度か。
「書いちゃって、いいんですか?」
「忘れないようにするには、これが一番だろ?」
「……ふふ。小学生のころ、やってました」
「瑞穂ちゃんも? いや、意外。俺なんてしょっちゅうだったけど」
彼女の左手が、俺の左手を支えるように触れ、柔らかさと温かさに少しだけ身体が反応する。
ペンを走らされる感触はくすぐったいが、素直に従ってくれている彼女を見ているのは、なんともいえない気分だ。
「鷹塚先生、私にも……書いてもらえませんか?」
「いいの? なかなか落ちないかもよ?」
「そのほうが嬉しいです」
「っ……」
ペンを渡されると同時に手のひらを差し出されたとき。
真正面からにっこり微笑まれ、こくりと喉が鳴った。
そんなかわいく笑うなよ。
この距離でソレはアウトじゃねーの。
「……はー。カメラついてなきゃいいのに」
「え? あっ……ほんとですね」
「ま、さすがに音まで拾われることは稀だけどね。記録だけは保存されてくから、ヘタなことできないんだよな」
車載カメラが当たり前につくようになったのは、いいのか悪いのか。
普段はまったく気にも留めなかったが、今日ばかりは付いていることがひどく残念でしかなかった。
「っ……」
「あー、なんかいけないことしてる気分」
「あはは、くすぐったいです」
彼女がしたのよりも、あからさまな形で手をつかみペンをあてがうと、ぴくりと指を動かした。
たったそれだけのことなのに、反応そのものがどこかエロチックに見えるのは、ひょっとしなくても俺が欲求不満なんだろうな。
「ここで止まってくれたおかげで、ビデオチェックも回避できる口実ができたな」
「そうですか?」
「ああ。Uターンできる? 元来た道戻って、正規ルートで帰ろうぜ」
ギアを入れたのを見て、周囲確認を同時に行うと、右を向いた瞬間彼女と目があってどちらともなく笑っていた。
ほんと、未来はわかんねぇもんだな。
こんなことになるって、誰が予測したよ。
「あー、もっかいうちの前通るから、確実に覚えて帰って」
「あ……はいっ」
ほぼほぼ無意識で彼女の頭を撫でた瞬間、珍しくクラッチワークでミス。
かくんと車体が動き、小さく笑いが漏れた。
「セーフだな。今日もエンストなし」
「ありがとうございます」
炊いたままだったハザードを消し、元来た道へ。
そのとき、彼女の横顔を何気なく見ていたら、噛みしめるかのようにやたらかわいい笑顔が何度か見られて、これはこれで堪らない気持ちになった。
というわけで、小話シリーズ4話目。
ほんとは、この話を思いついたから書きたいなーと思ってネタを探してるうちに、あそこまで増えた感じで。
ただ、これだけはどーしても女の子が勇気出して言う形にならなくて困ったんですよ。
というのは、相手が鷹塚せんせーだからかもしんないですけど。
てなわけで、職権乱用シリーズ第4弾でした(笑)
「はい」
一般的なセダンとは大きく違う点が、挙げればいくつもある。
2つあるルームミラーもそうなら、助手席にペダルがあるのもそう。
だがそれ以上に特別なのは、こうしてひとまわりも年下の子と、ふたりきりでドライブと称しながら密室で過ごせるってのが大きいだろうな。
ありえない日常を、公然とできるわけで。
いろんな子がいるが、少なくとも信号待ちしてる男連中やら、同僚やらが『いいよなぁお前は』って目線を向けてくる子に“引いて"もらえてるのはデカイだろう。
うちの自動車学校も、例に漏れず指名制度。
まぁもっとも、評価も下せるって意味では一石二鳥なんだろうな。
「路上教習、何回目だっけ?」
「まだ3回目ですね」
「そんなだっけ。なんか、もっと何回も出てる気が……って、あー、所内から乗ってるからかも」
「いつもお世話になってます」
「いや、それはこっちのセリフ。毎回指名してくれるなんて、冥利につきるぜ」
信号待ちでギアを落としたのを見ながら、うまくなったもんだなと内心嬉しさもある。
正直、今どきの若くてかわいいと思える彼女がマニュアル車で希望出してるって知って、本気かと半信半疑だった。
が、俺なんかよりよっぽどクラッチワークも丁寧なら、ギアもそう。
ああ、こうやって乗ってやったら車も喜ぶだろうな、なんて感じることは多々。
教習を重ねるごとに上手になっていく様は、見ていて楽しいし誇らしくも思う。
俺の指導の賜物、か。
いつだったか、彼女に言われたセリフ。
『教官がいいと、できない生徒も伸びるんですね』
冗談交じりだとわかってはいたが、それでも、かわいく笑いながら言われたセリフで一瞬言葉に詰まった。
いやいや、落ち着けよ俺。
どう考えたって社交辞令なら、こんな時間もあとちょっと。
卒業検定が終わってしまえば、公然としたこんな特別は回ってこない。
楽しいって思ったのも久しぶりなら、終わらせたくねぇなと思ったのは……不謹慎ながら初めてか。
タイプだからってだけじゃなく、彼女自身の反応も、飲み込みのよさも、そして短いながらも話しているうえで合致したいくつもの価値観も、惜しいと思った。
「瑞穂ちゃんてさ」
「っ……は、い」
「あー、ごめん。葉山さんのほうがいい? セクハラだもんな」
「そんな! あ、えと、そういうわけじゃなくて……全然、嬉しいです」
ドアへ頬杖をつきながら、ルームミラーを直すふりして彼女の表情をうかがうと、前を向いたままながらも、まんざらでもなさげに見えた。
間違いなく、自分の気持ちが大きく影響した結果だろうが、気持ちが緩む。
毎回、この50分間が終わってほしくないなと、彼女も感じてくれていればどれだけいいか、と薄い期待をしながら。
「…………」
彼氏は?
どこに住んでる?
休みの日は何してんの?
大学生なのは聞いたし、バイト先も自分の昔話にかこつけて聞き出してはいるが、聞けないことは多い。
セクハラまがいのことをしてきた自覚はあるが、それでも、にこにこと相槌をうってくれていながら次からぷっつり指名が途絶えた日には、心がへし折れるじゃ済まない怖さもあった。
年取ったんだろうな、間違いなく。
別にいいし、と思えなくなったのか……はたまた、この子ならって思ったのか、どっちかと言われたら俺はなんて答えるのか。
「鷹塚先生?」
「え?」
「えっと……しばらく道なりでいいですか?」
何を言おうとしてたのか、自分でも気づかないうちに景色が過ぎていた。
いつもなら、もっと手前の交差点で右折し、ぐるりと線路を超えるルートで教習所へ戻る。
線路、緩い登り坂、きつめのカーブに、幅の狭い路地。
いつもは、そこ。
だが、考え事をしていたのが功を奏してか——はたまた、無意識のうちにそうなればいいと考えていたのか、さてどっちだ。
この場所は、プライベート色のほうがずっと濃い。
「次の信号、右折ね」
「はい」
押しボタン式で変わる信号のある、横断歩道手前でウィンカーを出し、中央線へ寄る。
シフトダウンも、ブレーキングも、問題なし。
左手はシフトレバーに置かれているし、ギアチェンジも問題ないだろう。
「あそこ、右手にコンビニの看板見える?」
「はい」
いわゆる大手のコンビニ。
日用雑貨はもちろん、日ごろの俺の食生活やら何やらを細々と世話してくれる大事な店。
——であることを、彼女は知らない。
そして、よもやそんな超個人情報をさらけ出すとは、5分前の俺も考えてなかった。
「この2階が、俺んち」
「えっ」
「いつでも遊びに来ていいよ」
どう言えば、いつもみたいな冗談めいて聞こえただろう。
嘘だよ、冗談。
さすがに付け足すことはできず、一瞬の気まずさが車内に満ちる。
あー、言うんじゃなかった。
これで、次からは指名がぱたりと途絶える可能性大。
それでも、仕事柄いろんな出会いがあったにもかかわらず、今までは一線を引けてた自分が犯した、デカい判断ミスってことで片付けられればいいか。
残念だよ、お前。
若い子困らして、何したいんだか。
「あー、ぐるっと川沿いドライブして帰ろうぜ。3分前には戻れるだろ」
腕時計に視線を向け、教習日誌を開く。
そのとき、ギアに置かれた左手がハザードランプを押すのが見えたものの、一瞬何が起きたのかわからなかった。
「瑞穂ちゃん?」
「遠回りしたら、だめですか?」
「遠回り?」
カチカチとハザードの規則的な音が耳に届いているはずなのに、彼女の表情に視線が奪われたせいか、音が遠く消える。
大通りからは1本入った道だけあって、対向車も後続もない平坦な道。
ハンドルとギアに置かれていた両手を軽く組んだ彼女は、俺に向き直るとまっすぐに見つめた。
「この先の道を曲がって、少し行った場所……私の家なんです」
事実かどうかはわからないものの、つい今しがたの自分と同じことを言われ、ガラにもなくどきりとした。
それは、彼女のこの真剣な眼差しゆえだろう。
「……あー、それはちょっとまずいかな」
カチリとボールペンのノックを押し込み、くるりと回す。
反応を伺うように彼女を見つめたまま口にすると、残念そうというよりも、傷ついたような表情が見え、罪悪感を覚えた。
「え?」
「代わりと言っちゃなんだけど、今度詳細聞けるように、ID教えてもらえる?」
差し出すのはボールペンと左の手のひら。
交互に見やった彼女は、今の今と違って目を丸くした。
「プライベートで迎えに行ってもいい?」
「っ……」
残念ながら、教習時はスマフォ持ち込み厳禁。
あいにくメモ用紙なんてものも置いてはないから、できることといえばこの程度か。
「書いちゃって、いいんですか?」
「忘れないようにするには、これが一番だろ?」
「……ふふ。小学生のころ、やってました」
「瑞穂ちゃんも? いや、意外。俺なんてしょっちゅうだったけど」
彼女の左手が、俺の左手を支えるように触れ、柔らかさと温かさに少しだけ身体が反応する。
ペンを走らされる感触はくすぐったいが、素直に従ってくれている彼女を見ているのは、なんともいえない気分だ。
「鷹塚先生、私にも……書いてもらえませんか?」
「いいの? なかなか落ちないかもよ?」
「そのほうが嬉しいです」
「っ……」
ペンを渡されると同時に手のひらを差し出されたとき。
真正面からにっこり微笑まれ、こくりと喉が鳴った。
そんなかわいく笑うなよ。
この距離でソレはアウトじゃねーの。
「……はー。カメラついてなきゃいいのに」
「え? あっ……ほんとですね」
「ま、さすがに音まで拾われることは稀だけどね。記録だけは保存されてくから、ヘタなことできないんだよな」
車載カメラが当たり前につくようになったのは、いいのか悪いのか。
普段はまったく気にも留めなかったが、今日ばかりは付いていることがひどく残念でしかなかった。
「っ……」
「あー、なんかいけないことしてる気分」
「あはは、くすぐったいです」
彼女がしたのよりも、あからさまな形で手をつかみペンをあてがうと、ぴくりと指を動かした。
たったそれだけのことなのに、反応そのものがどこかエロチックに見えるのは、ひょっとしなくても俺が欲求不満なんだろうな。
「ここで止まってくれたおかげで、ビデオチェックも回避できる口実ができたな」
「そうですか?」
「ああ。Uターンできる? 元来た道戻って、正規ルートで帰ろうぜ」
ギアを入れたのを見て、周囲確認を同時に行うと、右を向いた瞬間彼女と目があってどちらともなく笑っていた。
ほんと、未来はわかんねぇもんだな。
こんなことになるって、誰が予測したよ。
「あー、もっかいうちの前通るから、確実に覚えて帰って」
「あ……はいっ」
ほぼほぼ無意識で彼女の頭を撫でた瞬間、珍しくクラッチワークでミス。
かくんと車体が動き、小さく笑いが漏れた。
「セーフだな。今日もエンストなし」
「ありがとうございます」
炊いたままだったハザードを消し、元来た道へ。
そのとき、彼女の横顔を何気なく見ていたら、噛みしめるかのようにやたらかわいい笑顔が何度か見られて、これはこれで堪らない気持ちになった。
というわけで、小話シリーズ4話目。
ほんとは、この話を思いついたから書きたいなーと思ってネタを探してるうちに、あそこまで増えた感じで。
ただ、これだけはどーしても女の子が勇気出して言う形にならなくて困ったんですよ。
というのは、相手が鷹塚せんせーだからかもしんないですけど。
てなわけで、職権乱用シリーズ第4弾でした(笑)
いただきもの。
2019.07.31
「おかえりなさい」
「ただいま。……って、またずいぶんデカい荷物だな」
玄関のドアを開けたら、デカイ箱を両手で抱えるように葉月が持っていた。
が、見覚えあるといえばある。
それも、決まって毎年この時期に。
「あ。あー、りかこさんか」
靴を脱ぎながら思い当たった人物の名を口にすると、葉月は意外そうに目を丸くしてからくすくす笑う。
なんだその反応。
そんなに意外か? 俺が、誰からのモンか聞く前に当てるのが。
「たーくん、おいしいものはちゃんと覚えてるんだね」
「なんだそれ」
「だって、普段フルーツなんてほとんど食べないのに、すぐわかったじゃない」
まあ、それは否定しない。
お袋やら羽織やら葉月やらは、夕食後であろうとなんだろうと甘い果物をよく食べてるのを見かけるが、俺にはさっぱりわからない習慣。
そういや、葉月と住むようになってからは、果物が朝食で出ることが多くなったな。
季節柄のモンが並ぶのは、こいつがちゃんとしてるってことなんだろ。
そういや今朝は、隣のおばちゃんにもらったとかって、カットスイカが並べられてたか。
「メシは?」
「もうできてるよ。なす、たくさんいただいちゃった」
「……お前、ほんっとよく物をもらうよな」
「ご近所さんって、ありがたいね。なかなかお礼できなくて、申し訳ないんだけど」
「いーんじゃねーの? 向こうだって別に、ハナから礼期待してねーだろ」
「そうかもしれないけど……」
「今度会ったら俺も礼言っとく」
「ん、そうしてね」
これまでも何回か近所のばーちゃんたちへ礼を言ったことはあったが、そのたびに『あの子、よくできた子ね』とか『この間いただいたお菓子おいしかったわよ』なんてセリフをもらう。
葉月は葉月なりに近所へ溶け込んではいるし、ある意味ではもちつもたれつなんだろうな。
こないだは、抹茶のシフォンケーキをおすそわけしたとかって聞いた気もするし。
鞄を持ち直して部屋へ向かうと、どこからともなく吹いてきた風が、意外と冷たくて心地よかった。
「で?」
「え?」
「お前、もう食う気?」
「えっと……本当は、ちょっぴり冷やしたほうがいいのかもしれないけれど……」
「いや、別に冷たかろーが常温だろーがどっちでもいいけど」
メシを食う気満々でダイニングへきたら、ガラスの器へ白桃がカットされており、麻婆茄子の匂いよりも先に、桃の甘い香りが鼻へついた。
最近、葉月は夕飯を多少なりとは食うようになったが、今日はひょっとしなくても、これだけで済ませそうだな。
実際、俺の席には白米と味噌汁のセットがあったが、対面にはグラスに入った薄桃色の液体しかなかったし。
「それは?」
「ざくろのアイスティーなの。いい香りなんだよ」
「ふぅん」
相変わらず、知らないモンが我が家には存在するんだな。
そういう意味で言えば、見聞は広がったか。
椅子へ腰かけ、早速箸を手に——取りつつも、桃をひときれ。
すると、同じように座った葉月が小さく笑う。
「とってもいい香りで、食べたくなっちゃったの」
「珍しいな。お前がそんな風に言うとか」
「いい香りでしょう?」
「甘い」
「ふふ。冷えてないから、余計に甘みがわかるのかもしれないね」
頬張った途端、桃の香りと甘さが口の中へ広がる。
うまいとは、素直に思う。
が、そう言う前に目の前の葉月の顔を見て、小さく笑いが漏れた。
「なぁに?」
「いや、幸せそうに食うな、と思って」
「だって、おいしいんだもん」
「まぁな」
もうひとつつまんでから、ガラスの器を葉月へ押すと、意外そうな顔をして首をかしげた。
「もういい」
「おいしいのに?」
「いや、俺は普通にメシ食いたい」
口元へ手を当てて不思議そうに問われるも、茶碗を持って箸を振る。
と、『お行儀悪いよ?』と相変わらずなセリフがとんできた。
承知はしてるが、気にはしてない。
しばらく残っていた桃の香りも、味噌汁を飲んだらすぐに消えた。
……目の前で、自分以上にうまそうに食うヤツがいたら誰だって譲るだろ。
フォークを再度桃へ伸ばしたのがわかって視線を向けると、すぐにまた葉月は、それはそれは幸せそうな顔で笑い、噴き出しつつまた同じセリフを口にする羽目になった。
というわけで、ねこ♪さんにいただきものへのお礼です〜!
ありがとうございました( ´ ▽ ` )
「ただいま。……って、またずいぶんデカい荷物だな」
玄関のドアを開けたら、デカイ箱を両手で抱えるように葉月が持っていた。
が、見覚えあるといえばある。
それも、決まって毎年この時期に。
「あ。あー、りかこさんか」
靴を脱ぎながら思い当たった人物の名を口にすると、葉月は意外そうに目を丸くしてからくすくす笑う。
なんだその反応。
そんなに意外か? 俺が、誰からのモンか聞く前に当てるのが。
「たーくん、おいしいものはちゃんと覚えてるんだね」
「なんだそれ」
「だって、普段フルーツなんてほとんど食べないのに、すぐわかったじゃない」
まあ、それは否定しない。
お袋やら羽織やら葉月やらは、夕食後であろうとなんだろうと甘い果物をよく食べてるのを見かけるが、俺にはさっぱりわからない習慣。
そういや、葉月と住むようになってからは、果物が朝食で出ることが多くなったな。
季節柄のモンが並ぶのは、こいつがちゃんとしてるってことなんだろ。
そういや今朝は、隣のおばちゃんにもらったとかって、カットスイカが並べられてたか。
「メシは?」
「もうできてるよ。なす、たくさんいただいちゃった」
「……お前、ほんっとよく物をもらうよな」
「ご近所さんって、ありがたいね。なかなかお礼できなくて、申し訳ないんだけど」
「いーんじゃねーの? 向こうだって別に、ハナから礼期待してねーだろ」
「そうかもしれないけど……」
「今度会ったら俺も礼言っとく」
「ん、そうしてね」
これまでも何回か近所のばーちゃんたちへ礼を言ったことはあったが、そのたびに『あの子、よくできた子ね』とか『この間いただいたお菓子おいしかったわよ』なんてセリフをもらう。
葉月は葉月なりに近所へ溶け込んではいるし、ある意味ではもちつもたれつなんだろうな。
こないだは、抹茶のシフォンケーキをおすそわけしたとかって聞いた気もするし。
鞄を持ち直して部屋へ向かうと、どこからともなく吹いてきた風が、意外と冷たくて心地よかった。
「で?」
「え?」
「お前、もう食う気?」
「えっと……本当は、ちょっぴり冷やしたほうがいいのかもしれないけれど……」
「いや、別に冷たかろーが常温だろーがどっちでもいいけど」
メシを食う気満々でダイニングへきたら、ガラスの器へ白桃がカットされており、麻婆茄子の匂いよりも先に、桃の甘い香りが鼻へついた。
最近、葉月は夕飯を多少なりとは食うようになったが、今日はひょっとしなくても、これだけで済ませそうだな。
実際、俺の席には白米と味噌汁のセットがあったが、対面にはグラスに入った薄桃色の液体しかなかったし。
「それは?」
「ざくろのアイスティーなの。いい香りなんだよ」
「ふぅん」
相変わらず、知らないモンが我が家には存在するんだな。
そういう意味で言えば、見聞は広がったか。
椅子へ腰かけ、早速箸を手に——取りつつも、桃をひときれ。
すると、同じように座った葉月が小さく笑う。
「とってもいい香りで、食べたくなっちゃったの」
「珍しいな。お前がそんな風に言うとか」
「いい香りでしょう?」
「甘い」
「ふふ。冷えてないから、余計に甘みがわかるのかもしれないね」
頬張った途端、桃の香りと甘さが口の中へ広がる。
うまいとは、素直に思う。
が、そう言う前に目の前の葉月の顔を見て、小さく笑いが漏れた。
「なぁに?」
「いや、幸せそうに食うな、と思って」
「だって、おいしいんだもん」
「まぁな」
もうひとつつまんでから、ガラスの器を葉月へ押すと、意外そうな顔をして首をかしげた。
「もういい」
「おいしいのに?」
「いや、俺は普通にメシ食いたい」
口元へ手を当てて不思議そうに問われるも、茶碗を持って箸を振る。
と、『お行儀悪いよ?』と相変わらずなセリフがとんできた。
承知はしてるが、気にはしてない。
しばらく残っていた桃の香りも、味噌汁を飲んだらすぐに消えた。
……目の前で、自分以上にうまそうに食うヤツがいたら誰だって譲るだろ。
フォークを再度桃へ伸ばしたのがわかって視線を向けると、すぐにまた葉月は、それはそれは幸せそうな顔で笑い、噴き出しつつまた同じセリフを口にする羽目になった。
というわけで、ねこ♪さんにいただきものへのお礼です〜!
ありがとうございました( ´ ▽ ` )
Let‘s share the pudding?
2019.06.10
「……プリンアラモードフラペチーノ」
買い物でショッピングモールへ出かけたとき、目に入ったかわいらしいポスターで足が止まる。
プリンといえば真っ先に思いうかぶのは、彼。
ううん、彼ら、かな。
ふたりとも、プリン好きなんだよね。
この間も、かぼちゃプリンを作ったら割と早めになくなっていた。
おやつはもう食べない年齢かなと思っていたけれど、特に関係ないらしく、作ったものを食べてもらえるのは素直に嬉しかった。
「あれ。葉月ちゃん」
「え?」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには田代先生がいた。
手には、アイスコーヒーが握られている。
このお店のマークが入っているから、きっと今買ったんだろう。
「こんにちは。お買い物ですか?」
「うん。葉月ちゃんは? ひとり?」
「いえ、たーくんは今、本屋さんへ行っているんです」
そういう田代先生のそばに、絵里ちゃんはいなかった。
でも、女性ブランドのショップバッグを持っているから、一緒なんだろうな。
「甘いの好き?」
「飲みたくなっちゃいますね。田代先生は、甘いものは飲まないですか?」
「そーだなー。基本、飲まないかな。なんか、喉乾くっていうか」
「それはありますね」
これまでも、田代先生が甘い何かを口にしているところを見ることはほとんどなかった。
それを言ったら、瀬尋先生もそうかな。
私のそばにいる彼だけは、なんでも好んでいるとは思うけれど。
「 ……葉月ちゃん、夕飯何にする?」
「今日は、ビーフシチューがいいと言われたので、それにします」
「あー、いいね。それでワインか」
「はい」
エコバッグから見えていたらしく、ワインボトルを見た彼がうなずいた。
そうなの。だから、たーくんは本屋さんへ行くのを後回しにしてくれた。
ひとりで平気だよって言った途端、『お前じゃ酒買えねぇだろ』と言われて、一瞬思い当たらなかったあたりちょっと失格かな。
いくら料理に使うとはいえ、買わせてもらえないもんね。
「田代先生は何にするんですか?」
「新じゃがたくさんもらったんだけどさ、ふたりだとなかなか使いきれないんだよ。そのままバター乗せて塩で食べるのが一番うまいと思うんだけど、どっかのやつは味がないだのなんだのってうるさくて」
「あ。ガーリックバターもおいしいですよ?」
「ガーリックって……トーストなんかにする、あれ?」
「はい。この時期、バターはすぐ柔らかくなるので、にんにくとパセリと合わせたら何にでも使えますよ」
「なるほどねー」
近くにあったベンチへ腰かけながら話すのは、料理について。
いつだったか、田代先生がレシピサイトを見ていたのを知り、それから話すようになった。
共通の、ある意味趣味かもしれない。
この間教えてもらった簡単ローストビーフは、みんなに好評だった。
「あら、かわいい子ナンパしやがってと思ったら、葉月ちゃんだったのね」
「こんにちは。絵里ちゃんは……それおいしいよね」
「よねー! さすが葉月ちゃん、趣味合うわー」
どうやら違うお店に行っていたらしく、彼女が持っていたのはチョコレート専門店のドリンクだった。
粒の大きなチョコレートが溶け込んでいて、絞られているホイップクリームにもチョコレートソースがかかっている。
「たっきゅんは?」
「ふふ。本屋さんにいるよ」
「ほんと、本好きなのね。いやー知的だわー。どっかの人と違うわー」
「…………」
「あれ。聞こえなかった? 本じゃなくて雑誌しか読まない人」
「お前だって教科書しか読まないだろ」
「っさいわね」
「お互い様」
いつからか、絵里ちゃんはたーくんをそう呼ぶようになっていた。
彼自身もそれは知っているけれど、都度、訂正は求めているらしい。
らしい、というのは最近はめっきり聞かなくなったからだけど。
「っ……つめた」
「珍しいとこで会いますね」
「あら、噂をすれば」
ひんやりとしたものが頭の上へ載せられたかと思いきや、たーくんの声も降ってきた。
首をかしげると、彼の手にはーーああ、やっぱり。
すぐそこのポスターにある、プリンアラモードがある。
「噂? 俺の?」
「そーそ。って、本買わなかったんですか?」
「立ち読み」
「……ふ」
「何よ」
「別に」
あっさりたーくんが言い放った瞬間、ずず、と音を立てて田代先生がコーヒーを飲みきった。
ストローを噛んだまま眉を寄せた彼女は、なかば睨んでいたものの、何も言わず。
理由を知らないたーくんだけが、不思議そうにしていた。
「期待を裏切らないでください」
「いや、そう言われても。つか、普段自腹で本買わないんだって。読みたいハードカバーとかは、個人的にリクエストと称して経費購入」
「え、そうなの?」
「バラすなよ」
「言わないけれど、それって……いいの?」
「仕事してンし、今のとこどこからも文句言われねーからな。暗黙のルールなんじゃね?」
肩をすくめた彼に眉を寄せるも、さも当然の顔でさらりと返された。
いいのかなぁ。
どうりで、いろんな本を読んで内容も知ってるのに、実物が家にないと思った。
まあ……たーくんだから、許してもらえてる部分もあるんだろうな。
真面目にお仕事してるもんね。
「あ、うま」
「プリン?」
「がっつり」
ひとくち飲んだたーくんが、まじまじとカップを見つめた。
いかにもプリン色の飲み物。
カラメルと生クリームのコントラストに、ピンク色のさくらんぼがトッピングされていて、見た目もかわいい。
ふふ。たーくん、飲みたいものはきっちり自分で手に入れるもんね。
「いいの?」
「飲むだろ?」
「ん。ありがとう」
ひとくち味見したかったなと思っていたら、通じたのか差し出された。
少し太めのストローに口づけると、まさにプリンの味が広がって頬が緩む。
「おいしい……」
「だろ」
「うん。羽織も好きそうだね」
「かもな」
たーくんへカップを戻すと、『あ』と言って蓋を外した。
何をするのかと思いきや、添えられていたさくらんぼの茎をつまむ。
「え?」
「いや、さすがに俺食わねーし」
「嫌いじゃないでしょう?」
「そーゆー問題じゃねぇんだよ。イメージの問題」
イメージ。
どういうことかピンとは来なかったものの、差し出されて口を開くと、そのまま食べさせられた。
生とは違う、缶詰のさくらんぼの味。
でも、小さいころ食べたプリンアラモードの思い出が蘇るから、これはこれでおいしく感じる。
「ん、ごちそうさま」
カップを包んでいたナフキンを差し出され、茎と一緒に種を包む。
すると、私を見ていたたーくんが、ふいに視線をずらしたかと思いきや、また『あ』と呟いた。
「…………」
「…………」
「いや、これは……なんつーか、うっかり……」
「つい、ってやつ?」
「それそれ」
ちゅー、とドリンクを飲んだままの絵里ちゃんが、まっすぐにたーくんを見つめた。
隣に座っている田代先生は、まるで微笑ましい何かでも見つけたかのように、とても優しい顔をしてしきりに頷いている。
そんなふたりを見てか、たーくんは慌てたように『違う』を連呼していた。
「どう思う? これって無意識よね?」
「当然だろ。じゃなきゃ、俺たちの前でやらない」
「てことは、普段お家でこーゆーやりとりが繰り広げられてるってことね」
「いやー、家じゃもっとがっつり葉月ちゃんにーー」
「うっわ、すっげぇ誤解!」
ひそひそと話し合う絵里ちゃんと田代先生は、まるで秘密の話でもするかのように顔を寄せ合っていた。
なぜかたーくんが慌てているけれど、理由はちょっとわからない。
でもーー。
「え? っ……」
「ふふ。付いてるよ」
絵里ちゃんの頬に付いていたチョコレートシロップをハンカチで拭うと、目を丸くしたかと思いきや、田代先生も同じような顔をした。
彼女にいたっては、ちょっぴり頬が赤くなったかのようにも見える。
「…………」
「…………」
「え?」
「いけない……いけないわ、このカップル! 無意識のたらしよ!!」
「うわ、やばい。気に当てられる」
「え?」
「……どーゆー設定っすか」
がばっとのけぞったふたりは、立ち上がって私たちから逃げるかのように両手を前へ出した。
たーくんだけは意味がわかっているようでため息をついたけれど、ちょっとよく状況が飲み込めない。
でも……あまりにも仲の良さそうなふたりを見て、思わず笑みが浮かんだ。
「ふたりとも、本当に仲いいですね」
「えぇ!? 今のどこを見たらそうなるの!?」
「いやいやいや、俺たちよかよっぽど、葉月ちゃんたちのほうが仲いいと思うけど!」
目を丸くして否定するふたりは、まったく同じタイミングで反応した。
ふふ。そういうところなんだけどな。
顔を見合わせたふたりを見て、私もついたーくんへ視線が向かう。
「……ん」
「緩くなると味薄まるな」
「そうかな? それでも、結構甘めだね」
「まーな」
ストローごと差し出され、最後にひとくち。
飲みたいってつもりじゃなかったんだけど、でも、おいしかった。
「まだ見ンとこあるか?」
「ううん、もう大丈夫」
ちょうど空になった容器をゴミ箱へ入れたところで、田代先生たちも立ち上がった。
ものの、さっきまでと同じようにニヤリとした笑みをそろって浮かべている。
「ごちそーさま、葉月ちゃん」
「え? えっと、私は何も……」
「……純也さん、無言でそのジェスチャー勘弁してください」
ふたりとも、楽しそうだなぁ。
田代先生にいたっては、うんうんとうなずきながら親指を立てており、とても満足げな表情を浮かべていた。
「またね、葉月ちゃん」
「やー、いいもの見たって祐恭君にも伝えとく」
「……はー」
こめかみに手を当てたたーくんは、さておき。
ふたりへ手を振ると、それはそれは楽しそうに笑ってから、違う方向へと歩き始めた。
「ご馳走さま」
「あ? ひとくちだろ」
「でも、飲んでみたいなって思ったから、嬉しかったの」
たーくんへお礼を伝えると、意外そうな顔をしたあとで『お前律儀だよな』と言われた。
そんな自覚はないけれど、そう思ってもらえるならば、まだいいのかな。
無礼じゃないって思ってもらえてるなら。
「次の限定フレーバーはなんだと思う?」
「さー。別に、限定のたび飲んでるわけじゃねぇからな」
「そうなの?」
「今回はたまたま。飲みたい味と、そーでもないやつと差がある」
そうは言うけれど、車のドリンクホルダーに残ったままになってることなかったかな?
ぱっと見てすぐにわかるロゴだけに、印象が強いのかもしれない。
「おいしかったね」
「そーだな。満足した」
にっこり笑うと、彼らしい笑みで頷かれ、それを見れたことが嬉しかった。
こんなふうに、ひとつの飲み物をシェアできる関係になれるなんて、小さいころの……ううん、去年までの私は知らなかったこと。
とっても嬉しい。
やっぱり未来は、私にとってすてきなことばかり待っていてくれそうだ。
歩き始めてすぐ、当たり前のように手を差し出してくれたのが嬉しくて、両手を重ねていた。
買い物でショッピングモールへ出かけたとき、目に入ったかわいらしいポスターで足が止まる。
プリンといえば真っ先に思いうかぶのは、彼。
ううん、彼ら、かな。
ふたりとも、プリン好きなんだよね。
この間も、かぼちゃプリンを作ったら割と早めになくなっていた。
おやつはもう食べない年齢かなと思っていたけれど、特に関係ないらしく、作ったものを食べてもらえるのは素直に嬉しかった。
「あれ。葉月ちゃん」
「え?」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには田代先生がいた。
手には、アイスコーヒーが握られている。
このお店のマークが入っているから、きっと今買ったんだろう。
「こんにちは。お買い物ですか?」
「うん。葉月ちゃんは? ひとり?」
「いえ、たーくんは今、本屋さんへ行っているんです」
そういう田代先生のそばに、絵里ちゃんはいなかった。
でも、女性ブランドのショップバッグを持っているから、一緒なんだろうな。
「甘いの好き?」
「飲みたくなっちゃいますね。田代先生は、甘いものは飲まないですか?」
「そーだなー。基本、飲まないかな。なんか、喉乾くっていうか」
「それはありますね」
これまでも、田代先生が甘い何かを口にしているところを見ることはほとんどなかった。
それを言ったら、瀬尋先生もそうかな。
私のそばにいる彼だけは、なんでも好んでいるとは思うけれど。
「 ……葉月ちゃん、夕飯何にする?」
「今日は、ビーフシチューがいいと言われたので、それにします」
「あー、いいね。それでワインか」
「はい」
エコバッグから見えていたらしく、ワインボトルを見た彼がうなずいた。
そうなの。だから、たーくんは本屋さんへ行くのを後回しにしてくれた。
ひとりで平気だよって言った途端、『お前じゃ酒買えねぇだろ』と言われて、一瞬思い当たらなかったあたりちょっと失格かな。
いくら料理に使うとはいえ、買わせてもらえないもんね。
「田代先生は何にするんですか?」
「新じゃがたくさんもらったんだけどさ、ふたりだとなかなか使いきれないんだよ。そのままバター乗せて塩で食べるのが一番うまいと思うんだけど、どっかのやつは味がないだのなんだのってうるさくて」
「あ。ガーリックバターもおいしいですよ?」
「ガーリックって……トーストなんかにする、あれ?」
「はい。この時期、バターはすぐ柔らかくなるので、にんにくとパセリと合わせたら何にでも使えますよ」
「なるほどねー」
近くにあったベンチへ腰かけながら話すのは、料理について。
いつだったか、田代先生がレシピサイトを見ていたのを知り、それから話すようになった。
共通の、ある意味趣味かもしれない。
この間教えてもらった簡単ローストビーフは、みんなに好評だった。
「あら、かわいい子ナンパしやがってと思ったら、葉月ちゃんだったのね」
「こんにちは。絵里ちゃんは……それおいしいよね」
「よねー! さすが葉月ちゃん、趣味合うわー」
どうやら違うお店に行っていたらしく、彼女が持っていたのはチョコレート専門店のドリンクだった。
粒の大きなチョコレートが溶け込んでいて、絞られているホイップクリームにもチョコレートソースがかかっている。
「たっきゅんは?」
「ふふ。本屋さんにいるよ」
「ほんと、本好きなのね。いやー知的だわー。どっかの人と違うわー」
「…………」
「あれ。聞こえなかった? 本じゃなくて雑誌しか読まない人」
「お前だって教科書しか読まないだろ」
「っさいわね」
「お互い様」
いつからか、絵里ちゃんはたーくんをそう呼ぶようになっていた。
彼自身もそれは知っているけれど、都度、訂正は求めているらしい。
らしい、というのは最近はめっきり聞かなくなったからだけど。
「っ……つめた」
「珍しいとこで会いますね」
「あら、噂をすれば」
ひんやりとしたものが頭の上へ載せられたかと思いきや、たーくんの声も降ってきた。
首をかしげると、彼の手にはーーああ、やっぱり。
すぐそこのポスターにある、プリンアラモードがある。
「噂? 俺の?」
「そーそ。って、本買わなかったんですか?」
「立ち読み」
「……ふ」
「何よ」
「別に」
あっさりたーくんが言い放った瞬間、ずず、と音を立てて田代先生がコーヒーを飲みきった。
ストローを噛んだまま眉を寄せた彼女は、なかば睨んでいたものの、何も言わず。
理由を知らないたーくんだけが、不思議そうにしていた。
「期待を裏切らないでください」
「いや、そう言われても。つか、普段自腹で本買わないんだって。読みたいハードカバーとかは、個人的にリクエストと称して経費購入」
「え、そうなの?」
「バラすなよ」
「言わないけれど、それって……いいの?」
「仕事してンし、今のとこどこからも文句言われねーからな。暗黙のルールなんじゃね?」
肩をすくめた彼に眉を寄せるも、さも当然の顔でさらりと返された。
いいのかなぁ。
どうりで、いろんな本を読んで内容も知ってるのに、実物が家にないと思った。
まあ……たーくんだから、許してもらえてる部分もあるんだろうな。
真面目にお仕事してるもんね。
「あ、うま」
「プリン?」
「がっつり」
ひとくち飲んだたーくんが、まじまじとカップを見つめた。
いかにもプリン色の飲み物。
カラメルと生クリームのコントラストに、ピンク色のさくらんぼがトッピングされていて、見た目もかわいい。
ふふ。たーくん、飲みたいものはきっちり自分で手に入れるもんね。
「いいの?」
「飲むだろ?」
「ん。ありがとう」
ひとくち味見したかったなと思っていたら、通じたのか差し出された。
少し太めのストローに口づけると、まさにプリンの味が広がって頬が緩む。
「おいしい……」
「だろ」
「うん。羽織も好きそうだね」
「かもな」
たーくんへカップを戻すと、『あ』と言って蓋を外した。
何をするのかと思いきや、添えられていたさくらんぼの茎をつまむ。
「え?」
「いや、さすがに俺食わねーし」
「嫌いじゃないでしょう?」
「そーゆー問題じゃねぇんだよ。イメージの問題」
イメージ。
どういうことかピンとは来なかったものの、差し出されて口を開くと、そのまま食べさせられた。
生とは違う、缶詰のさくらんぼの味。
でも、小さいころ食べたプリンアラモードの思い出が蘇るから、これはこれでおいしく感じる。
「ん、ごちそうさま」
カップを包んでいたナフキンを差し出され、茎と一緒に種を包む。
すると、私を見ていたたーくんが、ふいに視線をずらしたかと思いきや、また『あ』と呟いた。
「…………」
「…………」
「いや、これは……なんつーか、うっかり……」
「つい、ってやつ?」
「それそれ」
ちゅー、とドリンクを飲んだままの絵里ちゃんが、まっすぐにたーくんを見つめた。
隣に座っている田代先生は、まるで微笑ましい何かでも見つけたかのように、とても優しい顔をしてしきりに頷いている。
そんなふたりを見てか、たーくんは慌てたように『違う』を連呼していた。
「どう思う? これって無意識よね?」
「当然だろ。じゃなきゃ、俺たちの前でやらない」
「てことは、普段お家でこーゆーやりとりが繰り広げられてるってことね」
「いやー、家じゃもっとがっつり葉月ちゃんにーー」
「うっわ、すっげぇ誤解!」
ひそひそと話し合う絵里ちゃんと田代先生は、まるで秘密の話でもするかのように顔を寄せ合っていた。
なぜかたーくんが慌てているけれど、理由はちょっとわからない。
でもーー。
「え? っ……」
「ふふ。付いてるよ」
絵里ちゃんの頬に付いていたチョコレートシロップをハンカチで拭うと、目を丸くしたかと思いきや、田代先生も同じような顔をした。
彼女にいたっては、ちょっぴり頬が赤くなったかのようにも見える。
「…………」
「…………」
「え?」
「いけない……いけないわ、このカップル! 無意識のたらしよ!!」
「うわ、やばい。気に当てられる」
「え?」
「……どーゆー設定っすか」
がばっとのけぞったふたりは、立ち上がって私たちから逃げるかのように両手を前へ出した。
たーくんだけは意味がわかっているようでため息をついたけれど、ちょっとよく状況が飲み込めない。
でも……あまりにも仲の良さそうなふたりを見て、思わず笑みが浮かんだ。
「ふたりとも、本当に仲いいですね」
「えぇ!? 今のどこを見たらそうなるの!?」
「いやいやいや、俺たちよかよっぽど、葉月ちゃんたちのほうが仲いいと思うけど!」
目を丸くして否定するふたりは、まったく同じタイミングで反応した。
ふふ。そういうところなんだけどな。
顔を見合わせたふたりを見て、私もついたーくんへ視線が向かう。
「……ん」
「緩くなると味薄まるな」
「そうかな? それでも、結構甘めだね」
「まーな」
ストローごと差し出され、最後にひとくち。
飲みたいってつもりじゃなかったんだけど、でも、おいしかった。
「まだ見ンとこあるか?」
「ううん、もう大丈夫」
ちょうど空になった容器をゴミ箱へ入れたところで、田代先生たちも立ち上がった。
ものの、さっきまでと同じようにニヤリとした笑みをそろって浮かべている。
「ごちそーさま、葉月ちゃん」
「え? えっと、私は何も……」
「……純也さん、無言でそのジェスチャー勘弁してください」
ふたりとも、楽しそうだなぁ。
田代先生にいたっては、うんうんとうなずきながら親指を立てており、とても満足げな表情を浮かべていた。
「またね、葉月ちゃん」
「やー、いいもの見たって祐恭君にも伝えとく」
「……はー」
こめかみに手を当てたたーくんは、さておき。
ふたりへ手を振ると、それはそれは楽しそうに笑ってから、違う方向へと歩き始めた。
「ご馳走さま」
「あ? ひとくちだろ」
「でも、飲んでみたいなって思ったから、嬉しかったの」
たーくんへお礼を伝えると、意外そうな顔をしたあとで『お前律儀だよな』と言われた。
そんな自覚はないけれど、そう思ってもらえるならば、まだいいのかな。
無礼じゃないって思ってもらえてるなら。
「次の限定フレーバーはなんだと思う?」
「さー。別に、限定のたび飲んでるわけじゃねぇからな」
「そうなの?」
「今回はたまたま。飲みたい味と、そーでもないやつと差がある」
そうは言うけれど、車のドリンクホルダーに残ったままになってることなかったかな?
ぱっと見てすぐにわかるロゴだけに、印象が強いのかもしれない。
「おいしかったね」
「そーだな。満足した」
にっこり笑うと、彼らしい笑みで頷かれ、それを見れたことが嬉しかった。
こんなふうに、ひとつの飲み物をシェアできる関係になれるなんて、小さいころの……ううん、去年までの私は知らなかったこと。
とっても嬉しい。
やっぱり未来は、私にとってすてきなことばかり待っていてくれそうだ。
歩き始めてすぐ、当たり前のように手を差し出してくれたのが嬉しくて、両手を重ねていた。
Be with 0話 公開
2019.05.01
令和元年おめでとうございます!
というわけで、0話公開。
「ーーだから、黒だっつってんだろ」
いつもより遅い時間というよりは、春休みのほぼ定刻となった10時少し過ぎ。
顔を洗ってからリビングへ行こうとしたら、お兄ちゃんの声が階段のほうから聞こえてきた。
と同時に聞こえるのは、複数っぽい足音。
「でもお前、この間白の86見て『白もいいよな』って言ってたじゃないか」
「言ったか? でもま、やっぱ乗るなら黒だろ。せっかくの後継機、ナンバーもベタに86にしてもいいけど、黒だな。黒」
ひとことだけ聞こえた、お兄ちゃんとは違う声に一瞬どきりとした。
女子校ということもあってか、男の人と接するのは先生くらい。
でも、そういえばお兄ちゃんくらいの若い先生って、すごく少ないんだよね。
もしかしたら、そのせいかもしれない。
そういえばお兄ちゃん、普段家に友達とかほとんど連れてこないし。
来るとしても、従兄弟の優くんくらいだもんなぁ。
「あら、あんた今起きたの?」
「おはよ」
「おはよじゃないわよ。何時だと思ってるの、まったく」
どこかへ出かけようとしていたらしき、お母さんがため息をついた。
ダイニングのテーブルには、朝ごはんだったとおぼしき、フレンチトーストのお皿。
いつものように、「適当」を彷彿とする姿そのもので、どーんとお皿にカットされないままの食パンフレンチトーストが乗っている。
「お客さん?」
「ああ、祐恭君でしょ。律儀にお土産持ってきてくれたのよ。おいしかったわよー、あれ」
ああ、なるほど。祐恭君という名前は、家でもよく聞くことはある。
お兄ちゃんの高校時代からの友達で、お父さんの教え子なんだよね。
でも、顔を見たことはないから、どんな人なのかは実は知らない。
お母さんが言うには、お兄ちゃんが高校時代には会ってるはずよって言われたけど、うーん、どうかなぁ。覚えてないんだよね。
だって、お兄ちゃんが高校生のころってことは、私は小学生なわけで。
そんな昔のことを覚えていられるほど、実は記憶力に自信がない。
「明日から3年生でしょ? 受験よ? 受験。もうちょっときちっとした生活リズムにしとかないと、あとあとつらいわよ?」
「う。わかってるもん」
「わかってない顔でしょ、それは」
「もぅ、お母さん朝から厳しい」
「朝じゃないでしょうが」
うぅ……それはそうなんだけど、だからってちょっと言い過ぎだと思うよ?
キッチンの冷蔵庫前へ逃げるように移動して、昨日買ってもらったレモンティーのペットボトルを取り出す。
この色、元気でるんだよね。
すでに日が高くなっているせいか、日差しを受けてきらりと光る。
「お母さん、出かけるんじゃないの?」
「あ、そうだったわ。今日、昼過ぎから天気悪くなるって言ってたから、洗濯物取り込んでおいてちょうだい」
「えぇ!? 私も、絵里と出かける約束……」
「いーじゃないの。もうとっくに乾いてるから、行く前に取り込みなさい」
「だったらお母さんがーー」
「つべこべ言わない。暇なんだから」
「うぅ……はっきりと……」
ずびし、とお兄ちゃんがやるみたいに人差し指を向けられ、ぐさりと心にダメージを負う。
暇っていうけど、休みの日に暇なのは、お兄ちゃんもお母さんもひょっとしたらお父さんもじゃないの?
すでに姿が見えないけれど、お父さんはお父さんできっと休日を満喫してるはず。多分。わかんないけど。
「で? 絵里ちゃんとどこ行くの?」
「え? モールとカラオケだよ?」
「………………」
「う、お、お母さんっ! 早く出かけないと、雨降るって!」
「……あんた、ほんとに……」
「あ! あー、私、夕飯いらないと思うから、気にしないでゆっくりしてきてねっ!」
「お風呂洗っておきなさいね」
「喜んでやっておきます」
一瞬『え!』と言いかけたけれど、飲み込んでこくこくとうなずく。
冷ややかな眼差しは、寝起きにはつらい。
うぅ、でもだって、春休み最終日なんだもん。
今年の春休みはまさかの宿題が出て、ひーひー言いながら今まで(というか正確には夜中まで)やってたんだもん、許してほしい。
まだまだ女子高生、楽しいことはしておきたい。
……ううん。
今年が、最後の女子高生だもん。
楽しいこと、めいっぱい経験して、次のステップへ進みたいと思うのは自然じゃないのかな。
「まったく。彼氏の一人でもいれば、さらに青春謳歌できるでしょーけどね」
「ごほ! お、おかあさっ……ごほごほ!」
レモンティーを飲んだ瞬間ため息をつかれ、気管に入ったせいで大きく咳き込む。
知ってるよ? そりゃあ、お母さんが何歳でお父さんと付き合ったのかってことは。
そしてそして、まさかの私と同じ学校が母校で、当時出会ったことは。
でも、若い先生なんていないし、いたとしても恋愛対象になるわけがない。
そりゃあーー絵里の場合は別だけど。
えへへ。仲いいんだよね、絵里。
みんなには内緒だけど、絵里の彼氏さんは特別な人。
私も何年もーーと言ったら言い過ぎだけど、2年ほど前からお世話になってる方だ。
とっても優しくて、明るくて、ユーモアもあって、そしてそして炊事洗濯裁縫までこなすエリート。
『アイツがなんでもかんでもやるから、私の出番がないだけよ』と絵里はよく言うけれど、そうじゃないことも知ってる。
「ま、いい出会いがあるといいわね。せめてこの最終学年くらいは」
「それは……私だって、あったらいいなとは思うけど」
「それじゃ努力しなさいね。寝癖ついてるような子じゃ、誰も振り返ってくれないわよ」
「え!? うそ!」
「うそ。それじゃ、行ってきまーす」
「っ……もぅ、お母さん!」
さっき洗面所で確認したはずなのに、と慌てたのがよほどおかしかったらしい。
けらけらと笑ったお母さんは、肩をすくめると玄関へ向かった。
もぅ、みんなで私をからかわなくてもいいのに。
おかしいなぁ。
私、別にそういうキャラじゃないはずなんだけど。
「……3年生かぁ」
ちょっぴり冷たいフレンチトーストを食べながら、カレンダーに目がいく。
今年で最後。
1年後の今日、私はどこで何をしているんだろう。
周りの子たちが進学するというのもあって、大学へ行こうとは思っている。
学部は教育学部。
でも理由は何かと言われると、小学5、6年生のときの担任の先生がすっごく面白い人で、楽しかったからというシンプルなものが理由。
私も、小学生と一緒に遊びたい。
って言ったら、違うって怒られちゃいそうだけど。
でも、大きな影響を受けたといえばそれで。
お父さんが高校の先生だからとか、お母さんが保育士さんだからとか、お兄ちゃんが中学の先生を目指してたからとか、理由を考えようとすればたくさんあるんだろうけれど、これ! というものは正直ないまま。
ただ、幸いなことに我が家には教育関係者が多くいる。
その点は、メリットもデメリットも聞くことができるって意味では、恵まれた環境なんだろうけれど。
そういえば、お兄ちゃんが先生をやめて司書さんになったのは、なんでなんだろう。
「………………」
中学生だった当時、まさかの教育実習でこられたときは、なんで私のクラスなのかと心底先生方を恨んだ。
あからさまに馬鹿にされた私は、かわいそうだと思う。
絵里は散々、『やー、孝之さんの授業受けられるだけじゃなくて、あの顔見てられるとかホント最高ね』って言ってたけど、私には試練というかある意味いじめでしかなかった。
「……ん?」
物音がしたと思ったら、階段を降りてくる音が聞こえ始めた。
話し声もするから、どうやらお兄ちゃんが降りてきたらしい。
えっと……あと、お兄ちゃんのお友達も。
「え?」
「お前、今起きたのか? だっせぇ」
「む。お兄ちゃんに言われたくない」
リビングを覗いたお兄ちゃんと目が合い、むっとして眉を寄せる。
ていうか、お兄ちゃんこそ普段私より遅いことだってあるじゃない。
……てまあ確かに、最近は私のほうがよっぽど遅いみたいだけど。
「お袋は?」
「お母さんなら、出かけたよ」
「あ、そ。多分、メシ食わねーから。伝えとけ」
「えーやだ。私も絵里と出かけちゃうもん。連絡しとけばいいでしょ?」
「ンだよ、使えねぇな。ならいい」
あからさまに舌打ちされ、もやもやした気持ちでいっぱいになる。
ーーけれど。
「お前、普段からそんな言葉遣いなのか?」
「あ? なんだよ。説教か? 俺に」
「説教じゃなくて、意見だろ? 年下の子相手に、そんなふうに言わなくてもいいのに」
「じゃあお前、紗那ちゃんにこーゆークチきかねーの?」
「…………」
「だろ?」
姿は見えないけれど、どうやら私を気遣ってくれたようなセリフが聞こえ、思わぬ展開にどきりとした。
きっと、あいさつされることはない。
でもーーうわわ、どうしよう。今覗かれたら、まだパジャマなんですけど!
うぅ、今日に限ってちゃんと着替えておくんだった。
慌てて手櫛で髪を直しーーたところで、玄関の開く音が聞こえた。
と同時に、『お邪魔しました』の声も。
「あ、はぁい」
なんと言っていいものか、間の抜けたセリフしか出せなかった。
うぅ。だって、『どういたしまして』も、『また来てくださいね』も、私が言うのはあってない気がするんだもん。
お母さんはしょっちゅう言ってるセリフだし、なんなら玄関まで姿を見せて、そこでひとことふたことおしゃべりをする。
でも、さすがにそんな関係じゃないし、どう言っていいのかわからなかった。
「…………」
接触と言っていいほどのものじゃない。
でも、すごくどきどきした。
……お兄ちゃんの友達、かぁ。
きっと同い年だろうから、6歳年上の男の人。
お兄ちゃんとは違う性格なんだろうけれど、イメージは湧かない。
「言い忘れた」
「わぁっ!?」
「……ンだよ」
「び、びっくりさせないでよ! 出かけたんじゃないの?」
ぬっとリビングを覗いたお兄ちゃんに、思わぬ声が出た。
心臓がばくばくして、すごく苦しい。
うぅ、なんて日なの。本当に。
でも、顔が赤くなっていたのはこれで誤魔化されたかもしれない。
「冷蔵庫に入ってるロールケーキ、勝手に食うなよ」
「ロールケーキ? え、食べていいの?」
「話聞いてたか? お前。食うなっつってんだろ」
「え、でもお母さんが『おいしかった』って言ってたよ」
「ッち、アイツ……!」
あからさまに嫌そうな顔をしたお兄ちゃんに肩をすくめ、とりあえずフレンチトーストを口へ運ぶ。
でも、口の中はロールケーキを歓迎していて、メープルシロップはちょっと違うかなと思った。
「あ? 今行くって!」
玄関へ顔を向けたお兄ちゃんは、それ以上なにかを言うことはなく、姿を消した。
鍵の閉まった音のあと、ほどなくしてエンジン音が聞こえてくる。
今度こそお出かけしたらしい。
でも、ロールケーキかぁ。ちょっぴりなら食べても怒られないかなぁ?
だって、お兄ちゃんが食べるとなると、ほんっっっっとうにくれないんだもん。
そりゃあ、お兄ちゃんのお友達がくれたものなんだから、権限はお兄ちゃんにあるのかもしれないけど。
「ちょっとだけーーって、わわっ! 遅刻!!」
立ち上がった拍子に壁時計が目に入り、絵里との約束まで30分を切ってるのに気づいた。
うわぁ怒られる!
待ち合わせは、近くのショッピングセンター。
絵里の家からは近いけれど、うちからはバス停まで歩いたあと、バスを待たなければならない。
って、今の時間バスあったよね?
何分だっけ……って、着替えるのが先!
「っ……!」
食べた食器を片付けて、慌てて階段へ向かう。
そのとき、一瞬だけお兄ちゃんとは違う香りがした気がして、ふいにどきりとした。
『彼氏の一人でもいればーー』
お母さんのセリフが蘇る。
そりゃあ、彼氏がいればきっと楽しいだろうなとも思うし、どきどきもするんだろうなとは思う。
でも、まだ自分にはいいかなって思うのも正直なところ。
彼氏ができたら、自分がどんなふうに変わるのかわからなくて、ちょっぴり怖い気もする。
でも、見てみたい気もする。
……今年、そんなチャンスができたらいいのになぁ。
階段の窓から空を見上げると、予想以上に青くて晴れやかな日だった。
というわけで、0話公開。
「ーーだから、黒だっつってんだろ」
いつもより遅い時間というよりは、春休みのほぼ定刻となった10時少し過ぎ。
顔を洗ってからリビングへ行こうとしたら、お兄ちゃんの声が階段のほうから聞こえてきた。
と同時に聞こえるのは、複数っぽい足音。
「でもお前、この間白の86見て『白もいいよな』って言ってたじゃないか」
「言ったか? でもま、やっぱ乗るなら黒だろ。せっかくの後継機、ナンバーもベタに86にしてもいいけど、黒だな。黒」
ひとことだけ聞こえた、お兄ちゃんとは違う声に一瞬どきりとした。
女子校ということもあってか、男の人と接するのは先生くらい。
でも、そういえばお兄ちゃんくらいの若い先生って、すごく少ないんだよね。
もしかしたら、そのせいかもしれない。
そういえばお兄ちゃん、普段家に友達とかほとんど連れてこないし。
来るとしても、従兄弟の優くんくらいだもんなぁ。
「あら、あんた今起きたの?」
「おはよ」
「おはよじゃないわよ。何時だと思ってるの、まったく」
どこかへ出かけようとしていたらしき、お母さんがため息をついた。
ダイニングのテーブルには、朝ごはんだったとおぼしき、フレンチトーストのお皿。
いつものように、「適当」を彷彿とする姿そのもので、どーんとお皿にカットされないままの食パンフレンチトーストが乗っている。
「お客さん?」
「ああ、祐恭君でしょ。律儀にお土産持ってきてくれたのよ。おいしかったわよー、あれ」
ああ、なるほど。祐恭君という名前は、家でもよく聞くことはある。
お兄ちゃんの高校時代からの友達で、お父さんの教え子なんだよね。
でも、顔を見たことはないから、どんな人なのかは実は知らない。
お母さんが言うには、お兄ちゃんが高校時代には会ってるはずよって言われたけど、うーん、どうかなぁ。覚えてないんだよね。
だって、お兄ちゃんが高校生のころってことは、私は小学生なわけで。
そんな昔のことを覚えていられるほど、実は記憶力に自信がない。
「明日から3年生でしょ? 受験よ? 受験。もうちょっときちっとした生活リズムにしとかないと、あとあとつらいわよ?」
「う。わかってるもん」
「わかってない顔でしょ、それは」
「もぅ、お母さん朝から厳しい」
「朝じゃないでしょうが」
うぅ……それはそうなんだけど、だからってちょっと言い過ぎだと思うよ?
キッチンの冷蔵庫前へ逃げるように移動して、昨日買ってもらったレモンティーのペットボトルを取り出す。
この色、元気でるんだよね。
すでに日が高くなっているせいか、日差しを受けてきらりと光る。
「お母さん、出かけるんじゃないの?」
「あ、そうだったわ。今日、昼過ぎから天気悪くなるって言ってたから、洗濯物取り込んでおいてちょうだい」
「えぇ!? 私も、絵里と出かける約束……」
「いーじゃないの。もうとっくに乾いてるから、行く前に取り込みなさい」
「だったらお母さんがーー」
「つべこべ言わない。暇なんだから」
「うぅ……はっきりと……」
ずびし、とお兄ちゃんがやるみたいに人差し指を向けられ、ぐさりと心にダメージを負う。
暇っていうけど、休みの日に暇なのは、お兄ちゃんもお母さんもひょっとしたらお父さんもじゃないの?
すでに姿が見えないけれど、お父さんはお父さんできっと休日を満喫してるはず。多分。わかんないけど。
「で? 絵里ちゃんとどこ行くの?」
「え? モールとカラオケだよ?」
「………………」
「う、お、お母さんっ! 早く出かけないと、雨降るって!」
「……あんた、ほんとに……」
「あ! あー、私、夕飯いらないと思うから、気にしないでゆっくりしてきてねっ!」
「お風呂洗っておきなさいね」
「喜んでやっておきます」
一瞬『え!』と言いかけたけれど、飲み込んでこくこくとうなずく。
冷ややかな眼差しは、寝起きにはつらい。
うぅ、でもだって、春休み最終日なんだもん。
今年の春休みはまさかの宿題が出て、ひーひー言いながら今まで(というか正確には夜中まで)やってたんだもん、許してほしい。
まだまだ女子高生、楽しいことはしておきたい。
……ううん。
今年が、最後の女子高生だもん。
楽しいこと、めいっぱい経験して、次のステップへ進みたいと思うのは自然じゃないのかな。
「まったく。彼氏の一人でもいれば、さらに青春謳歌できるでしょーけどね」
「ごほ! お、おかあさっ……ごほごほ!」
レモンティーを飲んだ瞬間ため息をつかれ、気管に入ったせいで大きく咳き込む。
知ってるよ? そりゃあ、お母さんが何歳でお父さんと付き合ったのかってことは。
そしてそして、まさかの私と同じ学校が母校で、当時出会ったことは。
でも、若い先生なんていないし、いたとしても恋愛対象になるわけがない。
そりゃあーー絵里の場合は別だけど。
えへへ。仲いいんだよね、絵里。
みんなには内緒だけど、絵里の彼氏さんは特別な人。
私も何年もーーと言ったら言い過ぎだけど、2年ほど前からお世話になってる方だ。
とっても優しくて、明るくて、ユーモアもあって、そしてそして炊事洗濯裁縫までこなすエリート。
『アイツがなんでもかんでもやるから、私の出番がないだけよ』と絵里はよく言うけれど、そうじゃないことも知ってる。
「ま、いい出会いがあるといいわね。せめてこの最終学年くらいは」
「それは……私だって、あったらいいなとは思うけど」
「それじゃ努力しなさいね。寝癖ついてるような子じゃ、誰も振り返ってくれないわよ」
「え!? うそ!」
「うそ。それじゃ、行ってきまーす」
「っ……もぅ、お母さん!」
さっき洗面所で確認したはずなのに、と慌てたのがよほどおかしかったらしい。
けらけらと笑ったお母さんは、肩をすくめると玄関へ向かった。
もぅ、みんなで私をからかわなくてもいいのに。
おかしいなぁ。
私、別にそういうキャラじゃないはずなんだけど。
「……3年生かぁ」
ちょっぴり冷たいフレンチトーストを食べながら、カレンダーに目がいく。
今年で最後。
1年後の今日、私はどこで何をしているんだろう。
周りの子たちが進学するというのもあって、大学へ行こうとは思っている。
学部は教育学部。
でも理由は何かと言われると、小学5、6年生のときの担任の先生がすっごく面白い人で、楽しかったからというシンプルなものが理由。
私も、小学生と一緒に遊びたい。
って言ったら、違うって怒られちゃいそうだけど。
でも、大きな影響を受けたといえばそれで。
お父さんが高校の先生だからとか、お母さんが保育士さんだからとか、お兄ちゃんが中学の先生を目指してたからとか、理由を考えようとすればたくさんあるんだろうけれど、これ! というものは正直ないまま。
ただ、幸いなことに我が家には教育関係者が多くいる。
その点は、メリットもデメリットも聞くことができるって意味では、恵まれた環境なんだろうけれど。
そういえば、お兄ちゃんが先生をやめて司書さんになったのは、なんでなんだろう。
「………………」
中学生だった当時、まさかの教育実習でこられたときは、なんで私のクラスなのかと心底先生方を恨んだ。
あからさまに馬鹿にされた私は、かわいそうだと思う。
絵里は散々、『やー、孝之さんの授業受けられるだけじゃなくて、あの顔見てられるとかホント最高ね』って言ってたけど、私には試練というかある意味いじめでしかなかった。
「……ん?」
物音がしたと思ったら、階段を降りてくる音が聞こえ始めた。
話し声もするから、どうやらお兄ちゃんが降りてきたらしい。
えっと……あと、お兄ちゃんのお友達も。
「え?」
「お前、今起きたのか? だっせぇ」
「む。お兄ちゃんに言われたくない」
リビングを覗いたお兄ちゃんと目が合い、むっとして眉を寄せる。
ていうか、お兄ちゃんこそ普段私より遅いことだってあるじゃない。
……てまあ確かに、最近は私のほうがよっぽど遅いみたいだけど。
「お袋は?」
「お母さんなら、出かけたよ」
「あ、そ。多分、メシ食わねーから。伝えとけ」
「えーやだ。私も絵里と出かけちゃうもん。連絡しとけばいいでしょ?」
「ンだよ、使えねぇな。ならいい」
あからさまに舌打ちされ、もやもやした気持ちでいっぱいになる。
ーーけれど。
「お前、普段からそんな言葉遣いなのか?」
「あ? なんだよ。説教か? 俺に」
「説教じゃなくて、意見だろ? 年下の子相手に、そんなふうに言わなくてもいいのに」
「じゃあお前、紗那ちゃんにこーゆークチきかねーの?」
「…………」
「だろ?」
姿は見えないけれど、どうやら私を気遣ってくれたようなセリフが聞こえ、思わぬ展開にどきりとした。
きっと、あいさつされることはない。
でもーーうわわ、どうしよう。今覗かれたら、まだパジャマなんですけど!
うぅ、今日に限ってちゃんと着替えておくんだった。
慌てて手櫛で髪を直しーーたところで、玄関の開く音が聞こえた。
と同時に、『お邪魔しました』の声も。
「あ、はぁい」
なんと言っていいものか、間の抜けたセリフしか出せなかった。
うぅ。だって、『どういたしまして』も、『また来てくださいね』も、私が言うのはあってない気がするんだもん。
お母さんはしょっちゅう言ってるセリフだし、なんなら玄関まで姿を見せて、そこでひとことふたことおしゃべりをする。
でも、さすがにそんな関係じゃないし、どう言っていいのかわからなかった。
「…………」
接触と言っていいほどのものじゃない。
でも、すごくどきどきした。
……お兄ちゃんの友達、かぁ。
きっと同い年だろうから、6歳年上の男の人。
お兄ちゃんとは違う性格なんだろうけれど、イメージは湧かない。
「言い忘れた」
「わぁっ!?」
「……ンだよ」
「び、びっくりさせないでよ! 出かけたんじゃないの?」
ぬっとリビングを覗いたお兄ちゃんに、思わぬ声が出た。
心臓がばくばくして、すごく苦しい。
うぅ、なんて日なの。本当に。
でも、顔が赤くなっていたのはこれで誤魔化されたかもしれない。
「冷蔵庫に入ってるロールケーキ、勝手に食うなよ」
「ロールケーキ? え、食べていいの?」
「話聞いてたか? お前。食うなっつってんだろ」
「え、でもお母さんが『おいしかった』って言ってたよ」
「ッち、アイツ……!」
あからさまに嫌そうな顔をしたお兄ちゃんに肩をすくめ、とりあえずフレンチトーストを口へ運ぶ。
でも、口の中はロールケーキを歓迎していて、メープルシロップはちょっと違うかなと思った。
「あ? 今行くって!」
玄関へ顔を向けたお兄ちゃんは、それ以上なにかを言うことはなく、姿を消した。
鍵の閉まった音のあと、ほどなくしてエンジン音が聞こえてくる。
今度こそお出かけしたらしい。
でも、ロールケーキかぁ。ちょっぴりなら食べても怒られないかなぁ?
だって、お兄ちゃんが食べるとなると、ほんっっっっとうにくれないんだもん。
そりゃあ、お兄ちゃんのお友達がくれたものなんだから、権限はお兄ちゃんにあるのかもしれないけど。
「ちょっとだけーーって、わわっ! 遅刻!!」
立ち上がった拍子に壁時計が目に入り、絵里との約束まで30分を切ってるのに気づいた。
うわぁ怒られる!
待ち合わせは、近くのショッピングセンター。
絵里の家からは近いけれど、うちからはバス停まで歩いたあと、バスを待たなければならない。
って、今の時間バスあったよね?
何分だっけ……って、着替えるのが先!
「っ……!」
食べた食器を片付けて、慌てて階段へ向かう。
そのとき、一瞬だけお兄ちゃんとは違う香りがした気がして、ふいにどきりとした。
『彼氏の一人でもいればーー』
お母さんのセリフが蘇る。
そりゃあ、彼氏がいればきっと楽しいだろうなとも思うし、どきどきもするんだろうなとは思う。
でも、まだ自分にはいいかなって思うのも正直なところ。
彼氏ができたら、自分がどんなふうに変わるのかわからなくて、ちょっぴり怖い気もする。
でも、見てみたい気もする。
……今年、そんなチャンスができたらいいのになぁ。
階段の窓から空を見上げると、予想以上に青くて晴れやかな日だった。